2018年12月19日水曜日

四章 六十二話 王位と分岐 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 紺碧の瞳の色を夕日の赤が邪魔をする。今、どんな空の色をしているのだろうか。
 暗い夜空の色。夏の空に似た色。秋の空の色。悲しいのか、晴れ晴れしているのか、未来をみるのか。
 どんな色だとしても、私を見つめる眼差しの強さが揺らぐことのない決意を伝える。

 一番苦しいのは殿下だから、笑って迎えてあげようとドニが言っていたのを思い出す。
 自分の表情を確認する為に、手の平で頬に触れる。強張った頬と固く引き結んだ唇。
 こんな表情をを見せたらダメだ。

 笑わなくてはと手の平で頬を引っ張ると、アレックス王子の手が頬と手の間に滑り込んだ。私の頬をアレックス王子の左手が掴む。変わらない手の感触と熱い体温が胸の奥を騒がせる。

「無理に笑おうとしなくて良い。そのまま見せていてくれ……王になれない私に君は失望するかい?」

 呼吸が止まりそうな質問に、どんな答えでも許すように優しく指が頬を二度と押す。

 願いと夢。
 私は殿下の隣に立つのが夢で、それがずっと支えだった。たくさんの人が救う事が叶えられるなら、喜ばなくてはならない。なのに夢を失う事が息が出来ない程苦しい。

 浅い息で見上げると、冷たい風がアレックス王子の髪を揺らす。街並みを見つめる眼差しを思いだして息が止まる。
 口を開く為に小さく息を吸えば、今日はすぐにアレックス王子の手が頬から離れる。

「アレックス殿下の夢は? 次の王になる為に頑張ってきたのを知ってます。前国王にもお約束できたと教えてくれました。私じゃなくて辛いのはアレックス殿下です」

 王族は王位継承者以外は国政からは距離を置く。それは円滑に次代を繋ぐ為の、継承者を守るこの国の決まりだ。

 アレックス王子が首を傾げて口元を綻ばせると、夕日の赤がその瞳から消えた。愛しさを湛える悲しげな空の色に、私の全てが攫われる。

「君の願いは、この国の民の願いだ。王として目指したかった事を手放すのは悔しい。だが、この国を支える民の期待が私を育てたから、守る事で返したい。それが王位継承者である私の責任だ」

 ゆっくりと言い聞かすように告げられた言葉は、一途で一生懸命なアレックス王子らしいものだった。
 真っすぐな強い決意が、夢を失った私の心を何かで埋めていく。私は私。貴方は貴方。変わるものがあっても変わらないものがある。
 大切な人が失う夢を、私も何かで満たす事はできるだろうか。

 噴水から立ち上がる。アレックス王子に向き直ると、自然と彼の為に穏やかに微笑む事ができた。その場でゆっくりと立礼をとる。

「私に未来を灯すのは貴方だけです。貴方の選択に失望なんてしません。決断のお側にいさせて下さい」

 顔をあげると、満足気にアレックス王子が頷いてくれた。私の頬に手が伸びて、途中で止まる。少し考える様に、紺碧の眼差しが暗くなり始めた空を仰ぐ。

「君を見つけた途端、堪えきれなくなった私は未熟だな……待ってくれるか? 道を作ったら君に話したい事がたくさんある」
 
 殿下が笑うのと同時に、厳しい声が私達の名を呼ぶ。

「殿下! ノエル!」

 夕闇の中、文官棟の廊下から向かって来たのは父上だった。見た事のない厳しい表情に思わず体が強張る。
 伸ばした手を降ろした、アレックス王子が表情を引き締めて父上に向き直る。

「久しぶりだな、レオナール」

「何故です? 殿下はここにいるべきではない」

 父上の手が強引に私の腕を引いて、アレックス王子との間に立って一喝する。
 
「必要があるから、私は王都に戻った」

 落ち着いた声でアレックス王子が告げると、父上が不快な表情を隠さずに舌打ちをする。

「何の必要が? 殿下に望まれている事は王都では叶わない。勝手な判断は事態をより混迷させます。――ノエル、邪魔だ。先に馬車寄せに行きなさい」

 父上の命令に首を振る。ここから離れたくなかった。どんな選択でも、アレックス王子の決断を支える事ができるなら離れたくない。
 私を一瞥すると、父上がジルを見て命じる。

「ジル。君の雇い主は当主である私だ。ノエルを連れていけ」
 
 迷うような沈黙の後、ジルが私の肩に手を伸ばして、その場を後にするように促す。拒むように顔を振れば、肩に触れたジルの手の力が弱くなる。

「ジル、留まりたいです。お側で出来る事がしたいんです。お願いです」

 お願いを口にして、ジルを見上げればその眼差しが揺れていた。
 私の言葉は、ジルに父上の命令に背かせてまで、アレックス王子の側を望む事だ。
 ジルの立場や想いを汲まずに咄嗟に出た言葉は残酷な願いだと気づく。言葉を悔やんだ私が先に顔を歪めれば、ジルが優しく微笑む。

「貴方の仰せのままに」

 ジルが私の肩から手を離すと同時に、クレイが闇に溶けるようにジルの背後で姿を消した。次の瞬間ジルが体勢を大きく崩す。落ちるジルとは反対に、素早い身のこなしで足を払ったクレイが立ち上がって、穏やかな笑顔を浮かべて口を開く。

「ジル、貴方の教育係として、主を優先した判断は嬉しく思います。でも、レオナール様の従者である私が、主の望む状況をつくる事を失念しておりましたね。甘いだけでは従者はつとまりません」

 腕から地面に倒れ込んだジルの眼前で、荷物の様に私を片手で持ち上げ、クレイが肩の上に抱え上げる。

「さぁ、お坊ちゃま。馬車寄せまでお連れ致します」

「クレイ、離して! 父上!」

「レオナール。ノエルを離せ!」

 クレイの背中を叩いて主張しても、アレックス王子が命じてもクレイが立ち止まる事はない。
 大事な人が苦しんで悩んでいても、いつも私は側に居る事が叶わない。
 立ち上がって駆け寄ったジルが回り込むと、すぐに私の後ろで声が上がった。

「主はここに留まる事を望んでおります。ノエル様をお離しください」

「魔法に制限のかかっている城内では、貴方に勝ち目はひとつもありません」

 クレイが体を捻ると同時に、ジルの呻き声が上がる。クレイは強い。戦っているところは見た事がないけれど、剣を持たない父の代わりに荒事は全て彼が処理していると聞いている。

「クレイ、ジルを傷つけないで!」

「お坊ちゃま、貴方が我儘を言わなければそれで済みます」
 
 我儘という言葉に唇を噛んで顔を上げれば、アレックス王子を阻むように父上が立ちはだかっていた。
 父上が私をアレックス王子から引き離すのは、私とアレックス王子が一度は想い合っていたからだ。
 でも、今日だけじゃない大事な事はいつも後になって知る。大崩落の件も、聖女の件も、父上や国政管理室の人たちと劣らぬ速度で向き合ってきた。それでも、どんなに頑張っても演習と呼ばれて、大事な決断に立ち会うことはなかった。

「レオナール、従者を止めよ。これは、王太子命令だ」

「選択する事には常に壁が存在します。ノエルがいてどうするのです? あれは、まだ学生で国の行方を決める事に関わる権利はない。覚えておいて下さい。感情任せの我儘は通りません」

 学生で国の行方を決める事に関わる権利はない。その言葉が胸に刺さる。
 今の私の身分では手が届かない領域がある。これからの厳しい局面でも、私は一歩遅れてしか側に立てない。
 体が震えた。冬を告げる冷たい風が、私の体を撫でる所為じゃない。気付いた事実が私の心を怯えさせる所為だ。

 父上が冷徹な顔で私とアレックス王子を一瞥し、クレイに向けて行けと言うように手を払う。後ろでジルが立ちが上がったのが分かった。私を抱えたクレイの腕に僅か力が籠る、もう一度ジルを排除するつもりだ。

「父上、私にワンデリアの領主をご拝命下さい! 私に関わる資格を下さい!」

 叫んだ途端に体の震えが納まった。突然の私の発言に息を飲むような沈黙が落ちる。

 賜った領地の領主を任命するのは当主だ。王の承認はもちろん必要だが、それは形式だけだ。父上が頷けば、私はワンデリアのアングラード領領主になれる。
 
「軽々しい理由なら、応えてやるつもりはない」

 父上の言葉に首を振る。
 シュレッサーとして活躍するユーグ、公爵として堂々と渡り合うディエリを羨ましいと思った。ドニだって一族の困難に際して領主補佐を任され、クロードも帰郷の季節から騎士団の演習に加わっている。
 国政管理室に遅れて出入りするだけでは足りないとずっと感じていた。

「違います! 大崩落の件はずっと関わってきました。必ずお役に立てる自信があります!」

 大人として資格を得れば、必ず大きな責任と苦悩を背負う。子供のままなら、足りなくても与えられた環境と自由に甘えられる。
 大人と子供を天秤に掛けたら、子供じゃない今なら届く力に手を伸ばすのはとても怖い。
 でも、私たちはいつか必ず、大人としての一歩を踏み出す。

「足りなかったのは勇気で、アレックス王子の事はきっかけです。私にご拝命ください。出来る事があるのに、後から知るのも、間に合わないのも嫌です。知識も魔力も遅れをとりません。必ずワンデリア領を守ります! そして、殿下と共にこの国を守ります! だから、父上お願いです!」

 枷があるかのように心の中で留まり続けた決意の言葉は、扉を開くと考える事無く声になった。

「ここに居させたくない理由はそれだけじゃない。分かっているだろう?」

「分かってます! 父上が心配するような事は望みません。でも、今だからこそ臣下として出来る事をしたいんです」

 振り返った父上が私の意志を確認する様にじっと見つめる。クレイの肩に抱えられれて恰好は悪いが、負けじと見つめ返す。
 今、自分で未来を切り開かなければ私は必ず後悔する。

「ワンデリア領の事なら、父上よりも上手くやれる自信が私にはあります。国政に父上は集中してください。不足なく務め上げて見せます」

 父上が降ろすように合図をすると、少しだけ笑い声を漏らしてクレイが私を降ろす。駆け寄ったジルが自分の至らなさを悔やむように顔を歪めて、乱れた私の服を優しく整える。

「ノエル様、大丈夫でございますか?」

 知らない振りをする限り私はジルの心を傷つけてしまう。でも、知った事を伝えれば家族でいる事を失わせる。

「大丈夫です。私のせいで砂だらけです」

 私を守って汚れたジルの腕に手を伸ばして砂を払う。
 
「お手が汚れます。そのお気持ちだけで充分です」

 ジルが私の手を止めて、顔を綻ばせてくれる。私とジルの距離。アレックス王子と私の距離。大事なのに同じにはならない。

 父上に視線を戻して、手招きに応じて隣に立つ。

「領主の件は後でだ。ここにいても構わないが、今から一言も口を出すな。これは君が関われない上の問題だ。国政に関わる覚悟があるなら、成り行きを見守ってみせろ」

 その言葉に頷いて私が唇を引き結ぶのを確認すると、父上が腕を組んでアレックス王子に向き直る。

「……さて、殿下。三日後には聖女を連れて、派手に凱旋するようお願いしていた筈ですが?」

 厳しい表所を崩さない父上とアレック王子の視線がぶつかる。

「カミュがディアナを連れて王都に入る。凱旋は行わない」

「聖女に配慮されたのですか? 甘いですね。泣いても苦しんでも引き返す事が出来ぬ様に、既に中間の街サンジェルに騎士団を派遣してあります。さあ、殿下もお戻り下さい。サンジェルの街でなら合流できるでしょう」

 取り付く島もない父上の回答だった。それに小さく首を振って、アレックス王子がもう一度父上に声を上げる。

「ディアナは引き返さぬ。条件を果たせずとも、泉では私の為に祈りを捧げると言っている」
 
 胸が大きく跳ねて、足元が崩れそうになる。聖女の愛がアレックス王子に注がれる。
 口を出すな。口を出せぬ事。父上が言った意味を噛みしめる。

「結構です。無理でも聖女には泉で祈って頂きます。自発的して頂けるのが一番手間がかかりません」

 父上の言葉にアレックス王子が聖女の為に、眉根を寄せる。

「わかっているのか? 彼女の決意は、カミュを助けたい想いからだ。その身が消えても、別の男の為の祈りでも、愛する者の力になる可能性が彼女を動かした。それ以上まで望む必要はないであろう」

 人が人を愛するのは、簡単にはいかない。ユーグが聖女の事を語る時はカミュ様の名前がいつもあった。
 十七年の間、家族以外の者に怯えて生きてきた女性と、言葉の重みを知っていて誰よりも人の心に寄り添えるカミュ様。殿下が動き出すよりも半年以上も早く出会った二人。
 聖女になるべき女性が先に恋をして想いを募らせたのは、アレックス王子ではなくカミュ様だったのだ。

「凱旋は聖女の存在を示し民を鼓舞できる。彼女も後戻りもしづらくなります。望む必要がない? 甘いですよ。我々は徹底的にやります。手を抜ける局面ではない」

 厳しい言葉に思わず息を飲む。アレックス王子も、僅かに唇を噛んでいた。
 父上の言葉は国の決断であり、ある側面からの正論なのだろう。でも、厳しく容赦がない。アレックス王子が告げた聖女の努力を汲もうとする気配は感じられなかった。
 
「望まぬ想いを迫られる事も、知らぬ世界に厳しい体で飛び込む事も、祈りに国の命運がかかる事も、ディアナには耐えられない。彼女を壊すことも厭わぬのか?」

 やや厳しい声になったアレックス王子に、父上が冷笑を浮かべる。

「いいえ。壊さぬために、殿下と同じ様に引き離す予定だったカミュ様をお付けしているでしょう? カミュ様にも周遊に出て頂く案もありましたが、配慮したのですよ」

 はっきり怒りを浮かべた殿下の眼差しと、徹底して冷たい眼差しを崩さない父上の間で空気が張り詰める。
 周遊は私とアレックス王子を引き離す為に父が取った判断だ。
 冷たい決断を下し続ける父上の言葉に、アレックス王子が拳を握りしめていた。唇を引き結んだ私も、同じ様に拳を握りしめる。

「レオナール、君は自分の家族にも同じ選択をするのか?」

「ご存知でしょう? 立場が違うので同じ痛みとは申しませんが、手心を加える事は致しません」

 父上が嘲るような小さな笑い声を漏らして答えると、アレックス王子が不快そうに顔を顰める。

「……ノエルが精霊の子でも同じか? 苦しい体に無理をさせ、命を懸けて愛していない男の為に祈れと命じるのか?」

「容易ですね。綺麗な事ばかりが世にある訳ではありません。私は精霊の子を昔は快く思っておりませんでした。我が子が精霊の子なら誰よりも簡単に判断をくだしたでしょう」

 手の平に何かが落ちて、俯けばそれは一粒の涙だった。
 父の言葉を悲しいとは思った。けど、仮定の話に涙が落ちる程ではない。頬に触れれば、もう涙は止まっていた。
 たった一滴の涙。
 私の心を一瞬、激しく揺さぶったのは何なのだろう。

「快く思わぬ精霊の子だから、ディアナにも厳しい判断をするのか?」

 ぞっとするような空気に目を瞬けば、宵闇の中で闇が父上から零れ出た魔力に応えるように騒ぐ。規模の違う魔力の片鱗に、気押される事無くアレックス王子は厳しい眼差しで答えを待っていた。

「殿下。手を伸ばすならば、届かぬ所にも伸ばすべきです。退役した老騎士から、壁を希望する申請が多く来ております。彼らは老い先短い命に守らせろと気勢を上げています。結婚を直前でやめたアホな文官もいます。危険地に行くので、恋人を未亡人にしない為に決断しました」

「……そうか。通達に触れて多くの者がそのように判断しているのか」

 アレックス王子の拳が緩んで、引き込まれるような素直な眼差しを父上に向ける。その眼差しを見た父上が首を振ると、零れた魔力が一瞬にして消えて静かな闇が戻ってきた。

「作戦戦略室は老騎士を壁に配備すると決めました。作戦戦略室長のバルト伯爵はもちろん、室員の騎士時代の恩師や父、祖父が老騎士には含まれています。文官の仲間も上司も、結婚をやめた文官を引きとめません。男の才はこの国の一線を守るからです」

「……」

 私達が日常では触れる事のない知らない人たちの決断。私達や聖女と同じ願いを胸に抱いて、生きること、守ることに向き合っている。でも、皆が幸せな結末に繋がるばかりではない。

「誰もが同じ痛みだなどと暴論は申しません。だが、多くの者が何かを選択している。この国の頭脳の長として、多くを守る最善の判断に私は一切の容赦を致しません」

 大切なものを守る為の辛い決断を一つでも無駄にしない為に、私情を捨てて導く人たちは確かに必要だった。

「……教えてくれた事に感謝する。レオナールが私を甘いという意味に触れる事ができた」

 どんな時でも素直に周囲に目と耳を向けて、正しく判断出来る事はアレックス王子の美点だと思う。
 目を閉じて空を仰ぎアレックス王子がじっと考え込む。答えを見極めようとする姿を見極めるように父上が見つめる。

「陛下も目につく困難に常に理想を掲げられる。それは我が陛下の美点です。だが、そう評価できるのは私が罵っても理には耳を傾け、必要なら厳しい判断も飲める方だからです。王が理想を持ち、文官が整える。貴方は盲目の王になられるか、聡慧の王になられるのか?」

 夜に包まれた中庭に噴水の水音だけが響く。瞼がゆっくりと開いて、紺碧の瞳が迷うことない輝きを見せる。

「想いを掲げていても、全員を救えるわけではない。文官である君が、最小の犠牲で最大の効果と判断した道は最善なのだろう。だが、聖女であるディアナもこの国の民の一人だ。救えるなら、救うべきだと思っている。私達にしか決断できぬ別の道を用意してきた」

 まっすぐと父上の目を見つめて、私に告げた言葉と同じ内容を口にする。

「レオナール。祈りの代わりに、私とカミュは王位を諦める。意味は分かるな? この方法でなら聖女なしでも、国を救える道は選べるのではないか?」

 二人の間に沈黙が落ちて、父上が星が瞬きだした宵闇の空を仰ぎながら、組んだ腕を解いた。

「即答はできません。最善を変えるかは、覚悟の程によります。確認すべき事も多い。なにより、国王は納得されないでしょう」

「父としては、悲しむだろうな。だが、王として民に犠牲を求めてまで、私に次代の王位を望む真似はしない。明朝、国王に私より話す。レオナール、君も同席せよ。別室に騎士団長と作戦戦略室長も控えさせろ」

 憤っていた父上がアレックス王子の意見を受け入れ、優雅に一礼を取る。
 アレックス王子とカミュ様。二人の王位継承者が下りる事は、父上が受け入れる価値のある判断なのだろう。
 でも、アレックス王子は夢を失う。
 口を出す事が許されないと言った父の言葉の意味を噛み締める。一人の夢と一人の犠牲、二人の夢とたくさんの民。表に立てば厳しい判断に何度も直面する。
 見つめる私の眼差しに気付いたアレックス王子が微笑んで小さく頷く。
 踏み出そう。大事な時に側に立てれば、私に出来る事が必ずある。
 
 父上が顔を上げる。アレックス王子に語り掛ける声には、先程までの冷たさはなかった。
 
「明朝お伺いさせて頂きます。もし、我儘の為の言葉と判断すれば通しません。お心置き下さい」

 父上が隣に立つ私を見つめる。そして、もう一度アレックス王子を見て口の端を上げる。

「殿下、最後に一つ伺います。この国の未来の為に、息子がお側に仕える事を望まれますか?」

 私は望むという言葉を待っていた。それなのに、アレックス王子は拳を口元に寄せて考え込んでしまう。
 いつもの表情に戻っている父上が僅かに苦笑する。

「ノエル、さっきの件に関わる事でなければ話して構わないよ」

「アレックス殿下、私は貴方の隣に、友と一緒に最後まで立ちたいです。迷わないで下さい!」

 父上の許可が出た私は直ぐに口を開いて、頷いてくれない人に詰め寄った。
 何故望んでくれないのか。少しだけ苛立ちを覚えて睨む様に見上げれば、アレックス王子が小さく笑いながらため息をつく。

「ノエル。明朝からの話し合いが終わったら、君を呼ぶ。その時まで少しだけ待っていてくれ」

「殿下、『息子』をお側に置かないのですか?」

「そうです! 私を側においてください。父上ほど腹黒ではありませんが、お役に立てます!」

 父上と私の言葉にアレックス王子が一瞬複雑そうな表情を見せる。それから、表情を引き締めて、まっすぐ私を見降ろす。

「『君』が側に居る事を私は望む。レオナール、明朝改めて会おう」

「明朝を楽しみにしております。それから、お言葉通り『息子』を『臣下』としてお側にお送りする事は、前向きに検討致します」

 父上が一礼して私も一礼すると、アレックス王子から深いため息が落ちた。
 楽し気な父の手に背中を押され踵を返す。少し進んでから振り返ると、宵闇の向こうでアレックス王子がバルコニーから見下ろす時と同じ顔で笑って手を振った。

 新しい決断と踏み出した一歩は宵闇の中だった。これから深い深い夜がやってくる。でも、夜はやがて朝を迎える。見つめた太陽が昇る方角の空は、夜の訪れを告げて真っ暗だった。


 父上の馬車に載せられて、家路につく。
 尋ねる事が絡まる糸の様に胸の中で縺れて言葉に迷う。父の方を向いて口を開いては閉じるを繰り返すと、私の頭に父上が頭を凭れさせる。

「父の事が嫌いになりそう?」

「いいえ。受け入れられないと感じる事もありましたが、たくさんの事を背負うのは分かりました」

「優しいね。理想を目指す君達から見れば、時に犠牲を求める私達の判断は受け入れ難いと分かっていた。父としての私は、文官の私を君にまだ見せたくなかった」

 父としての姿、文官のトップとしての姿は同じではない。文官の父は多数を守る正論の為に、冷徹で容赦がない。私情を挟まない判断が、愛していても侯爵家の為に母を手放したゲームの父上と重なる。
 この世界とあの世界は、やはりちゃんと繋がっているのだろう。

「……父上は精霊の子が今も嫌いですか?」

「あぁ、聞かれると思った。私の弟のリオネルの事を聞いたことある?」

「はい。バルバラおばあ様から聞きました。剣を持たない父上が、痛みをまだ抱えていると心配してました」

 父上が私の頭から自分の頭をどけると、椅子の背もたれに体を深く預ける。

「昔は精霊の子なんて危険だから閉じ込めてしまいたいと思ってた」

 おばあ様は隠された精霊の子が事件を起こす憤りを文官である祖父にぶつけたという。それを近くで見ていた若い父上も、悲劇を繰り返す仕組みを憤ったのだろう。
 
 困ったように笑って、父上が指で額を掻く。

「今は普通だよ。ソレーヌと出会って、愛しあうのが難しい彼らを少し憐れんだ。憎いけれど関わる事に触れなければ無視できた。憐れと思うことで溜飲を下げたのだと思う。憎まなくなったのは、君が生まれて三年ぐらいしてからかな。親になって初めて彼らを守る者の気持ちも、その悲劇も理解出来るようになった」

「私が生まれて三年目なんですか?」

「ソレーヌはお腹に君が宿ったらすぐに母になれた。でも、私が君の父になれたのはずっと後だったんだ。あの頃はまだ国政管理室の中堅で、たまにしか帰れない生活だった。赤ちゃんの君の寝顔をたまに見るだけだったから、可愛いと思っても実感には遠かった」

 そう言って笑うと父上が私の頬に指を当てて、くすぐる様に触れる。記憶にない小さな頃、眠る私に父はきっとこんな風に触れたのだろうか。

「面白くなったのは君が動くようになってからだ。寝返りを覚えた君は、寝がえりの後に私を見て満点の笑顔を見せるようになった。はいはいが始まると私の書類を散らかして、時には食べた。それを見てソレーヌが、貴方の子だから書類が大好きなのだと言って笑った」

「小さい私は、書類を食べてたんですか?」

「うん。国王の書状を齧ったこともあるよ。歩くようになると、仕事をする私の膝に登って一緒に書類を覗き込む事が増えた。そんな時間を何度も何度も繰り返して、漸く私は君が我が子で凄く愛しいと思うようになった。父親の自覚まで一年ちょっとは掛かったかな。それから少しずつ君との時間を重ねて父親になった」

 父上が膝の上に両手を降ろして、温かい眼差しでその手をじっと見つめる。今その手に何を思っているのだろうか。小さな赤ちゃんだった頃の私が見える気がした。

「今なら精霊の子でも好きになってくれますか?」

 自然と滑り落ちた問いかけに、父上が手を開いたり閉じたりして考え込む。言葉よりも感情はずっと複雑で難しい。

「好きではないけれど、嫌いではない。排除したいとは思わないし、国政として必要なら援助する事も考えられる。我が子なら、時間を重ねればきっと愛せるかもしれない。保証はできないけれどね」

 その言葉に胸いっぱいの安堵が広がる。なんだかとても嬉しかった。こんなに嬉しいのは、きっと聖女ディアナが抱えている想いを知ったからだろう。

「今も剣を持たないのは何故ですか?」

「多分、剣で戦ったら間違いなく私は自分で怪我をする自信がある! 私の場合は魔法で片付けた方が断然早い!」

「それだけですか?」

 思わず拍子抜けして大きな声を上げると、父上軽く笑ってから少し悲し気な笑顔を浮かべる。

「リオネルを忘れない為かな。十歳まで狭い世界に二人だけだからね。生意気だけど、いつも私の後ろを追いかけてきた。あの子を失った時は、心から悔やんだよ。手を抜いたのも悪かったが、私に力があれば、リオネルが自分の力を過信する事はなかった。あの時から勝負に手を抜いたことはないよ。持てる力は余すことなく使う事にしてる」

 にっこりと笑った顔には、文官の時の顔とは違う冷徹さがあった。
 明るく陽気で飄々としているのに、ここぞの時は徹底的にやる父上の始まりは間違いなくここだ。
 リオネル叔父様の件は絶対に父上に大きな影響を与えていたと思う。クレイが言っていた、若い時の父上はかなり癖があって悪にも善にも徹底的にれる人だったと。
  
「最初は、剣を見るとリオネルを思って、憎しみが煽られるから捨てた。でも、ノエルが三歳の時には精霊の子への憎しみが消えたから、一度は帯刀するか考えたんだよね。でも、剣を持たなければ、理由を聞いてもらえる。リオネルを知る友人が、今は何人かいる。エドガーは墓に花を添えに来た事もあるんだ」
 
 少年のような笑顔を見せて父上が笑う。クロードの父であるヴァセラン侯爵はクロードと同じぐらい優しい良い人だ。父上を取り囲む環境は悪い事ばかりだったわけではない。

「今度は私は行きますね。そうだ! おばあ様が思い出は一人覚えているから、父上には忘れてと言っていました。連絡してあげないとダメです!」

「母に手紙を書くよ。今度はリオネルの事を二人で笑って話そうと伝える」

 父上の言葉に頷いて、私も馬車の椅子に深く腰掛ける。柔らかい背もたれに身をゆだねて、父上の肩に頭を乗せる。少しだけ父上の体が私の方に傾いてまた頭が重なる。

 母上と出会って緩和しても、剣を持つのを躊躇う憎しみが私が三歳になるまでは残ってた。

 それ程の憎しみを持ったままの父上なら、引き金があればきっと壊れる。
 ゲームでは母上が引き金だ。失った父上は親族だけじゃなく、国の決まりを憎んだだろう。
 精霊の子を許した決まり、男子が産めぬと母上を追い出す口実を作った不自由な決まり。その決まりを壊そうとすれば、きっとたくさんの壁にぶつかる。
 その度にリオネル叔父様に対して感じた力不足と、母上を守れなかった力不足を父上は思い出す。
 失意と悔恨の連鎖はきっと父上を容赦なく権力に走らせる。

「父上三歳前の私は可愛いですか? 三歳後の私も可愛いですか?」

 父上が壊れるかどうかの分岐は三歳の時点で私を愛して遺恨を捨てられるか。

「うん。どちらも天使だったよ」

 小さな手で私の髪を結ぶマリーゼ。私を放り投げるクレイ。私に頬ずるモーリスお祖父様。少し外れた子守歌を歌う母上。父上のお膝の上で見つめるたくさんの文字。
 思い出す記憶の中の私は、書類が好きだった訳じゃない。たまにしかいない父上が大好きで、側に居たくて仕方なかったのだ。膝の上で見上れば、父上はいつでも笑ってくれていた。

「母上と私どっちが大事ですか?」

 呆然と口を空けると父上が慌てる。それから、誰も聞いていないのにとても小さな声になる。

「どちらも。どっちなんて比べられないぐらい大事だよ」

 ゲームのキャロルは違う。公式情報では十歳以降のキャロルは、父親に愛を向けてもらえる存在じゃなかった。でも、父上は壊れるぐらいの愛を母上には向けていた。

 愛情の分岐は三歳。
 ゲームのキャロルはその時点で父上に愛されず、父上は激しい遺恨を抱えたまま悪役に堕ちた。
 今の私はその時点で愛されていた。だから父上は遺恨を消して、別の悪役じゃない人生を迎えた。

 父上が私の髪に久しぶりの口づけを落とす。お礼に父上の頬に口づける。

「母上に父上を譲ります」

「ああ、複雑だな。ソレーヌはきっと君に私を譲るというんだろうね」

 そう言って父上が笑って、私も笑い声を重ねた。
 笑いながら、この幸せがゲームで手に入らなかったのは何故かを思う。

 八歳前、三歳前のキャロルの条件はどちらもまったく変わらない。
 私が記憶を取り戻したのは八歳の誕生日で、自分の手で運命を変える事ができたのはそこからだ。
 
 愛された私と愛されなかった私。

 ゲームの中のキャロルは高慢で厳しくて好きなれる子ではなかった。でも、今はもう一人の私である彼女をとても悲しいと思う。




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