2018年12月19日水曜日

四章 六十七話 開戦と撤退 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります





 謁見室に向かって、駆け抜ける。
 急がなくてはいけない。守らなければいけない。そんな思いに急かされて、何度もベテランさんと中堅さんを追い越しそうになる。
 最後の通路を曲がる寸前、息を弾ませたベテランさんが私を振り返った。

「ノエル君。これから、何が起こるか分からない! 室長も僕らも容赦なく最善を選ぶだろう! 絶望する瞬間も、君は決して立ち止まら……な、い……はぁ」

 息が切れてベテランさんの走る速度が落ちた。その背中を押して、中堅さんが言葉を引き継ぐ。

「立ち止まらないでね! 国政管理室の合言葉は、止まるな! 糖分は脳の動力源!」

 その言葉に少し頬を緩ませると、ベテランさんが子供を褒めるように軽く頭を撫でてくれた。

 見知らぬ未来の始まりは、とても怖い。でも、それは皆同じで私だけじゃない。ここには、前を向く人達がたくさんいる。小さな勇気の種が撒かれる。

 謁見の間の扉を開けると、ベッケル宰相が既に到着していた。変わらぬ笑顔で、取り囲んだ騎士に指示を出しながら手招く。
 
「国政管理室の方は、どこまで状況を押さえているのかね?」

 ベッケル宰相の側に来ると、一礼したベテランさんが口を開く。

「初動は副室長からゲートを通じた連絡がありました。今後は陛下の元で動く事に専念致します。ワンデリア内の動きは、事前の策定通り騎士団に一本化されます」

 伝達魔法を使っても、ワンデリアと王都の間の連絡には一日は掛かってしまう。でも、ゲートを使えば大幅に短縮できる。ワンデリアの王領にある騎士団駐屯地ならば、使用者は限られるが王都と繋ぐゲートがあった。

「そうか。騎士団の使者は、謁見室に来るように指示したんだか……」

「結構です。宰相と殿下に目を通して頂いた後、我々が預かります」

 その言葉と同時に中堅さんが通路に出る。情報を運ぶ人を用意するのだろう。少しだけ意外に思う。普段の国政管理室なら、宰相と殿下よりも先に書類が欲しいと主張しそうだった。

 早速、届いている書類に手を伸ばして、ベテランさんが凄い勢いで目を通していく。それから、何かを紙に書き付けると、見えないようにそっと裏返す。

「その紙に何を書いてた? 責任者は宰相たる私だ。君たちの考えは是非知りたい」

 ベッケル宰相が手を伸ばすと、笑顔でベテランさんが紙を押さえて引く。

「大事な事はご報告させて頂きます。今、書いたのは取るに足らない気づきです。私は焦ると恥ずかしい程の乱筆になるのでご容赦下さい」

 尚も宰相が手を伸ばそうとすると、激しい足音が入り乱れるのが聞こえた。謁見室のドアが開いて、アレックス王子とカミュ様、それに従うクロードとディエリを含む護衛騎士が室内に駆け込む。

「状況はどうなっている?」

 厳しい表情でアレックス王子が問いかけると、慌てて向き直ったベッケル宰相が穏やな笑顔で答える。

「落ち着いて下さいませ。今、国政管理室が情報の整理をしております。広場の状況はいかがですか?」

 私達より先に謁見室に辿り着いた宰相は、アレックス王子が収めた広場の顛末を知らないようだった。カミュ様が少し誇らし気にベッケル宰相に微笑む。

「アレックスが見事に民を収めました。今、城内の騎士が誘導しております。王妃様と大公家が、助けになるよう城壁に残りました」

 無事に民の誘導が進んでいるようで安堵する。ベッケル宰相も眩し気にアレックス王子を見て、労いの言葉を掛ける。

「そうでしたか、大役お疲れ様でございました。ところで、アレックス王子とカミュ様は秘宝をお持ちでしょうか?」

「ああ。私もカミュも、肌身離さず持っている。いつでもワンデリアに向かおう」

 アレックス王子の瞳に決意が浮かぶ。堪えろと思っても、胸が締め付けられる。大崩落が発生してしまった以上、運命の日は明日になってもおかしくない。

 ベッケル宰相が満足気に頷いて、アレックス殿下とカミュ様に一礼する。

「秘宝をお持ちと聞いて安心致しました。陛下の不在、行事の最中の発生。基本の想定と始まりが大きく異なっております。柔軟な対応が求められるでしょう。御身から秘宝は決して離さず、城内に必ずいらっしゃって下さい」

 まだ、友と話せていない言葉がたくさんある。愛する人に触れたい焦燥もたくさん残っている。
 だけど、後悔を残さない為の時間はもう終わってしまった。心残りは、未来に叶えるしかない。

 ベッケル宰相が国政管理室に向き直る。大人しいと言われている人物だが、初めて見る一国の宰相としての手腕は非常に手際が良かった。

「民には大崩落の事は一波を鎮圧した後に知らせる筈でしたな。でも、予定外の形で漏れてしまった。殿下が収めて下さったとはいえ、不安の芽は育っていく。私は今日より、民の動きも警戒しておきたい。ただ、騎士団の手は煩わせない方が良いので、城内の騎士を使いたいと思っている。いかがであろうか?」

 広場の混乱の広がり方は早かった。何かの弾みで、王都全体を巻き込む形で同じ事態が起きる可能性はある。それは、非常に危険で警戒すべき事なのは確かだった。
 ベテランさんが、唇をなぞった親指の爪を噛んで目を細める。 

「宰相のご意見は非常に価値があるかと存じます。一度、持ち帰らせて頂きたい」

「宰相である私の意見に不満があるのなら言って欲しい。時間が惜しいは、国政管理室の口癖であろう?」

「では、国政管理室を代表して、反対致します。今のワンデリアには、近衛を含む陛下随行の騎士が多数おります。当初の想定よりも兵力は高く、一波の対応は非常に有利です。しかし、裏返せば近衛のいない城は、通常よりも手薄なんです」

 大きく息を吐くと、ベッケル宰相がアレックス王子を見つめる。

「流石は、国政管理室です。近衛が不在の事実は大きい。しかし、我々の決断が王都の民の命を握っているんです。判断が遅れる事は許されません。殿下、我々は出来る事をするべきです。城門を閉じます。それから、私の私兵で宜しければお使いください。一国の宰相の私兵なら城門の外に立つぐらいは、お任せ頂けるのではないでしょうか?」

 アレックス殿下が返事をするよりも先に、国政管理室の中堅さんが慌てたような声を上げる。

「あり得ない!! 非常事態だからと言って、私兵を城の警備に回すなどバカげている!」

 中堅さんの言葉は間違えていない。私兵と騎士。力量が例え同じであっても、捧げる忠誠も心構えも全く異なる。私兵を城にというのは、私から見ても拒否感の強い提案だった。

 ベッケル宰相は、中堅さんの言葉を許しがたい不敬と受け止めてしまった。穏やかな笑顔が消えて、激しい怒りが浮かぶ。身のすくむような怒声が、中堅さんに飛んだ。

「一国の宰相を何と心得る! 宰相の私兵を軽視するのは、宰相の職まで侮辱するのと同じだ。レオナール殿も言葉が過ぎるが、彼はその才で陛下直々に許されている。だが、自惚れるな! 国政管理室が暴言を許されたわけではないぞ! 」

 温厚な宰相の激昂に、室内の空気が凍り付いた。先にベテランさんが冷静な表情で、ベッケル宰相の前に跪く。自分の迂闊さに唇を噛んでいた中堅さんも、慌ててその隣に膝を折る。
 
「部下の非礼をお詫び申し上げます。ベッケル宰相に国政管理室が私情を含む意思はございません」

「申し訳ございません。私の不用意な発言をお許しください。ただ、……」

 尚も、私兵への批判を続けようとした中堅さんを、ベテランさんが袖を引いて止める。中堅さんに向けたベテランさんの眼差しには冷酷な光が宿っていた。それは剣と魔法以外の戦場に、彼らが既に立っている証拠だった。

 二度目の深い礼に、謝意を受けとる姿勢を見せたベッケル宰相の表情は固いままだ。

「私は……君たちのように溢れる才はない。だが、宰相にとしてできる事をしたいと思っている。私兵とはいえ、宰相である私に忠誠を誓った者達だ。私の心意気と共に殿下に捧げよう。それでも、取るに足りぬか?」

 ベッケル宰相を駆り立てるのは、非常時に国を預かった責任なのか。怒りから懇願に変った訴えにも、ベテランさんはゆっくりと首を振る。

「そのままでは、やはり無理です。大公家には各邸にお戻り頂き、カミュ様も騎士団にお移り下さい。その後、守りを固める為に城門は固く閉ざします。宰相殿の私兵をお使いになるのなら、王都の見回りを担って頂く形が最善と考えます。如何でしょうか?」

 騎士団での待機を提案されたカミュ様が、困惑するような眼差しを浮かべる。

「私がここではなく、騎士団に待機する理由は何でしょうか?」

「殿下、陛下、カミュ様は、秘宝を使う為に所在を入れ替わって頂く必要があります。しかし、継承者の方には重要な拠点に必ず残って頂きたい。一波収束後、カミュ様は騎士団ゲートより先にワンデリアにお入りください。同時に陛下には近衛を連れて城にお戻り頂きます。殿下には城で陛下と引継ぎを済ませて、ワンデリアに向かって頂きたく存じます」

 アレックス王子が黙り込んだベッケル宰相に冷静な眼差しを向ける。

「ベッケルよ。宰相としての心意気は、充分に理解した。この形で私に異存はない。良いな?」

「殿下のご意向のままに」

 柔和な笑顔に戻ってベッケル宰相が礼を取る。それから、国政管理室のベテランさんに向かって手を差し出す。

「年甲斐もなく意地を張った。才がない私は、重要な局面に脆い。才があるものは、先を見通せる。今、漸く理解できた。きっと、何もかも上手くいく」

 ベテランさんが出された手を握り返して一礼する。漸く宰相と国政管理室の気まずい空気が消えた。
 安堵すると同時に、ワンデリアの今が分からない焦燥が、私の中に再び膨れ始める。側に置かれた書類に勝手に手を伸ばせない立場がもどかしい。
 下ろした手の拳を強く握ると、再びアレックス王子の声がこの場を動かす。

「では、国政管理室。そのままワンデリアの状況を報告せよ。ワンデリア分割領の当主達は、誰よりも早く知りたいはずだ。後になって、すまなかったな」

 気遣う言葉に感謝を込めて一礼したのは、私だけじゃないかった。ディエリ、クロードも自分の領地の状況を案じていた。 

 国政管理室のベテランさんが、中堅さんに手を払う。一礼した中堅さんがベッケル宰相の前から姿を消し、決まった事を動かす為に退室する。入れ替わる様に新人くんが入室して、後ろにそっと控える。

「では、ご報告を。魔物の発生数は、魔力規模が大きすぎて正確な数は把握できていません。ただ、中規模崩落とは違う圧倒的な規模です。崩落個所は想定より東です。バスティア、ベッケル、ヴァセラン、アングラードの四領地が重なる場所で、各領の私兵団から噴煙確認の報告が上がっています」

 その言葉に背中を冷たいものが滑り落ちる。各領からの報告にはアングラード領も含まれる。噴煙が確認できる位置ならば、渓谷から魔物が上がってくる量は多く、時間も早い。
 無表情を取り繕いながら内心で悲鳴を上げた私を、ベテランさんが落ち着くように眼差しで諭す。

「今回、ワンデリアはある意味運が良いです。王領は、陛下が近衛や帯同騎士を率いて対応に出ました。余裕ができた兵力を各地の援護に回します。皆様の私兵団の噴煙確認は迅速でしたよ。よく対策が成されていた証です」

 その言葉に大きく頷く。大崩落の時の動きや、対策はずっとしてきた。震えそうになる指先を握りしめて、大丈夫と自分にも言い聞かせる。

「開戦の報告もまだ入っていません。今の状況から見ると、崩落はかなり深部で起こっているようです。迎え撃つ体制を整える余裕は十分だと、報告が上がっています」

 開戦していない。その言葉に湧き上がったのは、すぐに向かいたい焦りだった。思いが見えていたかの様に、ベッケル宰相がとりなしの言葉を上げてくれる。
 
「バスティア公爵、ヴァセラン侯爵代理、アングラード侯爵代理は、すぐにワンデリアの対応に向かわせて差し上げては如何でしょうか?」

 アレックス王子がクロード、ディエリを順番に見つめる。一人一人がそれぞれの思いを乗せて、小さく頷きかえす。
 最後に私を見つめた瞳には、僅かに心配が浮かんだ。振り払うように、真っ直ぐ見つめ返して大きく頷く。

「ノエル、クロード、ディエリ。国政管理室から、先に資料を見せてもらえ。すぐに自領の対策に向かうとよい」

 アレックス王子の言葉に、各従者が馬車の手配に動きだした。彼らが飛び出す前に、慌てて声を上げる。

「アレックス殿下、騎士棟の馬をお借りしても宜しいですか?」

 まだ、広場にいた人々は帰路の途中だろう。街中は、きっと人がいつもよりも溢れている。一刻を争うなら、馬を使って裏通りを進む方が早い。私の言葉にカミュ様が動いてくれる。

「リード、先に行って馬の用意をお願い致します」

 カミュ様の護衛騎士が、謁見室を出ていく。その背が消えるよりも先に、私達は国政管理室が許可してくれた資料を三人で覗き込む。

 騎士団の今後の展開予定、魔物の討伐状況による作戦の移り変わり、連絡手段、事前に知らされていた内容から既に何カ所も変更があった。それから、情報量がまだ少ない今の状況にも目を通す。今の流れなら、私達が現地につくのと開戦はほぼ同時になるかもしれない。

 ディエリが最初に目を通し終えて、アレックス王子に一礼する。それに続くように私とクロードも、一礼して退席を告げる。

「ノエル、クロード、ディエリ。何かあれば、連絡しろ。武運を祈る」

「協力は惜しまみません。どうか、お気をつけて」

 友としてのアレックス王子とカミュ様の言葉に頷いて、私達は一斉に謁見室から駆けだした。廊下を競うように掛けて中庭に出る。
 城壁の上からはドニの歌声がまだ響いていた。
 ここで民の不安と戦うドニ。次の戦いに備える殿下とカミュ様。ユーグは自領に向かったのだろうか。
 ディエリとクロードと私は、それぞれの領地の最前線を目指す。

 騎士棟の広場に着くと、カミュ様の護衛騎士が全員の馬を用意してくれていた。礼を言って馬を受け取る。それぞれ従者だけを伴い、裏門から城を一斉に出る。

 何度も急くように馬の腹を蹴って、人気の少ない通りを駆け抜ける。馬車を使わなくて良かった。裏通りに入る前に、視界に入った大通りは大崩落を忘れた様な笑顔の人で溢れていた。

 同じ国の出来事でも、遠く離れているという安心感は人を恐怖から遠ざける。恐怖と混乱が王都に寄り添うのは、もう少し時間がたってからだ。許される時間は七日はない、五日だろう。それまでに全てを片付けるのが、きっと最善になる。

 城を振り返ろうとした私の横で、ディエリが馬を急かす声を上げた。大きく馬を蹴って一歩抜け出ると、私とクロードを馬上で睨むように振り返る。

「貴様ら、俺以外には倒されるなよ」

 ディエリはいつも素直じゃなくて、可愛げがない。別れに選んだ言葉は、再会を望むものなのに子供のように荒い。私達も可愛げない返事を返す。

「再戦がまだです! 敵を侮って、足下を掬われないようにしてくださいね」

「ああ、負けない! ディエリ、お前は魔力を抑えすぎる癖に気を付けろ」

 私とクロードの言葉に、舌打ちが聞こえる様な表情を残してディエリが背を向ける。進行方向をバスティア公爵家の方角に変えると、一瞬で姿が見えなくなった。

 見送った背から、視線を前に戻す。大きなクロードの背中を追って、肩を並べて走る。この一瞬も、あと僅かだ。

「クロード!」

 親友の名を呼んでから自らの胸を叩く。私を見てクロードも同じ様に自らの胸を叩き返す。互いの気持ちが、友としていつでも側にある事を確認して笑い合う。

「「永遠の友と誓う。戦場で離れたとしても、互いに困難に立ち向かい、いつかまた並びあおう!!」」

 騎士の友の誓いを唱える声が揃った。小さい頃からクロードの笑顔は変わらない。いつだって信じられる誠実さに溢れている。

「ノエル、また!」

「はい、またですね!」

 上げた片手を馬上で重ねてから、手綱を引いてアングラード邸に向かう通りに入る。別れの心にあったのは、不安や寂しさよりも交わした約束への決意だった。

 
 アングラード邸につくと、迎えに出た執事がすぐに異変に気付いた。他の使用人を遠ざけて、私達に駆け寄る。使用人の長である執事は、ジルとクレイ以外で唯一非常時に隠し通路が使う事ができるので、隠し通路を進みながら状況と今後の対応を指示する。

「以前から話していた通りです。邸内の事は、母上と貴方に調整を任せます。連絡役としても、定期的にワンデリアに様子を見に来てください」

「畏まりました。では、私はこのまま奥様にお伝えしてまいります。お坊ちゃまのご活躍をお祈りします。ジル、必ずお守りするのだぞ」

 別邸に向かった執事と別れて、隠し部屋で防具を身に着ける。スピード重視なので物理的な衝撃にはやや弱い。騎士と同じ装備を付け終えたジルが、私を不安げに見つめる。
  
「ノエル様、必ず後方にいらっしゃって下さい」

「大丈夫ですよ。母上の趣味で一つ一つは最高の特注品です」
  
「装備をどんなにしても、貴方自身が脆くて壊れそうで心配なんです。お願いいたします。できる限り私の背にいて下さい」

 懇願する眼差しに、魔物の王の欠片と対峙した日が頭を過ぎる。ぼろぼろになった体で私の為に戦ったジルは、一か月も床から離れられない大怪我を負ってしまった。
 一番親しい人を失う足元が崩れるような喪失感は、もう二度と私だって感じたくない。

「ジルも無理はしないで下さい」

「留意致します。ノエル様は絶対に無理をなさらないで下さい」

 隠し部屋を出て、ゲートに魔力を流すジルの腕に編んだ銀の髪を見つける。
 一総の髪は女主人が最も信頼する者である証。下してから八年が経つ。私を守り続けた人は、また厳戒の局面で無理を選ぶのだろう。
 もうすぐ切れてしまいそうな証に触れる。驚いた様に私を見降ろしたジルの瞳を見つめて願う。

「ジルは、何一つ失ってはダメです。でも、私からジルを失わせないで下さい。髪が短い私には、同じものは用意できません。証が切れる無茶はしないで下さい」

「……」

 オリーブの瞳が、柔らかい弧を描いて私に笑いかけた。笑いかけても頷かないジルは、きっと約束を守らない。
 眩し気な眼差しに、私を慈しむ熱を見つけてしまう。好きだけど、同じ好きじゃない。返せない想いに、思わず目を逸らす。

 先にジルがゲートに飛び込んで、私の手からジルの腕が離れた。私も追いかけるように、ゲートに飛び込む。


 闇の属性に包まれたゲートを抜けると、ほぼ二年ぶりの空気が私の胸を満たした。先にゲートを抜けたジルを従えて、隠し通路から領主の間に出る。ドアの向こうから、広間に集まっている村人の騒めきが届く。

 無事な姿を確認したくて、慌ててドアを開ける。
 階段を降りた広間には、懐かしい顔ぶれが揃っていた。ドアの音で見上げた皆が、ノエルの姿の私を見て驚きと喜びの後に困惑を浮かべる。

 キャロルなのにキャロルじゃない私に、掛ける言葉を誰もが迷っていた。逡巡に支配された沈黙を、子供特有の高い声が懐かしい名を呼んで破る。

「キャロル様ー!」

 階段を駆け上って、まっすぐ飛び込んできた子供の体を抱きとめる。

「キャロル様! どうして、ずっと来てくれなかったの? 僕待ってたよ。髪がとっても短くなってるけど、ちゃんと大好きなキャロル様だから分かるよ。キャロル様、村に怖い魔物がたくさん来るの。また、助けてくれる?」

 村で一番小さなリルが、成長した顔に涙を浮かべて私を見上げる。
 ここに立つ『私』は、キャロルではなくノエルと名乗らなくてはいけない。でも、腰に回された震える小さな手は、ノエルじゃなくてキャロルを求めてる。
 
「リル。ごめんなさい。会いたかったけど、ずっとお仕事で忙しかったんです。大丈夫ですよ。今度も、私が守りますね」

 ノエルだと名乗らずに、リルの髪を撫でて抱きしめる。ノエルの姿にキャロルを探す広場の皆にも、ゆっくりと『私』は微笑む。

「当主代行として、今日は参りました。大好きなこの村を守ります。安心してください。今、私兵はここに残っていますか?」

 村長のオレガがゆっくりと進み出た。オレガだけは、二年たっても何一つ変わっていない。それが嬉しくて胸が温かくなる。

「ご当主代行様に申し上げます。予想より魔物が増えると連絡があり、全私兵が出払いました」

 その言葉に頷いて、リルを抱き上げる。リルの手がなくなった髪を探すように、私の短い髪の先に何度も触れる。
 ゆっくりと階段を降りながら、オレガに当主代行としての指示を伝えていく。

「団長には伝達魔法で伝えますが、私兵が戻ったら当主代行が到着した事、ベッケル方面に向かった事を伝えて下さい」

 階段を降りて、リルを母親に手渡す。離れた小さな体の体温は、柔らかくて暖かい命の重さで、守らなきゃいけないものを私に刻んだ。

 母親の腕の中から、髪の先に触れていた手と私の顔を交互に見つめてリルが首を傾げる。

「トウシュダイコウ?」

「お仕事の名前ですよ。お外では、その名前で呼んで下さいね。でも、心の中ではリルが一番好きな名前で私を呼んで大丈夫です」

 嬉しそうな顔でリルが頷く。
 私の秘密に触れたのに、誰一人それを問うことはない。ヤニックの胸に抱かれたマノンが、泣きながら少しだけ笑って頷いてくれる。見回した全員の顔に、懐かしさと優しさが浮かんでいた。
 その中に、姿がない人がいる事に気づく。

「オレガ、じいじの姿がありません。無事ですか?」

「村を私兵と共に、お守り下さっております」

 老齢でも元旅人なら、戦う事にも通じている。頭の回転も早いし、じいじなら私兵団と一緒でも大丈夫そうだ。

 短い髪でキャロルの笑顔を私は浮かべる。

「当主代行として、いってきます! みんなは、ここで待ってて下さい」

「お気をつけて、当主代行様」

「ご無事でお戻り下さい。雇い主!」

「お帰りをお待ちしてます、当主代行様!」

「がんばって、トウシュダイコウー」

 皆の声を背負って、当主の館を出る。
 私兵が用意していた馬に飛び乗ると、変わらない景色で変わらない風が髪を揺らした。でも、僅かに混ざる不快な唸りが、変わってしまった日を突きつける。

「ジル、できるだけ渓谷沿いを西に行きます。ここにいて、共に戦っている事を示します」

 馬を蹴って西に向かって駆け始める。駆けながら伝達魔法を私兵団長に向けて送る。
 直ぐに見回りの私兵を見つけて、大きな声で声をかける。

「当主代行のノエルです! 西に向かいます。何かあれば連絡を下さい!」

 言葉を終わるより先に、小さな歓声が沸いた。
 当主代行の私がワンデリアに立つ事には、戦力以外にも大きな意味がある。代行であると言えども、最高責任者が共に戦う事は、兵にとって心理的な支えになり士気をあげるのだ。

 過ぎていく場所に、魔物の影は一つもない。渓谷から上がる道の幾つかは、崩落の備えて事前に潰してある。登れる道を限定すれば、魔物を迎え撃ちやすくなる。西側最初の要は、崖の村の先に作ってあった。

 村に差し掛かると、見慣れた坊主頭の背を見つける。じいじと私が呼ぶオレガの息子のツゥールは、今や村の代表のような存在になっている。私兵を指揮するように立つ姿に向って、駆ける馬の背から声を上げる。

「じいじ! 村はお任せします」

 私の声に、じいじが紫の瞳を見開いて私兵たちと共に振り返る。

「キャロ……! 何故、ここに? 危険――」

 必死に叫んだじいじの言葉は、駆け抜けた所為で最後まで聞き取れなかった。
 キャロルは病に倒れたと、オレガとじいじには嘘の報告がなされていたことを思い出す。小さくなった影に振り返って、元気である事が伝わる様に大きく手を振ってみせる。

 村を抜けた途端、唸り声が酷くなった。魔法弾の大きな爆発音が連続して響き、空気も砂を含んで淀んだものに変る。

「ジル、開戦しています!」

 唸りに抵抗する勇ましい声に向かって急ぐ。私の顔を知る私兵の一人が、馬の蹄の音に気付いて叫ぶ。

「ノエル様だ!」

 渓谷沿いに近づくと、中腹で魔物と切り結ぶ私兵が見え始めた。魔物の規模は中規模崩落よりもやや多い。でも、私兵団の動きに無駄はなく、兵力にも余裕が見て取れる。

「後方の魔物を討ちます!」

 馬を止めずに、言葉と同時に術式を書く。ユーグが何度も改良を繰り返した術式は、ずっと少ない魔力で大きな威力を発揮する。
 魔力を乗せると広範囲で闇の渦が生まれて魔物を飲み込んだ。見える限りの魔物が消失すると大きな歓声が上がる。迂回するように駆け抜けながら、最初の要の私兵たちに告げる。

「西の援護に向かいます。ここは皆さんに任せました。何かあれば呼んでください!」

 私の後ろで、ジルが珍しく大きな声を上げて兵を煽った。

「当主代行が、この地で共に戦かっている。恐れるな! 必ず討ち倒せ!」

 上がった雄たけびを背に、私たちは更に西に向かう。同じ様にしながら、三つの要を超えた。超える度に魔物の量は増えていく。私兵と魔物の均等も危うくなって、兵の顔からも余裕が失われていった。

 一波の最多襲撃の予測は、開戦から一刻。今はまだ半刻にも満たない。王領からの援軍は、一波の最多襲撃に間に合わないだろう。アングラードの私兵は持ちこたえられるだろうか。
 リルの体温を思い出して、手綱を握る手に力が籠る。この手から『私』が零すものがあっても、乗せられるだけのものを当主は守らなくてはいけない。


 立ち上る噴煙が大きくなって、最後の要が見えた。瞬間、唇を噛む。既に中腹どころか、水際の線を魔物が超えて、地上での戦いになり始めていた。

「ジル! 回り込んで下さい。今から水際まで魔物を押し返します。合図と同時に右翼から広範囲の上級魔法を渓谷、地上の順にお願いします。左翼は私がやります」

 ジルが馬の速度を上げて飛び出す。走り際に剣を抜いて、何体も魔物を倒していく。何度見ても戦場でのジルの技量は高い。ギデオンが第一騎士団に欲しがるのがよく分かる。

 苦戦する私兵に向かって、私も声を張り上げる。

「アングラード私兵は後退して、陣形を立て直しなさい! 今から広範囲上級魔法で一掃し、水際まで押し返します!」

 私を確認した私兵から、当主代行命令という声が次々と上がって、兵の後退が始まった。同時に水際を超える魔物の量が膨れ上がる。魔物に押されているように見えるが、後退する私兵は望み通り陣形を急速に整えていた。

 渓谷と地上が見渡せる位置で、じっくりと機を待つ。改善を繰り返しても、広範囲上級魔法の消費は大きい。ぎりぎりの戦況で使うなら、最大の効果を狙わなくてはいけない。

 陣形が完璧に揃って、魔法の効果範囲が魔物で一杯になった。ジルに見えるように大きく手を上げてから、術式を書く。
 一度目の魔法を放つ。渓谷の左から私が放った闇が霧のように魔物を捕えて侵食する。右翼ではジルが放った大きな竜巻が魔物を巻き込んでいく。

 結果を最後まで見届けるより先に、再び手を上げてから二つ目の術式を書く。今度は一瞬で終わらせる魔法だ。右で闇の玉が一瞬で魔物を潰すと、左では大きな風の刃が魔物を一閃する。

 魔力の消費は激しいが、渓谷内と地上の魔物を一度に消した効果は大きい。

「私兵、前進!! 水際を維持!」
 
 私の声を合図に、立て直した陣形が水際まで大きく戻る。再び戦場に均衡が戻るのを確認して、回復薬を口に放り込む。
 ゆっくりと肩から力を抜いた私に、私兵団長が駆け寄ってきた。

「ノエル様! 申し訳ございません。助かりました」

 側に辿り着くなり膝をついた団長に、馬から降りて立つようにうながす。

「重点地区はオーリック、ベッケル、バスティアの三領でしたから仕方ありません。アングラード領とヴァセラン領に、ここまで近い場所での大崩落は想定外です」

 私の言葉に私兵団長が眉を寄せて、蠢く魔物の波を見下ろす。

「正直に申し上げて、予測より遥に多いと感じています。同じ様な増加傾向なら、いづれ他の要も追い込まれる可能性が高いです」

 少し高い所から見下ろした渓谷内には、魔物がひしめき合って溢れるような様相を呈している。ここの魔物が徐々に東の四の要、三の要にも流れていくだろう。もし、他の要が突破されるような事態になれば、最短の退路が塞がれて撤退が厳しくなる可能性もでる。

「各場所との連絡を頻繁に行ってください。中腹が突破されるようなら、ジルを援護に向かわせます。良いですね、ジル?」

 私の側に戻ったジルが複雑な表情を浮かべて、僅かに首を傾げる。
 ジルが側を離れる事を嫌がるのは分かってる。でも、最多襲撃の時間を迎えるより前に、追い詰められる訳にはいかない。
 伝達魔法で状況を報告するよう各要に連絡しながら、私兵団長が再び口を開く。

「ノエル様、援軍の状況は如何でしょうか? 騎士団から発生すぐの時点で、援軍を送る予定と連絡がありました。しかし、その後は何の連絡も私は受け取っておりません」

「王領から援軍が出るとは、私も聞いています。しかし、シュレッサー領を抜けるので時間的に厳しいです。今回、オーリック領も発生位置から少し余裕がありそうですが、ベッケル領を抜けるので時間的には同じでしょう。ジル、広範囲で左翼に中規模魔法で援護をお願いします」

 戦況を見降ろしてジルに指示する。風の魔力が動く気配がして、ジルが大規模の中級魔法を発動した。
 押し込まれていた場所の魔物が一瞬で一掃される。でも、倒した魔物の群れを、新しい魔物の群れがすぐさま覆う。

「……確かに想定を超えてます。ジル、もう一度左に広範囲中級魔法をお願いします。私も右に放ちます」

 術式を書いてジルと同時に魔法を放つ。空白の時間は、ほんの僅かだった。地面を再び魔物の群れが覆う。
 予測の魔物量、実際の発生場所、必要とされていた兵力の現状、知る限りの情報を頭の中で整理しなおす。発生位置が変わったとしても、ここまで急増するとは思えない。

 国政管理室の副室長に向けて、アングラード領の状況を伝達魔法で伝える。
 何かが起きているのは、アングラード領だけなのか、それとも全体なのか。大きな悪夢が待っているような、嫌な予感が心の中に広がった。


 一進一退の攻防が水際で続いた。一刻以上の時間が過ぎて最多襲撃時間を凌いだのに、魔物の量は一定のまま水際を襲い続けている。長い持久戦に兵の顔にも疲労が浮かび始め、私の魔力も半減していた。

 汗を拭って空を仰ぐ。噴煙で光を遮られた太陽が、僅かに西に傾き始めていた事に気づく。
 目を閉じて思考を整理してから、白い錠剤の回復薬を噛むジルに声をかける。

「ジル。魔力はどうですか? 私はそろそろ半分ぐらいになります」

「大丈夫でございます。暫くは、私が一人で対応いたします。ノエル様はお休みください」

 顔色を変えずにジルが答える。その顔を上目遣いでじっと見つめて、ジルの手首を軽く叩く。
 私と同じ頻度で魔法を使っていたジルに、私の分まで対応する余裕までない筈だ。 

「ジル、お約束ですよ。嘘は無しです。残りはどのくらいか答えて下さい」

 私の言葉に琥珀の髪を揺らしてジルが肩を竦めた。

「半分に近いです。ですが、私はユーグ様の回復薬を使っておりません。ノエル様より回復の余地がございます」

 その言葉に少し驚く。言葉通りなら、トップクラスの私より、ジルの魔力量の方が高い。私より上なら歴代王族でも上位に入るアレックス王子に匹敵する。

「わかりました。時間的には、魔物の量が最大に達している筈なんです。それなのに変動が殆どない。道のつくりが功を奏して、上がってくる魔物が一定で抑えられているのだと思うんです」

「……それは悪化しない分、時間は長引くという事でございますね」

 その言葉に大きく頷く。重要な決断の岐路に、私は今立っている。

「この様子なら夜まで水際の戦いが続きます。持久戦になれば、兵の消耗は大きいので、私とジルで何処まで兵を休ませられるかが重要になります」

 私の言葉にジルが目を閉じて考え込む。

「魔力が半分を切ると、体にも影響がでます。四半刻が限界かと存じます。それに、アングラード私兵は練度は高いですが、騎士団と違って長期戦の訓練は浅いです。この勢いのままなら、危険でしょう」

 私の考えと、元騎士であるジルの発言が一致する。
 悔しくても選びたくない選択だとしても、当主代行として取るべき道は絞られた。
 
「副室長さんからも騎士団からも、返事がないんです。援軍がどの程度、何時くるのか全く分かりません。一刻以内に確認が取れなかった場合は、アングラード侯爵家は水際から撤退します。団長に伝えてきてもらえますか?」

 言い終えてから、悔しさを抑える為に唇を噛む。気づかわし気な眼差しでジルが一礼して、私兵団長の元に駆けだす。

 ここを退けば後方の村には、確実に被害が出る。既に住民は避難をしているけれども、崖の村のような石造りじゃない村はきっと壊滅的な被害を受けるだろう。でも、決断の用意を始めなければ、この場にいる私兵が全滅する危険にさらされる。
 勇気ある撤退。賢明な撤退。最初の戦いで、当主代行の私が撤退に感じた言葉は「敗北」だった。


 じりじりと魔力を削りながら持ち堪えた一刻が差し迫る。大崩落で色々な混乱がある所為なのか、副室長からも騎士団からも返事はない。撤退の決断をしようとした私の元に、私兵団長が駆け寄る。

「ノエル様! 西の三つ目の要までの魔物に減少傾向と連絡が入りました」

 小さな希望に、はっきりと傾きだした太陽を見上げる。
 目の前の魔物の量に衰える気配はない。三つ目までと言う事は四つ目の要はここと同じ様に未だ苦しい状況は続いている筈だ。
 希望に縋って戦い続けるか、兵の力を温存するために予定通り撤退するか。
 団長の意見を確認しようとした瞬間、誰かの大きな悲鳴が聞こえて振り返る。水際の一角で兵が後方に吹き飛ぶのが見えた。

 その一角を支えるために、駆けだしながら初級魔法の術式を書く。魔力を乗せると同時に、周囲の兵の言葉が私の耳に届く。

「何故だ! 魔物の中に人がいる!!」

「違う! あの赤い男は魔法をこちらに放った! 敵だ!」

 水際を上がった魔物数体を魔法で吹き飛ばすと同時に、剣を抜いて更に上がってくる魔物を切る。
 辿り着いた水際から見下ろした渓谷で、真っ赤な髪の男が残酷な笑顔を浮かべて私を見つめた。

 一瞬で剣を持つ手に震えが走る。震えを抑える為に、奥歯を噛み締めた私の背にジルの手が触れる。

「ノエル様、広範囲上級魔法を書きます。渓谷の魔物を私が一掃するので、兵に撤退のご指示をお出しください」

 ジルが素早く術式を書く。それは、今日一番広範囲で最も威力の高い魔法の術式だった。風が私の声を掻き消す前に、全員に伝わる様に大きな声で叫ぶ。

「魔法発動後、アングラード私兵は急ぎ撤退せよ! 理由は問うな! 迅速に対応せよ!」

 私の必死な叫びに周囲の私兵が慌てて撤退を始めるのと、ジルが魔法を発動するのは同時だった。
 ジルの魔法は演習場でユーグが手直しをして、クロードの結界を破ったものと同じだ。雷を伴う大竜巻。それが広範囲に幾つも現れて周囲の魔物を消し去っていく。
 騎士団長が風を避けるように腕を上げて、私の背に近づく。

「ノエル様! 本当に撤退してもよろしいのですか?」

「正確には撤退ではないんです。早く遠くに逃げて下さい! あの赤い男は魔物の王です。私とジルが殿をつとめます!」

 私団長が大きく息を飲んで、頷いて駆けだす。ジルが苦手なユーグの液状の回復薬を一気に飲み干して、再び次の術式を書き始める。更に後方に大規模な上級魔法をジルが放つ。

 いくつもの竜巻が魔物を飲み込んでいく。
 魔物が一掃された崖。凍るような笑みを浮かべた魔物の王がたった一人変わらずに残った。
 褐色の肌の中で燃えるように赤い瞳は、私を獲物と定めたように見つめて離さない。
 
「我を楽しませる転じる子よ。久しいな……。あれから、お前の運命はまた変ったか? 我を捨てた彼奴は嘆き悲しんだか? 再び、お前に楽しませてもらおうか」

 言葉は呪いのようで、耳に届けば体中を恐怖で粟立たせる。
 民族衣装のような服の裾をはためかせて、魔物の王が一歩一歩渓谷を登る。異形の者にとって、獲物を追い詰めるのは楽しい時間だ。私を睨みながら、魔物の王が唇の端をゆっくりと上げる。

 いつかの恐怖が過ぎって、膝から力が抜けそうだった。
 あの日と同じ姿をした魔物の王の、禍々しい気配はあの日を遥に超えている。それは、欠片ではなく完全な本体である証だ。 





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