2018年12月22日土曜日

四章 七十一話 ジルベールと離別 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 剣を持つ男は父上よりも少し年上で、涼し気な面差しにドニと同じ緑の瞳を持っていた。アレックス王子を盾にする巧妙な立ち位置から、影を落とした瞳で笑う。
 初めて見るその男こそ、人の悪意の中心であるジルベール・ラヴェルだった。

 剣を突きつけられたアレックス王子の体が、僅かに揺れる。渇いた血だけでなく、新しい赤い血が王衣に滲む。眼差しに強い光はあるが、顔色は酷く。今にも倒れてしまいそうに見えた。

「貴方がジルベールですね? アレックス殿下を返してください。秘宝は持ってきました」

 視線を受けた切れ長の瞳が、楽し気な弧を描く。壊れそうなぐらい心臓が脈を打った。
 男の顔には何処かで見たような既視感がある。
 いつ、どこで、私はこの男と会ったのか。
 痛いぐらいの胸の鼓動と、喉の渇きに意識が持っていかれる。

「ノエル! 上です!」
 
 カミュ様の声に、慌てて城壁を見上げる。ベッケルの周囲を固めた数名の騎士が、術式を書いていた。
 橋の始まりを狙う中で、一つが私に向けられているのを見つける。すぐに対抗の術式を書く。
 城壁と橋の入り口。双方の魔力が一斉に魔法に変わる。

 打ち下ろされる魔法に、対抗する魔法。
 自分に向けられた魔法を相殺すると、後方でも幾つかの魔法が相殺される。その内の二つの魔法が謀反者の魔法を飲み込んで、真っ直ぐベッケルに向かった。

 城壁の手前で激しい音がして、魔法が結界に阻まれる。弾ける様に飛び散った魔法が、魔力の残滓を残して掻き消えた。
 音に被さる様に、アレックス王子の声が私の耳に届く。

「ノエル、避けろ!!」

 顔を向けた時には、ジルベールが術式に魔力を乗せ終えていた。
 対抗できない。そう理解した瞬きの間は、長い時間だった。

 ジルベールの手で、風が小さな礫に変わるのが見えた。刃を厭わず体を捩ったアレックス王子が、魔法の前に腕を上げる。

 首筋にあった刃が肩を掠めて、魔法が腕を抉った。真っ赤な血しぶきが上がると同時に、アレックス王子の体が崩れ落ちる。

 瞬きの後の一歩より先に、贋物の秘宝を風の礫が捉えた。

 激しい閃光に目を閉じる。 
 閃光の後に開けた視界には、ちらつく暗い影と膝を着いたアレックス王子が見えた。腕を抑えた手からは、真っ赤な血が溢れて小さな血だまりを作る。

「アレックス殿下!」

 駆け寄ろうとすると、視線が重なった。苦痛に歪んだ紺碧の瞳が、安堵したように柔らかい弧を描く。

「来るな! ノエル! 下がれ!」

 アレックス王子が叫んだ意味に気づいて、数歩で足を止める。失敗があったら、速やかに一歩でも退避しろと作戦で言われていた。

「ノエル! 戻って下さい!」

 カミュ様の叫びに足を引くと、判断を誤った私の頭上でベッケルの声が響く。

「ノエル・アングラード。動けば殿下の命はないぞ。よもやアングラード侯爵子息が、殿下の命を置いて去る真似はせぬな?」

 ベッケルの笑顔に、悪意と敵意が滲む。意趣返しと言われた事を思い出す。
 失敗を悔やまない、悪意に怯えないと言い聞かせて、城壁に立つベッケルを仰ぐ。

「私はアレックス殿下の臣下です。命に代えてお守りしても、盾にする事はありません!」

 悪意に塗れた笑顔が凍り付いて、ベッケルが冷たい眼差しを向ける。

「アングラード子息。膝を着いて、両手を上げなさい。今すぐに拘束してやりたいが、先に秘宝を頂く」

 橋の始まりと城壁の両方が見える向きに、膝を折って両手を上げる。
 状況は良いとは言えない。でも、こちらの魔法の技量は謀反者よりも上だ。城壁からの魔法は、さっきのぶつかり合い同様に援護が期待できる。アレックス王子からジルベールが手を離せば、機会は必ず巡って来る筈だ。

 真っ直ぐ見上げると、ベッケルが苛立たし気に爪を噛んだ。父上への憎悪を、言葉にして私に向ける。

「私はね。君の父上が嫌いだった。人が羨むものを全て持っていた。あれ以上に完璧な男を、私は知らない。何故、息子と同じ世代に生まれたのだ。比べて羨む度に、彼が失うのを見たいと思った」

 勝手に羨むなと叫びたかった。外では完璧に見える父上も、内には悲しみや苦労を抱えていた。完璧な姿の影にある、才能以上の努力を跡取りの私は知っている。

 先に目を逸らしたのはベッケルだった。カミュ様達の方に視線を移す。

「求めるのは本物の秘宝です。お出し頂ければ、私達は無益な血を流しません。さあ、カミュ様! 今度は本当の秘宝をお出しください!」

 カミュ様が再び秘宝を取り出して掲げる。魔力が動く気配と同時に、秘宝が淡い揺らめきを見せる。

「本物です。アレックスとノエルを返して頂きたい」

 頷くとベッケル宰相が、楽しげに顔を歪める。浮かんだ悪意に背筋が凍る。
 
「……そう、その前に贋物に気づいた理由を教えましょう。秘宝とカミュ様の間に魔法を通した時、壊れる事のない秘宝を案じた方が一人おりました。優秀な人材に一人劣る者。私の苦悩と同じです。名は伏せます。その場所で悪意の種になって下さい」

 ベッケルの告白に、普段は冷静な護衛と従者が一瞬騒めいた。誰か分からない事が、互いと自分に疑念を生み、動揺を生じさせる。

 酷い悪意によってもたらされた困惑を、よく透る声が叱咤する。 

「過ちに囚われるな! 取り返せる! 何度も――っ」

 ジルベールがアレックス王子を蹴り上げる。血だまりに体が落ちて、金の髪が血に染まる。
 それでも、無事な腕を支えにして、アレックス王子が再び体を起こして叫ぶ。その目には私が憧れ続けた強さがあった。

「――次を見ればいい!」

 アレックス王子の資質は、その眼差しの強さと、決断や言葉が機を捉えて人を導く事だ。
 次代の王の叫びが、ベッケルが落とした悪意を消した。護衛や従者の顔から戸惑いが消えて、救い出すという決意が漲る。

 思い通りにならなかったベッケルに、激しい怒りが浮かぶ。穏やかな宰相だった時には、決して見る事のなかった表情だった。

「……運び手に、アングラードの従者を指名致します! その中で唯一庶民の男です! 捨て駒には最適でしょう! 彼がここに秘宝を持ってくれば、二人をお返しします」
 
 弾かれたように顔を向けると、橋の始まりでジルが従者の礼をとった。膝を浮かせた私を、ジルベールが低く冷たい声で制止する。

「アングラード侯爵子息、君はこの舞台の大事な姫君だ。行動はよく考えなさい。一歩でも動けば、殿下が傷つく。見てごらん?」

 体を支えるのも辛そうなアレックス王子の首筋に、ジルベールが刃を滑らせる。新しい傷が一つ増えて、赤い血が玉になってその肌に浮いた。

「やめて! 動きません!」

 満足気に笑うと、ジルベールの琥珀の髪が月の光に揺れる。
 やはり何処かで見た事がある。一度ではなく、何度も何度も見ている。

「ああ、残酷だね。愛しい姫君の仰せの通りにしよう。男が二人、女が一人。君が選ぶのは一人だ。ここに『あの子』が来たら、君は有難うというのかな? そして『あの子』はそれを喜ぶのかな? 姫君が手を取るのは自分じゃないのにね」

 小さく唇が震えた。私を女と知る者は限られる。
 それに、ジルベールの言葉選びと独特の抑揚のある声には、確かに聞き覚えがあった。

「私、貴方と前に会ってます……」

 ジルの部屋にやってきたマントの男は、ジルを『あの子』と呼んだ。琥珀の髪に細くて長い指は、ジルとそっくりだった。
 ジルベールが、ジルとよく似た涼し気な目元を綻ばせる。

「ああ、時間切れかな。君の玩具だった『あの子』がここに来るよ」

 ジルベールが跳ね橋の入り口を見る。ジルがアニエス様の前で騎士の礼をとって、秘宝を預かるところだった。
 
「来ないで……」

 消えそうな声で呟いた言葉は、決してジルに届かない。
 ジルベールがジルの父親なら、ジルを呼んだ事に目的がある筈だった。だから来てはいけない。そう思うのに、傷だらけのアレックス王子を見ると、声を出す事ができなかった。

「それが姫君の心の在処なら、大人しく『あの子』を待ちなさい。今度こそ『あの子』も世界が残酷で、何も手に入らない事を理解する」

 視界の端で、ジルが橋の始まりに立つのが見えた。その手にはカミュ様の秘宝がある。

 誰か一人でも、身分に関係なくジルを心配してくれただろうか。無理はするなと、その身を案じてくれただろうか。本当なら、私がその声を上げなくてはいけない。

「ジルベール。貴方とジルは……」

 ジルに向けるジルベールの目には、私の父上と同じ温かさはない。

「私と愛した人の子だね。愛しい人の面影もあるけれど、目元と髪は私譲りで似てるだろう? 何より欲しい者が手に入らない運命はそっくりだよ」

 似てないと否定したかったのにできなかった。
 ジルには私以外にも、大切な友達や仲間がいる。たくさん手に入れたものがある。
 でも、私の為に全てをその手から零してもいいと、ジルは言った。

「黒街で互いに一目で親子と分かった。最初に、世界が憎いならおいでと手を伸ばしたら、あの子は首を振った。二度目に、手に入らないものが欲しくないかと聞いたら、あの子は迷った。君といるのは、とても苦しかっただろうね」

 体を巡る血が冷たくなる。
 誰よりもジルを傷つけるのが私だと、私が一番知ってる。
 
 顔を上げたアレックス王子が、私の向うを見つめた。橋を踏む足音が聞こえる。来ないでと叫ばなければジルを失う。来ないでと叫んだらアレックス王子を失う。

 近づく足音が止まって、私の隣にジルが立った。見上げたジルのオリーブ色の瞳は、私を見ずに真っ直ぐジルベールを見つめる。

「秘宝を持って参りました。アレックス殿下とノエル様を解放して頂きたい」

 本物の秘宝にジルベールが喜色を浮かべて、城壁の上に合図をした。頭上から朗々と声が響く。

「結構です。ここからはジルベールが、従者に指示をして受け取ります。アレックス殿下の命を握るのはこちらです。動いてはなりません。では、今宵の取引がこの国の未来を塗りつぶす事を信じて」

 ベッケルが大げさな一礼をして、城壁の上から姿を消した。謀反者に与する騎士達は、城壁の上で魔法を放てる体勢を維持している。

 ボルロー伯爵がジルベールに向かって叫ぶ。

「ジルベールよ。秘宝はアングラード侯爵従者に持たせた。速やかな解放を希望する!」

「勿論! だが、私も自分の身が可愛いのでね! こちらのやり方で進めさせていただく!」

 アレックス王子に剣を突きつけたまま、ジルベールがジルに向かって指示をする。

「ジル。秘宝を持って、もう少し前へ来なさい」

 踏み出したジルに、手を伸ばそうとした。
 何度も顔を埋めた従者服の裾が、指の先で翻る。迷った手は空を切った。
 少しだけ振り返ったジルが、瞳の端に私を映して悲し気に笑う。

 全てを選ぶことが出来ないならば、何かが目の前で零れ落ちていく。

 私とジルベールの中間にジルが立った。月明かりに並んだ琥珀の髪は、親子を証明するように同じ色をしていた。

「息子よ。また会う機会があって嬉しいよ。もう一度、私の元へ来ないか?」

 冷たいく低い声がジルを誘う。口を開かないジルに向かってジルベールが更に囁く。

「どんなに望んでも、君が欲しいものは手に入らない。姫君は、君を選ばない。尽くしても、最後は王子様を選ぶ」

 私からはジルの表情は見えない。ただ、答えた声は私の知らない、冷たく突き放すような声音だった。

「……父と呼ばなくとも、貴方の子である事実が全てを終らせる。父を名乗って、貴方が小さな幸せを奪うんですね」
 
「奪いに来たんではない。与えに来たんだ。庶民出の従者の評価が幸せか? 愛する者を奪われるのが幸せか?」

 ジルベールが笑いを漏らすと、アレックス王子が顔を上げる。何かを告げようとするのを、ジルの言葉が制する。

「何もかもを持つ殿下に、私の気持ちは決して分からない。私は何一つ持てなかった。少しの大切なものも、この手からは簡単に消えた」

 満足気にジルベールが笑って手を伸ばす。その手にジルが返したのは、秘宝だった。
 ゆっくりと風の魔力に乗って、カミュ様の秘宝がジルベールの手に落ちる。秘宝をジャケットの胸にしまうと、もう一度ジルに向かって手を伸ばす。

「秘宝と共に、一緒に来るといい。世界が逆転する。君は持てなかった全て手に入れる」

 ジルは、手を伸ばさなかった。でも、ジルベールの顔に失意はない。

「悩むのならば、現実を教えてあげよう。可愛い姫よ。愛しい王子か、愛を乞う憐れな従者か。一方を君の手で殺しなさい。残った方と二人、約束通り戻してあげよう」

「嫌です!!」

 突きつけられた、残酷な選択肢に叫ぶ。突然の叫びに、橋の始まりに待つ者達が騒めいた。

 カミュ様とバルト伯爵が、私に何かを問う叫びをあげる。叫んでいるのは解るのに、言葉は耳に入ってこなかった。

「姫君よ。茶番は終わりにして、ジルに答えを出しなさい。君が愛しているのは殿下で、ジルはいらないとね」

 アレックス王子の首筋に、剣が強く押し付けられる。そのまま引けば、必ず致命傷になる。

 ジルベールの動きに色めき立った橋の始まりに、城壁から魔法が放たれた。対抗の為の魔法が、謀反者の魔法を飲み込んで再び城壁に向かう。

 ジルベールが余裕の表情で唇の端を上げる。私よりも後方の、橋の始まり側で魔法が大きく弾けた。

「結界が広がっている……」

 驚きに目を瞬くと、ジルベールが哄笑を上げる。

「これで君たちの反抗の機会は減った。宰相の魔力が尽きる迄の一次的な結界だ。取引を急ごう。さあ、姫君は誰を選ぶ?」

 今の結界の位置では、橋の始まりからの援護は私達に届かない。結界内にいる者だけで、城壁とジルベールを一度に抑える必要がある。
 この場を一人で切り抜ける事はできない。でも、いつも必ず振り向いてくれる背は、私を振り返る事はなかった。

 掲げた両手を白くなる程握りしめる。二つの手に私が握っているものは、両方とも零してはいけないものだ。

 アレックス王子を愛している。苦しいぐらいに誰かを欲しいと思う事を初めて知った。
 なら、ジルを引き換えに出来るのか。絶対に違うし、間違っている。大好きで大切な人だ。

 強く目を閉じる。苦しそうなアレックス王子の顔も、ずっと側にいたジルの背中も、選ぶ眼差しで見たくない。

 静寂に篝火が爆ぜる音がして、ジルの呟きが落ちる。
 
「……存じております。手に入らない事も、私が決して報われない事も」

 目を開くと、ジルが真っ直ぐ私を見つめていた。

「ジル……?」

「私は今から貴方を傷つけます」

 未熟なオリーブと同じ色の瞳を細めて、ジルが苦しそうに笑う。
 知りたくなくて頭を振っても、毎日耳にした声は言葉を止めない。

「貴方が望むなら家族という名でも、その笑顔の側に居られれば良いと思っておりました。でも、殿下が触れる度に、自分の小さな可能性を思って羨まずにはいられなかった。叶うなら思いを告げて触れたいと、従者でありながら願ってしまった」

 何かを言わなくてはいけないと唇を開いた。でも、漏れたのは浅い息だけだった。
 幾つも幾つも頭の中には言葉が浮かぶのに、傷つけたと思う数だけ言葉は頭の中で消えていく。

「ジル……。ジル!」
 
 名前を何度も呼び続ける。何を求めて呼ぶのか、自分でも分からなかった。ただ、傷つけても背を向けないで欲しかった。
 ジルが私から顔を背けて、再びジルベールと向き合う。

「ジルベール・ラヴェル。貴方の誘いをお受けします。……ですから、殿下の命を私に下さい」

 どうして、と心の中で呟く。
 どうして、私の元を去ってしまうのか。どうして、アレックス王子の命を求めるのか。
 何処で道を誤って、何処でジルを深く傷つけてしまったのか。

 握りしめた拳が解けて、落ちた手が橋板を叩いた。ジルベールが小さく笑って、狡猾な眼差しをジルに向ける。

「嬉しいが本心か?」

「疑われても困ります。元の場所に戻っても貴方の息子である現実が、私に多くを失わせて重荷を背負わせる。失う事も奪われる事も、もう嫌なんですよ。今度こそ、奪う側になりたい。望むものを私に下さい」

 向けた背がジルの表情を隠す。愉快そうに笑ったジルベールが、殿下の腕を引いて立たせる。ジルの方に背を押すと、剣の代わりに素早く術式を書く。

「父からの初めての贈り物だ。殿下、ジルの前までゆっくりお進みください。姫君は動いてはいけないよ。刃は離れても、私の魔法は殿下を何時でも捉える。君は二人の男が奪い合った結果を、最後まで見届けるといい」

 足を引きずる様に歩くアレックス王子に向けて、ジルが術式を書き始めた。カミュ様やバルト伯爵がジルに何かを叫ぶ。問い質す声が何度も何度も繰り返されて、最後にはジルの裏切りを糾弾する声に変わる。

 ジルの前でアレックス王子が足を止めた。何もかもを跳ねのける強い眼差しが、ジルを真っ直ぐ見据える。

「君の才を惜しいと本気で思っていた。ノエルの事を私より知る事に嫉妬を覚えた。身も心も、より近いと羨んだ。どれもこれも、君に比べたら甘い我儘だ。でも、私はノエルを愛してる」

 告げられた言葉に、ジルが小さく肩を竦めた。

「贅沢な我儘だと思います」

 ジルがアレックス王子に手を伸ばして、その体を引き倒す。橋板に打ち付けられた体が跳ねて、ジルの足元に転がる。

 冷たく見下ろすと、アレックス王子のわき腹を蹴り上げた。
 苦しげな呻き声の後、目の前でアレックス王子の指先が動かなくなる。橋の始まりから大きな怒声が上がって、幾つかの魔法がぶつかり合う。

「殿下の瞳は、母によく似ていて嫌いでした」

 動かなくなったアレックス王子に、ジルが術式を書く。
 また、魔法が結界に遮られて弾ける音がした。止めようと橋の始まりから駆け寄る誰かを、ジルベールの魔法が退ける。

 今何が起きて、これから何が起こるのか。目の前で起きようとしている事を、私も漸く理解する。

「やめてください! ダメです! ダメです! ジル、ダメです!」

 風の魔力が揺らいで、立ち上がった私の髪を撫でる様に攫う。ジルが感情を消した顔で、術式を書いた私の手をじっと見る。

「家族の愛と恋人の愛。私の命と殿下の命。どちらかを貴方は選べますか?」

 ジルに向けて書いた術式は、魔力を乗せればいつでも発動できた。

「どちらか……じゃないです。私は、ジルに向けて撃ちたくありません! でも、そちらに行くならば、戦わなくてはダメなんです。臣下として選びます!」

 指先が震えていた。酷い震えで、今にも術式が消えてしまいそうだった。ジルの後ろに、バルト伯爵達を牽制しながら向かってくるジルベールが見えた。
 ジルを止められるなら、これが最後の機会になる。

「ジル……ダメです。本当にダメなんです。ジルが大好きで、とっても大切なんです。だから、側に居て欲しくて、気付かない振りを選びました。私はずっと甘えてた。そして、最後には傷つけてしまいました」

 明るい未熟なオリーブ色の瞳が僅かに揺れる。その目が似合うのは優しい笑顔で、今の様に冷たく表情を消した顔は似合わない。
 溢れそうになる気持ちを堪えると、顔が歪むのが分かった。

「……ごめんなさいって、今から言ってもいいですか? だから、嘘だと言ってください。一緒に帰るって言ってください。もう一度、話をさせてください。狡いけれど、ジルが大好きです。側に居て欲しいです。こんなのダメです」

 小さくジルが息を吐いて、琥珀の髪をはっきりと振る。

「私は一緒に帰る事は出来ません。貴方の魔法を先に消しましょう。貴方の魔法と私の魔法、届くのはどちらでしょうか……」

 ジルがアレックス王子に向けていた魔法を消して、新しい術式を書く。
 向けられたのは、殿下ではなく私だった。ジルの背に隠れるように立ったジルベールが哄笑を上げる。

「姫君! 愛が最も残酷だと教えた筈だ。愛しさは人を簡単に壊す。私はそれを誰よりも、よく知ってる!」

 ジルの術式に魔力が乗る。高い女性の声が私に命令する。

「ノエル! 打ちなさい! アレックスを助けて!」 

 ジルの手から私に向けて、魔法が放たれる。私の手からも、対抗する魔法が放たれる。
 勝てる訳がなかった。私が書いていたのは、初級魔法の術式だ。
 ジルを倒すなんて、私にはできない。
 私の魔法を、ジルの魔法が簡単に飲み込む。

 全ての魔力が飲まれて、残ったのがジルの魔法だけになった。瞬間、反射する様にジルの魔法が跳ね返る。
 大きく後方に吹き飛んだのは、私ではなくジルだった。背後にいたジルベールが、吹き飛んだジルに巻き込まれる。

 今なら届く。

 起きた事を理解するより先に、アレックス王子に駆け寄る。
 抱き寄せると、浅い息が聞こえた。でも、生命が失われたかの様に冷たかった。
 愛しい人を失う恐怖と大切な人を失う悲しみに、頭も胸も空っぽになる。

 城壁の上で、私に向けて魔力が一斉に動く。虚ろな心が、私から加減を奪っていた。大規模な上級魔法を放つ。降り落ちてきた魔法を飲み込んで、結界の内側から城壁を襲う。城壁の一部が崩れる音と共に、謀反者の騎士達から悲鳴が上がった。

「何が起こったんだ!!」

 ジルと共に倒れ込んだジルベールが叫ぶ。アレックス王子を抱えた私に気づくと、直ぐにジルベールの魔力が動く。
 対抗の術式に全力で魔力を乗せようとした時、ジルベールの隣でジルが身を起こした。 

「ジル!」
 
 弱めた魔法が、ジルベールの魔法と打ち消しあう。私の叫びに、バルト伯爵の声が重なる。

「ジルベールとジル、両名を捕えろ!!」

 橋板を踏む近衛の気配が近づく。劣勢を悟ったジルベールが踵を返すと、ジルが手を伸ばしてその腕を掴む。

「私も連れ……てって下さい」

「お前は私を裏切った」

 冷たく言い放って、ジルを振り払う。一人裏門に去って、扉を閉めようとしたジルベールの手が止まる。

「ジル! 行かないでください! 戻ってください! 居場所なら私が作ります!」

 叫んでも、ジルは私を振り返らなかった。 ふらつきながらも、裏門に向かう。
 ジルがジルベールに手を伸ばす。

「違う……頭に血が上って、誓約の存在を忘れていた。もう、いられる場所がないんです……母を捨てたように私も捨てますか?」

 言い終えるのと同時に、ジルベールがジルの手をとった。その体を担ぐように支えて、裏門に滑り込む。

 アレックス王子を抱きしめて、大切な人の名を何度も叫ぶ。

 冬の冷たい風が拒む様に強く吹いて、体を冷たく刺して私を苛む。叫びを断ち切った裏門は、固く閉じられた。


 夢を見た。酷くて、悲しくて、寂しい夢だった。

 夢の中では、ドニとジルが笑い合ってた。ドニが歌うと、ジルが隣で歌う。とても綺麗な二つの歌声に耳を澄ます。二人が、私に気づいて礼を取って名乗る。
 ジルは伯爵子息で、第一騎士団に所属するジル・ラヴェルと名乗った。騎士団の服も貴族の礼も、とても似合っていた。

 乾いた涙でざらつく瞼から、新しい涙が流れ落ちる。瞳を開けると目の前には見知らぬ天井が見えた。美しい調度品と家具を見て、ここが離宮だと理解する。

 何故ここにいるのか。
 昨日の記憶はとても曖昧で、途中から霧の中にいるようだった。

 目の前で裏門の扉が閉じると、辿り着いたバルト伯爵と近衛がアレックス王子を運んで行った。手と服に残った血を見下ろした事は、はっきりと覚えている。
 叫んだ私をカミュ様が抱きしめて、副室長さんが頭を撫でてくれた。何度もアレックス王子の名とジルの名を繰り返して、口に血の味がしてから記憶がない。

 物音に顔を向けると、カミュ様が椅子から立ち上がる所だった。私を見て黒い髪を揺らして優しく笑う。

「目が覚めた様ですね。声は出ますか?」

 小さく声を出すと、ちゃんと出た。でも、喉には少し焼け付く様な感覚があった。擦るとカミュ様の従者が、水の入ったカップを差し出してくれる。

 どうして、ジルじゃないのだろう。
 頬を涙が滑り落ちる。

「声は……出ます。昨夜は取り乱して、すみません。アレックス王子は……?」

「アレックスは、大丈夫です。酷い状況でしたが、治癒魔法を繰り返して何とか安定しました」

 小さく安堵の息を吐くと同時に、ケットの上に涙が幾つも落ちた。手の甲で必死に拭っても、瞳が壊れたかのように零れ落ちる。

「すみません。大丈夫、です。……ちゃんと分って、ます。泣いてる暇もない事も、何が起きたかも。ちゃんと……分ってるんです」

 言いながら自分で自分を抱きしめる。どうにもならない時に、私を包んだ腕はもうない。
 
 ジルが幸せになる為に、私を傷つけて欲しいと思った事があった。
 私だけじゃなくて、もっとたくさんの大切なものを望んで、たくさん幸せになってもらいたかったからだ。
 でも、私を傷つけたジルが選んだのは、ジルベールの場所だった。

 カミュ様が優しく、宥めるように背を撫でる。とても悲しかった。カミュ様がどんなに優しくても、ジルの手とは違う。今はジルの場所に、ジルがいない事が全て悲しく感じられる。

「分ってる……のに、涙、止まらないんです。すみま……せん」

 九歳の頃から泣くのは大体ジルの腕の中だった。全部を知っていて、いつも側に居た。ボロボロに泣くことも、弱音を吐く事もあの場所でだけは許される気がしていた。
 だから、自分で自分を抱きしめる事が、こんなに心細いなんてずっと忘れてた。

 カミュ様が私の頭に、薄手のブランケットを被せる。

「ノエル……私では貴方の悲しさを埋める事は出来ません」

 中の私を寂し気に覗くと、手を引いてベッドから立ち上がらせる。そのまま廊下に出て、奥へと手を引いた。
 物々しい護衛が立つ一室に、誰の元に向かおうとしているのか気づく。

「今は無理なのでは……」

「私が許可します。昼の治療は終わってますし、寝顔だけでも貴方には慰めになる筈です」

 そう言って、カミュ様には珍しい強引さで私の手を引き続ける。

「ドアを開けなさい。アレックスを救った私の友が見舞います。呼ぶまで決して開けない様に」

 命令に一礼して、護衛がドアを開ける。

 天蓋ベッドのカーテンの先に、人影が見えると息が止まった。
 戸惑っていた筈なのに、愛しいという想いが溢れて穴の空いた心に落ちる。ジルを想って泣きやめない程苦しかったのに、ここに立てばアレックス王子が居る事を心から嬉しいと思う。
 そんな自分を酷いと思うし、許せないと思うし、嫌いだと思う。

 私の手を放してカミュ様がそっと背を押す。

「本当は二人にして差し上げたいのですが、私が退室するわけには参りません。ここで待っていますから、心が落ち着くまで側にいらっしゃって下さい」

 優しい声に送られてベッドに近づくと、薬の香りが強くなる。手をかけてカーテンをそっと開く。

 アレックス王子の眠る顔が見えた途端に、零れ続ける涙に悲しみではない涙が混ざった。体から力が抜けてベッドの側に膝を着く。

「嬉しい……、でも、ごめんなさい。悲しいのに……そう思っていても、今、嬉しい……すごく嬉しい」

 顔を覆うと、両目から零れる涙が手を濡らす。片方の涙はジルの事を想う悲しい涙で、ジルの手と同じく冷たい気がした。でも、片方はアレックス王子の無事な姿が嬉しくて暖かい。

 枯れない事が不思議なぐらい、涙が手を濡らして肘の先まで濡らす。でも、不思議な事に嗚咽は漏れなかった。かけ離れた二つの感情が引きあって、私に言葉を堪えさせる。

「……っ」

 小さな呻き声に顔を上げる。
 ベッドから少しだけ身を起こしたアレックス王子が、顔を歪めて手を伸ばす。
 温かい手が頬に触れて、一度だけ押す。

「すまない。涙を拭いたかったんだが、今はこれが限界だ」

 私を見て申し訳なさそうに微笑むと、すぐベッドに身を沈める。
 顔を覗く様に近づいて、頭を振って微笑み返す。紺碧の瞳が不安げに揺れた。

「アレックス殿下……?」
 
 首を傾げた私の目を、アレックス王子がじっと覗き込む。私の中に何かの答えを探す眼差しだった。

「ノエルは私の前では、苦しくても笑おうとする。いつでも強くあろうとするんだ。二度泣いている君を見つけたけれど、いつも彼が側に居た。私に代わりはできないか?」

 ベッドの端に乗せた手に、アレックス王子が指先を重ねる。まだ力の入らない固い指先が、私の指先を絡めとる。

「辛いと縋っていい。弱音を吐いていい。苦しいと言っていい。君の全てを受け止めたい」

 言葉が心の片方を満たして、悲しい方の枷が外れる。
 絡めた指に力を籠めて願う。どうか私を離さないで欲しい。

「ジル……。私の所為なんです。苦しいんです。ジルが、いない。それが、とても……苦しい。大好きで、ずっと一緒に、いたかっ……た」

 返すように力が籠った指先に頬を寄せる。愛しい人の指先を零れた私の涙が濡らす。

「ジルは私だけを、守って、くれた。でも、私はジルに……応えられなかった。幸せに、なって……と言いながら……家族の、愛……だって、縛って、しまった」

「……家族の愛か」

 浅い息が私の言葉を反芻する。縋った指先の上で小さく頷く。

 今もあの感情の名を、私は他に例える事は出来ない。でも、ジルが抱く想いが別だと気づいた時点で、私は自分の感情との違いに向き合うべきだった。
 きちんと互いの思いを伝えたら、何かが変わっていたと今なら思う。
 
「ずっと、アレックス殿下と私の事も……ジルが、背を押してくれた。ジルは、私を待ってくれて……送り出して、待って、送って。ずっと、そうして……こんなに、大切にしてくれたのに。私は、選べなかった……」

 指が離れて、アレックス王子が私の顎を撫でる。顔を上げると、少し複雑な表情を浮かべる。

「ノエル、もう少し前においで」

 戸惑う私の指先を軽く叩いてから、指先でアレックス王子が招く。

「命令。おいで」

 少しだけ身を乗り出した私の頭を、その胸に抱き寄せる。傷にふれた為か、アレックス王子の体が小さく跳ねる。でも、腕は私を優しく包んで離さなかった。

 今日のアレックス王子は膏薬の匂いがした。でも、胸の温かさはいつもと変わらない。
 目を閉じて包まれると、心の中の空っぽが何かで埋まっていく。

 ジルの前にいる私、アレックス王子の前にいる私。
 ジルの腕の中と、アレックス王子の腕の中。

 二人の私は少しずつ違う顔を見せる。
 弱い私と強い私、子供の私と大人の私。

 初めて私は、二つの愛に向き合う。
 二つの違う愛をそれぞれ大切に思うけれど、望まれる様に返せるのは一人だけ。

 ごめんなさい。
 私が貴方に出来る事は何だろうか。貴方は私に何を望むだろうか。

 アレックス王子の胸に頬を寄せたまま、心の中でそう呟く。

 体をゆっくり離すと、涙の止まった私の瞳に紺碧の瞳が揺れた。

「涙は止まったようだな。代わりは出来ただろうか?」

 瞳の色を僅かの間に何度も変えながら、アレックス王子が問いかける。
 
 その瞳が最後に望まれた言葉を思い出させて、私にしか出来ない事に気づく。

「アレックス殿下はアレックス殿下で、ジルはジルなんです。代わりはいません」

 悲しませると思った。見透かしたように、アレックス王子の眼差しが一瞬だけ曇る。
 再び私を引き寄せると、暖かい唇が額にそっと触れた。
 
「私は……君の望む答えに、出来る事をしようと思う。明後日までは、ここにいる。泣きたくなったら、何時でも来るといい」

 優しく囁くと、痛みを堪える顔をアレックス王子が腕で覆う。

 明後日はルナの術が発動して四日目にあたる。術が解除される五日目に備えて、前日にはアレックス王子もワンデリアに移動する予定なのだろう。
 魔物の王と対峙する為に秘宝が必要だから、その時までには取り戻そうと国は動く。

「アレックス殿下、私は秘宝と王城の奪還に志願します」

 返事はなかった。顔を覆った腕が落ちて、伏せた長いまつ毛が覗く。
 金の髪にそっと手を伸ばす。

「望み通りじゃなくて、ごめんなさい。でも……決めたんです」

 小さな声で謝ってから、ゆっくり立ち上がる。
 カーテンの向うに出ると、椅子に座って書類を読んでいたカミュ様が穏やかに微笑んだ。

「落ち着きましたか? 先程の部屋に、昼を用意させてあります。お昼も過ぎておりますから、お腹が空いているでしょう」

「はい。頂きます。やらなきゃいけない事がたくさんあって、ご相談もたくさんあります!」

 ジルを迎えに行って、秘宝を奪還する。アレックス王子の未来を守る。
 私の手からは、きっとまだ何一つ零れていない。
 ノエルとして抗い続けるなら、最後まで一つも零さない努力をする。




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