雑然としていた舞踏会の会場から、話し声が消える。
優雅で美しい音楽が響く中、私の婚約者である第一皇子レナート・セラフィンが大階段をゆっくりと降りてきた。
変わらない日々が、続くなんて限らない。
冬の月を思い出させる白金の髪が揺れて、レナート王子の紫の瞳が緩やかな弧を描く。その眼差しを受けて、見たことのない令嬢が穏やかに微笑み返す。
誰? 一体どういう事なの?
はっきり言って何が何だか分からない!
唖然とする私の目の前でレナート王子が、隣を歩く令嬢の細い腰を親し気に抱く。
場内がはっきりとしたどよめきに包まれて、いくつもの視線が私の反応を計りながら口々に囁きを交わすす。
「レナート様の隣に立つのは、誰だ?」
「まるで恋人の様な振る舞いじゃないか!」
「愛らしい令嬢だが何処の家の娘だ?記憶にないぞ」
「婚約者のリーリア・ディルーカ……様は、どうした?」
居ても立っても居られない気持ちで、人込みを縫うように大階段への近くへと向かう。
婚約者とは言っても発表の済んでいない私が、王家だけが立ち入れる大階段を上る事は出来ない。ただその登り口にたって、踊り場で足を止めたレナート王子をまっすぐに見つめる。
けれど、レナート王子が私と視線を合わせる事はなかった。
レナート王子がよく鍛えた腕を上げて、楽団が音楽を止める。静まり返えった広間を見渡すと、いつもと変わらない優しい顔でゆっくりと口を開く。
「今日、一人の女性を紹介したい。東の領にいる聖女の噂は、もう皆も聞き及んでいるだろう。私の隣に立つのは、聖女ソフィア」
意外な人物に皆が息を飲む音が響く。次の瞬間、大きな歓声に変わる。
『聖女』ソフィア。その存在の噂は私も聞き及んでいる。
事故で怪我をした人を、一瞬で回復させた。
枯れた井戸に、美しい水を蘇らせた。
朽ちた花を、再び美しく咲かせてみせた。
彼女が半年の間に起こした奇跡の数々は、生まれる度に国中を瞬く間に駆け抜けて誰もが知っている。だけど、彼女の姿を知る者は殆どいなかった。
彼女に会おうと多くの人が修道院に押しかけたけど、世間と交わらない修道女の決まりを重んじて人前に姿を現す事がなかったからだ。
レナート王子に促されて、聖女ソフィアが一歩前に進み出る。ドレスの端を摘まんで一礼すると、豊かな金色の髪がそっと肩から滑り、あちこちで感嘆の溜息が落ちる。
「はじめまして、皆さま。ソフィアと申します」
薄紅の唇から愛らしい声で挨拶する。止まない歓声にソフィアが困ったように笑って、零れそうな瞳でレナート王子を見上げる。
そんな彼女を守る様に抱き寄せて、レナート王子が静まるようにと大きく手を払う。
「もう一つ、報告がある。私とソフィアの婚約が決まった。皆、祝福を!」
一段と大きな歓声が上がり、多くの拍手が二人に向けられる。
「おめでとうございます!」
「次代の国王と聖女の婚約に祝福を!」
「レナート王子! 万歳!」
「聖女様! 万歳!」
未来の国王と聖女に対する祝福の嵐の中で、私はドレスを握りしめる。
これは一体何の冗談なのだろう?
声の洪水の中にいるのに、全ての音が遠く。目の前の景色は、ガラス越しの別の世界のように見える。
何もかもが現実感のない夢の中の出来事みたいだ。
呆然と何度も瞳を瞬く私と、レナート王子の紫色の瞳が今夜初めて重なる。
レナート王子が笑顔を消して私の方へ向き直るとと、只ならぬ雰囲気に歓声と拍手が止み始める。
「リーリア……。いや、リーリア・ディルーカ伯爵令嬢」
レナート王子が、大勢の人たちの前で私の名を呼ぶ。ファーストネームを余所余所しい爵号に言い換えた事に、好奇の視線が一段と増す。
嫌な予感がする。この先を聞いてはいけない。そんな凄く嫌な予感が胸の中から湧き上がって、鼓動がどんどん早くなる。
「私達を祝福してくれないのかな?」
何を私に祝福しろと言うのだろう?
私を婚約者として扱った人が、隣に新しい婚約者を連れている事を?
返事をしない私に向かって、苛立たし気にレナート王子が口を開く。
「君とは、随分と色々な噂が流れてしまった。だが、正式に決まった事は何一つなかった。違うかな?」
確かに、派閥同士のいがみ合いがあって私とレナート王子は婚約発表には至らなかった。
でも、確かに婚約の申し出をされて受け容れたのだから、婚約の事実はあった筈だ。
「どういう事ですか? 噂とか、正式に決まった事はないとか」
開場が水を打ったように静まり返る。レナート王子が面倒くさそうな顔になって吐き捨てる。
「物分かりが悪いな。私と君には、何の関係も成立していない。意味が分かるね?」
ようするに婚約発表をしていない私との関係は、無かった事だという事なのか。
言葉の意味は分かる。でも、何がなんだか分からない!
だって、今日この瞬間まで私は自分はレナート王子の婚約者だと思ってたのだ。いきなり公衆の面前で新しい婚約者を紹介されて、なかった事って納得できるか!
「私との婚約は破棄されると言う事ですか? ならば、きちんとこんな形ではなくご説明頂きたかったです」
レナート王子があからさまに眉根を寄せる。こんな冷たく嫌な表情をする人だっただろうか。
目の前の現実が急に実感されて、胸が締め付けられて苦しくなる。
「いけないよ、リーリア・ディルーカ伯爵令嬢。君と私には、公式に名前のつく関係は何一つない。私と何かを約束した記憶があるなら、それは記憶違いだと思った方が良い」
私とレナート王子が婚約しているという認識していた貴族たちが、事実を確認する囁きを交わし始める。
「リーリア様はレナート王子と婚約していなかったのか?」
「そうだろう。王子が明言しているんだから」
「それはない。あれはどう見ても婚約の体をとっていただろう」
「待て? 結局、どういう事だ? 婚約破棄とは違うのか?」
「どうでもいいだろ?」
「要はディルーカ伯爵令嬢は棄てられて、聖女様と婚約するって事だ」
事実だけを確認しようとする男性達の隣で、若い令嬢や夫人達が眉を顰める。
「聖女様を選んで、リーリア様をお捨てになるの?」
「王子の申し出は、少し酷いように思えます」
「殿方の契約ではないのですから、睦まじくしていて書類がないからなど……」
「一方的だわ。これは流石にディルーカ伯爵令嬢がお可哀想……」
書類はない。婚約発表もない。でも、私を同伴して特別な相手と仄めかした日々を、こうして知る人もいる。形がなくても、私はレナート王子の婚約者だった。
「なら、私の知る日々は何ですか? 私たちの関係を貴方は何と呼びますか?」
「何も。そもそも私と君は釣り合うような間柄ではないだろう?」
レナート王子の問いかけに、小さな含み笑いがあちこちから漏れて、『田舎者』『旧国』『こざる』と揶揄する声が上がる。
周囲を見渡すとたくさんの顔が見えた。
私を心配する顔、怒った顔。それを上回る嘲る顔、楽し気な顔、満足げな顔。期待を込めた顔。
大声で野次が飛ぶ。
「聖女様との婚約の前では、リーリアとの過去は穢れでしかない」
「旧国の娘が元婚約者など、記録でさえ忌々しい!」
「レナート様は、次期国王としてとして正しい判断をされた!」
「レナート様、聖女様! ご婚約おめでとうございます!」
『教会派』の貴族が色めき立って、『旧国派』が非難の眼差しを向ける。
私の処遇を巡っての口論が、次第にそれぞれの不満になって加速していく。
もう止めてと叫びそうになった時、品行方正と評されるレナート王子が苛立たし気に床を蹴る。
唇を噛んで俯いた私に、レナート王子の冷たい声が追い打ちをかける。
「リーリア。君との噂は、もはや私にとって悪評でしかない。だが、噂は噂で真実ではないから、忘れればいいだけだ。これは、私の温情だ。悪意ある噂がこれ以上流されないなら、私は君も噂の出所も咎めない」
レナート王子の私を見る眼差しは、とても冷たい。
茶番のようなやり取りを続けても、元に戻る事はないだろう。
私はどうしたらいいのだろうか?
泣けばいいのか? 怒ればいいのか? 笑えばいいのか? 取り乱せばいいのか?
震える指先を、拳を作って抑える。この状況で私が感情を表にすれば、悪意を持つ人を楽しませるだけだ。
矜持を奮わせて、胸を張って僅かに顎を上げる。
全ての想いに蓋をして、ゆっくりとレナート王子に向かって私は一礼する。
「お心を煩わせる発言をした事を謝罪いたします。ご婚約……おめでとうございます」
顔を上げて、精一杯の笑顔を浮かべる。
これが私の最後の婚約者としての仕事だ。『聖女』との門出を祝福で送り出す。
声は振るえてないだろうか。ちゃんと微笑みは作れているだろうか。
視界が滲みそうになって、逃げるように踵を返す。
一刻も早くこの場を後にして、今は一人になりたい。
舞踏会の会場を出ると、真っすぐに馬車寄せを目指して走る。マナーなんてもうどうでもいい。
私の事を好きだと言った言葉は何だったのか?
側で支えて欲しいと願ったのは何だったのか?
誰もいない中庭に面した通路で跪く。目の前が涙でぐちゃぐちゃだ。これじゃあ、一歩ももあるけない。
ドレスの裾で顔をごしごし拭く。拭いても吹いても、涙が溢れてくる。
私とレナート王子が出会ったのは六年前。十一歳の時だ。
一緒に過ごした時間で、私は何もかもを知っているつもりだった。
優しいのに、少し腹黒い。控えめなのに、根性がある。泣き虫のくせに、頑張り屋。
ずっと私の事が好きだと思ってた。初恋だったとはにかんで教えてくれたから。私が誰を好きでも構わないと言って、私じゃなきゃ駄目だといったのに。
「レナート王子の大嘘つき!! 裏切者!! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
叫ぶと同時に放り投げた靴が、通路の大理石の上で跳ねる音が響く。
その音に、後ろからやって来る誰かの足音が重なった。
誰?
ぐしゃぐしゃの顔をもう一度拭いて、扇を開いて顔を隠してから振り向く。
知らない男の人だ。目じりの下がった癖のある眼差しは、金の混じった紫の色が印象的で、一度見たら絶対に忘れる事はないだろう。
本当に今日は何処までもついていない。こんな日のこんな状態を人に晒す事になるなんて。
男が私を見つめて楽しそうに笑う。感じが悪い!
「すごいな! お城で靴を放り投げる令嬢なんて初めて見た!」
「ごめんあそばせ。でも、ほっといてください」
さっさと行ってほしいのに、男は私の側に来るとじろじろと観察し始める。
「なにか?」
「いや……。盛大に棄てられた令嬢がどんな風なのか見ときたくて」
「お断りです! さっさと行ってください」
思わず大きな声をだしてしまう。だけど、男は涼しい顔で楽しそうに私を見降ろし続ける。
ものすごい失礼な男だ。ここで感傷的になっていては、良い見世物になってしまう。慌てて立ち上がる。そう言えば靴を放り投げてしまった所為で裸足だった。
「ねぇ、やっぱり靴は取りに行くわけ?」
男が私に尋ねる。投げなきゃよかった。
「行きます。舞踏会の帰りに私の靴が転がってたら、物笑いの種ですから」
「あー。確かに、あれだね。物語で靴を投げるってあるけど、あれも後のことまで考えないと喜劇だよね。君も盛大に捨てられて嘆くとこまでは悲劇だけどさ、今の靴を取りにいくのはちょっと面白い!」
男を無視して靴を拾う。男には腹が立つけど、可笑しなやり取りの所為で涙は一旦引いた。そのまま立ち去ろうとする私の腕を男が掴んで止める。
「ちょっと待って!」
「何ですか?」
振り払って尋ねると、男が揉み手をして答える。
「今、どんな気分?」
「はぁあ? あなた一体何なんですか?」
驚いた様に目を瞬いて、男がきちんと礼を取る。
「ご挨拶が遅れました。グレイ・ローランドです」
「ローランド? ローランド男爵?」
男が私の言葉に頷く。
グレイ・ローランド男爵は最近人気の芸術家だ。絵を書けば、ジュエリーのデザインもする。詩を書くこともあれば、物語を書くこともある。
教会派が特に贔屓にしていて、今夜の舞踏会でも彼の新作の絵が飾られていた筈だ。
私も彼の書いた物語を持っていて、かなり気に入っていた。書いたのがこの人だと思うと、一気に興ざめするけど……。
「ええ。ご存知頂けたなら幸いです! 貴方のこの状況がとっても気に入ったので、是非参考にさせてください!」
満面の笑みで男が私に告げる。くるりと踵を返して、大股で歩き出す。
はっきり言って冗談じゃない! この状況が気に入った?
私の人生で一、二を争う……いいえ、最高に最悪の一日を参考にしようなんてふざけるにも程がある。
「待って! 待って!」
グレイが私の良く手を阻むように前に立つ。困ったような様子で若草色の髪を掻き上げてから、両手を合わせて懇願する。
「頼むよ! こんな珍しい状況は滅多にない! もう、来週には教会に戯曲の台本を納めなくてはいけないんだ。君が協力してくれなかったら、僕は荷物をまとめて故郷に帰らなくてはいけなくなるかもしれないよ。可哀想だと思わないかい? 同情したくなるよね? さぁ、だから色々話して――」
よく回る口だなと呆れながら、男の側を無言で擦り抜ける。
その瞬間、剣を携えた黒ずくめの男たちが飛び出してきた。
<前の話> <次の話>
0 件のコメント:
コメントを投稿