2018年12月22日土曜日

四章 七十四話 黒の近衛と結界解除 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります


 王立図書館のバルコニーから見る王都は、暗い夜に包まれている。
 夜間の活動が禁じられた花街には明かりがなく、深夜の今は民家の明かりも大半が消えていた。夜の闇が濃いから、見上げた空の星はいつもより美しい。
 小さな星に、今日と明日の願いを込める。見上げる誰かが何かを願うなら、きっと多くの星に願いが籠っている。

「――ます」

 そっと手を握りしめて、城の方角に向き直る。地上の闇の中でも、幾つもの小さな点が城を囲むように蠢いていた。

 全て兵が持つ明かりで、一番多いのは正門の前。国王陛下が率いる主力部隊で、副官をヴァセラン侯爵が務める。
 半数以下だけど、次に明かりが多いのは裏門。近衛副団長が率いて、王妃であるブリジット様が帯同している。
 ここまで準備が進んだのなら、包囲はもうすぐ終わるだろう。

 私が参加を許された三つ目の部隊を見回す。
 ここにいるのは精鋭の近衛が十名とバルト伯爵。そして、黒に染めた近衛服に身を包むアニエス様だ。金の髪を纏めた横顔はカミュ様に似ているのに、凛々しい眼差しはアレックス王子にも似ている。
 私の視線に気づいて、アニエス様が手招く。近づくと、隣に立っていたバルト伯爵が顔をしかめる。

「作戦も役割も分かっているな? 今夜は女の様に泣く真似はするな」

 呼んだアニエス様より先に、バルト伯爵が皮肉を口にする。今後の為にも、失態はもう重ねられない。

「はい。あのような事は、二度とありません。役割も理解してます」

 城の結界は、ベッケルによって書き換えられてしまっている。反魔法と物理強化の結界以外も仕掛けられていて、正面からの攻城戦は容易くない。

 私達はアニエス様の案内で、王族の隠し通路を通り城に潜入する。そして、中央棟の地下で、結界を解除するのが任務だ。

 バルト伯爵の半信半疑の眼差しを、決意を込めて見つめ返す。

「私はジルの為に呼ばれましたから、泣いている暇はありません」

「……誓約がある君はジルに対しての盾だ。間違えるな、我らの為にだ」 

「私達の為に。そして、ジルの為に」

 重ねて返すと、バルト伯爵が苦虫を噛み潰した様な顔でぼやく。

「だから、あの方の子息は嫌だった」

 私がいれば、誓約のあるジルは攻撃できない。でも、ここにいる近衛は本物の強者で、ジルに負けない。許可の理由は、盾の他にも何かある筈だ。

「ご許可に感謝しています。盾になりますが、私にしか出来ない事もやります」

 礼を言ってから、バルト伯爵をじっと見つめる。アニエス様が小さく笑い声を上げる。

「切り札は、自分にしか出来ない事を信じているようよ。バルト伯爵は、この子をどう使うのかしら?」

「皆様の意見に、私は同行の一点のみ譲歩しただけです。主案として採用した訳ではありません」

 唇を引き結んだバルト伯爵から聞くのは諦めて、アニエス様に向き直る。
 笑みを浮かべた美しい人は、前国王様の娘で元王女様。この国の女性では、現王妃が現れるまで最上位に位置していた。

「お伺いしたい事があります。アニエス様は、――」
 
 一斉に城の周囲が明るくなって、言葉を止める。野営用の閃光魔法弾が照らす中、裏門から何かが飛び出した。
 遠すぎて見づらいが、はためくのは翼のように見える。結界を避けて上へと飛び、城の真上を大きく旋回してみせる。

「伝達魔法? 鳥だとしても、あんなに大きなものは初めて見ます」

 私の驚きにアニエス様が目を細める。

「ここからだと分かりにくいけれど、人と同じぐらい大きな黒いハルシアよ。王族でも、私とブリジットだけが使用を許されているわ。貴方にも、いつか必ず教えてあげたい」

 引き裂く様なハルシアの啼き声が、遠く離れたここまで届く。
 それを合図にアニエス様が手を打って、近衛たちに高貴で自信に満ちた笑顔を向ける。

「今宵の王の凱陣は、圧倒的な勝利でなくてはなりません。全ては、私達に掛かっていると心得なさい!」

 一部の貴族は、既に城を奪われた陛下への不満を口にしているらしい。今夜は奪い返すだけでなく、力を知らしめる必要がある。

「マールブランシュ王家の為に!」

 バルト伯爵の静かな声と共に、近衛騎士達が礼で応える。声を上げないその瞳には、初日に受けた仲間の雪辱に燃える意志があった。


 王立図書館の中に入って、暗い廊下を奥へと進んで行く。閉架図書の管理区域から、厳重に管理された書庫を越える。禁書が管理された地下室にカギを開けて入ると、古い本と埃の匂いが強くした。
 一番奥の書棚の前で、僅かな隙間にアニエス様が腕を差し入れる。

「王家の光よ。我が前に道を開け!」

 書棚が音を立てて横に動き出し、物の数秒で一つの扉が現れる。近衛が扉を開くと、地下道がまっすぐ城の方角に伸びていた。
 魔力を使わないランプの灯を頼りに足を踏み入れる。壁越しに水が流れる音がするから、この通路は城の用水路に並走して作られているのだろう。

「秘密の通路に、あまり驚いていないのね?」

 アニエス様が唇を尖らせて、私の腕をとる。城に慣れていなかった頃に思いを馳せると、自然と口元が綻ぶ。

「公になったばかりの頃に、アレックス殿下の命で探したんです。ヴァセラン侯爵子息とカミュ様も一緒でした。城中を一生懸命に探しましたが、出入り口は見つられませんでした」

「アレックスらしい命令ね。カミュも楽しそうにしていましたか?」

 緊張する私とクロードをアレックス王子が大丈夫と言いながら引っ張って、その後ろをカミュ様は溜息を付きながらも愉快そうな顔で付いて来てくれてた。

「はい。探索とか、カミュ様はお好きですよね。開かない扉に終わりかけると、何処からか鍵を見つけてきてくれるんです。だから、私とクロードは、一日中探す事になってしまいました」

 少し怒った顔で鍵を差し出すカミュ様の、これっきりは何回あっただろうか。私とクロードが驚いて褒める度に、少し怒った顔は一瞬得意げになっていた。

「鍵を持ち出すなんて悪い子よ。でも、カミュにもそんな一面があるのね。他には、どんな悪戯をしたのかしら?」

 嬉しそうな笑顔でねだられて、こんな時だけどカミュ様との思い出を語る。アニエス様が楽し気に笑うと、思い出の数だけ私の緊張は解けていった。
 悪戯話に笑いすぎた所為なのか、アニエス様が目じりを指先でそっと拭う。

「ノエル。私は素直な貴方がとても気に入ってるの。引っ張る様なアレックスの真っ直ぐさとは違う。貴方の寄り添う真っ直ぐさが愛しい。だから、蜂蜜色と夜明けの色ならどちらがお好き?」

「お褒め頂き光栄です。でも、その、それは何ですか?」

 真意の分からない問いかけに、思わずたじろぐ。助けを求めようにも、周囲に知り合いと呼べる人は誰もいない。

「答えなさい。これは、一刻を争う大事な事なの」

「では、どちらかと言えばですが、蜂蜜色にします……」
 
 悪戯を仕掛ける眼差しが眉を寄せる。もっと考えて答えるべきだったかと、思わず慌てる。

「あ、でも、どちらかと言えばなので、夜明け色でも構いません」

「そうね。蜂蜜は、ブリジットが選んだ方よ。私は夜明けの色を推しているわ。貴方の銀の髪には、夜明け色の方が映える。蜂蜜色はやめて、夜明け色にしましょうね」

 何をという問いかけを飲み込む。問い詰めたら、より混沌としてしまう予感がした。返事がない事を肯定的に解釈したのか、綻ぶようにアニエス様が微笑む。

「全ての後が楽しみよ……。さあ、今度は知りたい事の話を致しましょう。八歳のプレゼントは、モーリスがいなくなっても楽しめたかしら?」

 私が名乗ると、ほぼ全ての人が父の名を口にする。アニエス様とブリジット様は、最初にモーリスおじい様の名前を口にした。
 王家の女性と親しくなる機会は、国王陛下と親しくなるよりも少ない。父上だって陛下と話はしても、アニエス様と王妃様とは殆ど話さない。
 倉庫番と見下される戦前準備部隊長のモーリスおじい様は、今も親し気にアニエス様に名を呼ばれた。

「はい。護衛にジルがいましたし、……とても賑やかな一日で、遊ぶ事に夢中になっていました」

「ジルは、この縁が愛しくて騎士を辞めてしまった。優秀な子だったから、残念に思ったのを覚えているわ。この日は、腕白な闖入者もあったでしょう?」

 離宮の主であるアニエス様は、秘密の場所の提供者でもある。
 キャロルの事だけでなく、何でも知っていそうな口ぶりに思わず苦笑する。この方は、どこまで知っているのだろうか。

「あの日が、今の始まりになりました。アニエス様が申請を焼却して下さったから、私はノエルとしてアレックス殿下にお会いできたんです。申請が残っていたら、今はなかったでしょう」

 きょとんとした表情を浮かべて、アニエス様が笑いだす。大きな笑い声に近衛騎士が振り向くと、気にするなと慌てて手で払う。

「あの子は、嘘をついたのね! 帰ったら悋気を揶揄わないといけないわ。焼却したのは、カミュなの。唯一だったアレックスを取られるのが、嫌だったのでしょう」

 小さな嘘に思わず天を仰ぐ。秘宝を返しに行く道で、焼却されて記録がないと言ったのはカミュ様だった。大人しそうに見えて、カミュ様は怒ると激しい。特にあの頃は、アレックス王子への執着はとても強かった。

「あの頃のカミュ様なら納得です」
 
 カミュ様にとって、あの頃の私は暫定三位の友達だった。大事な友達の一人になれたのは、いつからだろうか。
 束の間、思い出に浸った私にアニエス様が目を細める。優しさに溢れた笑顔は女神様みたいに美しくて、思わず見惚れる。

「心を閉じてからのあの子には、アレックスしかいなかった。母として守る事は出来たけれど、外に向かわせる事は出来なかったの。でも、ある時から貴方達の名を口にする様になった。本当に嬉しかったわ。貴方達と出会えたから、誰かと繋がれる今のあの子がある」

 私に手を伸ばして、アニエス様が愛し気に頭をそっと撫でる。

「カミュの大切な友の一人に、私は心から感謝しています。私は貴方にお礼がしたい」

 私が息を吐くより先に、前を歩いていたバルト伯爵が肩を落とすのが見えた。

「バルト伯爵は、秘密を扱うのが上手よ。不必要な情報は、一切与えない。それが彼のやり方で、素晴らしい軍師だと信じているわ。でも、隠し事に気づきかけてる貴方には、秘密は不要だと思うの? ね、バルト伯爵」

「勝手になさって下さい。敵を欺く時は、身内から徹底的に欺くべきです。だが、今回は勘のいい小僧と綻びを広げるご婦人がいるので、ここで終いに致します」

 諦めたようなバルト伯爵の回答に、周囲の近衛からも小さく笑い声が漏れる。きっと私以外は全員、秘密が何かを把握しているのだろう。
 情報戦略室長の投げやりな許可を得て、アニエス様が私に問いかける。  

「この人数をどう思いますか?」

「少ないと思います」

 人質交換で見かけた謀反騎士の力量は高くなかった。正面からぶつかれば、こちらが負ける事は決してない。それでも、アニエス様が一緒なら数名は護衛について動けない。隠密行動とはいえ、敵の数に対して行動できる近衛が少なすぎる。

「少ないのは、少なくても足りるからよ。ここからは口外禁止のお話です。……ずっと昔、この国には季節が変わる度に新しい恋をしてしまう王がいた。妻である王妃は何を思ったかしら?」

「悲しくて、怒るか。呆れた……と思います」

「外れね。しなくてはいけない事があると考えたの。恋する女性としてではなく、王妃として考えて。では、次の問題よ。この王が生む問題点は何だと思いますか?」

 その問いかけに、じっと考えを巡らす。しなくてはいけない事ならば、王妃にしかできない事だろう。きっと王の私的な部分に近い筈だ。

「一つは、今代に悪評が立つ事でしょうか。それから……その、一夜を共にするのであれば、ご落胤の問題が次代に生まれると思います」

 浮気の定義に口ごもると、悪戯する様に頬をアニエス様がそっと撫でる。

「及第点ね。お手付きと吹聴する女性、落胤を宿した娘を次代の母と囲う貴族が現れた。王の恋は相手が多すぎて、嘘か真かもわからない。更に王が私的な事と言い張るから、臣下も強く諫言できずにいた。この件で強硬措置がとれるのは自分だけだと、王妃は自分に忠実な騎士を身分に関わらず集めた」

 王妃の集めた騎士達は、国王の浮気対処に動き出す。過去の浮気相手には清算を、今の浮気相手には管理を、未来の浮気相手には回避を。次々と打った手は、初めは上手くいっていた。でも、王が気づいて状況が変わる。

 身勝手な王は、王妃に浮気相手を知られる事を嫌い。徹底した管理にも不満を持った。対抗する様に、近衛や忠臣を使って浮気を王妃から隠し始める。

「この王様、最低ですね……」

 顔をしかめて不満を漏らすと、我が意を得たりと言うようにアニエス様が頷く。

「私もそう思うわ。王家の歴史書でも刹那的だと批判されてる」

 王の臣下による浮気隠しと、王妃の手下による浮気調査。喜劇の様な追いかけっこに聞こえるが、実際は国の最高峰による高度な諜報戦になった。
 実戦が人と組織を急成長させる。王妃の騎士たちは、秘密を暴く新たな技術を生み出して、戦いの技量も上げていく。

「技術は何処にいったのでしょう? 僅かしか騎士団には伝わってないように見えます。何故ですか?」

 音を拾う技術も、速度を高める技術も騎士団にある。でも、襲撃の偽装や別人に成りすます技術はない。

「王妃は考えました。夫みたいにダメな王が再び現れたら、同じ様に王妃が何とかしなければいけない! 技術の半分だけを騎士団に渡し、残りの技術と組織は秘密裏に女性王族に引き継ぎました」

 英断だったと思う。この国の女性は、当主だけじゃなく、騎士にも、文官にもなれない。王族と言えども、女性が力を持つ事は殆どない。

 浮気者の王は滅多にないれど、何かの事情で立ち行かない王は歴史の中で何度もあった。力を持たない歴代の王妃は、見つめるしか出来ない事に歯がゆさを感じていただろう。
 運命に流されて待つより、自分の手で状況を切り開きたいと思ってたはずだ。
 
「女性でも一番上にいれば、守りたいもの以上に守らなくてはいけないものがあります。王妃が残した彼らの存在は、女性王族の力となりました。平時なら知るのは、近衛団長だけです。国王に知らせるかも、時代の王妃の判断に任されています」

「今の主はブリジット様ですか?」

「ええ。でも、元主の私も時折お借りします。大事な日に、私に呼び出された者をご存知でしょう?」

 秘密の場所で、仕事の為に姿を消したモーリスおじい様。特別な日の舞踏会の為に用意された異国の馬車と御者。
 資材探しで遠くへばかり行く理由も、護衛騎士が知らない襲撃偽装ができる理由も、騎士らしさを纏わない理由も全てがここに繋がっていく。

「今代の国王は、存在を知っています。正規の諜報より早くて正確だから、ブリジットに頼んでよく動かしているようね。王に頼られる程に優秀でも、彼らは決して表に出ない。黒の近衛服に、生涯袖を通さない事もあります」

 通路の先に突き当たりが見えた。先導した近衛が道を開けると、アニエス様が壁に手を当てる。 

「『黒の近衛』と彼らを私達は呼びます。今宵もきっと役に立つでしょう。でも、誰と分かっても、口外は禁じます。彼らは女性王族の唯一の力です。私達も必ず次代に引き継がなくてはなりません!」

 全員が了承の一礼するのを見て、城に繋がる最後の扉をアニエス様が開く。目の前に上へと向かう階段が現れた。
 繋がる先がどこか、今ならはっきりと私は答えられる。
 階段に一歩足を踏み出す私の耳に、アニエス様が赤い唇を近づける。

「年境の直前にモーリスが連絡をしてきたの。『黒の近衛』を城に置いて欲しいと娘婿が頼んできたそうよ」
 
 調印式から姿を消していた父上の話に、背中で諦めたようなバルト伯爵の溜め息が聞こえた。

「アニエス様とは、秘密を共有したくありません。しかし、話しても良い潮時ではあります。君の父君はヴァイツにいる。調印時にヴァイツの装備が交戦を想定している事に気付いて、王都に帰る振りをしてヴァイツ国内に戻った」

 一緒に行方が分からなくなていたのは、事前の調停に同行していたギスランさんと第二騎士団の人たちだ。副室長さんが前に教えてくれた事を思い出す。調停で父上がヴァイツの王都に滞在している間、ギスランさんは国境沿いで進軍に備えた罠を張っていた。

 使わなかったその罠を、父上たちは今回使うつもりなのだろう。
 大丈夫と確信した私を、バルト伯爵が鋭い眼差しで見る。

「そうやって気づくから、君には情報を与えなかった。敵地にいる者達を守る為には、決して悟られぬように隠す事が重要だ。一応、心配させた事は謝ろう」

 ちっとも申し訳なさそうじゃない顔で、バルト伯爵が謝罪する。唇を噛んで不安だった日を数える。
 怒る事は出来ない。悔しいけれど、判断は正しい。非情だけど、上手い。
 
「良い判断をして頂き、有難うございました」

「納得するか……可愛げがない。年境の城の警備を、何度も直せとあの方は言っていた。理由を問えば、勘だと言う。兵の不足から私は保留にしていた。業を煮やして、モーリス殿に頼み『黒の近衛』を滑り込ませてきた。あの勘の鋭さは、一種の才能だよ。私はまだ当分、勝てない気がする。だから……」

 言葉を止めたバルト伯爵が、何か言いたげに私を見つめる。中々口を開かない様子に、アニエス様が吹き出す。

「貴方が憧れるレオナールは、その気にさせるのも上手いと聞いているわ。真似てみたらいかが?」

 アニエス様の言葉に、バルト伯爵が私を睨む。どう見ても、人を鼓舞するより威圧するような眼差しだ。でも、怯えない。瞳の奥には、少しだけ優しさが見える。

「不確定要素を引き寄せるのも、戦いでは重要だ。ジルの行動は、我々の命令ではない。彼の意志だ。その意図は彼自身にしか分からない」

「大丈夫です! ジルは、絶対に大丈夫なんです」

 初めて柔らかい笑みを、バルト伯爵が一瞬見せる。

「それは、勘か? あの方も含めて、色々な者が君の同行を勧めてきた。確信のない勘だと、皆が口を揃える。熟慮した上で、ジルを不確定要素とみなす。敵か味方か。上手く使えるか使えないか。君が引き寄せろ。分かるな?」

「分かります!」

 私を追いこしてバルト伯爵が階段を登りきる。ドアを開いた私たちが出たのは、雑多なものが並ぶ倉庫の中だった。
 黒い近衛服に仮面で顔を隠した男が、アニエス様の前に進み出て礼をする。

「ファビオから伝言を受け取り、お待ち申し上げておりました」

 仮面の下の糸の様な目にも、低い声にも聞き覚えがある。マクシム伯父様と呼びそうになって、慌てて口を押える。

「私達の『黒の近衛』は、無事ですか? 城内の様子は?」

「お心遣い、有難うございます。『黒の近衛』は全員無事です。既にご指示があった襲撃偽装の準備は終えております」

 アニエス様が頷くと、バルト伯爵が『黒の近衛』姿の伯父様と作戦の確認を始める。
 捕らわれたふりをしていた『黒の近衛』に伝言を運んだのは、カミュ様と誓約を結んだファビオだった。

 人質交換がなければ、今日の作戦を伝えるのは難しかった。誓約がなければ、ファビオには伝言を任せられなかった。カミュ様の優しい強さがなければ、国政管理室は決断を許さなかった。
 運命を分ける不確定要素がここにも一つあって、それは引き寄せられた。

 幸先の良い流れを感じながら耳を傾けていると、ドアがそっと開いて『黒の近衛』が一人飛び込んでくる。

「隊長、失策です。あっ! アニエス様! バルト伯爵! 主ちゃん! もう来たの?」

 マスクで顔が分かりにくいけど、軽い声と話し方には覚えがある。年境の行事の日に、ジルにじゃれてきたカイだ。アニエス様の前で、慌てながらもきちんと騎士の礼をカイがとる。

「何があった?」

 マクシム伯父様に尋ねられると、マスクの下でカイの眼差しが真剣なものに変わる。

「鍵の持ち出しは失敗です。ファビオが捕まりました。現在、ベッケルがファビオを軟禁中です。場所は、一階の控えの間に誘導しておきました」

 失敗の言葉にバルト伯爵が忌々し気に舌打ちをする。

「ファビオに頼んだのか? 君たちが動いた方が、良かったのではないか?」

「鍵はベッケルが肌身離さず持っており、息子のファビオを動かすのが一番穏便な方法でした。彼はカミュ様への忠誠心が強く、上手く地下室までお持ち頂けそうだったのですが。期待通りにはいきいませんね」
 
 失敗と言ったが、マクシム伯父様に焦りはない。カイも誘導したと言っていたから、きっと次がまだ残されている。
 
「次善策はどうなっている?」

「元の計画通りです。ベッケルだけならば、荒事ですが直接奪うのが早いでしょう」

「ジルベールの所在は?」

 矢継ぎ早の質問に、マクシム伯父様が淀みなく答えていく。

「三階の謁見の間におります。数日前からベッケルとジルベールの間に、不穏な気配があります。協力の為に直ぐに動き出す事は、ありえません」

 マクシム伯父様の発言を裏付ける為に、カイが手をあげる。

「はい! 報告します! 控室の会話を聞いて来ましたが、ベッケルは秘宝が取られるとか、立場が悪くなると零してました。息子の裏切りをジルベールには、まだ伝えていないようです」

「――という事で。当初の予定通りに、やられた事をやり返したいと思います」

 目を閉じる様に晴れやかに笑って、マクシム伯父様がバルト伯爵に次善策を伝える。適切な訂正をバルト伯爵が入れて、細かい所を確実に潰していく。
 瞬く間に計画が整うと、二人がアニエス様に一礼する。

「ここに残るよりも、ご同行頂く方が安全です。身をお任せ頂けますか?」

 表情を引き締めて、アニエス様が頷く。

「結構です。私は貴方達の判断を尊重いたします」

 アニエス様の許可を得たマクシム伯父様が、カイと一緒に動き出す。部屋を飛び出す寸前に、カイが足を止めて踵を返した。
 倉庫の荷物から、黒い近衛服の上着を一枚取り出して腰に巻きつける。
 誰の為の上着か気づいて、『黒の近衛』はジルが『うち』と呼んだ場所だと思いだす。
 信じているのも、取り返したいと思っているのも、私だけじゃない。
 
「お気をつけて! また、後ほどですね!」
 
 声を掛けるとマクシム伯父様が軽く手を上げて、カイが嬉しそうに拳を突き上げた。


 二人が出ていった倉庫の中で、物音に耳を澄まして始まりを待つ。耳の奥で鼓動が早くなっていくのが聞こえる。

 焦ったらいけない。心に言い聞かせると、傷つくなと言った眼差しを思い出す。
 愛しい人の為に、私に出来る事がある。だから、少しの傷は許して下さいと心の中で呟く。
 約束を守って欲しいから、貴方に会いたいと願うから、ここは絶対に乗り越える。

 襲撃を思わせる小さな爆発音が、遠くで連続して響いた。体中を血が巡っていく。

「ノエル! 魔法は使用せずに、魔力の動きを見ろ」

「はい!」

 感覚を研ぎ澄ましていくと、夜の闇に溶けた魔力が直ぐに反応を教える。

「二小隊、三十……四十五名が東の文官棟、三小隊が四十、五十名が西の騎士棟に向かって動きました。今……中庭を通過してます」

 バルト伯爵が顎を上げて、私の発言の確認を近衛に促す。少しだけ近づいた気がしたけれど、バルト伯爵からの信頼はまだ低い。

「間違いありません。謀反者には、連携も思慮もないようです。音に引かれる様に動いてます。あぁ、二小隊が更に動く気配が増えました。二十を数えて外に出るのが、頃合いかと思います」

 バルト伯爵のつま先が、小さく床を叩く。コツコツと響く音を、心の中で数えて待つ。  
 二十の音と共にドアを開いて、研究棟の中庭に一斉に駆け出す。半分の騎士がアニエス様を守るように取り囲み、残った騎士が研究棟の庭にいる僅かな謀反騎士に向かって剣を振う。
 叫ぶ暇も与えない、素早い身のこなしと剣速に思わず息を飲む。私が知る剣技とは、段違いの腕前だった。
 
 謀反騎士を一瞬で近衛が倒して、人影があっという間になくなる。難なく研究棟を駆け抜けていく。

 中央の中庭は、流石に同じようにはいかない。広い敷地には、謀反騎士の歩哨がまだ残っていた。敷地が広いから人数もやや多く、距離も遠い。全員を一瞬で倒す事は流石にできない。
 アニエス様を守らない近衛が一斉に駆けだす。魔法を書く謀反者を確認したバルト伯爵が声をあげる。

「魔法の使用を解禁する! 片付けながら中央扉に向かえ!」

 私も術式を書いて魔力を乗せる。文官棟に救援を求めた歩哨を一人倒して、腰から二本の剣を抜き放つ。切りかかってきた謀反騎士の一撃を受け止めて、空いた剣を横に払う。

「一撃で倒せ! 時間の無駄だ!」

「すみませんでした!!」

 バルト伯爵の怒声に叫び返して、二人目に剣を振う。
 情報戦略室にだけはいかない。絶対に騎士にはならない。バルト伯爵は怖いし、仕方ないと分かっていても実戦で人に剣を振うのは苦しい。
 
 剣戟と魔法の交錯する音が、幾つも周囲で響く。振るう剣はいつもよりもずっと重く、僅かな時間は長く感じる。それでも、手の平から大切なものを零さない為には、手を止める事は許されない。

 私が一人倒す間に、近衛は二人以上倒していた。近衛が別格に強いのもあるが、謀反者の技量が低い。増援を呼ばれる事もなく、中央棟の正面扉に滑り込む。

 中に入ると同時に、黒の近衛が大きな中央扉を閉じて鍵を掛けた。外から体当たりをする謀反騎士の怒号が聞こえて、魔法が放たれる。
 土魔法で補強した扉に、近衛が結界魔法を重ねがけると、外からの音は響かなくなった。

 中央棟の中心に繋がる全ての扉で、黒の近衛によって同じ事が行われている。
 私達の計画は、ジルベールとベッケルが城を奪った方法と同じだ。襲撃偽装で兵力を分散して、中央棟の中心に繋がる通路を閉鎖して締め出す。
 これは短期戦で、任務は結界の解除。鍵を奪えば、地下の結界室だけを私達は守ればいい。結界さえ解除できれば、国王陛下とヴァセラン侯爵の本隊が速やかに城門を落とし入城する。そうなれば、謀反騎士の一掃は容易い。

 中央階段から足音が聞こえ始めて、黒の近衛が段下で剣を抜く。
 私にできる事を探して魔力に意識を向ける。

「バルト伯爵、上階から降りてくる騎士の数は三十程です。あとは、謁見室前で待機する様子があります」

「よし。狭い場所の守りだ。近衛をあと一人残せば十分だろう。鍵を奪うまで、ノエルは魔力に注視しろ。上階が更に大きく動くなら人を増やす」

 厳しい人に、よしと言われると素直に嬉しい。
 階上の足止めが整うと、私達は一階を控室に向かって駆けだす。締め出しが功を奏して、廊下で謀反騎士に会う事はなかった。
 閉鎖に回っていた黒の近衛が次々と合流してくる。控室の前では、既に警備の騎士を倒し終えたマクシム伯父様とカイが待っていた。

「中の様子はどうだ?」

「異変には気付いているようですが、自ら動く事はしていません」

 その言葉に頷いて、扉の両脇に近衛が添うように身を寄せる。バルト伯爵がベッケルがいる扉をじっと見つめて、マクシム伯父様に問いかける。

「謀反騎士の練度が低い。これで勝てると思う程、ベッケルもジルベールも無能だったか?」

 謀反騎士の能力が低いのは、私も感じてた。改革反旗派と呼ばれる貴族とその私兵が多いが、魔法も使えないお金で雇われた庶民も含まれているように見える。
 これでは、結界で城に籠る事は出来ても、外に打って出る事は不可能だろう。

「打って出るつもりがないか、何か秘策があるのでしょうか?」

「……秘策か。判断材料が少なすぎるな。今は仕方あるまい。陛下にご入城戴く為にも、結界の解除を優先する。ドアを開けろ!」

 近衛が扉を押すと同時に身を隠す。部屋の中から、扉が開くのを見計らった魔法が放たれる。
 魔法が壁に当たって弾けると同時に、二撃目に備えた術式を纏いながら近衛が中に飛び込む。二撃目の魔法が相殺される音と共に、バルト伯爵に続いて私も中に飛び込む。

「ベッケル・ナタン! 王家に弓を引いた罪を贖って貰おう」

 室内には怒りに燃える目をしたベッケルと、その背後で椅子に縛られたファビオがいた。

「黙れ! 罪とは何だ? 長く続く公爵家が能力で淘汰されようとするのに、王家には特別な血で優遇される者がいる。不公平と感じ、正そうとする事は誤りなのか? 王家とは血か? 容姿か?」

 アニエス様の肩がピクリと動く。ベッケルが糾弾したのは、シーナに似た容姿で特別視されるカミュ様の事だ。
 前に出ようとしたアニエス様を、バルト伯爵が押しとどめる。顔を歪めたベッケルが尚も叫ぶ。

「我が家も、落胤の姫を遠き日にお預かりした。黒目黒髪の者なら、ベッケルの歴史にもいた。ファビオにも、僅かに黒い瞳の名残がある。なのに……王位継承者どころか、公爵家からの格落ちが取り正される! 何故だ? 息子にもその機会があって許されるはずだ!」

 怒りに任せたベッケルが魔法を放つと、近衛の二人が対抗する様に魔法を放つ。一つの魔法がベッケルの魔法を相殺して、その影から別の魔法がベッケルを襲う。
 届くと思った瞬間、ベッケルとファビオを囲む様に小さな結界が現れて弾く。

「地に結界を描いたか!」

 魔法で書く結界よりも、城の結界の様に地に書く結界の方が、発動に時間は掛かるが強い。強固な結界の中で、ベッケルが自分の主張を一気加勢にまくしたてる。

「アングラードやヴァセラン、シュレッサー、バルト、ボルロー。格下貴族に昇格の声が上がる度に、我が家には存在を疑う眼差しが向けられる。長年の功績は、灰塵の如く散るものなのか? 私の次で、息子の代で、ベッケルが凋落するなど認めぬ!」

 ベッケルの主張が、実力主義への不満と、ファビオが王になる正統性を行き来する。その中で見えるのは、公爵家の功績を忘れた国への怒りと、息子への強い思い。そして、凋落への恐怖だった。

 ベッケルが一際大きな魔法を放つと、近衛の一人を押しのけたアニエス様が対抗する魔法を書く。
 弾けた風圧を受けて金の髪が一筋落ちても、たじろぐことなくベッケルを睨む。

「私は、特別な血を深く調べたから知っています。ベッケル公爵家に嫁いだ姫には、特別な血はありません。貴方の主張する優位性が、ファビオにないんです」

「嘘をつくな! 自分だけが特別な子の母として、良い思いをする気か?」

「黙りなさい! 良い思いをする? 特別であると言う事は、特別である責を負います! あの子はずっと期待に潰されそうだった。特別に生んでしまった事を、母の私は心の中で何度も謝ってきた。今を笑って生きるあの子の強さを、私は誇ります。だから、楽をした言われるのは、許せません!」

 アニエス様が叩きつける様な魔法を、ベッケルに向って放つ。その魔法はベッケルの結界によって、弾けて消える。

 その背後で、拘束されたファビオが悲し気にベッケルの背を見つめていた。謀反者となった父親と忠誠を誓った主。ファビオの心は今、どちらを思っているのだろうか。

「父上、――」

 ファビオの呼びかけを無視して、ベッケルがアニエス様に答えを返す。

「特別な者の人生がどんなものかを、凡人の私は存じない。だが、特別な者側である貴方は、凡人の人生を知らない。容姿で地位を得られる事が、凡人から見ればどれ程の幸運か。貴方は心得ているか?」

 その答えに目を閉じる。相容れないと宣言するような回答だった。
 影にある努力も、苦悩も見ない人がいる。手にしている結果だけを、羨んで妬む人がいる。

「父上! 私はカミュ様をに忠誠を誓いました。本当に素晴らしい方なんです。上に立てる優しさがあります。特別に相応しい強さもある。私は臣下として、父上の発言を許しません!」

 椅子に拘束された体で、ファビオが首を深く折って叫ぶ。上げた顔を歪めると、懇願する様にベッケルの背に何度も頭を下げる。

「私が不甲斐ないから、父上を追い込んだ。中央が無理なら、良き領主であろうとしました。分っているんです。ベッケル公爵家の跡取りとしては、良き領主では駄目なんですよね?」

「お前が駄目なのではない! お前を認めないこの国が間違えている。その目があれば、お前の価値を――」

 ファビオに背を向けたままベッケルが叫ぶ。怒りに身を震わせてアニエス様がベッケルの言葉を遮る。

「もう一度、言います。ベッケル公爵家に特別な血はありません。記録が残されてます。宰相の貴方なら、望めば調べる事もできた。確認しなかったのは、答えが分かっていたからなのでしょう!」

 否定されたベッケルが、ファビオに背を向けたまま強く唇を噛む。僅かに血をにじませた唇を開いて、怒りを込めた雄叫びを上げる。

「そんなもの知らぬ! 父であるから、ファビオの本当の良さが分かる。記録を見る必要も、確認する必要もない。私は、この子が正当に評価される為に、ベッケル公爵家が公爵家であり続ける為に、私は……私は……国を……」

 ベッケルの体が激しく震えて、怒りと悲しみに表情を目まぐるしく変えていく。明らかに言葉と感情がおかしくなっていくベッケルに、アニエス様が引くことなく向き合う。

「信じるのは親として、間違えじゃない。私だって息子を信じてる。でも、真っ直ぐ向き合わなければ意味がない!」

 ぴしゃりと言い放たれた言葉に、ベッケルが震える指で新たな術式を書き始める。大規模な上級魔法の術式だと気づいて、近衛たちがアニエス様を庇うように前に出て対抗の為の術式を書く。

 引き絞るような緊張の中で、ファビオが拘束された体を必死で捩る。椅子が激しく揺れる音が、私たちの間の空気を揺らす。

「父上! お止め下さい! どうか、もう一度だけ私を見て下さい。公爵家の子息として不足でも、目を逸らさずに見て下さい。謀反者の息子になった私を見て下さる方もいるのに、父である貴方が私から目を逸らすのですか?」

 悲痛なファビオの叫びに、最期の一文字を書く前にベッケルが手を止めた。強張った表情でゆっくりと振り返る。

「ファ……ビオ……、私はお前を見てる。だから、お前をもっと認……」

 戸惑うように自分を見つめたベッケルに向かって、ファビオが幼い子供の様に大きく首を振る。

「父上は知っていますか? 領主の仕事には、私は自信があります。領民は良く慕ってくれていますし、今年の計画は最上の評価を頂きました。心から仕えたい方に出会え、忠誠を捧げる事を許して頂けました。私の人生は満ち足りています。父上が思っているよりも、私は自分にずっと満足しているんです」

「だが、ベッケル公爵家は……」

 震える声で答えを求めるベッケルに、自信に満ちた眼差しをファビオが向ける。
 強い人だと思った。自分を見つめて、今を幸せだと言い切れる。それは簡単なことじゃない。

「望まれる公爵子息になれなかった事は、心からお詫びします。時代の流れに埋もれる責を負う覚悟はできています。汚点は戒めにして次代に繋ぎ、ベッケルを凋落したまま終わらせる事はしません。だから……私とベッケル公爵家の未来を奪わないで下さい」

 私達に背を向けたままのベッケルが、その瞬間どんな表情をしたかは分からない。
 一斉に放たれた近衛の魔法が、不安定になったベッケルの結界を破って壊れる音が響いた。黒の近衛が一瞬でベッケルを床にねじ伏せる。

 最後は何の声も上げず、抵抗もなく、謀反者ベッケル・ナタンは拘束された。

 親ではない子の私には、その瞬間のベッケルの心中は分からない。術式の一文字を思いとどまらせたのは、後悔なのか、優しさなのか。嘆きなのか、愛なのか。
 分からないけれど、拘束される瞬間にファビオはベッケルに向かって微笑みかけた。だから、悲しい結末じゃなく、希望を残した選択だと信じたい。


 拘束されたベッケルは、目を閉じたまま壁にもたれて、何かが抜け落ちた様に脱力していた。
 バルト伯爵が結界室のカギを探ると、渇いた唇から微かな声が落ちる。

「……悪い夢を見ていた心地がする」

 不快そうに鼻をならして、バルト伯爵が冷たい眼差しでベッケルを見下ろす。

「何を今更、言っている」

「許しを請う訳ではない。事実を言葉にしているだけだ。ジルベールと出会ってからあった、煽るような焦燥が消えた。今の清々しさが何時まで持つかわからぬからこそ、状態を伝えておくべきだろう。魔物の王に魅入られた者は、確かに心の一部が狂う」

 目を開いたベッケルは、これまでよりも更に穏やかな表情をしていた。憑き物が落ちたと表現しても良い様子に、全員が困惑したように眉を顰める。

「結界の解除術式は、ファビオの血で書くと宜しい。血を引く子の魔力は良く馴染む。解除が簡単になるであろう。謁見室からジルベールは動いておるかね?」

「……ノエル、動きはどうだ?」

 命じられてから、魔力の感覚はずっと切らずにいた。大切な人の魔力は謁見室にずっとある。その近く感じる冷たい魔力がジルベールだろう。

「謁見室にあるジルベールの魔力は動いていません」

「ならば、注意なされよ。ジルベールは、未来を微塵も考えていない。ただ、壊れる事だけを望んでいる。ファビオでは果せませんでしたが、あの男の息子には秘宝が僅かに反応をしめした。数日前は怪我もあり染め直しに至らなかったが、回復した今なら可能かもしれませぬ」

 バルト伯爵が、ベッケルの胸倉を掴んで引き寄せる。

「まだ、戯言を弄するか? 彼の母親は、庶民であった筈だ?」

「秘宝が反応するのを、確かに見たのだ。染め変えができれば、城や王都の街中でも躊躇なくジルベールは秘宝を使わせるだろう」

 苛立たし気にベッケルを突き放すと、バルト伯爵が一人の黒の近衛に監視を命じる。結界室に向かいながら、アニエス様とマクシム伯父と私を残して、人払いする様に他の騎士に先を行かせる。

「マク……いや、黒の近衛団長。それに、ノエル。ジルの事で、知る事があるか?」

 私とマクシム伯父様が、互いに顔を見合わせる。可能性を知らせる事と、口を閉ざして変わらない事。ジルは、どちらを望むのだろうか。

「否定しないのは、心当たりがあるからなのか?」

 迷う私の代わりに、マクシム伯父様が口を開く。

「ジルの魔力は記録上は上位でしたが、実際はトップクラス以上ありました。庶民と思えぬ結果に、教師が記録を下げた可能性が高い。長い歴史の中に、落胤は確かに存在します。母親は旅の踊り子ですが、現実を直視すれば落胤の末の可能性はあるでしょう」

 マクシム伯父様の言葉に、場にそぐわないうっとりとした溜め息をアニエス様が漏らす。落とされそうな爆弾の気配にバルト伯爵が頬を引き攣らせる。

「今度は何ですか、アニエス様?」

「歴史の可能性に酔ってしまいそう。旅芸人は、遥昔に滅亡したファルシャーン王族の末裔という話しがあるわね。最後のファルシャーン王の妃は、マールブランシュ王国の落胤の姫だったわ」

 秘宝の染め変えはないという前提が崩れて、私達を取り囲む状況が一変する。
 可能性の爆弾に、バルト伯爵が髪を掻きむしって思考に沈む。
 
「染め変えが秘策なら、私であれば陛下の入城を待つ。王都の騎士に壊滅的な打撃を与え、国王を失わせる事ができるからだ。撤退しても、今度は打って出てくるだろう。街中で交戦すれば、庶民にも被害が出る。……賭けになるが、ジルベールとジルの拘束にこのまま向かう!」

「ジルは絶対に大丈夫です」

 またかと言うように、冷い眼差しをバルト伯爵が私に向ける。負けじとしっかり見つめ返す。

「絶対に、絶対にジルは大丈夫です。命に代えても保証できます。何かあっても、私がジルを取り戻します」

「君の命の補償などいらん!」

 怒鳴りつけられても譲れない。人質交換の前に、ジルは私の幸せを必ず守ると言ってくれた。忘れないで、信じて欲しいと願ってくれた。
 最悪の状況の今だからこそ、私は私が知っているジルを信じる。

 身を固くした私の腕を、柔らかい手がそっと掴む。私を引き寄せたアニエス様が、頬を掴んで瞳をじっと覗き込む。

「綺麗な瞳……。少しも迷っていないのね。本当に染め変えられてしまったら、使えるのはジルだけよ。分っているわね?」

 その言葉にしっかりと頷くと、アニエス様がバルト伯爵に振り返る。

「バルト伯爵、ジルは不確定要素なのでしょう? 秘宝が一つになれば、ワンデリアが厳しくなる。ならば、私もノエルを信じてみたい」

「……」

 頬を引き攣らせるバルト伯爵の前に、マクシム伯父様が私を庇う様に出る。

「陛下が入場する前に取り返します。黒の近衛が参ります。万が一、秘宝が使われた場合でも、我々が出来る限り引き受けます」

 大きくバルト伯爵が床を蹴る音が響いて、先を歩んでいた騎士たちが振り返る。

「黒の近衛は、秘宝奪還の為に私と共に謁見室に向かえ! 近衛はアニエス様を守って、結界の解除だ! 解除でき次第、上階の援護に来い。アニエス様は結界が解けたら、国王陛下に連絡をお願いします」

 感謝を込めて見つめると、踵を返した背でバルト伯爵が私に命じる。

「ノエル! 使わせる事は許さぬ。使わせる前に倒すか、引き寄せろ!」

「はい、お約束します!」

 近衛がファビオとアニエス様を連れて、結界のある地下に向かう。黒の近衛とバルト伯爵と私は、中央階段を上階へ真っ直ぐと進む。

 足止めする謀反騎士の力は強くないが、上階に進む程にその数は増えていく。両手に構えた剣を振って、次々と駆けおりてくる騎士と剣を合わせる。

 周囲で戦う黒近衛達は、柔軟な剣筋で狭い場所でも難なく剣を振るう。その剣筋は、ジルが戦場で見せたものと同じだった。
 
 切りかかった謀反騎士の剣を受け止めると、その背を黒の近衛であるカイが一閃する。

「主ちゃん! 疲れてない? あのさ、ありがとうね。君の側でのジルは、どんなだった?」

 庇うように私を黒の騎士達の内に押しやりながら、カイが少し照れたような顔で尋ねる。

「優しいです。面倒見が良くて、いつも笑ってて、何でもできて。側に居てくれたら、一番安心できる大切な人でした」

 階段を登り切って廊下に駆けだす。謁見室に向かう角を駆けてくる騎士に向かって、話しながら器用にカイが術式を書く。

「そっか。初めて会った時のジルは、何もかも信じないって顔してた。きついし、暗いし、自堕落的で……。あっ、本人には内緒ね」

 文句のような言葉なのに、仮面の下の眼差しはとても優しい。小さく私は微笑み返す。

 カイが出会った頃が、ジルにとっては一番苦しい時期だった。悲しい事や悔しい事に潰されて、憎しみに溺れそうになりながら生きてた。

「皆さんと一緒の『うち』であるここを、居心地がいい居場所だったとジルは言っていました」

「へぇー、居心地良かったんだ。ちゃんと食えとか、もっと笑えって、アイツを見てると言いたくなるんだ。だから、うるさいってジルはよく怒ってた。それでも、気付けば花街に逃げなくなって、『うち』はジルの居場所になった。でも、今は主ちゃんが居場所だよ。舞踏会の帰りの馬車で、ジルは君の幸せを嬉しそうに俺に話してくれた」

 舞踏会の馬車にいたのは、私とジルと見知らぬ異国の御者に扮したカイ。
 ジルが背を押してくれたから、キャロルとして私はアレックス王子と結ばれた。帰りの私は幸せが胸に一杯詰まっていたから、夢を見るような足取りでドレスの裾を摘まんで何度もジルに回って見せた。
 回る度に幸せだと言って私が笑うと、ジルは宝物を見つけたみたいに笑って頷いてくれていた。

 胸が『ありがとう』の言葉で溢れて壊れそうになる。アレックス王子が言った言葉の意味がわかる。世界で一番、ジルは私を大切にしてくれている。

「あの時は、お世話になりました。私はジルに返せない程の愛を貰ったままです。返せるでしょうか? 返し足りなくても、ジルは笑ってくれると思いますか?」 

「うん。ジルは返して欲しいわけじゃない。大切な人が幸せそうにそこにいてくれる事が、ジルには大事なんだと思う。どんな形であっても、君が幸せならジルは笑う。一番の居場所の主ちゃんは、胸を張って幸せを選んでごらん」

「はい! 必ず取り返してきます! ジルに『ありがとう』って、たくさん言いたいんです」

 カイが腰に巻いていた黒の近衛服のジャケットを、マントの様に私の肩にかける。
 謁見室の手前に、一際多い謀反騎士の姿が見えた。

「『うち』の思いは君に託すよ。俺達が道を開くから、主ちゃんはジルを迎えに行って!」

 剣を握り直したカイが、速度を上げて飛び出していく。黒の近衛が次々と続いて、中央から謁見室までの道を全員で切り開く。

 この国の影の騎士達は、同じ居場所にいた仲間を信じている。同じ思いを抱きながら、託された黒の近衛服を羽織り直して、私はジルがいる謁見室へと駆けていく。





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