2018年12月19日水曜日

四章 五十二話 中心と一歩 キャロル16歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 見上げた「サクラ」は満開に咲き乱れ、前世とは違う丸い花弁を舞散らす。
 花が終われば新緑の季節が来て、葉の色が変わって散ってゆく。
 枝が変わっても、一つ一つの花は違っても、同じ樹が同じ季節を同じ様に巡り続ける。

「ノエルー、いくよー!」

「いそぎましょう。間に合わなくなります」

 サクラの下で立ち止まった私をカミュ様とドニが呼ぶ。十六歳になり専科が始まって、共通学科とは違う慌ただしい日々が始まった。

 二人に追いついて少し速足で歩く。通り過ぎる演習場にいる騎士専科の生徒の中に、一際目立つ人たちを見つけて手を振る。
 相変わらずそっぽを向くディエリと手を上げて微笑むクロード、そして手を振ってまっすぐ私を見て笑ってくれるアレックス王子。

 変わらない光景なのに幸せで胸がいっぱいになって、想いが笑顔に溢れて大好きな人に返っていく。

 演習場を過ぎて再びサクラの道を急ぐと、カミュ様が思い出したように口を開いた。

「控室の改装を一日早く終了させました。今日から使えますよ」

 少し前から王族控室は改修工事に入っていた。書類と調べ物で埋まる部屋は王族の控室としては些か体裁が悪い状態で、見るに見かねた学園長から国王へ陳情があったそうだ。

「突然始まったので、一日でも早いのは助かります」

 陳情から工事決断まで驚くほど早く、そして強引だった。突然、工事が始まり私たちは一時的に空き教室に追い出された。

 父上は国王こう評する。まっすぐ過ぎて止まる事を知らないが、決断力も早いし嫌いじゃない。
 アレックス王子にも、当て嵌まるから、きっとよく似てるのだと思う。
 だけど、今回は急過ぎてかなり有難迷惑であった。

「ええ。叔父上の所為で色々滞ってしまいました。今日は皆でお話をしましょう」

「ユーグにも連絡しなきゃねー。後で研究専科に僕が行ってあげるー」

 ユーグはカミュ様から研究専科の開設を勝ち取った。初年度と言う事で人数は少ないが、ユーグ以外の生徒からの届け出も無事にあったし、上級学年からも専科移動の届け出が複数出たそうだ。

 突然の研究学科の開設と王族控室の改修。
 記憶にない物事は、数日かけてベッドの中で傷に触れて記憶を呼び起こした。
 王族控室の改修の情報はなかったけれど、研究学科開設は見つける事ができた。

 ファンブックの端に書かれた明るい文体の小さなメモが私に落としたのは疑念。

 ――卒業後に研究学科が出来てユーグが悔しがるよ!

 この国のシナリオは私が知らないうちに変わってしまった。ルナは確かにそう言った。

 エンディング前に起こる筈の、ディエリの当主交代が起きた。
 舞踏会でエンディングの音楽が流れ、攻略対象全員がその場に揃った。
 ヒロインではないけれど、私という一人の人物の指先にキスが落ちた。
 攻略対象であるアレックス王子が結ばれた。
 エンディングと重なる物事の後に、本来なら卒業後に出来る研究学科が出来た。

 偶然か、未来が動いたのか。

「きれーい!」

 ドニが歓声を上げて立ち止まる。強い風に吹かれてサクラが花弁を一斉に舞散らす。
 薄紅に染まる世界の美しさにカミュ様が手を差し出すと、淡いピンクの花弁が幾つも白い手に乗った。

「もうサクラの季節も終わってしまうのですね」

 新しい風が吹いてカミュ様の手の花弁を攫う。舞っているたくさんの花弁があっという間に飲み込んでしまう。

「零れてしまいました……」

 カミュ様が残念そうに言ってから、私たちはまた早足で歩きだす。
 サクラの道を振り替える。
 手に乗せたものを零さないことは難しい。だから、零れてしまうとこんなにも後ろ髪を引かれてしまう。
 

 レポートの最後の一文を書き終えると、荷物を纏めて席を立つ。隣のドニとカミュ様に先に出ると合図して、講師の元にレポートを持って急ぐ。

「随分、早いですね。見せて頂きましょう」

 一番乗りで仕上げた私のレポートを受け取って、領地経営学の講師が訝しげな眼を向ける。
 領地経営ならワンデリアを見てきた私にはお手の物だ。経験は力になって、武器になる。

 読み進めながら講師が小さなため息を落とす。僅かに眼尻を下げた溜め息は、落胆ではなく感嘆。

「結構です。流石、アングラード侯爵家のご子息です。実践的な内容ですが、経営をされた経験があるのですか?」

「一時ですが、後学の為に父に任せて頂いた事があります」

「良い経験でしたね。今後にも期待します。退出して頂いて結構ですよ」

 一礼して廊下に出ると走り出す。まだ、どこも授業中だから見咎められる心配はない。

「「わぁ!」」

 曲がり角で、出会い頭にぶつかりかけて声を上げる。見上げた相手はクロードだ。

「慌ただしい足音はノエルだったのか」

「新しい部屋が気になって走ってしまいました!」

「いい部屋だ。俺はユーグを迎えに行く。あいつは呼びに行かないと研究棟から出ない……」

 苦笑いを浮かべて歩き去るクロードと反対の方向にまた走り出す。後ろから「怪我するぞ」と笑う友の声には、「大丈夫」と手を上げて答える。

 今、私が時間を惜しむのは、ほんの少しだけ下心があるからだ。

 扉まで一新された王族控室には、アレックス王子の護衛騎士が一人だけだった。

「今日はお一人ですか?」

「今だけです。殿下に頼まれて空き教室の備品を戻しに行ってます。すぐに戻るからご安心下さい」

 護衛騎士が笑って、入室を宣言する。いつにない事態を期待して少しだけ心を躍らせる。

 中には、アレックス王子と王子の従者とギデオンがいつも通りにいた。変わらずの落ち着いた風景。
 小さな期待が弾けたその風景に、つい落胆してしまう。

 今日は荷物の移動で従者やギデオンも忙しい事態を期待していた。流石に王族の周囲は甘くない。

 あの舞踏会でアレックス王子と想いを通じ合ったけど、その後二人で会える機会は全く! 少しも! 何も! なかった。
 私たちの周囲には必ず誰かがいる。アレックス王子には従者と護衛騎士三人。私にはジル。
 それに友も大体誰かが一緒だ。それも楽しい。すごく楽しい。でも……少しだけ思う事もある。

 貴方の熱を忘れてしまいますよ?

 そんな気持ちは小さなため息になって零れる。

「良いところに来た。ノエル、この書類の説明が聞きたかった」

 私の気持ちを知らずにアレックス王子が、ソファーで書類を読みながらいつも通り声を掛ける。
 変わらない様子に思わず口を尖らせてから、慌てて臣下の笑顔を浮かべ直す。

 改めて見渡す控室は、僅かに狭くなっただけで大きな変化はなかった。部屋の縮小に合わせて、少し家具が減ってカーテンの色が変わっただけだ。

「あまり変わり映えしてないです」

 アレックス王子が組んだ長い足を解いて立ち上がると、私の腕を引く。見下ろす目が少しだけ悪戯を見せる子供の色に変わる。

「ここは来賓用の部屋だ。ギデオン、ドアの前に立て。ジルは私の従者と新しいお茶と茶器の確認をするといい。お茶の用意はあと一人来るのを待ってから始めろ」

 ジルとアレックス王子の従者が礼を取ると、もう一つのドアから茶器などの用意がある場所に移動する。
 私の腕を引いて、新設されたドアをアレックス王子が開けると新しい部屋が広がっていた。

 国政管理室の室内を思い出させるような機能を重視した机が六つ並んで、一番奥には一回り大きな机がある。壁面には空の本棚がたくさん並んで、黒板まであった。

「すごいです! 執務室ができてます!」

「父上が学生時代に欲しかった理想の控室らしい。防音結界もあるから秘密も守れるし、書類を置いたままでも怒られない。君も気に入ったかい?」

「はい! 作業がはかどりそうです」

 アレックス王子に一番近い二つの机。一つにはカミュ様の調べ物が乗っていて、向かいの一つには私の作業途中の書類が乗せられていた。

「アレックス殿下! ここ、私でいいんですか?」

 思わず机を叩いて確認してしまう。小さな事だけど当たり前のように自分の居場所が、彼の側に用意してもらえることが嬉しい。

「ああ、君は私の隣に立つんだろう?」

 嬉しくて飛び跳ねそうな私を、横でアレックス王子が楽しそうに見て笑う。

 肩に手が伸びて少しだけ引き寄せられると、そっと頬に柔らかい感触が触れた。
 不意打ちの唇に頬が一気に熱くなる。

「やっと触れられた。二人っきりになるのは難しいな」

 頬を抑えて囁きに向き直れば、見下ろす瞳が僅かに熱を帯び、指が口元を愛し気に撫でる。

「本当です……。私もちょっとだけ二人になりたかったんです」

 私の言葉に殿下が首を傾げてから、口元を撫でた指でくすぐる様に顎の下を撫でる。

「ちょっと?」

 少し唇を下げ、目の奥に楽しげな光を宿して細めるアレックス王子は少し狡い。
 私の事ならわかると言ったのに、期待を隠さない意地悪な顔で確認しないでほしい。
 どうにもならいくらい恥ずかしくなって俯けば、くすぐる指が簡単に私の顎をあげさせる。

「私はとてもだよ。触れられない事が前とは違う痛みになる程に、君が好きだよ」

 紺碧の瞳が愛し気に焦れるような熱を浮かべるのを知ったのはあの日。
 私しか映さない瞳の色が、自分と同じ想いである事に自然と笑みが零れる。

「私もです」

 言ってそれが触れてほしいという意味だと気づいて慌てて首を振る。吐息のような笑みと共にアレックス王子が嬉しそうに私の顎を捉えるから、首を振るのやめて目を閉じる。

「君は可愛すぎる……」
 
 小さな呟きと同時に、前髪が触れ合う微かな気配に胸を高鳴せる。

 貴方と二人だけの束の間の時。あれから、ずっと欲しかった時間……。

 忘れてしまいそうだった熱を待つ私たちに、ドアが小さくノックされる音が届いて慌てて互いに身を離す。

「ユーグ殿とクロード殿です」

 搔き集めるように書類の束を抱えた私の顔は、きちんといつも通りに戻っているだろうか。
 見上げた殿下の頬はまだ少し赤い。目があえば綺麗な顔が失敗を見つかった子供の顔になって笑う。
 だから、残念な気持ちを少しだけ抱えた私も子供のように吹き出す。

「どうした?」

 笑い合う私たちに怪訝な顔で問いかけたクロードに、アレックス王子が応える。

「ノエルと少しだけ悪戯を」

 その答えに呆れたような顔で肩を竦めるユーグの向こうに、カミュ様とドニが入室して不思議そうに顔を見合わせるのが見えた。

 私とアレックス王子の恋は近づいたけど、まだゆっくりだ。


 新しい部屋は国王の名付けで王族演習室となる。
 未来を担う者がより実戦的に学べる場になる事を期待すると言う国王直筆の書状と、何故か父上から花と「健全な学びを」と記されたカードが届いた。

 待ちきれないと言うように、ユーグが机の上にある書類の束を叩く。

「さっさと報告していい?」

 戻りたての書類の束を片付けながら苦笑いして全員が頷く。

「ワンデリアのアングラード領で目撃された赤い髪の男は、過去の文献から大崩落を起こす赤い神、または魔物の王と呼ばれる存在と結論づけられたよ。今後は名称を魔物の王に統一して各所に通達が出るってさ」

 シュレッサーは地下渓谷沿い全ての村に探求者を送ったそうだ。その結果、崩落の現場にその姿を見たという証言は、私があの男の影を初めて見た十四歳と同じ四年前から他の村でも見つかったという。
  
 また、国王から古式文字図書の一斉調査を全土に命じてもらったところ、詳しい文献がスージェルの小さな図書館の未分類の図書に埋もれていたのが見つかったそうだ。スージェルは本の管理について厳重注意と改善の指示を受けたという。ラザールが領地の予算を心配する姿が目に浮かぶ。
 
「まさか一般図書から大事な文献が出てくると思わなかったよ。ラザールに図書の扱いを教えないとね。解読がまだ途中だけど今回解ったのは、今出てきている魔物の王は力の欠片でしかない。世界に存在する時間は短く今は脅威になる事はないよ。でも欠片の魔力であれ程の力だから、本体はとてつもない化け物だろう」

 腕を組んでじっと考え込んでいたクロードが口を開く。

「今の段階で封じ込める等の話は出てないのか?」

「君はやっぱり騎士の子だね。騎士団から同じ意見書があった。大崩落は深部で起きるから封じ込めは無理だ。予測も過去の統計がはっきりないから難しい。今後、騎士団は事態収束まで緊張を強いられることになるだろう」

 クロードがその言葉に頷く。いつ起こるか分からない事態。その時、私の大好きな真っ白な崖の村はどうなるのか。魔物の王の憎悪に燃える目と力が、小さな村に向けられる事を思うと背筋が凍った。

「各領地の対策はどうしているのだろうか。退避の用意があるか、拠点の結界が万全か。国政がどの様に動いたのか学んでおきたい。ノエル資料を集めろ」

 落ち着いた澄んだ声が即座に言った言葉に弾かれる。アレックス王子は怯むことなく、そこに生きる人を見つめてすぐに知ろうと動く。私の未来の王は仰ぐ者を照らす光をいつでも掲げてくれる。そう思うと心強かった。

「畏まりました。至急、お調べします」
 
 王が光を示すなら、臣下として私は掲げられた光に向かう道を引くことに専念すればいい。
 ユーグがさらに言葉を続ける。

「大崩落はルナの言葉どおり、三年よりは早まると思う。赤い魔物の目撃証言はここ数か月増してる。特にワンデリアの西側の領地、オーリック辺境伯領、ベッケル公爵領、それからバスティア公爵領が多い」

 この三つは最も西側に配置されている領地で、渓谷の終点周辺と隣国ヴァイツに接する土地はオーリック辺境伯が管理している。そしてオーリック領に接する形で渓谷を挟んで北が現宰相であるベッケル公爵領、南がバスティア公爵領だ。

「西側に多い原因はなんでしょう?」

 カミュ様の問いかけに、ユーグが書類を確認してから答える。

「大崩落が起こる発生地がそこに近いんだと思う。近く騎士団と協力して渓谷内の調査を始める」

「魔物の王について打つ手がないならば、せめて人と人の争いには手が打てると良いのですが……」

 小さく憂いを湛えてカミュ様がそう漏らすと、ドニ首を傾げてから手を上げた。

「ねぇ、人と人の争いが終わった可能性はないの? 粛清が起きなければ大きな争いになってた。大きくなる前に今回は終わったにはならないのかな。魔物の目撃が多い領地の一つであるバスティア公爵家も最初は中心にいたし」

 人と人の争い。中心……。ずっと気になってた。
 混乱の中心が変わって、起こるべき事態が大きく変化してると、私を見つめてルナは言った。
 ルナの様子からルナが知る未来は私が知るシナリオに近い。

 ディエリが不在の三か月。シナリオと現実の三か月は本当に同じ物語を辿ったのか? 
 シナリオでは不在の間に粛清の気配も世界に変化もなかった。書かれていないのか、起きていないのか。
 疑問が疑問を呼び続ける。バスティアは悪役として中心にいたのか?
 ディエリは魔物に対峙する時、アレックス王子たちと共にいた。それはディエリを要するバスティアが人の諍いの中心にいなかった証左だ。

 溢れた疑問の中で私は一つの答えに辿り着く。
 「僕の可愛い天使」そう言って腕を広げる優しくて甘い笑顔を思い出す。今の姿からは決して信じられない答え。
 ルナの未来で、人と人の争いの中心に立っていたのはアングラード侯爵、父上だったのではないか。

 ノエルの生活が今の私の人生になっているけれど、本来のわたしは悪役令嬢キャロル。
 父であるレオナール・アングラードは、十歳のあの日を変えられなければ権力に固執する悪い人に変わっていた筈だった。
 シナリオの未来ではヒロインの告発をきっかけにアングラード侯爵家は全ての悪事を暴かれ没落する。

 現実の父上に悪役としての影はない。仕事上強引な手段をとるけど、きちんと国王の承認を得ているし、騎士団とも良好な関係を築いてる。

 もし悪役だった人間が悪役にならなかったから、新しい悪役が生まれる。
 以前、キャロルの代わりにカリーナが悪役令嬢と同じ位置に立ってしまったように。

 ならば、今この世界では誰が悪役になるのか?

 バスティアは違う。支持派に立つ事が一族で決まったと言っていた。粛清でも逃げ切って、今も変わらずバスティア公爵家であり続けている。多分ディエリはシナリオと同じ様にアレックス王子と共に戦うことになるだろう。

 シナリオでは卒業時点でアングラード侯爵家は没落し、ワンデリアで行方不明になった。
 既にこの世界がエンディング後なら、同じ状態に陥っている人物が一人だけいた。

「ジルベール・ラヴェル……」

「伯父様がどうかしたの?」

 私の呟きにドニが不安そうな顔になる。この推測は口に出せば再びラヴェルに負担を背負わせる事になる。若草の目を揺らす友の顔に胸が痛む。見つけた推測の言葉を潰す為に拳を握る。
 その私の背を大きな手が一度、叩く。隣を見るとクロードが真剣な顔をして頷いた。

「言ってみろ。迷うなら俺たちがいる」

 落ち着いて皆に伝える言葉を考える。ルナが秘密を打ち明けられない気持ちが分かる気がした。
 信じてくれると理解しても、突拍子もない現実を口にするより次善の言葉を選びたくなる。

「ドニにとっていい話じゃない。許してくれますか?」

「うん。伯父様の事ならちゃんと割り切るれるから大丈夫だよ。ノエル、ありがと」

 ドニが頷いて笑ってれる。その笑顔に少しだけ安堵して、推測を握りしめた拳を開く。

「粛清の報告書はかなり読みました。摘発されずに進んだとしても、まだ規模が小さいように思えます。今回の粛清は、大崩落と共に起こる人の争いとはきっと別です。でも、再びジルベール・ラヴェルは人の争いに絡むと思います。ユーグ、以前バスティアの偽造書類が増えた時期があったのを覚えてますか?」

 ユーグが頷く。記憶を確認するよう瞳を落とすとゆっくり答え始める。

「僕達が入学した年は偽書類の件数が二位で異常だった。あの時期シュレッサーに届いた偽書類は前年には出回っていたものの筈だから……。そういう事か、バスティア公爵家にしては目立ち過ぎた動きの理由は」

 私の推測の答えをユーグも見つける。

 その前の年まではシュレッサーと国政管理室と数計院を、偽書類でバスティアが抜くことは一度もなかった。バスティアはいつも多くの悪事の陰にいた一族だ。それでも公爵を降りる事がないのは切り捨ての速さだけじゃない。悪い事の匙加減の上手さがある。

「急増した偽書類の多くは、ジルベールが舞台に戻る為にバスティアの名を利用した可能性があると考えます。バスティアは個人の不正の温床ですから特定がされにくい。そしてジルベール・ラヴェルは不正疑惑が掛かっていた人物で、偽書類の知識は十分にあるんです。魔物の王が各地で見られ始めたのは四年前。バスティアの偽書類が出回った時期は三年前。行方不明だったジルベールが力を付けて同じ時期に突如舞い戻ってきた」

 私の言葉に若草色の瞳をオリーブの色に曇らせてドニがじっと考え込む。

「伯父様が姿を消したのは二十七年前でそれから一度も戻らなかった。なのに、考えも何もかも変えて突然戻って来たのをずっと不思議に思ってた。反旗を纏める時も相手によって言う事がよく変わって、理想とかじゃなく人の反発心を煽りたいだけに見えたよ」

 ジルベールが何ものかの支配によって動いていた事を示す言葉に、ユーグが珍しく煩悶するように頭を掻いた。それから金の瞳を真っすぐドニに向ける。

「一つだけ、魔物の王は解放されて魔物を生み出すと同時に人の心を支配する呪いをかける。何をもって解放か分からない。大崩落なのか、姿をみせたら解放なのか。ジルベールが呪いじゃなくて本人の意志で動いてる可能性も捨てられれない。だからノエルの意見は推測の域を出ない。期待はし過ぎたらだめだ」

 ドニがユーグの頭に手を伸ばしてぐしゃぐしゃになった髪を梳く。いつもの明るい若草の目が少しだけ潤むのがわかった。

「うん。ユーグも皆もいつも気にしてくれて、ありがと。僕は伯父様を庇う気はない、多くの人を巻き込んだ庇っちゃいけない人だから。伯父様も昔は身分のない未来を望んでた。困ってる人に勝手に書類を作って好き勝手して、大好きな人の為に魔力印を与えようとした問題児だけど悪い人じゃなかった。悲しいと思うとしたら支配でも支配じゃなくても、人があんな風に変わってしまった事」

 大人になって未来がきれいに変わることを望んでた。だけど、どこかで零れてしまうものがある。
 どうして私たちの手はいつも小さいのだろう。
 
「ノエルの推測は知る価値があります。ジルベール・ラヴェルの過去も再調査してみましょう。ドニ、協力をお願いいたしますね」
 
 ドニの背を撫でて穏やかに優しくカミュ様が笑う。
 それは私の推測の答えを探すと同時に悲しみの原因を辿る提案だ。壊れた先か、抗えない不幸か、誰かが変わってしまった訳に寄り添う事に繋がる。
 
「うん。僕は何が伯父様の心を変えたのか知りたい。ノエルの言葉通り伯父様には悪事に絡む可能性があると思う。殿下、ジルベール伯父様を早く捕まえてあげようよ」

 ドニの言葉に殿下が深く頷き返す、それから考え込むように口元に手を当てる。その様子に少し厳しい表情をしていたクロードが口を開いた。

「ジルベールは火種であり続けると父上が気にしていました。騎士団は既に王都を中心に力を入れていますが、未だに手掛かりさえないようです。簡単には見つからないでしょう」

 まだ、私の中で何かが引っかかっていた。あと少し足りないものがある。
 顔を覆う、額を触る、何が足りない? 私がちゃんと気づけていない情報は何?

――魔物の出る領地へ追いやられた挙句に最後は消息不明

「ノエル?」

 ちょっと引き攣った顔でカミュ様が私の名前を呼ぶ。
 夢中になるあまりに皆の前で傷に触れて変顔を披露していたらしい。顔を一応手て覆っていたから大丈夫だと思うのだけど、皆の視線が私に完全に集まってる。

「すみません。考えるのに夢中でした。どうかしました?」

 こういう時は慌てたり、取り繕ったらダメだ。知らん顔、涼しい顔。これが一番の解決法だ。
 
「ノエル。お外ではあんまり思いつめない方が良いよ? ちょっとお顔が面白い事になってたからね」

 そう言ってドニが噴き出すと、あっという間に皆が一斉に吹き出す。お腹を抱えて笑うのはドニとアレックス王子とユーグ。申し訳なさそうに笑うのは、クロードとカミュ様。
 張り詰めた空気が緩むから、いいやと思う。自分の顔が犠牲になっても、みんな笑顔ならいい。でも、人前では二度とやらないと誓う。

「もう笑わないで下さい! 一つ考えがまとまりました。行方不明の行き先がワンデリアの西三領はどうです?」

 ルナの知る未来でアングラード侯爵家が大崩落の際に人の戦いの中心にいるとしたら、没落し行方不明になった時、幕の影でアングラードを支援していた誰かがいる筈だ。

 今のワンデリア領にも、数か月前から魔物の目撃数が急増している場所がある。

「……ワンデリアは王都から遠い。騎士団も力を入れていない可能性があるかもな」

「西の分割三領地は隠そうと思えば隠せる力はございます。しかし、いづれも礎ともいえる家柄です」
 
 西領の三公。オーリック辺境伯家は過去に何度も諍いのある隣国との境界を守るこの国の礎、ベッケル公爵家は古い名家であり現宰相も輩出する名家、そしてバスティア公爵家はこの国に深く根をはりディエリがいる。
 この中でディエリのいるバスティアは支持派に回り、シナリオ通りアレックス王子たちと共に戦う未来に繋がっているように思えた。
 ならば、オーリック辺境伯家、ベッケル公爵家だが、いづれも支持派で国への貢献も厚い貴族だ。
 自分で口にした事なのに僅かに自信が揺らぐ。

「僕はノエルの意見を支持するな。可能性は常に潰すのが探求者の基本だよ」

 声に出せば友が一緒に悩んでくれる。反対の言葉もあれば、賛成の言葉もある。引き留める時もあれば、背を押すこともある。

 ユーグの言葉に、カミュ様、クロード、ドニが頷いて全員がアレックス王子に視線を向けた。

 どんなに頑張っても手を伸ばしてもまだ私たちは学生だ。言葉は演習の中での答えにしかならない。
 本当の国政はまだずっと遠く、そして届かない場所での戦いだ。
 それでも、私たちにしか知らない事があって、私たちにしか届かない事があるはずだから、必死にできる事にそれぞれが手を伸ばす。

 そして、未来の王のまっすぐな紺碧の瞳は、迷うことなく私たちの言葉を受け止めて決断を下す。

「ジルベール・ラヴェルとワンデリア西領の三公との繋がりを、調べるように父上に進言しよう」

 これが私たちが創りはじめる真っ新な未来の最初の一歩。
 大きな嵐の影も殆どなく、とても静かな時間に私たちはまだ立っていた。






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