2018年12月17日月曜日

三章 四十七話 変化と解術 キャロル15歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 静かな室内を見回す。佇むのはカミュ様一人で、あの日と同じ前世の着物に少し似た前合わせの服だ。

「私が一番乗りですか?」

 小首を傾げてから、問うことなく私の好きな甘い果実水を差し出してくれる。

「お招きしてるのは、あとはユーグです」

 招かれていない名前に胸が騒ぐ。アレックス王子がいて、クロードがいて、ユーグがいて、最近ならドニも招かれる事があった。私にとって大切な場所にいる人たちの名前が欠ける。

「覚えておりますか? 以前もアレックスが発端でした。思い続けるのは眩しいです。叶うべきじゃなくても、叶う姿が見たかった」

 言葉は優しいのにカミュ様の顔は厳しい。そして過去形で語られる愛しい人の恋。握った拳から大切なものが零れ落ちて行く音がした。
 ユーグを待つまでお読みください、と言って私の前に紙の束が積まれる。

「納得がいかなくて、調べさせました。帰郷の季節に起きた事が書かれています。貴方の意見を聞かせて頂きたい」

 甘い、甘い果実水を口に含みながら、書類を開く。綴られたシナリオ外の出来事に指先が震えた。
 
 クロードがルナと親しくなって、頭を撫でて柔らかい草の上で二人で笑いあう。
 アレックス王子がルナと惹かれ合って、その頬を図書室で優しく撫でる。
 ドニがルナと仲睦まじく過ごして、星空の下で彼女の為に歌を歌う。
 
 クロードがアレックス王子がドニが……去年起きなければ二度と発生しないはずの時期外れのイベントが連続して毎日のように誰かと発生していた。

「二人から返事がまいりません。何もかも忘れたようにルナの側におります」

 感情のない声でカミュ様が呟く。友として私は何も知らなかった。
 閉じた瞼の裏で、眩しい笑顔が絶対的な存在に気づいて恋に堕ちていく。     
 彼らがどんな風に甘く囁いて触れるのか、ゲームで私は知っている。熱のない画面の笑顔によく知る熱を重ねると「やめて」と叫びたくなった。

「ノエルはこの件を、どうとらえますか?」
 
 帰郷の季節前のルナは、シナリオなら複数同時の恋愛ルートに入るには絶望的だった。どんなに考えても最終日の出来事が勘違いだと思うほどに接点だってなかった。
 そうやって、楽観して注意を怠ったのか。  
 違うと打ち消す。
 私達の絆はもしも何かあれば、気づけるし、話して貰えると信じてた。だから、待ったのだ。
 勝手な期待が甘えになって、また私が大切なものを取りこぼす。
 
「臣として殿下の御心に添うまでです」

 出せたのは、感情を乗せず話す事ができる型通りの言葉。
 表情を消した私にカミュ様が薄く笑う。冷めた笑顔は私の言葉に納得していないと語る。

「本物の心でしたらね……。先を読み進めて下さい。後程、もう一度伺います」

 先を促されて、再び書類に目を落とす。私にとって最悪の現実が、この世界でシナリオはより自由である事を証明していく。あがらったのはルナなのか。
 
 細やかな報告に綴られる甘い時間。二人、三人、時には四人で集まって、ルナを取り囲む華やかな時間。ゲームの中で私が楽しんだ物語が報告書の中に再現される。
 恋に憧れた女の子の為の夢。いつか夢の中で、ヒロインと攻略対象の恋を誰よりも近くで見たいと願った事もあったのに、今は目を逸らしたいと思った。
 
 最近の日付で進行度がアレックス王子、クロードがドニと同じように恋愛ルートに入っている事を確信する。

 張り裂けそうな痛みと自分への憤りが溢れる。後悔と疑問が自分を責め続けた。
 
 大好きなゲームに似た世界で初めて知った大切な想い。ただ一人に触れるだけで胸がどきどきして、ただ一人が目に映るだけできらきらしていた。
 大好きな攻略対象に囲まれて、恋をしたのは一人。ゲームじゃない私の現実ではアレックス王子だけなのに。どうして、私は失ってしまったのだろう。

  思った胸の中に僅かな違和感が落ちた。報告書をもう一度読み直す。
 ゲームじゃない……。この世界は現実だ。アレックス王子、クロード、ドニ、大切な人たちはこんなだったか。シナリオを知っていたから、照らし合わせる事に夢中だったけど、これは変だ。 
 
 落ちた波紋が広がる心で次の束を取り上げる。ルナの身上調査だった。どこの部署が調べたのか、秘匿資料と判が押されていた。
 目があったカミュ様が艷やかに冷たく微笑む。この笑顔の時は本気で怒っている証拠で、普段からは想像がつかない苛烈な一面を見せる。

 ルナの生い立ちは教会で生まれた赤子が、そのまま引き取られるところから始まる。地区に住まう庶民の職人の父は少し前に病で、母はそのお産で世を去った。赤茶の巻き毛の少女は体が弱く、いくら診察をしても病は見つからない。常に体調が悪くて表に出ることすらできなかったから、この頃のルナを知る者は神官様や教会の関係者のしかいない。
 10歳になる頃、危険な状態に一度陥いる。晩が峠と思った翌朝の劇的な回復。
 どうして元気になったかと人に聞かれると、神様が私に入ったと笑うという。
 結局、ルナの病の名は不明だ。ただ、10歳までの症状だけなら光属性が溢れる教会で生活が可能だから精霊の子に近かった。ただ、回復したことで可能性が消える。その病は謎であり、回復は奇跡だ。
 そして、12歳で偶然発動した光の魔力が、地区で死者も出した悪い風邪で診療所を訪れていた人々を一斉に回復させた。ルナには神様が本当に入っていると下町は一時、大騒ぎになったという。
 サラザン家の下働きが回復した者の中にいた。そこから、サラザン男爵の耳にルナの存在が入る。この時点でサラザン男爵は男の子の養子を求めていて、ルナを訪問したのは奨励金目的で学園へ推挙する為だった。
 ところが、ルナと会ってサラザン男爵の考えは一転する。またたく間に養子縁組の話が整った。
 引き取られて以降はサラザン男爵の援助の元で様々な教育を受けて現在に至る。
 報告書はルナに関する行動や能力まで、細かな評価付けがされていた。綿密な調査と入手の難しい情報の数々、正確な分析は簡単に準備できる内容ではなかった。

「随分と調べましたね」

 赤茶の髪の赤子。突然の回復。サラザン男爵の翻意。引っかかる事は多い。報告書にもいくつか不明と祖語が指摘されていた。だけど、答えはどこにもない。

「行動記録は私の依頼ですが、ルナ個人の情報については王家の調査です。アレックスがすっかり惚けておりますので、未来のお妃候補の内情調査ですね。さて、お妃として迎え入れるには謎めいている女性ですね」

 口の端をあげたカミュ様には含みがある。多分、同じ結論を持っているからだろう。

「ノエル。貴方はどう思いますか?」

「本当に愛し合ってるなら、幸せを願います。でも、私には友が愛する姿とは思えない」

 言った私に、カミュ様が艶やかな笑みを浮かべる。満足を示す笑顔だ。

「ええ。どういう気持ちなのしょう? 恋を知らない私ですが、好いた方なら片時も離さず、誰にも触れさせたくありません」

 ゲームの中で、カミュ・ラ・ファイエットは穏やかだ。彼に抱える苦悩はない、常に優しい笑顔と前向きな言葉で主人公を支える。シナリオはただ一人だけ逆で攻略対象であるカミュが主人公を苦悩から救済する。愛の言葉も「ずっと一緒に未来まで幸せを願いましょう」と優しげだ。

「カミュ様は、実は情熱的ですね」

 綻ぶように笑うカミュ様はとてもきれいだけど、ゲームの中よりずっと男性的だ。

「欲しい者は諦めず、強く勝手に生きる事にしております。勧めたのは貴方でしょう?」

 絶対にもう揺るがない。
 私も揺るがない。
 共に過ごした時間が築いた絆は間違いじゃない。私たちは彼らをよく知っている。だから、この幸せは嘘だ。

「まっすぐな殿下は好きな女性を誰かと分け合えない。優しいクロードは、友の恋に迷いなく踏み込まない」
 
 紺碧の瞳で私に愛の行方を語る人は残酷な程一人を求める。水色の瞳が優しい友は誰かの為に自分が我慢する事を選ぶ。
 彼らの本当の姿がないルナを囲む世界は偽物だと思った。

 部屋がノックされて、ユーグが到着したと告げられる。カミュ様が答えるより早く、白衣を羽織ったままのユーグが飛び込んできた。

「ちゃ、ん……と、一刻以内に、ついたよね?」

 肩で息を息をしながら、ソファーに倒れ込んでユーグが手を差し出す。ひらひらと振られる手は、ご褒美を求める。

「ユーグ、面白い話を先に致しましょう。ご褒美はその後に」

 その手の片方に報告書の束を乗せるゲームの中の穏やかな策士は、現実では情熱的で苛烈な策士だ。不満そうな顔をしてユーグがゆっくり私に目を移す。

「ノエル、久しぶり」

 ソファーに横になったまま、金色の瞳を細める。帰る場所で笑うのは友であるノエルとして。

「随分と久しぶりですね、ユーグ」

 答えに薄い唇を満足そうに舌で舐める。伸びたもう片方の空の手に冷たい果実水を乗せる。

「ノエル。ありがとう。ただいま」

「おかえり、ユーグ」

 体を起こして冷たい果実粋を飲み干すと、すぐに報告書に目を落とす。
 ユーグには、ルナからのお誘いの他にクロード、アレックス王子からの誘いもあったそうだ。ただ、探求に夢中でワンデリアから一歩も出ずに全て無視していたらしい。カミュ様からもご褒美の一言がなければ来なかったと笑う。
 
 帰郷の季節の行動記録を読み進めるにしたがって、ユーグが顔を顰めていく。

「気持ち悪い……これ誰の話? 別人? どうにかしようって話でいい?」

 素直過ぎる言葉に思わず私とカミュ様が顔を見合わせる。余計な事を削ぎ落とすユーグの答えは明確で早い。

「はい。心に作用する魔法の可能性はどうですか?」

 帰郷の季節に入る前に、クロードの指をルナが口に含んで、その肩を抱いた話を伝える。その前に一緒だった時はクロードに変わりはなかった。
  
「限定された時間内での変化。魔法の使用は妥当な気が致しますね」

 カミュ様が同意する。ユーグの本を返却していた僅かの間で、一変する方法なんて他に思いつかない。それに、ドニの言葉や様子も気になった。

「隣で見ていたドニの様子もおかしかったんです。何か抜け落ちたようになったり、ルナが好きなのに恋を歌いたくないって言いました」

 ユーグは報告書を読み進めながら平然と会話していく。

「一変したなら妥当な線だとは思う。でも、人の心を制するってすごく魔力が必要なんだよね。上位魔力保持者で一人を制御できるのが限界だよ」

 並行して物事をこなす様子ににカミュ様が、困った方だが優秀ですねと感嘆の呟きを漏らす。その呟きににやりと笑ってユーグが答える。

「試したことあるから。ごっそり魔力が持っていかれたよ。二日持たすのが限界だったから、すぐに兄さんに解術してもらったんだよね」

「ユーグがどうして術式をご存知なんでしょうね?」

 カミュ様が顔を引きつらせる。人の心を制する魔法は禁忌で、王立図書館で厳重に管理されて公になっていない。入手には王族の立会と図書館管理者と上位役職者の立会が必要だ。
 
「全部の術式かはわからないけど過去に使われたものならほぼ揃ってる。僕たちの努力の賜物だよ。流石に当主が隠し通路で厳重に管理してるから、安心していいよ!」

「まったく、油断も隙もありませんね。今回は聞かなかったと不問にします」

 諦めたようにカミュ様がため息をつく。困った人たちだけど蓄えられた知識は膨大だ。
 ユーグが紙を取り出すと、そこに術式を書いていく。

「左が僕の知る三つの術式で右が解術式。でも、三人の心を御し続けるには、明らかに魔力が足りない。何かからくりがあるのか、神か化け物だね」

 紙には、通常の術式が二つに古式の術式が一つ書き込まれていた。覗き込んだカミュ様が首を傾げる。
 
「古式術式ですか?」

 ユーグが私を見る。以前は迷いを帯びていた目に今は迷いがない。頷いて私が告げる。

「ルナは古式の術式を使えます。崩落戦で書かれた上位大規模魔法がそうです」

「あり得ません! ルナが使えるなんて、なぜです?!」

 カミュ様が顔色を変えた。古式であれば、あの魔法が王族のみに伝わるものと理解したのだろう。
 
「やっぱり古式で書かれたなら、あれは王族の使える最上位の魔法だよね?」

 ユーグの問いかけにカミュ様が頷く。

「なぜ指摘できるかは聞かないでおきますね。最上位の王族の魔法は古式でのみで伝わります。そして、術式に使用者の名前が必要です。使用者の部分の術式を書きだしてください」

 解読できなかった文字をユーグが書いていく。僅かにカミュ様が目を見開いた。心当たりがあるみたいだ。

「一つだけ解読できます。この文字は二百年前の聖女シーナを示す古式文字です。もう一つは存じ上げません」

「シーナ様の名前の入った術者名をつかって、生き写しのカミュ様を避ける……。ルナはシーナと関わりがあるのでは?」

 ルナはシーナに生き写しと言われたカミュ様に対してだけ反応がずっと違った。避けるのに、時折嬉しそうに笑う。

「報告書にミスや調査漏れは?」

 ユーグの問いかけに、カミュ様が首をふる。決して初歩的なミスをするような者が調べたものではないと断言する。

「それに、シーナの存在は王家の中でも特別です。……公には異国の文化を持つ預言者ですが、彼女はこの世界の者ではありません。王家の伝承では彼女は歪から現れた異界の女性です」

 ユーグのレポートで示された言葉の数々、私だけは彼女がどこから来たかを正確に理解する。多分、私の前世と同じ日本人。

「シーナは歪の側で小さなリュウドラと共に倒れているのを、アルノルフ王が見つけて連れ帰ったと伝わっております。異界の預言者である彼女と同じ血脈は彼女以前に存在しません。だからこそ、アルノルフとシーナの血を残す家系は直系以外も全て王家の中で重要視され管理されております。落胤などもあり得ない」

 二百年の過去は遠い。何かの関連は確実に感じるのに答えには届かない。歯がゆい思いの中で、涙を零したルナの強い瞳を思い出す。

 ルナは何者で、何を抱えているのか?

「とりあえず、後ろの文字の解読はシュレッサーですすめるよ。ただ、資料があまりに少ない。カミュ様は、他の文字も見て」

 ユーグが送ったばかりの術式の文字や私の見た事もない文字を次々とを紙に書いていく。王族にはシュレッサーも知らない古式文字の知識があるようで、カミュ様がいくつかの答えを示していく。
 ユーグの目が強く光り始めて、何かを導くために思考の海に沈んで頭を抱える。

「……今ので全然違う事の答えが先に出そうなんだけど、どうしようか? 殿下たち優先?」

「「当然です!!」」

 少し名残惜しそうにユーグが古式文字で術式のようなものを書き留めた。
 今はアレックス王子とクロードに起きた事を解くのが先だ。ルナが警戒して事態が悪化するのを避けるためにに問い詰めることは当面しない。心を制する魔法の解除を試しながら、他の可能性も探す事を三人で約束する。

「カミュ様、ご褒美」

 改めてユーグがカミュ様に手を差し出す。呼び出しても渋るので一刻以内に来たらご褒美と切り札を切ってたらしい。ひらひらと差し出された手を面倒そうに一瞥するとにこりと笑う。

「今日は面白い話がたくさん聞けましたでしょう? よい収穫もたくさんで、よろしいですね」

 つれない返事にユーグは不満そうだ。穏やかな笑みのままでカミュ様が適切な対応をとる。

「全部終わったら、一つ欲しいものを差し上げます。私が母上様から怒られないものにして下さいね」

 満足そうに唇をなめてから、ユーグが考え込む。エトワールの水でもグラス一杯なら、カミュ様は何とかしてくれそうだ。

「一番欲しいものはもうダメだから、二番目かぁ。人はあり? シュレッサーで貰いたいんだけど」

「人はダメです! その人の人生はその人のものです!」

 ちらりと私をユーグが見たので全力で否定する。シュレッサーでユーグと探求は楽しそうだけど困る。カミュ様も首を振るので、ユーグがつまらなそうにテーブルに頭を乗せる。

「人の生き方を曲げるのはやめましょう。私たちだって嫌な思い知ったでしょう?」

「……じゃあ、ラザールの領地に皆で行こう。面白い遺跡の跡があるらしいよ。僕とノエルとカミュ様とクロードと殿下でね」

 テーブルに顔をつけたままユーグが笑って、カミュ様と私が頷く。
 夢のエンディングだった同時攻略なんて、大切な彼らにとって幸せな結末じゃない。
 必ずここに取り戻して、最高のご褒美を叶えよう。誓って、私たちは帰郷の季節を終えた。
 


 帰郷の季節が終わって、アレックス王子とクロードの変化は顕著だった。ドニも含めて常にルナを囲むように過ごす。私とカミュ様は明らかに避けられていた。解術の為に二人を追う日々が続く。

「クロード! 話があります」

 呼び止めたクロードが顔を顰める。派閥の微妙な時期に二人の態度は配慮がない。素早く周囲を見渡して、魔法が発動可能な研究室敷地で、人もいない事を確認する。限られた絶好の機会は少ない。

「殿下の命令だ。お前と話せることはない」

「命令とは何ですか?友として語らうことも出来ないのですか?」

 僅かに眉間に皺を寄せた瞳から表情が消えた。強く問えば、あの日のドニと同じように何も映さない瞳になる。僅かな間を利用して、急いで解術の術式を書く。魔力を乗せようとした瞬間に、怒りを浮かべたクロードに腕を掴まれる。

「何の術式だ?」

「元気がなさそうなので、回復の術式です。ユーグの新術式ですからよく効きますよ」

 言いながら魔力を乗せると大量に消費するのが分かった。心を制する魔法の解術には、対象者の魔力以上の魔力が必要だ。トップクラスの魔力のクロードに使えば急速な魔力の消耗が起きる。軽い眩暈と共に膝が抜けそうになるのを堪える。

「何の変化もないぞ」

 睨む眼差しに警戒する色が浮かんだ。揺れる視界の中で平然を装って肩をすくめて笑って見せる。

「回復魔法は失敗作だったようです。ユーグに文句を言わないとダメですね。疲れた顔をしてますよ。体調には気を付けてください」

 私の言葉を最後まで聞かずに立ち去るクロードの背を見送る。その姿は私の知るクロードじゃなかった。これで、二つ目の解術も効果がないと結果がでる。
 背が見えなくなると同時に膝から落ちた私を支えるように腰を抱えたのはジルだ。

「大丈夫ですか?」

 長い指が私の口に白い回復薬を運ぶ。慌てて噛み砕くと体の芯が急速に熱くなって、眩暈が落ち着いてくる。口に運ばれる回復薬が五つを超えた頃には、膝に力が戻ってジルの腕から身を起こす。

「はい。もう大丈夫です。やっぱり、心を制する魔法は厳しいです。魔力が取られ過ぎます。三人なんて回復薬を食べ続けたとしても、できるのは神様か化け物って本当ですね」

 ユーグは効力の限定化で魔力を軽減ができるとは言っていたけど、多少の軽減では追いつかないだろう。それに、一ヶ月かけて二つ目が試せた解術はいずれも効果はない。残すのは古式の術式が一つ。
 他の新しい道はまだ模索中だ。赤い魔物の調査の陣頭を取りながら、ユーグが調べ続けてくれているけど古式の解読は簡単じゃない。 

 同じようにアレックス王子を追ったカミュ様と合流して状況を話し合う。

「まいりましたね。あとは、古式のみとなりました……」

 小さくため息をついたのはカミュ様だ。カミュ様も学園だけじゃなく、城に足を運んでアレックス王子に解術を試していた。
 アレックス王子からクロード以上に強硬に拒絶されているらしく疲労の色が強い。

「カミュ様は少しお休みしてください。近い休みにヴァセラン邸に直接行ってクロードに試みます」

 屋敷に行く約束はこれまで無視され続けていたから、もう約束せず直接向かうつもりだ。
 私とカミュ様、クロードとアレックス王子とドニ。二つに別れた様子に中立派も期待を寄せる者も不審を囁き始めている。

「ドニが反旗派でないと噂があるのは幸いですね」

 父上の言葉通り、シルベール・ラヴェルの廃嫡撤回が通った。新当主に成り代わとろうとするジルベールと現当主のドニの父であるマテオ・ラヴェルと確執は社交界の密かな噂だ。
 政治に疎いと言われたマテオ伯爵は自家を舞台にした物語を見事に演出している。隠す事で好奇心を煽りながら、ジルベールとの確執と自身が新政策への支持派であることをしっかりと仄めかす。芸術家のラヴェルは見事に貴族の興味を引く道化師を演じていた。
 このお陰で、ドニが支持派という認識が生まれて、アレックス王子が反旗派だとは目されずに済んでいる。

「はい。でも、不満が蓄積されてるのは変わりないです。殿下に進言して止まってる選定の課題など何かの対応が取りたいです」

 誤解は抑えられていたが、期待派や中立派の学園内の情勢が悪化する気配は消えていない。日を追うごとに切迫している。

「私が許可致しましょう。アレックスの名で動き始めて下さい」

 言葉に頷く。何度も進言し続けたから準備はある程度出来ている。
 でも、アレックス王子の隣に立つために考えた小さな一歩は彼の言葉で許可が欲しかった。
 悔しい気持ちを抱えたまま、別の渡り廊下にアレックス王子の姿を見つける。最後に一度、自分の口で進言したくて反射的に走り出す。近づけば、ルナがアレックス王子の腕に手を絡めるのが見えた。
 わかってる。今は心を痛めるより問う事だ。立ちふさがるように前に飛び出す。

「アレックス殿下! 伺いたい事があります!」

「下がれ。今は話すことはない。用があるならこちらから呼ぶ」

 駆けつけた私を即座に拒否する。アレックス王子は笑っていても冷たくて、何かを隠すように固い表情だった。腕にもたれたルナが微笑む。
 
「下がりません。どうしてもお話をしたいのです。進言についてお返事を! まとまりかけた人脈が崩壊します」

「……考えて連絡する」

 溜め息が混じる返答に連絡が来ないことを確信して、通り過ぎ様の腕を無理矢理つかむ。

「下がれ、ノエル」

 冷ややかな言葉と視線が私をはっきりと疎んじて見下ろした。これは私の知る彼じゃない、分かっていても心は傷つく。でも、今日は引かない。問いたい言葉だけは最後まで言い切る。

「ダメです! 下がりません。これは、殿下が知るべきことです! 知らぬことを怖いとおっしゃったでしょう? どうか、今一度お向き合い下さい」

 振り払おうとした手が止まった。開かれた目が僅かに揺れる。 

「ノ、エル……?」

 私に手が伸びた一瞬、確かに私の知る好きな人が戻ったと思った。こみ上げる嬉しさを遮る様にルナの厳しい声が上がる。

「アレックス様。まいりましょう」

 同時にアレックス王子の瞳から感情が消えた。ルナが私を睨んで、邪魔しないでと小さな声で囁く。

「不敬だ、ノエル。私は忙しい」

 再び、疎む声が落ちて、私の知らないアレックス王子に戻った事を知る。掴んだ腕を離す。
 知らないことは怖いから、知ることを誰よりも努力したアレックス王子はルナの前ではいない。

 腕を組む二人の背を見送った私の肩にカミュ様が手をかける。労う様に肩を叩いて優しい声で私を励ます。
 
「一度、アレックスは揺れました。だから必ず取り戻しましょう」

 頷いた私の肩は確かに震えていた。きっとカミュ様が叩いてくれなかったら、泣いていたかもしれない。





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