2018年12月19日水曜日

四章 六十三話 当主代行と変わり目 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 夜の闇を隔てた窓に映る自分の顔を見つめる。

 アングラード家に多い紫の瞳に、母親譲りの銀の髪。ゲームの中のキャロルと私には、外見上の違いはない。
 化粧を施して鮮やかなドレスに身を包んだ分、キャロルの方が綺麗なぐらいだ。

 行動にも八歳前に分岐する原因は、いくら考えても思いつかない。
 僅かな使用人に囲まれて、本を読んで、人形遊びをする。時々庭を駆けまわる事はあっても、決められた場所から出る事はない。
 この世界が「キミエト」である事も、自分がかつて美都だった事も知らなかったのだから当然だ。

「窓に映る自分を見て、何を考えているのかな?」

「はい。父上が私を大好きでなかったら、どんな人生になるのかと……」

 父上の手が伸びて、私の顔を窓から自分の方に向けさせる。
 やや目が泳いでいるから、私に言えないような事を画策した心当たりはあるのだろう。

「で、父上どうですか? 例えば、殿下の婚約者候補にでもさせましたか?」

「………………結婚なんかしなくていいと思う」

 長い沈黙の後、父上が頬を引き攣らせて言う。どんなに表情を隠すのが上手くても失敗する事はある。

 国王陛下の年齢から、私と近い年の子がいる事は容易に推測できるし、身分的にもつり合いのとれて婚約者候補には最適なのは間違いない。
 でも、どうして婚約者候補として出会った殿下は、キャロルとの再会を喜ばなかったのか。あんなに一生懸命探してくれたのに、ゲームの世界では余所余所しい。
 
 父上が手を一つ私の前で叩く。その音に弾かれる様に父上に視線を合わせる。

「ノエル、もしもの話はやめだ。今は現実にやるべき事がたくさんあるだろう?」

 やや焦った表情の父上に頷く。

 これ以上考えても、八歳以前の事を知るには限界があった。私の記憶にはおかしなところはないし、ゲームにはキャロルの過去の詳細な情報がない。あるとしたら、何かを知ってるルナの存在かとも考えたけれど、彼女がヒロインになったのは十歳の時で時期が合わないない。

 ルナは今どこにいるのだろうか。
 きっと同じ世界を知っている。何かがおかしいのか理由も知っている。きっと彼女は全てを知っているのだろう。だから、もう一度会えるなら、私の知る限りの事を話して、彼女が知っている全てを教えて欲しいと思う。

「では、大好きなお父様。話を変えましょう。アレックス殿下とカミュ様が、王位を望まないと言った意味を教えてください」

 少し甘えて聞いてた質問は空振りになった。父上が全然違う問いかけを返したからだ。

「ノエルは本気で、国政に関わる気がある?」

「はい。あります」

 真剣な眼差しの父上に、同じ様に真剣な顔で即答する。父上が小さくうめき声をあげて、自分の頭をぐしゃぐしゃに搔き回す。

「あぁ! ちゃんと確認しておく、殿下の事が……好きだからなのか?」

「……無いと言えば嘘になります。簡単に気持ちは離れません。でも、想いを返して欲しいとは望みませんよ。だから、一番の理由ではないです」

「じゃあ、改めて聞く何故望む?」

 歪めた顔に父上が浮かべたのは、親としての心配だった。

 一歩踏み出せば、父上の守る場所から飛び出す事になる。戦うのも守るのも、今度は一人になる時だってある。
 甘い気持ちに流されるのではなく、何処まで自分一人でできるのか。父上が知りたいのは私の覚悟と自信だ。

「誰にも負けないからです。大事な時に自分の力が届かず、後悔するような事は損失です。殿下が好きですが、友も好きです。屋敷の人たちも、学園の人も好きです。父上、家族が大好きです。私に大切なものを守る資格を下さい」

 真っ直ぐ見つめた私の頭を、父上の手がぐしゃぐしゃに撫でる。自分で乱した父上の髪と同じぐらい滅茶苦茶になった。

「大きくなったね。君はもう私のお膝の上には乗らないね」

「はい。でも、一生父上の子供ですから、まだ甘えますよ?」

 父上の髪に手を伸ばして、滅茶苦茶になった赤毛を整える。年齢よりもずっと若く見える甘い顔立ちには、整えた綺麗な髪型がよく似合う。笑い声とため息の両方を父上が漏らす。

「うん。ノエル。キャロル。どちらの君でも、私は幸せになって欲しい。最初の質問の答えは、殿下に聞きなさい。明日、殿下は必ず君を呼ぶ筈だから」

 優しい眼差しで大事そうに一撫で一撫、父上の手が私の髪を整え返す。その顔を見つめていると、幸せなのに胸が締め付けられるような気分になった。

――ノエル君さ、室長にちゃんと甘えてあげな。後悔は先には出来ないからね
 
 ギスランの言葉が頭を過ぎる。後悔は先に出来ない。まるでこの先、後悔する事があるかのような言い方だった。

 私の髪を整え終えた父が手を離して、背筋をしっかりと伸ばした。私をみる優しい眼差しが、強い眼差しに変わる。

「ノエル、君にはちゃんと力がある。今まで私が出してきた課題は、どれも実践と同じ内容だ。君の答えは、いつも本物より素晴らしい内容だった。自分の力に自信をもって、胸を張って構わない」

「はい。父上に鍛えて頂いた事を全力で活かします!」

「では、君にアングラード侯爵当主代行を任じる」

「ありが……と、う? えっ? えっ?」

 その言葉が理解できるまで、一体何秒かかっただろう。口を空けて私が五回目の「えっ」を繰り返した時、父上が堪らず吹き出す。

「ははっ、よく聞きなさい。君に任じるのはアングラード侯爵当主代行だ。つまり私が不在の間、私の代わりを務めるって事だよ」

「当主代行!」

 私は跡取りとして周囲にも認識されているから、当主代行を任じられることは不自然ではない。それでも、突然言われればば驚く。

「自信ない? 当主代行は出かける用があるから、その用意だ。ワンデリア領主もちゃんと任命してあげるよ」

「自信はあります! でも、でも、父上はどこへ行くのですか? コーエンですか?」

 父上の行き先がコーエンじゃない場所だと既に気づいていた。国政管理室の長が、中央から姿を消すほどの大事は一つしかない。

 国政管理室で新人くんが言い淀んで、副室長が秘密と告げた。戦う前に絶対に止めなきゃいけない場所がある。

「十日後にヴァイツに調停に行く。心配しなくていいよ。人を煙に巻くのは得意だから、直ぐに帰ってくるよ。書記官のギスランも一緒だし、第二騎士団の精鋭が同行してくれる」

 アレックス王子に父上が語った文官はギスランなのだろう。
 結婚を白紙にした理由は、生きて帰って来れない可能性があるからだ。生家の爵位の低い未亡人は苦労が多い。
 未練を残さずに、次の人生を彼女が切り開けるよう酷い事を言って身を引いた。

「父上、何故第一騎士団じゃないんですか?」

 最も強いのは第一騎士団でいくつも隊がある。多分、どの隊でも第二騎士団の精鋭より実力は上だ。
 父上が連れて行くのは第二騎士団で精鋭。精鋭は言い換えれば、同行人数が少ないという事になる。 

 私の辿り着いた答えを読み取った父上が目を細める。

「君は本当に敏い。でも、今回は外れてる。犬死の人選なんて私はしないよ。第二騎士団の精鋭は、中小規模の戦略にとても優れている。それに私とギスランもいる。私はこの国で最高の闇魔法の使い手だし、ギスランは水魔法なら三本の指に入る」

「……」

 この国の一線を守れる存在。ギスランに代りがいないのなら、父上に代わる人もいない。握りしめた私の拳を父上の指がゆっくりと解いていく。

「モーリス義父様の次男が第二騎士団にいてね。一緒に同行してくれるんだ。ソレーヌの小さい頃の話が聞けるから、移動が楽しみだよ。ちゃんと国賓待遇での訪問だから、美味しいものも沢山食べれるだろう。ヴァイツは肉詰め料理が有名だね。君はお土産に何が欲しいかな?」

 笑いながら父上は語るけど、ヴァイツの国賓待遇が当てにならない事は誰でも知っている。好戦的な国は、敵国の使者を殺す事を過去に何度もしてきた。
 既に相手が交戦の準備に入っている中で、第二騎士団の精鋭のみで行って決裂すれば命はない。

「父上、お土産を買う暇はありませんよ。早く帰って来ないと、私が活躍しすぎて当主の座を奪ってしまいます。お母様だって頬を膨らませて怒ります。だから、急いで、必ず、絶対に帰ってきてください」

 行かないでと言って止める事はできない。当主代行の私の役目は、大局を見誤らないこと。
 私情を捨てる覚悟。関われない事に口を噤め。父上の言葉はいつも先を見越している。

 父上が解いた指で、父上の手をにぎりしめて肩に凭れる。

「心配しなくていいよ。絶対に私は帰る」

 私が継ぐべき当主の仕事を父上が語り始める。一言も漏らさないように耳を傾け、一言だって忘れないように何度も頷く。
 
 後悔を残さない。そんな事を考えたくない。
 移動する馬車の外には、真っ暗な夜が広がる。夜は始まったばかりだった。


 翌日、早めに起きたけれども父上には会えなかった。執事に聞けば日の出と同時に城に向かったらしい。

 朝食を終えて、正装に身を包む。話し合いの後、当主代行と領主の指名を国王陛下に報告するそうだ。手が空くなら挨拶の時間を設けるから、出られる支度をして待つよう伝言が残されていた。

「ジル、待っている間に片付けたいことがあります。父上の書斎を借りましょう」

「それなら、執務室の方がよろしいでしょう」

 ジルの言葉に首を傾げる。
 私が何か作業をする時は別邸の父上の書斎か、自室である事が多い。執務室と言えば、隠し扉にある部屋だ。あの場所だけは父上の魔力がないとは入れないから、私も自由には使えない。

「旦那様より申し付かっております。向かいの一室を賜るそうです」

「あれは私の執務室なんですか? ずっと父上の倉庫かと思っておりました!」
 
 素っ頓狂な声を思わず上げてしまう。
 私が十一歳の時に隠し通路に新しい扉が出来た。その部屋の用途はずっと秘密で教えて貰えなかった。

「はい。私も倉庫かと思っておりました。あの頃からノエル様の為にご用意されていた部屋だそうです。既にドアに魔力を流し込めば、持ち主として登録できると伺っています」

 直ぐに駆けだして、ジルと共に書斎から隠し扉に抜ける。何度も通っているうちに存在すら忘れかけてた開かずの扉、振り向けば対をなすように父上の書斎がある。

 銀色に輝くドアノブを握って、ゆっくりと魔力を流し込む。するすると魔力が抜ける感触がして、ドアノブが黒に染まっていく。完全に黒に染まり切ると、魔力が流れ込むのが止まった。ゆっくりとドアノブを回す。

 父上の部屋とほぼ同じ配置の執務室は、まだ書類や本が殆どなくて空っぽにに近かった。
 
「ジル! 凄いです! 私の執務室です。父上みたいに世界の地図とこの国の地図を飾りましょう!」

 くるくると廻りながら、部屋の中を眺めていく。がらがらの書棚の一角には、父上の別邸の書斎に置いていた資料や本がすぐに使えるようにきちんと移されていた。

「これ、移してくれたのはジルですか?」

 よく使う順番に整理された書棚の一角を手で撫でる。振り返れば、ジルが柔らかい眼差しで頷く。

「昨晩、クレイと一緒に移しました」

「ありがとうございます! 大変ではなかったですか?」

「当主従者の心構えを聞きながらでしたので、丁度良かったです」

 当主従者。その言葉にこの部屋を渡された意味の大事さを噛み締める。
 取り扱う情報も言葉も、今までと違う責任を伴うからここが私に与えられたのだ。

「当主従者の心構えって何ですか?」

「対外的により影に徹するというのが一番ですね。個人的に強く指摘されたのは、独りよがりで甘くなる事でした。私は独りが長かったせいか、物事を勝手に判断する傾向があるそうです。時にノエル様を……甘やかす傾向が強くなるのは、良くないと言われました」

 その言葉に思わず頷いてしまう。
 ジルは優しいけれど私の為に一人で手を回し過ぎる。「いつも」と同じぐらい自然だから、私もその甘やかしをよく見落とす。感謝する事ばかりだけど、後で気づいて伝えて欲しかったと思うことも稀にある。

「私が考え事に気を取られたり、体調が悪い時は、剣の鍛錬で直ぐに手加減しますね。そんな時は切り込んでくれた方が、私の成長の為には良いです」

 したり顔で言う私に、ジルが肩を竦めて苦笑いを浮かべる。

「そうですね。ソレーヌ様にも以前に手加減で叱られましたね。大切な貴方の為には、厳しい判断も時には必要なのかもしれません」

 今しか言えない事があった。面と向かって問うことは出来ないけれど、知っていて欲しい事。

「ジルは私の『いつも』です。でも、変っていく中で私が『いつも』であるジルの期待に添えず、傷つける時も来るかもしれません。辛かったら一人で我慢したり、答えを出さないで下さい。家族である前に、ジルはジルです。伸ばされた手を離す事はしません。希望に添えなくとも、いつでも一緒に考えたいです」

 涼し気な目元が綻んで、ジルが小さく笑い声を漏らす。少し顔を背けて口を覆う様がクレイに似ていて、似てきた事が本気で心配になる。優秀だけどクレイみたいにはならないで欲しい。

「……ノエル様も頑固ですから、意見を伝えるのは大変そうです。実はクレイには、旦那様に駄々をこねられたら使う魔法の言葉があるそうです。この言葉で危険地帯から何度も引き離したと言っておりました。私も今後の為に見つけておく方が良いかもしれませんね」

 笑って答えをずらしたジルが、真意を受け止めたかは分からない。けど、今はそれでいい。
 これから先に、ジルが私との事で悩んで傷つき続けた時に思い出して欲しい。ジルの想いを受け入れる事は出来なくても、ボロボロになる前にもう一度何かを築けるように。

「クレイの魔法の言葉って何ですか? すごく興味があります」

 少し悪い笑顔を浮かべた私に、モノクルの奥の涼し気な瞳を二度瞬いてジルが首を傾げる。

「ノエル様には申し上げられません。ただ、成程と私には大変参考になりました」

 教えてもらえない事に口を尖らせて、執務用の机につく。

 当主代行の間は学園に顔を出す事は減る。帰郷の季節の時とは違って、今度は大崩落が何時おこるか分からない。
 学園の生徒は諸刃の剣だ。演習地のゲートが使えるから、いざという時には簡単にワンデリア領内に移動できる。

 手首を捻って伝達魔法を発動する。

「ラザール、お願いがあります。学園内のとりまとめ役をやって下さい。お礼は大きな商売の共同企画でどうですか?」

 僅かに指を上げれば、ツーガルが飛び立つ。壁を抜けて、空を飛んですぐにラザールの元に届くだろう。

 生徒が功名心で勝手に動けば身の危険があるし、足手まといになる。でも、上手く組織して効率的に動かす事ができれば切り札になる。
 指揮をとれる人がいるなら、ラザールだ。誰よりも目の利く彼ならうまくやれる。

「ジル。、印の付いた人物を別の紙に書き写してください」

 すぐに、動かせる可能性のある人物のリストに丸を付けて書き出しをジルに頼む。
 空いた時間にいくつかの戦略と起用方法を考える。できれば、誰か戦略に長けた人の助言が欲しい。クロード経由でヴァセラン侯爵に聞いてみるのが良いかもしれない。

 室内に羽音がして、長い嘴と尾に細い体躯をした角ばった印象の鳥が室内を走って横切る。砂の土地にいると言われているロードという鳥がラザールの伝達魔法だ。
 長くて黒いくちばしを軽く叩くとラザールの声で話を始める。

「承ろう! 商売地はスージェル。出資は半々。利益は10年間は折半。段階的に権利をスージェルに委譲だ。さぁ、金になる事なら、なんでも任せてみろ!」

 ロードが消えて、ラザールらしさに思わず笑いが漏れる。もう一度伝達魔法を発動する。

「条件はそれでいいです。詳細は後ほど、書面にて送ります。しばらく学園には顔を出すのがまた減ります。大事の時はラザールが頼りになるのでよろしく」

 続けて何人か育てた人材に、ラザールの指揮に従うように伝達魔法で連絡を入れておく。彼らならラザールによく使われてくれる。

 最後にディエリに伝言を入れようとして考え込む。
 ディエリの派閥の扱いは難しい。既に公爵になった本人は学園内に関わっていない。でも、彼に心酔した者達が、未だにディエリを主のように慕って派閥を名乗っている。
 やっぱり煽るのが一番早いと判断して、手首を捻る。
 
「ディエリは自分の後片付けも出来ないんですか? 貴方の名を語る者が学園の動きを妨げる可能性があります。粛清と同じ轍を踏みたくなければ、さっさと処分してください。返事は私ではなくラザールにお願いします。今後の学園内の取り纏めは、彼が全て取り仕切ります」

 黒い鳥が羽を広げるのを見ながら、口の端が歪む。受け取って嫌な顔をするのが簡単に想像がつく。
 私への返信ならディエリは簡単には派閥を手放さない。でも、ラザール相手ならばきっとすぐに押し付けるだろう。今のディエリにとって、学園の派閥は荷物でしかない。

 ふわりとお茶の香りが漂う。部屋にある茶器でジルが新しいお茶を入れる。
 穏やかな香りにほっと一息つく。頭を学園から切り離して最初に思い浮かんだのはギスランの事だ。十日後に父上と出発するなら、時間は少ない。
 
「好きな人の為に自分が悪者になるって理解できますか?」

「ギスラン様の事ですか? 全く分からない訳ではありませんね。人の数だけ愛し方があります。与える幸せと、失わせる不幸を天秤にかけたのでしょう」

 私の前にカップが置かれて、白い湯気が立ち上る。湯気に一息吹きかければ、あっという間にどこかに消えてしまう。でも、熱いお茶はまた新しい湯気を立ち昇らせる。

「帰って来ない前提の話は嫌です。私は大好きだから待ってての方がいいと思います」

 何度息を吹きかけても、湯気は冷めない限り立ち上り続ける。
 傷つけられても忘れられないなら、答えがでるまで待つのと何が違うのだろう。結婚を白紙に戻すのはともかく、傷つけて別れる必要はなかったと思う。

「待っても仕方ない状況になった時、綺麗な想いは簡単には忘れられますか? 半年、一年、二年、忘れるまでの月日すら、恋人にとっては損失とギスラン様はご判断されたのでしょう」

 まだ湯気の立ち上るお茶に口をつける。何度も小さく息を吐いて、湯気を攫う。
 ギスランの選ぶ最善は、私の思う最善と違う。

「大事な思い出がボロボロで終わるより、宝物になった方が良いとやっぱり思います」
 
 熱いお茶を飲むながら呟く私の頭上を黒いツーガルが一巡りして、机の端に留まる。

「ノエル、時間が取れたから挨拶に来なさい」

 父上の声が私の新しい立場が認められたことを告げる。

「ジル、すぐに馬車を用意してください。支度を確認したら私も馬車寄せに行きます」

 私の言葉にジルが部屋を飛び出そうとして、出入り口で止まる。

「ノエル様、伝えるという事は大事でございます」

 明るい笑顔で言い残してジルが部屋を後にする。緩めていたスカーフを直しながらその後を追う。
 カップの中のお茶はまだ温かい湯気を残していた。冷めるまできっと時間はまだかかる。


 マリーゼに身支度の確認をしてもらって、すぐに城に向かう。謁見用の広間がある中央棟の前で待っていてくれたのは予想通り書記官のギスランだった。

「子狸ちゃん。こっち、こっちー」

 人好きのする笑顔で手を振るギスランを見てから、ジルを見れば小さく頷いてくれる。

「当主代行の承認、おめでとー。このまま、当主の座と室長の座を奪ってみようか? 手伝うよ!」

「ギスランさん!! お話があります。白紙の件です」

 軽口を無視して、ギスランの懐に踏み込む。この人に戦略をねったって勝てる訳がない。ならば真正面から行く。国政管理室は押し切るタイプが苦手だと言っていた。

「白紙? あぁ、結婚の事?」

 困惑するように眉根を寄せられたけれど、気づかない振りをする。

「好きな人が私も忘れられません。大好きで大好きで、いつまでたっても大好きです。ギスランさんも恋人さんの事はまだ好きですよね。だったら恋人さんもまだ好きで、きっと暫く好きです」

 前のめりに感情的な言葉を紡ぐ。いつもと違う私に、ギスランが目を白黒させる。

「大好きなら、大好きって教えてあげて下さい。ギスランさんは帰ってきますよね? 父上はすぐに帰って来るって言いました! 想い続けるなら、待つほうがいいです」

 少し細い眼差しを大きく開いて、ギスランがゆっくりと溜息をつく。

「室長はそう言ったんだ。でも、僕は待たせるのは好きじゃないし、誰よりも彼女を知っていて選んだ最善だからね。気にかけてくれた事は嬉しいよ。でも、――」

「後悔を残さないようにって言ったのはギスランさんです。好きな気持ちって簡単に変わりません。大好きな人を嫌おうとしている最中に失ったら、嫌う為に考えた事が全部後悔に変わります。一番残酷だと思いませんか?」

 圧される様にギスランがやや半歩後ずさるのを、襟を掴んで捕まえる。

「七年もかけて迎えに来てくれた一途な方を知ってます。どんなに時間がかかってもお迎えは、凄く嬉しかったです。色々あって大好きなのに側に居られなくなった今も、過ぎた思い出も、未だに想っている時間も宝物です」

「子狸ちゃんの話?」

「……いえ、友達の令嬢の話です。でも、ギスランさんはかっこいいお兄さんですよね? 最悪の結末より、最高の結末を見せてください。父上は絶対に帰ってきますよ? だって母上が待ってますから」

 諦めたようにギスランが空を仰ぐ。それから、少し身を強張らせて驚く一言を口にする。

「殿下。いつからそちらに? 見苦しい所をお見せして申し訳ありません」

 恐る恐るゆっくりと私も頭上を仰ぎ見る。バルコニーから困惑するように、口元を押さえてこちらを見下ろすアレックス王子の姿があった。

 どこから聞かれていたのだろう。一瞬で顔から火が出そうな程、頬が熱くなる。

「気にしなくていい。ギスラン。若輩者の私が言うのもなんだが、約束は力になる。終わりにするより続きにした方が、互いに励みになる事もあるのではないか?」

「うーん。若いっていいですね。少し心が動きます。再検討する事に致します」

 ギスランが穏やかな笑顔を浮かべて、私の頭を一度叩く。
 それがギスランの前向きな決意表明だと理解して、ゆっくりと胸元を掴んでいた手を外す。ギスランが耳元で小さく呟く。

「若さゆえの主張は、人に知られると恥ずかしい。その気持ちよーくわかるよー。お兄さんも今、巻き込まれて滅茶苦茶恥かしい」

 私が赤い顔になったのは、熱い主張を友人に聞かれて恥じたのだとギスランは思ったようだ。慰めるように肩を叩かれる度に、自分の言った言葉を思い出して両手で顔を覆って俯く。
 どうして頭上まで確認しなかったのか、後悔しかない。

「ノエル、後で上がってくるとよい。約束だ。君に話しておきたいことがある」

 その言葉に赤いままの顔をあげる。バルコニーの柵に両手をついて笑うアレックス王子の顔は、晴れ晴れとしていた。そのことに少しだけ安堵する。

「はい。後ほどお伺いします」

 返事をすると同時に殿下が、馬車寄せから来る通路の方を見て軽く手を降る。そちらを見れば、クロードが同じ様に正装に身を包んで向かってきていた。

「殿下! ノエル!」

「クロード、どうしたんですか?」

 私の問いかけに答えを返したのは、クロードではなくギスランだった。

「揃ったね。室長の話で、ヴァセラン侯爵まで息子を指名するって言いだしたんだ。急遽両名そろってのご挨拶だよ」

 私の隣に立ったクロードが、その言葉に納得したように頷く。

「そういう事か。突然、妹達と母上に正装を着せられて、馬車に放り込まれたから驚いた」

「私には幸運ですね。クロードが一緒なら心強いです」

「そうだな。驚いたがお前が一緒なら、今日がいいだろう」

 クロードが上げた手に手を合わせる様に叩く。頭上からアレックス王子の楽し気な声が降ってくる。

「二人とも期待しているぞ。謁見の間で会おう」

 軽く手を振ってアレックス王子がバルコニーで踵を返す。私とクロードもギスランに連れらえれて謁見の間に向かった。


 謁見の間の扉が開くと、玉座に付いた国王陛下の隣にアレックス王子が立っていた。そして一段低い場所に父上とヴァセラン侯爵。そして、ベッケル宰相、ボルロー副宰相、バルト戦略室長、ゴーベール騎士団長が並ぶ。
 当主代行の就任挨拶にはあり得ない早々たる顔ぶれに、手の平に汗が滲んだ。

 一礼して入室すると、出入り口のより僅か前で揃って立ち止まる。

「アングラード侯爵家ノエル、ヴァセラン侯爵家クロード。両名、前へ!」

 老齢のベッケル宰相の言葉にクロードと共に進み出ると、公の儀の時を思い出す。あれから七年経って、再び謁見の間をクロードと並んで歩くと思うと感慨深かった。

 息を合わせたように同時に立ち止まって、跪いて顔を伏せる。
 再び、ベッケル宰相の少し枯れた声が響く。

「両名は本日より、当主代行の任を陛下より賜る事となった。格別にお言葉があるので、謹んで聞くように」

 アレックス王子と似たよく通る声が、私達の頭上から降ってくる。

「ノエル、クロード、顔を上げよ」

 初めて近くで見る国王陛下は、アレックス王子と同じ金の髪に紺碧の瞳を持っていた。でも、その雰囲気は少し違う。アレックス王子は秀麗で、国王陛下は精悍な印象がある。
 顎を楽し気に撫でて、国王陛下がにやりと笑う。

「クロードはエドガーによく似ているな。ノエルは母親似だな。シラリリスの君の儚げな面影がある」

「いいえ。ノエルは私によく似てると言われます」

 陛下の言葉に対する反論を、父上が胸を張って答える。父上の元上司であるボルロー副宰相がそっと胃を抑えるのが目の端に映って、謝りたい気持ちになる。

「そうか、中身が父親に似たのだな。良いのか、悪いのか、微妙だな……」

 そう言って苦笑いをしながら、私たちを国王陛下が見つめる。
 前国王は優し気な雰囲気で安心感を与える方だった。現国王陛下には溢れるような自信があって心強さを与えてくれる。

「両名には当主代行を命ずる。マールブランシュ王国を代表する侯爵家の名に恥じぬよう務めよ」

「「はい」」

 国王からの言葉に二人揃って声を上げる。自然とクロードと私の中で空気が決まる。
 先に口を開くのは私だ。

「お言葉を賜り恐悦至極に存じます。アングラード侯爵家の当主代行として、この国の羽翼になれるよう精進致します」

「お言葉を賜り光栄に存じます。ヴァセラン侯爵の当主代行として、この身と剣を懸けて努めてまいります」

 国王陛下が大きく頷くと、胃から手を離したボルロー副宰相が口を開く。

「両名は殿下の優秀な級友と聞いている。バスティア公爵と同様に、殿下の力になるよう動いて頂きたい。ノエル・アングラード、クロード・ヴァセラン、この後にそれぞれ必要な引継ぎを当主より受けるように」

「「はい」」

 国王陛下が大きく手を打つと、壇上の臣下が一斉に一礼をする。その様子に思わず鳥肌が走る。

「若き世代が伸びるのは国の為に良いことだ。よく教え諭し、未来に繋がる様に育てよ」

 同じ様に深く一礼しながら唇を噛む。
 アレックス王子と国王陛下はよく似ている。前に進もうという意志にあふれ、一言で人を惹き付ける。
 だからこそ、そこに立つアレックス王子が見たかった。
 「次代」という言葉ではなく「未来」という言葉が使われたことに胸が痛む。


 国王陛下への挨拶がおわると、謁見の間の外で側近の大人たちに囲まれる。

「近衛団長、うちの息子と子息の再選はいつにしますか?」

 武官にしてはやや細身のバルト戦略室長がクロードを見てヴァセラン侯爵に問いかける。

「ああ、来週にでも演習場でやるか? クロードは殿下に付けるのに通う事になる」

 突然持ちかけられた試合に目を輝かせるクロードの横で、練達の老騎士ゴーベール騎士団長が会話に割って入る。

「ならば、儂とエドガーの再戦も行おうではないか! 久しぶりに腕が上がってるか見てやろう」

 賑やかな武官幹部のやり取を横に聞きながら、ボルロー副宰相が胃をさすって私に話しかける。

「ノエル君。すぐに代行を務めて色々大変だと思うけど、頑張るようにね。頑張り過ぎて、父君の様にはならないでくれるとオジサンは助かる」

「うちの息子は大丈夫ですよ! しっかり者で優秀です」

 父上の余計な発言を止めようと袖を引くと、ベッケル宰相が小さくため息を吐くのが聞こえた。

「アングラード侯爵は羨ましいですな。胸を張れる息子がいらっしゃって。我が家も息子がしっかりしていればよかったのですがね」

「ご子息のファビオ殿も、よくやっておられますよ。今年度の計画は大変良い出来でした」

「一人で作る事ができれば良いのですが、周囲の力を借りてやっとです」

 父上の言葉が嬉しかったのだろう。肩を竦めながらも、顔の皺を一層深くしてベッケル宰相が笑う。
 頷きながら、父上が私の肩を叩く。

「ノエル、行っていいよ。約束があるのだろう?」

 来る前に掛けられた殿下の言葉が気になっていた私はすぐに頷く。クロードはどうするのか気になって見ると、父上が視線に気づいて教えてくれる。

「クロードはこの後に騎士団の方に行く事になる。だから、気にしなくていい」

 父上の言葉に頷くと、退席の為の一礼を取ってその場を後にする。
 見送る視線から遠ざかると、歩む足が自然と早くなった。
 
 廊下を抜けて、中央棟の王族の住まいに上がる為の階段を上る。王冠を抱いた女神が書かれた入り口に辿り着くと、近衛騎士が騎士の立礼で迎えてくれた。

「殿下より伺っております。どうぞ」

 ドアを開けるとアレックス王子の従者が迎えてくれる。案内に従って、いつも皆で遊んだ部屋を通り過ぎる。この先は王族の部屋がある為、ジルが同行できるのはここまでだ。

「ここでお戻りをお待ちしております。ごゆっくりお過ごしください」

「はい!」

「ノエル様、風の変化にお気づきですか?」

 ジルが外で私に話しかける事は滅多にない。珍しいなと思って見つめると、柔らかく微笑む。

「伝えるという事は、大事でございます」

 屋敷を出る前に言った言葉をもう一度繰り返して、丁寧に従者の礼をとる。
 その礼に頷いて踵を返すと、王族の部屋がある場所に足を踏み入れる。

 初めて来た時はアレックス王子が手を引いてくれるのが、恥ずかしく胸が苦しかった。二度目の今日は、他の王族に合うかもしれない緊張で胸が早鐘を打つ。物音を伺いながら王族の部屋が並ぶ一角を歩き続ける。

「殿下のご命令で、冷たい飲み物とお茶をお部屋にご用意してございます。私は外に控えておりますので、御用がございましたらお呼びください」

 アレックス王子の従者から優雅な一礼をうけて、以前と同じ部屋のドアを開く。

 



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