2018年12月12日水曜日

三章 三十九話 光と影 キャロル14歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります





 聞きなれた優しい声が語りだす。今日聞く話は二度と忘れない。悲しい話は二度と口にさせたくないから。

「私は踊り子の母と旅芸人の一座におりました。父は知りません」

 生れた場所すら分からないけど、大きな家族みたいで、苦しくても賑やかで楽しかったとジルは言う。
 一座では最年長だから小さい子のお兄さんで、年齢をごまかして、ナイフ投げや曲芸で舞台に立つ事もあったそうだ。母親が人気の踊り子であったことは少し誇らしげに教えてくれた。

「ジルはお兄さんが良く似合います。初めて会った時も汗を拭いて、お世話上手でした。舞台に立つジルもお母様も見てみたいです」

 未熟なオリーブの色の瞳を、楽しいと悲しいを混ぜた複雑な色に染めてジルが微笑む。胸が痛むのは楽しい話は続かないと分かっているから。

「12歳の時に母が病で一座を降りました。昨日まで家族だった皆の背を見送って、胸に穴が開いて何もかも吸い込まれるような気持ちになりました。喪失するあの感覚は私は苦手です」

 私の手をそっと撫でる。ジルが自分の気持ちをはっきり言うのは珍しい。
 年齢をごまかして王都の花街で宝石商見習いになったと言う。衣装で使う安い宝飾の知識もあったし、遠い土地の話が花街から出られないお姐さん達に喜ばれ、すぐに贔屓がついたと言った。
 モノクルは一度店主のを借りたら、生意気で可愛いとお姐さん達が競うように贈ってくれたらしい。今もいくつか残ってるので、使ってると笑う。

「ジルは小さくても素敵だったんですね」

 私には涼やかな今の印象が強すぎて、小さいジルが全然浮かんでこない。面影を探すように見つめる私の顔を、楽しそうにジルが見つめ返す。

「楽ではなかったですが……助けてもらえなくても、縋らなくても、母と二人でなら生きられました。夜仕事に行くとき、遠くの角まで母が窓辺で手を振る影が見えました。十三歳のあの晩もそうでした」

 ジルの瞳が揺れて、とった私の手に唇を当てる。自分以外の体温を求める様に息を飲み込む。

「強い風が吹いてました。大きな音がして住まいの方で火が上がってると店で知りました。逃げる人に逆らって火に向かうように走っているうちに、私の胸に穴が空き始めるんです」

 それは悪い予感、近づけば近づくほどに絶望が確信に変わる。苦しげにジルが瞳を閉じる。

「一つ前の通りに着いた時には、住まいのあった区画は火に飲まれておりました」

 手の甲にふれるジルの唇から漏れる吐息は早くて浅い。昔いつも誰かが側にいたジルにとって、失った場所を埋めるのは、誰かの体温なのかもしれない。私は私の温度がジルの心に届くことを願う。
 
「風に煽られる圧倒的な火を前に、胸に底なしの穴があきました。私の何もかもが吸い込まれて、気が付けば大声を上げておりました。何を、なぜ叫んだのかもわかりません。つぶれて息ができなくなるまで、叫び続けておりました」

 過去の喪失感を埋めたくて、ここにいるとジルの手を握る。顔を上げたジルの目が少しだけ和らぐ。

「一瞬風が止まって、それから火を抑るように向きが変わりました。その時にははっきりと、消えろと思っていました。絶望的でも、母を迎えに行くつもりだったんです。私の願いを叶えるように風が吹き続け延焼が止むと、燃える物がなくて火が消えました」

 火の原因は、祭りの魔法具の誤発動事故とだけ知らされたという。詳しい理由が住民に伝わることはなかったそうだ。
 近くの祭りの為に広場に置かれた魔法具に、酔った貴族が火のお守りを投げ入れた噂も、失脚した貴族が自暴自棄になって発動させた噂も、全て噂のままに終わったという。

「火が消えた後に魔力が尽きて、意識を失いました。幸いだったと思います。意識があれば母を探しに行ったでしょうから」

 貴族の一人がジルの魔力発動の瞬間を見ていた。花街に向かっていた貴族は、逃げる人に押されて怪我をして動けずそこにいたのだ。ジルを役に立つと言って、診療所の人間に所在を確認した。一月たつ頃に仕事先の宝石商の元へ、学園への入学を認める書簡が貴族から届いたという。

「おめでとう。家族がいないのが運がよかった、と書かれていました」

 卒業したら庶民でも文官か騎士になれるけど、仕事の実情は貴族が嫌がる事の穴埋めで、家族や縁者ない者が使い易くて喜ばれると自嘲する。有用な庶民を推挙した貴族は紹介金が入ると淡々と語りながら、ジルの瞳が遠い何処かを見つめて暗くなっていく。見たことがない程の暗い瞳にジルが何処かに堕ちていく気がして怖くなる。

「ダメです。ジル、ダメです!」

 今の私と同じ年頃のジルに起きた出来事には貴族の理不尽が詰まっている。与えられる側にいる私が何かを言うのは許されない気がした。それでも、瞳の奥の暗い所にジルが落ちて戻らなくなるのを止めたくて、声を上げる。私を見て、瞳の色が元の色に戻る。

「ありがとうございます。心配させてしまいました、申し訳ございません」

 手の甲に安堵するような吐息が落ちて、伸ばされたジルの手が強張った私の眼尻を解くように、優しく何度も撫でる。

「手紙が届くまでも、仕事をして生きてはいた筈なのに記憶がありませでした。手紙が届いて、上まで辿りついて何かを奪い返そうと決めてから、きちんと記憶があります。入学すると、庶民ですが風属性の魔力量が上位クラスでした。嫌がらせや陰口が溢れても、誰も手出ししてきませんでした。笑うことも忘れていた日々でしたが、負けない手応えと、進んでいる確信がありました」

 でも、その先がジル決めたことと違う行方を辿ることを知っている。私を撫でる従者の手はもっと上を目指せた人の手だ。落ちそうになる涙は、今は決して零してはいけない。

「二年の共通課程で魔法を身に着けた後に、私は騎士専科を選択しました。庶民が高みを望むには文官は世界が閉じております。騎士の方が功績が残しやすく、実力主義の傾向が強いから選びました」
 
 口元の手にまた小さな吐息が落ちる。握られた手に力がこもるのは、この先がまたジルにとって辛い話になるからだ。握り返す手に祈りを込めても、過去には決して届かない。

「……騎士専科の授業が始まってすぐの事です。宝石商で仕事を続けていたので、花街の側に住んでおりました。華やかな嬌声が溢れる道の一つ向こうの道は、誰もおりません。歩く私を、金で雇われた酔漢と、下級貴族の子息数名がとり囲みました」

 教会の途中の脇道で花街と下町の両方に背を向けられた、外壁に囲まれた暗い道を思い出す。悪意を持つ者には好都合の暗い場所。そこで、酔漢の暴力と下級貴族の下位魔法がジルを傷つけるために繰り返さた。
 
「負けませんでした。囲まれても傷一つつけられなかった。でも、心は鍛える事も魔法で防ぐ事もできません。……言葉に、私は怒りを抑えられなくなりました。中位魔法を発動させて気が付くと、全員が血を流して倒れていました。一瞬の怒りの後に残ったのは、傷つけた者を見る恐怖と閉ざされる未来を思う恐怖でした」

 悪いのはジルじゃない。どうして、ジルがこんな風に失い続けなくてはいけないのか。一番ジルを傷つけた事を知って、何とかしてあげたいのに詳しく尋ねることが痛みに繋がると思うと躊躇う。

「理由なんて関係なく、貴族の子息数名に大きな怪我を負わせたとして学園を除籍されました。追われた後は随分と荒れました。この頃の話だけはノエル様にはお聞かせできません」

 言ってジルが無理に微笑む。応えるように微笑み返す。安堵するような眼差しが帰ってきて、求められる時はいつも微笑んでいたいと思う。

「花街で酔いつぶれる私の前にピロイエ伯爵が現れました。在学中から注視していたと言って、部隊に誘う為に通って下さりました。聞く耳を持たず、ふしだらな生活を続けていたら、殴られて無理矢理に戦備前準備部隊に放り込まれました」

 ジルの瞳が明るい色を僅かに取り戻す。おじい様は一番欲しいものを見つけるのが、とても上手だ。無理矢理に連れて行くのは、ジルの心に答えを見つけたからだ。

「戦備前準備部隊は、ピロイエ伯爵一族と下級貴族、庶民出の武官が身分に関係なく笑うような気さくな環境でした。荒れる私を皆が巻き込むように鍛えてくれて、気づくと心地よい居場所ができておりました」

 私の手の甲から唇が離れて、悲しい時間から優しい時間に変わる。ピロイエ伯爵一族に漂う気さくで自由な空気と学園を卒業していないジルが出会った時に無事に騎士だった事を思う。おじい様は答えに結果を出してくれる。

「二年がたつ前に騎士としてキャロル様とお会いしました。幼い笑顔と背伸びをする姿に、旅芸人の頃を懐かしく思い出しました。そんな貴方が、殿下にお説教を始めて驚きました。貴族の娘なのに下の者に思いを寄せて、殿下を説得した姿は眩しかったです」

 やはりジルは、最初の丘で少年がアレックス王子であることを気づいていたんだなと知る。
 ジルの手が私の手をすっぽりと包む。落とした瞳は明るい所と暗い所を彷徨って、言葉を探していた。

「でも、光は陰を生みます。幼い貴方の眩しさが、私の影を濃くした。貴方がいる一方で、私から奪う者がいた。殿下ですら貴方に言われるまで周りの事に至れない。奪っても、庶民が相手なら許されるんです。私には身分はなくても、力と理由がありました。貴方ような方以外を壊してしまえたら、奪われずに済むと思えた」

 厳しい思いを語る瞳には影はない、まっすぐ私を見つめる。だから、その瞳が出す答えを私は信じる。ジルの育んだ影は一体どこに行くのだろうか。

「でも、以前貴族を傷つけた私と違って、もう居場所があったから迷ったんです。眩しい貴方の側で私はずっとあの日迷っていました。その所為で貴方を助けるのが遅れて、怪我をさせてしまいました」
 
 伸ばされた手が私の額の傷を撫でる。その部分は今も少し色が違う。覗き込む顔が出会った時から殆ど変わっていない気がするのは、ずっと側にいるからだと思う。
 いつからだろう? 誰よりも信頼しはじめたのは。 
 いつからだろう? 何もかも隠さずにに縋りつけるようになったのは。
 いつからだろう? 一緒にいる事がわたしの当たり前になったのは。
 答えは、いつも気づいたらだった。誰よりも長い時間を共にしていた。

「細い腕で体を支えて、血を流して泣きながら、貴方はやるべき事を叫びました。怒りと復讐心が飛んでいきました。小さい貴方がそうするのなら、私も騎士としてやるべき事をせねばと思いました」

 笑顔の奥で縋るような眼差しを向ける。開きかけた口を一度閉じてから、迷うように語る。

「殿下を送り届けた後も、迷う度に貴方が浮かんで、だめです!と叫ぶんです。私に向けられた言葉でないのに、私を確かに止めてくれました。幼い少女に何を縋るのかと正気を疑いましたが、貴方の側に使えたいとピロイエ伯爵に申し出ました」

 未熟なオリーブの色の瞳が不安そうに揺れるのは、私の答えを待つからだ。縋られた自覚はない。むしろ、自分の方がよほどジルに縋ってきた。偉そうに出せる答えなんて、私にはない。

「何もしてあげてないです。ジルが求めるものもわからないし、何ができるかも分かりません。それでも私は頼りになれますか?」

「近くに復讐の機会があった時も、ピロイエ伯爵に貴方の手紙が届いたんです。私を気にしてくださった文に、居場所に留まることが出来ました。先ほども、私を引き留めてくれたんです。気付いていますか? 貴方には何度も救われました。そのままで、いいんです。」

 私は椅子を下りてジルと同じように膝をつく。腰のあたりしかなかった私の背は、ジルの肩のあたりまで伸びた。私とジルの距離は他の主従とは違う。その距離をなんというのか分からないけど、同じところに、こうしている方が正しい距離だと思う。

「大好きなジルが嫌な時は、私がどうにかできるように頑張ります。私は私でずっとこうなのですけど、それでも側にいてくれたら嬉しいです」

 ジルが優しく笑う。その笑顔につられて私も微笑む。優しく大切な宝物を見つけた様に笑うのは、本当にいつからだったのだろう。この笑顔が私はジルの中で一番好きだ。

「今は何も望みません。……縋る気持ちより、貴方がとても大切なんです。従者として間違っていますが、……家族のように思っています。失わせないで下さい」

 ジルが少しだけ腕を引いて、私を抱きしめる。良く知っているジルの体温。ふれる柔らかい頬。泣いて顔を埋める肩は今もお日様の匂いがしている。
 失うものが多かったジルにもう、何一つ失わせることはしてはいけない。主であり、彼の居場所であり、家族のような存在の私。失ったものを埋めてあげたくて、私はその肩で頷く。



 魔力が安定するまでの六日間はジルに魔力印学の講義をしてもらった。魔力印に詳しくなったので、他の人に是非色々聞いてみたいけど多分無理だろうなと思う。ドニとユーグなら大丈夫かもしれないけど。
 今日、学園に戻るのは、アレックス王子とディエリと私。安定するのは魔力が低い順らしいので、私を含めた三人が今期では最も魔力量が多いと言う事だ。
 最後の三人のせいか、廊下を歩く私を見つめる視線が今日は重い。色々人に注目されるけど、暫くは起こるイベントに立ち会えるように動くつもりだ。どれだけこの世界が「キミエト」と重なるのかを知りたいから。

「ノエルー。おはようー」

 クラスにつくと早速ドニが私のところに駆け寄ってくれる。相変わらず、にこにこ会話の続きを待つ姿は子犬みたいで愛らしい。ドニの場合はすでにシナリオから外れているけど、出会いイベントはきちんと別に起こる可能性が高いと思ってる。

「おはようございます、ドニ」

「おはよう、でいいよ?」

 そう言って、若草色の瞳で待つように見つめる。「おはよう、ドニ」と挨拶をし直すと、とても嬉しそうに微笑む。クロードの姿がクラスを見回しても見つからない。

「クロードは、どこにいるか知っていますか?」

「んー。クロードはカミュ様に呼び出されて王族控室に行っちゃったよー」

 少しだけ首を傾げるようにしてドニが教えてくれる。もう少し早く学園についたら、私も一緒に行けたのになと思うと残念だ。席に座ってクロードの帰りを待ちながらドニにイリタシスの話を聞く。文化が全く異なる国の話は不思議なことがたくさんあって、いつか旅をしてみたいなと思う。
 背後に人影がよぎって、鈴のなるような声が降ってくる。

「おはよございます、ドニ様。あの、私も近くに座っても宜しいですか?」

 ルナが、ドニを見つめて困ったような顔をして立っていた。すでに面識がありそうな問いかけに慌てる。

「おはよう、ルナ。お隣空いているから、どうぞー」

 明るくドニが答える。ドニは「キミエト」の中でも初めから友好的な反応をしてくれるキャラクターだから、このくらいなら普通かなと思い直す。ドニの場合は人懐っこい性格もあって、イベントが起きたらヒロインと仲良くなるのはとにかく早い。

「ありがとうございます」

 そう言ってドニに微笑んだ後、ルナが私の事を見る。目が合うと、ピンク色の瞳を細めて嬉しそうに微笑む。手を前に揃えて腰を折る礼は、貴族があまり使わない簡素な挨拶。庶民では一般的な礼だ。貴族が多い学園内で使うにはあまり良い礼とはいえない。すでに、彼女の礼を見て後方で数人の令嬢が眉をしかめる。

「はじめまして、ルナ・サラザンです」

「はじめまして。ノエル・アングラードです」

 私は立礼で答える。私が正式な立礼をとることでルナに学園内のマナーに気づいてもらう。囁く声が厳しいのは、どの女の子よりも先にルナが私と接触したからだ。一応、侯爵子息として女の子の注目を浴びてる自覚はある。

「あ、すみません。わたし、きちんとした礼を取りませんでした。もう一度やり直しを……」

 青ざめて、スカートの裾をつまもうとする手を止める。「キミエト」通りの世界なら、ルナはすでに他の女の子に庶民出と知られて冷たい扱いを受けているはずだ。ルナには色々な不安があるけど、ジルから聞いた酷い反応にさらされるのを放置するつもりはない。

「学園内は平等ですからお気になさらず。ただ、礼儀に煩い方もいるので他の方と挨拶する時は気を付けて下さいね」
 
 平等と煩いという部分で楽しそうに笑って強調する。ルナの手を取って、その甲に軽く口づける。

「平等な場で、私が礼を取るのは愛らしい男爵令嬢の笑顔が魅力的だったからです」

 男爵令嬢と言う部分をできるだけ強調する。侯爵子息の私がルナに好感を示して男爵令嬢として扱う事は、周囲に公の場で同じように扱う事を促すことに繋がる。嫉妬はゲームの中では最初から最後まで変わらない。それなら公の場ぐらいは彼女を男爵令嬢として扱う空気を作ってあげたい。

「ありがとうございます、ノエル様」

 少し頬を染めて嬉しそうに口づけた手を胸に抱く姿は、とても可愛い女の子だ。こうして見ると「キミエト」の主人公らしくてすごく好感が持てる。笑いながらドニの隣の机に荷物を下ろす。

「あっ、ドニ様。クロード様はご存知ですか? お借りしたレポートをお返ししたいなと思っているんです」

 鞄から一冊紙の綴りを取り出したルナの口からクロードの名前がでる。ヒロインとクロードの出会いは開始一週間以内のランダム発生。クロードは昨日から学校にきている。

「ルナは、クロードとも知り会っているんですね」

「はい。昨日、通路でクロード様にぶつかってしまって。少し足をひねってしまったので救護室に運んでいただきました。頼りがいのあって、優しい方ですね」

 ルナが愛らしく笑う。その顔はさっき私に見せたのと全く同じヒロインらしい可愛い笑顔。
 「キミエト」の中で、通路でぶつかって発生するクロードとヒロインの出会いイベント。救護室に向かいながら、クロードは腕の中で無邪気に礼をいうヒロインが庶民の出と噂される少女であることに気づく、救護室を去る間際に「何かあったら力になる」そう言い残して立ち去るのだ。
 多分、ほぼ同じことが起きたことがルナの言葉から推測できた。思った以上に始まりは早い。





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