2018年12月19日水曜日

四章 五十四話 お出掛けと優しい場所 キャロル16歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 着る服に迷った事、念入りに肌のお手入れをした事、爪を整え直した事、小さな努力を秘密にするのは、男の子の振りをしているからではなく、昨日より大好きな人を驚かせたいから。

「お坊ちゃま、おはようございます」

 瞼の向こうが明るくなって、いつもと違う声が私の名前を呼ぶ。
 重い瞼をようやく開いて、大きく伸びをする。冷めやらない頭で見るいつもの朝と違う微笑み。それが、ジルじゃなくマリーゼである事に気付いて、今日がアレックス王子とお出掛けの日で、ジルがお休みの日と思い出し、慌ててベッドから飛び起きる。

「マリーゼ。ジルは出かけてしまいましたか?」

「どうでしょう? 先ほど使用人の食堂で女の子に囲まれて困っているのは見かけましたが……」

 マリーゼの返事を聞きながら、慌てて服を着替える。鏡に一瞬写った姿で寝ぐせがついているのは分かったけれど、直す時間が惜しくてそのままにする。

「マリーゼ。後で私を可愛い男の子にしてください。先にジルの所へ行ってきます」

 着替えが終わると、寝ぐせを手で押さえて使用人の住まいに向かって走る。
 休みの日の使用人は、朝早く出掛け、日付が変わる直前まで帰らぬ事も多い。朝、ジルに会わなければ、今日はもう顔を合わせられないかもしれない。ジルと会わない日なんて、従者として側にいてもらってから一度もなかった。 
 使用人の住まいの廊下で、裏口に向かう従者服じゃないジルの背中を見つける。

「ジル!」

 振り向いたジルは私が訪れた事に驚いた顔をしたけど、私はもっと驚いた顔をしていたと思う。

 瞳の色に近いやや明るいオリーブ色のベストに、胸元を緩めたシャツとえんじ色の細いタイ、撫で付けずに髪を遊ばせたジルは、遊び慣れた大人の色気があって見知らぬ人みたいだった。

「いつもと凄く雰囲気が違います! お出かけは何処ですか?」
 
 駆け寄って尋ねれば、いつもと同じ笑みを浮かべる。

「本日は少し身の回りの物を眺めた後、昔の仲間と杯を傾ける予定でおります」

 同じ話し方、同じ笑顔なのに、やはり雰囲気が全然違う。モノクルを外して髪型も違う所為で、整った顔立ちの中でも特に綺麗な涼し気な目元と輪郭がよく分かる。見た事ない喉仏から鎖骨の綺麗なラインが開いた胸元から覗いて思わず目をふせてしまう。
 かっこいい人なのは気付いていたけど、大人の色気を湛えた男性的な姿を初めて知った。使用人の女の子が浮足立った理由も、花街でお姐さんたちに人気があった理由もよくわかる。
 
「似合ってますが、ジルじゃないみたいです」
 
「ノエル様の前では従者服か寝衣、あとは騎士服しか着ておりませんね。お休みの日に従者服という訳にはいきませんので、今日は私も庶民の装いとなります」

 ジルは笑ってそう言うけれど、普通の庶民の装いとは僅かに違う。確かに庶民の服だけど、一つ多めに外れたシャツのボタンとか、捲り上げたシャツの袖とか、緩めたタイの巻き方とか、着方の小さな差異が粋で危うい色香になってるのだ。

「着方が違うんだと思います。華があると言うか……」

 私の言葉に不思議そうに首の捻ってから、ジルが自分の全身を眺めて苦笑する。

「普通に着ているのですが、花街にいた頃の癖があるのかもしれません。朝から周りの皆にも、いつもと違うと随分言われました。この服装はお嫌いですか?」

 首を傾げて、ジルが尋ねる。遊び慣れた男の人の顔のジルは、私には違和感があるけど似合っていた。出かけたら、きっとたくさんの女の人の目を引くと思う。
 嫌いと言ったら、変えてくれるのだろうか。そんな事を思って、見知らぬジルを見上げる。

 視線に問いかけるような眼差しが返ってきても、続ける言葉が見当たらなくて首を振る。

 知らない一面に不安や騒めきを感じるのは、私の我儘なのだ。
 私がアレックス王子にしか見せたくない顔があるように、ジルにも執事以外の見知らぬ顔がある。
 
 気を取り直してジルを見つめれば、明るいオリーブ色の瞳は私の言葉を待ってくれていた。
 
「いってらっしゃい。飲み過ぎてはダメです! ちょっと帰りが遅れるのは、良いです。でも、明日の朝はジルが起こしてくださいね」

 私の言葉に、宝物を見つけたような笑顔をジルが浮かべる。細くて綺麗な指がいつもと同じように私の寝ぐせをそっと梳く。
 目を閉じれば、髪を撫でる指の感触も撫で方も変わらなくて心が落ち着く。

「いってまいります、ノエル様。それから、いってらっしゃいませ。」
 
 いつもの通り従者の礼を腕を掴んで留める。

「いってきます、ジル」

 従者じゃないジルの一日の始まりを「いってらっしゃい」と家族として送り出す。帰ってきた時に会えたら「おかえりなさい」を言いたい。
 今日に選ばなかった私の大切な居場所に出した答え。
 背中が見えなくなるまで笑って手を振って、見えなくなるまで何度もジルが振り返って笑う。

 そして、今日に選んだ愛しい居場所での一日が始まる。

 本邸に戻って食事を済ますとベッドの上にたくさんの服を並べる。
 改めてみる男の子の服は、可愛さの欠片も見つからない。特に今日はお忍びなのでシンプルなものが多いから余計にだ。その中からマリーゼが可愛いく見えるものを選んでくれる。
 でも、鏡に映る私は今日も立派に男の子だった。

「昨日の夜、悩んだの事に意味があったのでしょうか……」

 私の呟きにマリーゼがくすくすと笑い声を漏らしながら、羽織ったジャケットを脱がせる。
 脱いでみると、すっきりしたベストに袖の大きく膨らんだシャツの組み合わせは案外可愛いく見えた。ジャケットは手持ちにして着ないと決める。

 ドアがノックされて、使用人がアレックス王子の来訪を告げた。

「ふふっ。お坊ちゃま、マリーゼが最後に魔法をかけて差し上げます」

 マリーゼがいつもと違う質感のリボンを取り出して、襟元に艶のある真っ赤なリボンを結んでくれる。

「さあ、可愛い人になりました。今日のお出掛けを楽しんで下さいませ」

 鏡をみれれば、シンプルな色合いの中で細い真っ赤なリボンが可愛らしく揺れる。たった一つで、いつもと違うノエルの出来上がりだ。私の魔法使いは本当に凄い。

 街頭でよく見かける簡素な馬車の御者台には、御者と騎士服じゃないギデオンがいた。 

 御者が扉を開けて、乗り込むとシンプルなシャツにジャケットの殿下がいた。削ぎ落とすと、本物が際立つ。綺麗な髪と瞳は宝石みたいにきらきらして、薄着だから細いのによく鍛えられた身体の線がはっきりとする。何よりも透明感がある姿に思わず見惚れる。

「おはよう」

「はい! おはようございます」

 馬車のドアが閉まると、アレックス王子が私に手を差し出した。

「馬車を降りる事ができず、すまなかった。せめて座る君のエスコートを」

 誰かがいれば、私たちは未来の王と臣下として振舞わなくてはいけない。でも、二人になれば私を一人の女の子として、きちんと扱っていれる事がとても嬉しかった。
 向けられた手の平にそっと指先を重ねて置けば、優しく隣の席に導かれる。腰をおろすと、そのまま私の指先にアレックス王子の指先が絡められた。
 
「大事な用事が控えているから、今はこれだけ」

 そう言って絡めた指を撫でて、アレックス王子が笑う。
 今、抱きしめられたら、私は用事に行く前に倒れてしまうかもしれない。絡まる指先と二人で側にいられる事だけでも十分幸せだ。

「……カミュ様のルナのレポートを読みましたか?」

 甘い時間の最初の一声は、我ながら好きな人と一緒にいる会話としてはどうかと思う。でも、大事な用事といったのはアレックス王子だから、私もきちんとお仕事をする。
 そんな私を見て、呆れるよりもむしろ嬉しそうな顔でアレックス王子が笑う。

「君らしいな。私が気になったのは十歳での変化とサラザン男爵の翻意だ。サラザン男爵に心の支配があったか確認しておきたい」

「サラザン男爵はまったく考え方が変わっているので、支配があった可能性が強いと思います」

 アレックス殿下が空いた手を唇に当てて考え込む。

「考え方が全く変わるか……。ドニの語るジルベールと似たような話に感じるのは穿ち過ぎか」

 その指摘にどくりと心臓が嫌な音を立てる。変わってしまったアレックス王子とクロードの姿。
 大切な者や目的を忘れてルナだけを妄信的に思い、他の何もかもを忘れたふるまい。
 
「確かに、なんだか似ている気がします。それが一体どこに繋がるのか、少しでも分かればいいですね」

 頷いて考え込みながらも、アレックス王子が私の指先をなぞり続ける。その感触が心地よくて、嫌な音を立てた心臓が徐々に落ち着きを取り戻す。

「神官もルナの支配にかかっていれば、決して語らないのではないか?」

 その問いかけに私は首を振る。
 あの優しい場所でルナを心から案じた神官様。ルナを慕う小さな子供たち。彼らの前ではルナはルナ自身で居続けたいと言った。

「彼らを支配する真似はしないと思います。絶対に支配は解けないとルナは思っていました。あの力は大事な想いを消してしまうから、本当に大事な人には使ったらいけないんです」

「だが、ルナはドニに力を使った」

 その言葉に私は再び首を振る。 
 ルナは決意をもって抗っていたのに、アレックス王子を愛するっていった時は、諦めたように悲しげだった。
 私が侯爵子息になったばかりの頃、恋心に気付かないように無意識に蓋をしたのと同じで、ルナもドニへの気持ちには気づかないように蓋をしていたのだと思っている。

「ドニの支配が解けたのを知った時、ルナは困惑しながらも喜ぶ眼差しを見せました。ルナはドニの思いにも、自分のドニへの思いにも、気付くより前に支配してしまったのだと思います」

 ドニはルナが大好きで恋を歌えるのに、自分に自信がなくて歌わずにいた。
 ルナは、自分を好きじゃないと思ったから支配した筈なのに、自分への恋を歌おうとすると心を失うドニを見て、何を思ったのだろう。
 ドニを好きだと気づいた時、大切な人から自分への恋心を自分が永遠に奪ったと気付いて、どんな想いを抱いたのか。

「すれ違いだな」

 待てばいいとドニに教えたアレックス王子が、目を伏せて小さく呟く。

 ドニは時々、ルナと良くいた小道の広場で、小さく恋の歌を口ずさんでる。天を仰いだ悲しい笑顔の先にはきっとルナがいる。
 もしも、恋をドニが早くに歌っていたら、ルナが好きと気づいて言葉にしていたら……

「アレックス殿下、好きです」

 想いがすれ違がわない為に言葉がある。なら、私は許される限り、想いを伝える言葉を贈りたい。
 絡まる指がほどけない様に力を籠めれば、固い指が同じように私の指を強く捕まえる。
 告げた言葉に突き動かされるように、空いた手で頬に触れて、アレックス王子の唇に自分から唇を重ねた。

 絡められた指先の動きが一瞬止まって、アレックス王子の空いた手が肩を抱いて近くに引き寄せる。
 もしも時間が止まるなら、このまま止まればいいと思う。

 私には聖女の資格がない。

 すれ違わない為の言葉を何度伝えたとしても、私の唇は別の言葉を告げなくてはいけない時が来るかもしれない。

 唇が離れて、小さな吐息が互いに落ちる。今ならアレックス王子の瞳が何を言いたいか見つけられる。私と同じ思いを抱いてる瞳だからだ。

「ノエル、好きだよ」

「はい。アレックス殿――」

 応える私の唇に、アレックス王子の人差し指が添えられる。優しく見つめた瞳が柔らかい弧を描いて、乞うように囁かれる。

「殿下はいらない。アレックスと」

 息を飲んで、心の中でその名を何度も繰り返す。
 アレックス、アレックス、アレックス――

「ア、アレッ……アレ……、無理です……」

 言葉にしようとすると、胸が幸せと恥ずかさでいっぱいになって、上手く声にならなかった。
 私の儘ならない唇を撫でると、そっとアレックス王子が顔を近づける。

「ノエル。名を呼べ……」

 名を呼ぶのを待つように、唇が触れるか触れないかの距離で止まる。焦れるような流し目と、触れてないのに感じる熱で胸の鼓動がどんどんと早まった。

「アレック――」

 触れない唇がもどかしくて、愛しい名を口にしようとした途端に馬車が止まった。

 いつも、私とアレックス殿下の時間は有限で僅かに足りなくなる。
 小さく落した吐息を攫うように、小さな音を立てて唇が一瞬だけ重ねられる。

「次は名を呼ばないといけないよ」

 驚きに目を瞬かせる私の顔をアレックス王子が、悪戯少年のような笑顔を浮かべて覗き込んでいた。
 アレックス王子――アレックスは狡いと思う。


 町はずれで馬車を降りて歩くと、すぐに以前と変わらない灰色の石造りの塔が見えた。繋がるように建てられた孤児院と診療所の前で、子供たちが楽し気に土に落書きをしている。
 私とアレックス王子の姿を見つけた子が指をさすと、何人かの子供たちが笑顔で駆け寄ってくる。

「こんにちはー。診療所ですか? もしかして、教会ですか?」

 男の子が屈託のない笑顔ではきはきと要件を問う。私の顔を見つめて少し大きな子が首を捻る。それから、何かを思い出したように澄んだ瞳を瞬かせた。

「あー。お兄ちゃん知ってる! すごく前に遊びに来てくれたよね!」

「うん。こんにちは。お約束通り、お土産を持ってきました」

 気づいた子には見覚えがあった。あの日、ルナの事を喋り出してルルと呼ばれた子に口を塞がれていた子だ。あの頃は子供たちの中でも小さい方だったのに、今ではすっかりお兄ちゃんになっていた。
 見回した子供たちの中に、ルルとネロと呼ばれていた大きい子と何人かの姿はもうない。ルナの大切な優しい場所も、三年の月日が過ぎて変わってしまっている。

「君は来たことがあったのかい?」

「はい。三年前に殿下からルナの話を聞いた後、教会がどんなところか気になって立ち寄りました」
 
 子供の一人が呼びに行ってくれたようで、診療所の方から変わらない笑顔で「神官父さん」がこちらに走って来た。

「懐かしいですな! あの時の貴族のご子息様ですね!」

 近くで見ると前よりも少し痩せたのが分かった。用意していた喜捨と子供たちの為のお菓子、それから薬の入った包みを渡す。

「今日はお伺いしたいことがあって参りました。静かな所でお話をさせて頂けますか?」

 贈り物に喜ぶ子供たちの歓声の中で、一礼して上げた顔は唇を引き結び悲し気だった。私たちの話がいなくなったルナの事だと予想しているのだろう。
 年嵩の子にお土産を預けると、子供たちに近づかないように言い含めてから教会の方に私たちを招く。

 教会は相変わらず小さいけれども、丁寧に手入れがされているのが分かる気持ちの良い空間だった。入った瞬間にアレックス王子がそっと目をとじて、気持ちよさそうに光の属性に満ちた空気を吸い込む。

「いい場所だ。とっても綺麗で優しい光の属性を感じる」

 その言葉に神官様が嬉しそうに目を細める。光の女神の像に近い前方の長椅子の一つを私たちに勧めて、相対する場所に小さな椅子をもってくる。
 まっすぐ私たちの顔を見つめてから、その場に膝をついた。

「このような小さな教会にご足労頂き、光栄でございます」

「そうか、君には私が誰だか分かってしまったんだね」

「はい。末席ながらもこの国の貴族の端に名を連ねております故、何度が王族の皆様のお姿を拝見させて頂いておりました」

 苦笑して、殿下が椅子に座るように命じる。もう一度一礼してから神官様は小さな椅子に腰を掛けた。

「ルナの事について聞きたい。彼女はここには帰ってきたか?」

 アレックス王子の言葉に神官様が首を振る。予想はしていたけれども、やはりルナはここに帰っていなかった。

「出奔したのはサラザン男爵より伺っております。サラザン男爵はお怒りになる事無く、私たちと同じ様にルナの帰りを待ってくださっている。……でも、貴族の社会で苦しんだのであれば、もう教会に帰ってきたら良いと願っております」

 あの日、ルナの為に深く頭を下げた時と変わらずに、父親同然の存在として神官様は今もルナの事を案じ続けていた。
 きっと彼女を守る為なら、彼は彼女の不利になる真実は口にしないだろう。

「私とこの者はルナに起きた本当の事を知りたいと思ってきた。十年前に彼女は病で一度亡くなりかけているな。その時、一体何があったのだ?」

「奇跡のように回復したのみでございます。幸運だったのです」

 アレックス王子の言葉に神官様が表情を強張らせて答える。一目見て分かる緊張に、その夜がルナという名の少女にとって、転機であったことは間違いなかった。

「奇跡? 本当の事を話せ。赤毛の娘が薄紅の髪に姿を変え、病すら消えた。学園に推挙を受ける庶民は年数人いるが、上位以上の魔力の者は数える程だ。ここは良い光に満ちているが、上位の力を得られる程の魔力量はない」

「お許しください。ルナはここで育った大事な娘でございます。奇跡としか私は申し上げられません」

 そう言って、神官様が深く頭を下げる。王族の願いを断る事の重みを知る肩は震えていた。
 愛する者を必死に守るこの人の心を解くなら、私たちもルナへの想いをきちんと示さなくてはいけない。
 そっとアレックス王子の袖を引く、重なった視線に語らせて欲しいと頷けば、頷きが返ってくる。

「ルナは貴族社会に疲れて出奔したのではありません。ルナは一人で何かに抗おうとしていました。無茶をして私たちと対立した後、もう力がなくなったと姿を消してしまったんです」

 私の言葉に神官様が僅かに目を見張ってから、きつく目を閉じる。
 秘密に触れる言葉を続けても許されるか確認する為に、アレックス王子をもう一度見れば、後押しするように頷いてくれる。

「私はルナが嫌いじゃないです。彼女は、大事な人を守って幸せにすると言いました。私も大事な人がいます。形は違っても同じ願いを持つ彼女を、戦友のように思ってました。ルナは消えてしまう前に信じられないような秘密の一部を私たちに託しました。信じて一緒に抗う為に、私たちは彼女を知りたいんです」

 私の言葉にうな垂れて神官様が拳を握りしめた。その拳の上に、一つ二つと雫が落ちる。
 
「やはりあの子は、一人で何かを背負っていたのですね」

 アレックス王子が更に神官様に語り掛ける。

「私の友がルナを愛して帰りを待っている。優しくていい男だ。くしゃりと笑うルナの顔が好きだと言った。大事な友とルナをもう一度逢わせてやりたい。そして、国の為と言った言葉が真実なら、次は共に抗おうと思う」

 両の手の平で涙を拭って顔を上げた神官様が、私と殿下の顔をじっと見つめる。何度も何度も見つめてゆっくりと口を開く。

「一番心が躍る時、あの子はくしゃりと笑うんです。神官として多くの人を見つめてきました。罪を犯した者も、善良な者も、様々な感情を見続けてまいりました。人を見る目はあると自負しております。どのような話でも信じて、あの子が一人苦しむなら助けてやって頂けますか?」

 まっすぐ神官様の目を見つめて頷く。隣でアレックス殿下も同じ様に頷くのが分かった。
 心を落ち着かせるように大きく息を吸って吐くと、神官様が静かな声で語り始める。

「私と妻は十歳前のルナと十歳後のルナは、中身が違う別人なのだと思っています」

 まさかと思うと同時に、やはりとも思う。アレックス王子も信じられない言葉が返ってくる可能性を予感はしていたのか、冷静に言葉を返す。

「そうか……なぜ、そう思う?」

「ルナは驚くほど体の弱い子で、外に出すとすぐに体調を崩しました。教会が自分と同じ光属性だったから生きる事ができていたんです。十歳までの『最初のルナ』は精霊の子でした」

 カミュ様の報告書でも、ルナの症状を精霊の子に似ているという記述があった。ルナが聖女になる条件に精霊の子を挙げた時から確信に近い思いはあった。
 でも、確信に至れなかったのは、ディエリのように回復薬を飲んでいる様子もなく、とても元気だったからだ。
 
 何から問えばいいのかを迷っているうちに、続きの言葉を神官様が紡ぎ始める。

「あの時は、診療所にルナと私だけでした。赤毛の『最初のルナ』が私を小さな声で呼んで、手を握ると微笑んでくれました。でも、最後の力だったんです。呼吸は浅く、脈も消えかけ、私はその手に顔を伏せて泣きました。突然、握っていたルナの手が淡い光を帯びたんです。顔を上げると、薄紅色の髪に同じ色の瞳をした『今のルナ』がおりました」

 神官様の顔は真剣で、決して嘘や作り事を話しているとは思えない。

 私は私と同じ可能性も疑っていた。同じ時代の前世の記憶持つなら「キミエト」のシナリオを再現できた理由になる。前世を思い出す前に原因不明の熱で眠りにつき、記憶を思い出すと同時に熱が下がった事とも僅かに似ている。
 でも、私は髪の色や目の色は変わってない。それに、彼女は私が知らない二百年前のシーナの事も、未来の事も語る。
 ここでも推測することに、ズレが生まれていく。
 
「『最初のルナ』『今のルナ』か……、別人として語る理由はなんだ?」

 アレックス王子の問い掛けに、神官様が自分の手をじっと見つめる。その手はルナが変わる瞬間に握っていた手なのだろう。

「私はルナから手を離しておりません。誰かと入れ替わる事はできない。それに、髪と目の色以外の見た目は全く変わっていなかった。ルナは確かにルナでした。でも、『今のルナ』には変わる以前の『最初のルナ』の記憶が一切なくなっていたんです」

「記憶がですか?」

 思わず私は声を上げてしまった。
 私は前世の記憶を取り戻す前の記憶もはっきりしている。キャロルの自分に、前世の自分の記憶が追加されたような感じだった。転機を迎えた後でも、私はキャロルであったのに対して、ルナは別人だという。
 根本的に私とルナは違うのか、それとも何かがズレてるだけなのか。

「私と妻も戸惑いました。姿も一部が変わり、思い出すら失っている。中身は別人としか思えなかった。でも、目の前にいた子は『最初のルナ』の面影を宿した人です。あり得ない話に結論を出せぬまま『ルナ』として扱う日々が過ぎてゆきました」

「国に届けようとは思わなかったのか?」

 アレックス王子にの言葉に、神官様が頭を下げる。

「届ければ信じて頂けたでしょうか? 死して蘇った魔物と思われませんでしたか? 『今のルナ』は私と妻へどう接していいか分からず、孤児院に初めて預けられる小さな子供のように怯えていたんです。目の前の子が『ルナ』の姿を残した人である以上、私たちは見捨てる道は選べませんでした」

 顔を上げた神官様の顔は、父上と同じ家族を守る「父」の顔だった。

「小さい子たちが遊びに来るようになると、幸せそうにくしゃりと笑うようになりました。明るさと快活さが表に出るようになり、一年たつ頃には孤児院の家族の一人でした。その頃には私も妻も『今のルナ』は『昔のルナ』に、神様が下さった続きの時間と思うようになっていました」

 私の知るルナの始まりは『今のルナ』になった時で、間違いないと思う。
 精霊の子として聖女になる資格を持っていた少女。死を目前に突然中身が別人になって、シナリオのヒロインと同じ少女が生まれる。『ルナ』それは続く未来で、聖女になれる存在だった筈だ。

「ルナについて気付いたことは他にありますか?」
 
「物思いにふけって思いつめた顔を度々みせました。尋ねても、首を振るばかりだったんです。魔力が発動したと言われていますが、あの時は孤児院でも命が危険な状態の子がおりました。ルナは術式を書いて見知らぬ魔法を発動したんです。一瞬で隠れるように行ったので、私は自分の目を疑い、問い詰めなかった。あの時、聞いてあげるべきでした。あの子は何を抱えていたのでしょうか?」

 後悔を湛えた神官様の眼差しに、私も殿下も答える事は出来なかった。
 魔力印がないのにルナは、術式を書いた。それは、普通なら絶対にありえない。
 
 沈黙の中でアレックス王子が口を開く。

「最後にもう一つ聞かせて欲しい。ルナの元にサラザン男爵が来た際、怪我をした様子はなかったか?」

「ございました。指先に小さな切り傷があり、治療させて頂いたので良く覚えております」

 私とアレックス王子の瞳が交錯する。やはり、サラザン男爵はルナの支配を受けていた。 
 漠然とした答えが私の中にあったけど、それは更に突拍子もない物語で、まだ多くの祖語を抱えていた。

 まっすぐと私たちを見つめる神官様にアレックス王子がゆっくりと語り掛ける。

「まだ私たちもルナについて答えを出せていない。何かあれば、彼女の父である貴方に必ず知らせよう。今は、約束だけで許してほしい。ルナが次に現れた時、必ず私たちは彼女の力になろう。君たちの家族を、一人で何かに立ち向かわせる事はしない」

 神父様が微笑んで立ち上がると、膝をついて深く礼をとる。

「どうか私の娘の一人であるルナを、宜しくお願いいたします」
 
 まっすぐ前には、光の女神の像が立っていた。穏やかに微笑みを浮かべた女神は、この国を護る存在。
 王家の紋賞にも使われた女神。

 赤い神は魔物の王だった。白い神は光の女神の気がした。エトワールの泉になった神はどこへ消えたのか。ユーグとカミュ様が持ち越した答えが気になった。

 教会を出ると子供たちがまだ、地面に何かを書いていた。絵だと思っていたのは大きな文字だ。
 私たちと神官様の姿を認めて、小さな子が一人駆け寄ってくる。

「お話終わった? お菓子食べる?」
  
 そう言った子の頭を神官様が優しく撫でる。ルナが愛したこの場所はとても優しい場所だ。
 少しずつ移ろって行ったとしても、優しさは常に満ちている。
 私の手を引いて、小さな子供が笑う。

「もうすぐ、文字が書き終わるの。ねぇ、お兄ちゃん達にも僕たちの文字はちゃんと読める?」

 逆さまで歪んだ見づらい文字は「おかえ」と書かれていて、最後の文字はまだ三人がかりで書いている途中だ。

「もしかして、『おかえり』ですか?」

 少年が得意げに胸を張って嬉しそうに笑う。
 教会に来た人を迎えるように書かれた大きな「おかえり」の文字。その意味に気づいて胸がぎゅうっと掴まれる。
 見上げたアレックス王子も唇を引き結んで、震えるような声を落とす。

「とてもよく書けている」

 ただ、優しくて、愛しくて、私は小さな子供を抱きしめる。抱きしめられた子が嬉しそうに笑って教えてくれる。 

「ルナがね、寂しくて帰ってきた時の為なんだよ。いつでも入っておいでって分かる様に、皆で毎日書いているの! ねぇ、ルナはいつ帰ってきてくれるかな?」

 ここで、ルナはくしゃりと笑っていたのだと思う。
 抱きしめられた子供を見つけた他の子供たちが、抱きしめてと駆け寄ってきてアレックス王子と神官様がそれぞれ両手に抱きしめていた。

 ルナの守りたかったものの一つは、とても小さくて温かい。
 これをルナが守ろうとしたのなら、私はルナを信じたい。

 届きますか? 届いていますか?
 この優しい場所が貴方を待っていることが。
 まだ見えない貴方の真実。必ず届いて次は一緒に抗いましょう。

「ルナはここに帰らないとダメです。待っててあげて下さい。必ず帰ってきますから。お兄ちゃんたちも力になりたいって思ってます」

 柔らかい小さな手が私の背中に手を回して、肩の上で小さな笑い声が頷いた。
 空から暖かい太陽の光が降り注ぐ、そしてこの場所を優しく照らす。


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