2018年12月22日土曜日

四章 七十六話 星の祝福と未来へ キャロル18歳 <幕切> ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 まだ、起き出さない街の中に、馬の蹄の音が響く。大通りを真っすぐかけて、最後の角を曲がると見慣れた瀟洒な建物が見えた。正門の前で待つ薄紅の髪を見つけて、微笑もうとして止める。
 ルナの顔に浮かぶ焦りに、嫌な予感が湧き上がる。

「ルナ!」

「ノエル様! お待ちしておりました」

 馬を止めると零れそうな瞳を見開いて、ルナが駆け寄ってくる。その手に手を伸ばして、馬の前に抱えるように引き上げる。

「ワンデリアの魔法が、予定よりも早く消失いたしました。私の力不足です。申し訳ございません」

 空を仰ぐと、陽の光を遮る真っ黒い雲は西の方から流れてきていた。空が魔物の王の悪意に染っているようで、背中に悪寒が走る。

「ルナの所為ではないです。急ぎましょう」
 
 ルナを前に抱え、馬の腹を蹴って再び走り出す。今は学園も閉鎖されていて、正門は閉じている。出入りするならば、大きく回り込んで裏門からだ。
 高い塀に沿うように駆けて角を二つ曲がると、小さな門と衛士達の姿が見えた。

「開門をお願いします! 大公子息カミュ・ラ・ファイエット様の命により、エトワールの泉に参ります」

 馬上からルナが預けていた書状を掲げる。衛士達が困ったような表情を浮かべて、私達を見上げた。

「聖女様がいらっしゃると連絡は受けておりますが……。アングラード侯爵ご子息、サラザン男爵令嬢の名前は聞いておりません。誰も通すなと言われております」

 ルナの魔法の瓦解によって、ワンデリアを中心とした計画も動き始めている。
 愛しい人、友は、もう最後の戦いに赴いたのか。大切な人は追いつくことが出来るだろうか。
 焦りを押し込め、代わりに責めるような表情を作って衛士たちを見る。

「その命は誰から受けたのですか? こちらは王位継承三位のカミュ様から直々です! 継承権一位のアレックス殿下の承認も、内々に受けています! 確認して頂いても結構。ただ、私達を待たせることは、緊急の意向に反すると理解なさって下さい!」

 カミュ様からの命も、アレックスの王子の承認も嘘だ。でも、私の名で問い合わせれば、話を合わせてくれる自信はある。
 衛士達に動揺が走る。迷いを見せて、どうするべきかを囁き合う。あと一押しの気配に、私は再び口を開く。

「貴方達に問い合わせる勇気があるならば、国政管理室長、情報戦略室長、ラ・ファイエット大公夫人に連絡を取っても構いません。カミュ様の書状を携えて、ノエルが信じろと言っている、と聞きなさい!」

 飛び出してきた大物の名前に、衛士達の顔色はすっかり悪くなっていた。流石に少しやり過ぎたかと、心の中で小さく舌を出す。

「分かりました。開門致します」

 開門と同時に馬ごと滑り込んで、まっすぐにエトワールの丘を目指して駆けだす。振り返ることなく、念の為の言葉を投げる。

「露払いを兼ねよと、命じられております。確認を終えるまで、聖女様にもお待ち頂いて下さい」

 慌てた衛士達の問い掛けを背中で流して、馬の速度を一段と上げる。本来は馬で駆ける事のない学園内を、滑るような速度で駆け抜ける。

「上手くいきますでしょうか?」

 小さく息を吐いて、ルナが私に問いかける。

「上手くいきます。私とルナが出会うのは、間に合いました!」

 ルナとワンデリアで誓約を結び終えた後、私が歌ったのは『君のエトワール』のメインソングだった。驚いた表情で、その歌をルナは同じ様に歌ってみせた。
 
「十七年……遠回りな再会でした」

 風に消えそうな声でルナが呟く。私とルナの始まりは、前世の記憶を思い出すよりもずっと前にあった。

「私は遠回りに感謝してます。出会えた今の家族も、友も、皆が大好きなんです。『悪役令嬢キャロル』から始まったから、私の今があるんです!」

 ルナが振り返って微笑むと、長い薄紅の髪が私の首筋を擽る。

「私もノエル様に出会えてよかった。これは『悪役令嬢キャロル』の物語になるのかしら?」

 冗談のような言葉に、小さく笑ってから答える。

「私達の物語です!」

 遠くに丘への入り口が見え始める。

 シーナを失ったルナが、小さなリュウドラの姿で最初にしたのは、未来を見る事だった。

 『ルナの知る未来』に、ルナと呼ばれる少女はいない。精霊の子だったルナと呼ばれる少女は、あの十歳を前にした夜に失われていた。コーエンの聖女と呼ばれるディアナも、王都に来る途中で魔力の喪失から命を落とす。

 精霊の子が失われた未来で、この国は人の諍いと魔物の王との苦しい戦いに追い込まれていく。
 『ルナの知る未来』も、最後の望みを秘宝に託す。使うのはやはりアレックス王子とカミュ様だった。渓谷に下りる騎士には、騎士不足を補うべく若く才のある学生も多数含まれる。クロード、ディエリ、ユーグ、ドニはその中にいた。

 戦いは秘宝を一つだけ使って終わる。全てを使うより先に、魔物の王の力の前で、全員が打ち倒された。
 マールブランシュ王国滅亡が決まった日で、世界に魔物が広がる始まりの日になった。

 木々が小道に影を落とす。エトワールの丘は低木も多いから、本来は馬を降りなくてはいけない。

「体を低くしてください。少し危ないけれど、中腹までこのまま進みます」
 
 ルナが馬の首に抱き着くように身を屈める。私も体を落として、手綱を短く持つ。そのまま林の中に、速度を落とさず馬を進める。

「未来を見るのにアレックス王子を選んだのは、王冠の印を持つからですか?」

 ルナが未来を見る時は、未来の誰かの感覚を頼る。選ばれたのはアレックス王子で、『ルナの知る未来』は全てアレックス王子の体験する未来だった。だから、アレックス王子が触れる事の出来ない情報は、知る事ができない。

「王家は力を託しているので繋がりが深く、鮮明に未来を見て感じ取れます。出来るだけ全てを知りたかったのですが、魔力にも限りがあって断続的になりました。ディエリ様のような、秘密の見落としも少なくなかったです」

 丘の道幅が一段と狭くなって、小さな枝が髪を掠める。そろそろ馬で行くのも限界かもしれない。手綱を引いて馬の速度をゆっくりと落とす。

 馬を降りると、魔力の回復薬を取り出して口に含む。馬の手綱を枝に繋いで、ルナに向かって手を差し出す。揃えた指先を私の手に乗せたルナが、小さく首を傾げる。

「やはり、お疲れではないですか?」

 ゆっくり降りながら、ルナが心配そうに眉を顰める。

「大丈夫です。魔力量には自信がありますし、回復薬もこまめに飲んでいますから」

 安心させたくて笑ったけれど、さっきの戦いでかなり魔力を使っていた。回復薬のお陰で、体に影響が出る状態からは脱したが、まだ魔力は半分を超えた程度だ。ユーグの回復薬を持って来なかった事を悔やむ。

 一段と細くなった小道を見ると、ずっと先から誘うように清廉な風が届いた。
 あと少しで、エトワールの泉に私達は辿り着く。ルナの手をそっと握る。

「私達は、もう一人じゃないです」

 ルナが私の手を握り返して、丘の小道を一緒に歩き出す。冬の枯葉を踏む音が、歩くたびに静かな林に小さな前進の音を響かせる。

「未来を見た後、魔力が底をついて眠りにつきました。三十年、何度も同じ夢を見たんです」

 神様の力は大きいけれど、人の様に回復が早くない。回復の為には眠りにつく必要がある。
 ルナの人格を含む力は、交わって人になっていた。でも、女神の力をワンデリアで使う術式の為に、別に残していた。血による支配では、その力を使ってしまい再び眠りにつく。今は、女神の力を全てを放って、欠片も残っていないらしい。

「どんな夢だったんですか?」

「私の知った未来に出てくる六人の青年と、シーナによく似た女の子の夢です。女の子は青年のいる学園に、シーナと同じ様に突然現れる。未来の知識を持って、出会いと経験の末に、世界を救う鍵になる人と愛しあう。周囲の人とも、たくさん絆を深めて、最高の祈りで世界が無事に続く。愛しい夢でした」
  
 眠りについた長い時間も、ルナは一人で悩み続けた。未来の子であるアレックス王子やカミュ様だけじゃなく、たくさんの人も救う。その為にどうしたらいいか。ルナにとっての理想は、すぐ側にあった。

「シーナは、ルナの理想ですね?」

「はい。シーナの祝福は素晴らしかった。エトワールの泉は聖女と王冠を持つ者の仕組みですが、祝福は強く繋がる人にも降り注ぎます。たくさんの人と繋がったシーナは、たくさんの人を祝福した。王様は魔物の王に圧勝で、完全な消滅まであと一歩でした。シーナが失われなければ、最高の結果だったんです」

 ルナが寂し気に笑う。たくさんの人と繋がったのなら、シーナが失われてたくさんの人が嘆き悲しんだ。世界の為に止めなかったルナは、嘆きの数だけ苦しんだ。

「ルナは、頑張ってます。今、シーナの約束の為に頑張ってる」

 頬を少しだけ上気させ、くしゃりルナが笑う。

 ルナの夢が、今の未来を救う土台になる。未来を変える為に、最高の条件の聖女を作る。それがルナの出した未来を救う道だった。

「一人で何かするのは孤独です。過ちにもなかなか気づけません。神様なのに、私はたくさん間違えました。でも、今度はきっと上手くいきます。一人じゃないから」

 そう言って、私と繋がる手をルナが少しだけ上げて見せる。しっかりと握られた手に私も微笑む。

「はい。ルナが蒔いた種は、きっと花を咲かせます」

 シーナのようだけど、シーナの作れなかったその先の未来も紡げる。そんな最高の聖女を作る為に、ルナは動き出す。

 ルナは歪みの奥、ひび割れの向うにある異世界に、女神さまの力で小さな種をたくさん蒔いた。
 その種は聖女を作る為の知識が詰まっている。『ルナの知る未来』。王冠を持つ特別な王子。最後に対峙する五人の青年。過去に素晴らしい祝福を成した聖女。そして、この世界に導く術式。

 種に触れた誰かは、夢物語として心鮮やかにルナの知識を思い描く。ある世界では童話になり、ある世界では大衆演劇になり、ある世界では歌になる。私のいた前世の世界では『君のエトワール』になった。

 だから『君のエトワール』は、アレックス殿下視点の『ルナの知る未来』と、シーナの思い出が織り交ぜられている。そこに見知らぬ作り手の意志が入って、作られる物語にそぐわない情報が排除された。
 現実に起こらなかったイベントと、起こったイベント、触れられなかった周辺の事件の理由がここにある。

「種はどうやってを撒いたんですか?」

「女神の力で、伝えたい想いを包むんです。魔力がたくさん必要で大変でした。ひび割れの向うの別の世界の大気に、雪や綿毛のように風に乗せてゆっくり落としながら願いました。アレックス王子を愛し、最後の場に立つ者と繋がれる。そんな人に届いて欲しいと」

 ルナが私を見つめて、悪戯する様に笑って見せる。落ち着かないような気持ちなって、首筋を一撫でして話を先へと進める。

「本物のルナは『ルナの知る未来』にいないから、『君のエトワール』のルナは聖女シーナがお手本だったんですね?」

「はい。種に残したルナには、聖女の理想をつめました。シーナならどうするか、シーナはどうしたか、そんな記憶から私が生んだんです」

 ルナが懐かしそうな顔をして頷く。
 明るく優しい聖女シーナ。礼儀正しく、芯はとっても強い。この国の女の子なら一度は憧れる。比べてみると確かに『君のエトワール』のヒロインの行動は、小さい頃に読んだ絵本のシーナとそっくりだ。

「私、聖女シーナもヒロインのルナも大好きでした」

「良かった。『君のエトワール』には現実に一番近く、求める条件に合うシナリオが一つありました。そのシナリオを攻略した方なら、最高だと思ってたんです。何度も様子を見に行くうちに、一つの問題に気づきました。アレックス殿下以外の方を、一番愛しくなってしまう事が多々ある!」

 その言葉に思わず吹き出してしまう。美都だった私は、一人どころか全員大好きだった。
 
「とても楽しいゲームでした。あんなに夢中になったのは初めてで、皆がとても大好きでした」

「だから、ノエル様が私の所にいらっしゃったんです」

 想いの種に添えられた聖女を世界に招く術式。それは、知らずに物語に組み込まれる。
 術式は物語に触れた者の中で、条件を満たす者を求める。この世界と、物語と、アレックス王子を愛した人。その命が消えそうにった時、記憶と共にルナの元に導く。

「この世界の命では、駄目だったのですか?」

「同じ世界の命は、交われません。それは、全ての世界共通の禁忌だと思います。だから、交われるのは、神様と呼ばれた異質な私たちと、異世界の拠り所のない命だけです。でも、この世界の為に異世界の命を奪う訳にはいきません。だから、終わる命を待ちました」

 不思議な気分だ。
 一つの終わりかけた命が、ルナの元に辿り着く。その命は『君のエトワール』に触れて、その物語を心から愛していた。

 消えかける意識の中で、生きることができたならと願った。
 今度は決して後悔を残さない、誰も泣かせないって誓った。
 美都であった私の命は、ルナの想いに導かれてこの世界に辿り着いた。

「消えかけた私の命は、ルナの元に来たんですね」

「はい。私がそうであるように、精霊の子の命は交わると魔力の流失がとまります。後から入る命の影響を受けるせいです。異世界の命と交われば、魔力が流失しない精霊の子になります。そして、物語で触れているから未来の知識を持つし、聖女の生き方にも触れる。最高の聖女だと思いませんか?」

 私は『ルナの知る未来』を最後まで知れなかった。
 最後を見損ねてしまった所為だ。六人全員同時攻略の先、リモコンが壊れて止まってしまったゲームの先。そこにあった特別な告白ボイスと2枚のスチルに、魔物の王と聖女の物語が詰まっていた。

「見たかったです。前世の後悔の一つです」

 顔を歪めた私の言葉に、ルナがくすりと笑う。

「現実で物語の先を。もっと素敵な物語を紡いでください」

 その言葉に空を仰ぐ。西から流れる真黒な雲が頭上を覆う。でも雲間には、時折光が薄く透ける場所があった。

 歪みの奥底で魔物の王から身を隠したルナは、物語を愛する異世界の人の命を待った。
 そして、私の命が現れる。失われない様に魔力で包んで、今度は『最初のルナ』が世界に現れる時を待った。

「ここまでに使った魔力が、予想以上に多かったんです。私はノエル様の命が『最初のルナ』に交わるのを、最後まで見届ける事ができませんでした」

 ルナは最後の力で、魔物の王に見つからない様に魔法をかけた。歪みから『最初のルナ』の元へと送り出す。そして、再び眠りについてしまう。

 攫うような風が一度強く吹いて、木々を揺らした。私はルナの目をしっかりと見つめる。

「私は『最初のルナ』には交れなかった。多分、魔物の王に捕まったんです」

 魔物の王は、助けてやった、生かしてやった、ルナの想いを歪めた、と言った。 

 歪みの中で魔物の王と私の命に、何があったのかは分からない。ただ、私の命には魔物の王の魔力が混ざり、本来行くべき場所とは違う場所に送られた。
 それが『悪役令嬢キャロル』だ。

 木々が途切れて、目の前に穏やかな美しい泉が姿を見せる。冬の空気の冷たさとはまた違う、身の引き締まるような冷たさが辺り一面に漂っていた。

「……ここまで来たんですね」

 大きく空気を吸い込むと体の隅々まで、清められるような気がした。何度か深い呼吸を繰り返す。
 私とルナが互いにワンデリアで全てを話して、漸く辿り着けた答えがある。私だけでも、ルナだけでも決して辿り着けなかっただろう。

「私の命から変わった事で、一番大きいのは父上の在り方なんです。私の命が呼ばれた理由や、出来る事を当てはめると一つの答えが出ます。私が精霊の子である可能性です」

 小さな息を吐いてルナが微笑む。その微笑みに笑い返して、泉に向かって踏み出す。

「キャロル様は時々しか学園現れず、現れれば刺々しい言動で周囲を攻撃しました。美しく能力は高いのに、孤独で人を寄せ付けない。色々な意味で目立つ女性。それが私の知る未来のキャロル様です」

 ルナが事実を知れなかったのは、仕方ない事だと思う。私だって中規模崩落戦がなければ、ディエリが精霊の子だと気づかなかった。

 精霊の子は希少と言われるが、隠す人が多くて実数は分からないと父上も言っていた。ディアナの様に魔力量が程々だと、実生活に支障をきたす。でも、上位魔力以上になれば、ディエリのように回復薬をつかって行動が可能になる。
 アングラード侯爵邸は闇属性の魔力が濃く、ゲート使えば闇属性に満ちたワンデリアの地もある。消費した魔力の回復は容易い。制限はあるけど、生活しながら隠す事は可能だった筈だ。

「父上の弟のリオネル叔父様は、精霊の子に命を奪われました。父上の従者は父上を、善でも悪でも名を残しそうで面白いと評します。癖のある人なんです。因縁のある精霊の子が自分の子として生まれたら、とても不安定な感情を抱いてしまうと思います」

「何となくわかります。人の諍いの中心にいたレオナール様は怖い人でした。冷徹という言葉がとても当て嵌まる方だった。嫌いとか好きとか、必要とか不要とか、徹底的に容赦なく貫く。一度そこまで嫌った存在を、愛するのはあの方には難しい」

 思い出に繋がるからと剣を捨てる程、父上の心には精霊の子の事件が傷として残った。捨てた剣と同じ様に、キャロルから目を逸らす事を父上はきっと選んだ。だけど、母上は私を大切にする。母上の為に父上は、キャロルと家族でいなきゃいけない。母上の為だから、一つの切っ掛けで壊れる。
 十歳になる前に、父上が誰よりも愛する母上がアングラード侯爵家を追われる。跡継ぎを産めなかった所為だ。

 キャロルが悪いわけじゃない。でもキャロルじゃなくて、男の子だったら失われなかった。
 精霊の子のせいじゃない。でも、精霊の子のキャロルのせいで『また』失われた。
 私の髪は母と同じ髪の色、私の目はリオネル叔父様と同じ。それを愛しいじゃなくて奪われたと、父上はどこかで感じてしまったのかもしれない。

 一度、自分の頬を両手で叩く。落ち込んでいたらだめだ。

「生まれる前か、生まれた瞬間には『悪役令嬢キャロル』と交わっていたと思います。周囲が私を精霊の子として認識していたら、父上の未来は変わらない。精霊の子が、精霊の子の特徴なく生まれる。これがアングラード侯爵家の転換点です」

 ルナが私の言葉にはっきりと頷く。

「交じる為の条件にも合います。普通の人が交じる為には、魔力を失わせる必要があります。失ったところに潜る様にするんです。でも、子供の魔力が減る事は殆どありません。魔力上限の成長期だから取り込むだけなんです。増減に関わらず交じる事が満たせるのは、交じりやすい精霊の子です」

 膝程の深さしかない美しい泉に手を差し入れる。冬の所為で水は冷たい。
 答えに辿り着いてから、ずっと気になっていた事がある。
 
「ルナ、生まれるべき『キャロル』は何処に言ったのでしょう?」
 
 『悪役令嬢キャロル』は悲しく見える。でも、彼女なりの幸せがあったかもしれない。私の所為で消えてしまったのなら、ここにいた筈の『悪役令嬢キャロル』の権利を奪った事になる。そんな風に考えると、胸が騒めいて苦しくなる。

 ルナが私の背中に、そっと手を当てる。背中越しに温かさが伝わって、そこから緊張が解けていく。

「ここにちゃんと、一緒におります。私の中にも『元のルナ』がいて、時に私の知らない事で胸を弾ませます。だから、ノエル様と交わって、一緒に今を生きているんです」

 私を見つめる父上の優しい瞳を思い出す。あの瞳を『悪役令嬢キャロル』にも知って欲しい。
 父上がいて、母上がいる。笑って、拗ねて、甘えて、当たり前の私の幸せを『悪役令嬢キャロル』が一緒に過ごしているならば嬉しい。

 小さく頷くいて、ジャケット、ベスト、靴、靴下を脱いでいく。少し寒いけど、全部が濡れるよりはきっといい。

「ノエル様……」

 呼ばれて、ルナの方を向き直る。ルナの手が私の手を取って、祈る様に口元に引き寄せる。零れそうな瞳が不安に揺れていた。

「愛する事を条件にしたのは、間違えではなかったと思います。強く大切な想いだから、人は躊躇う事が出来る。でも、ごめん……なさい。送り出さなくてはいけない事が苦しいです」

 ルナの綺麗な薄紅の髪をそっと撫でて、私は心から微笑む。

「愛し愛される事が条件の一つと聞いた時、自分に出来ない事が悔しくて、悲しかったです。他の誰かではなく、私ができる事が嬉しいんです。愛しい人の為に、友の為に頑張ります」

 踵を返すと、そっと泉に足を差し入れる。冷やりとした水の冷たさに、体が一瞬震えた。一歩、一歩、水の中を歩き進めて、中央まで辿り着く。
 胸元からネックレスを引き出すと、握りしめて膝を着く。

 私が小賢しいと言われるのは、『悪役令嬢キャロル』の心があるからか。それなら、この毎日を一緒に楽しいと、思ってくれてるだろうか。私が愛しいと思う人を、共に愛しいと感じてくれているだろうか。
 
 『悪役令嬢キャロル』一緒にいますか。

 体中を巡る魔力に水の中へと願う。答えを肯定する様に、泉に魔力がゆっくりと溶け出す。
 愛しい人を思って、大切な人を思う。家族を思って、友を思う。魔力が抜ける度に、泉の水が柔らかい温かさを帯びていく。
 
 ふと気づくと、水の中に小さな淡く優しい光が見えた。一つ、また一つと、それぞれ鮮やかな色を纏って増えていく。

「ちゃんと祝福が色づいております」

 泉の淵から、ルナが顔を輝かせて叫ぶ。安堵に胸を撫で下ろす。
 私の魔力には魔物の王の魔力が混じる。それが少し不安だったけど、問題なかったようだ。
 もっと、もっと、強く願う。するすると怖いぐらい簡単に、体の中から魔力が流れ出ていく。

 泉の中は色とりどりの光の粒に溢れて、水面を優しく鮮やかな輝きに変える。

「きれいです……」

 呟いた瞬間、視界が回るような感覚がした。慌てて流れ出る魔力の量を絞る。必死すぎて意識できていなかった魔力の枯渇が、急速に身に迫るのを感じる。

「怖いぐらい魔力が抜けます……。回復薬を取って下さい! 上着に――」

 頭がぐらりと揺れて、目の前が真っ白になった。顔を冷たいものが叩く。目を開けると光の粒がたくさん見えて、色鮮やかな星空に浮いているようだった。
 慌てて首を強く振って、倒れ込んだ泉の中から顔を上げる。

「ノエル様!」

 ルナが回復薬の入ったケースを握って、真っ直ぐ泉の中を駆けてくる。支えるように私の背に手を回すと、唇に回復薬を運ぶ。かみ砕くと、血が巡る感覚が僅かにした。でも、全然足りない。
 指先が白くなるまで、きつく手を握りしめる。

 私の夢は愛しい人の夢で、愛しい人の夢は私の夢。
 隣に立つと誓った。だから止めちゃダメ。
 祈りが届かなければ、アレックス王子は戦えない。秘宝が使われたら、もう夢はかなわない。

 何よりも、もう一度貴方に会いたい。

 再び魔力を流し始めると、小さい輝きが更に強い光を帯びる。色とりどりの星が、水の中で踊るように動き出す。
 
 絶え間なく回復薬を口に含んで、ただ必死に祈り続ける。
 こんなにたくさん、エトワールの泉の中に星があるのに。何故届かないのか。
 体の中の魔力の渦はもう消えて、雫の様な魔力が空回る。唇を噛んで俯く。涙の代わりに髪から鮮やかな水の雫が、頬を伝って幾つも落ちる。

 聖女シーナは愛しい人の為に、全てを投げ出した。
 王様は魔物の王に勝利した。友と、家族と、たくさんの人が救われた。
 悲しい、悲しい、ハッピーエンド。王様が寂しくて可哀想と泣いたのは何時の事だろう。

「ルナ……ごめんなさい。アレックス殿下にも……ごめんなさいって、伝えて下さい」

 私の魔力が足りないのなら。全部、泉にあげます。
 私の体の全てを祈りに変えて、あの人の所へ。

 強くそう願うと、体の中が熱くなった。頭の上から、足の先、爪の先まで、熱で一杯になる。全てが溶けると思った瞬間、ルナが私を抱きしめる。

「絶対ダメ! お願い! 私に、もう一度失わせないで!」

 弾かれるような気がして、すっと体中に籠る熱が消えた。だらりと落ちた腕で、色鮮やかな水を掬う。
 私には、傷つくなと言った人がいて、失わせないでと言った人がいる。再会を約束した友がいて、もう一度会いたい家族が人がいる。

 頬を涙が伝って、泉の水と混ざって落ちる。

「……ごめんなさい。こんな大事な時なのに、戦って魔力が足りないんです。いつもだったら、もっともっと頑張れるのに……」

 私の手を引いて、ルナが泉の淵に座らせる。綺麗な指が私の頬を掴んで、何度も何度も零れる涙を拭う。
 泉の中に浸かったまま、ルナが膝を着いて私の手を強く握りしめる。

「何もできない自分の無力さが嫌になる。何度も何度も、届かない場面を見て来たけれど、今が一番苦しい。どうしてだろう? 私が人であるからなのかな? お願いです、ノエル様。その身を失わせないで……」

 懇願する様に、私の手にルナが額を当てる。ルナの魔力が動くのが分かった。
 一生懸命に私の代わりに、泉に魔力を溶かそうとする。でも、エトワールの泉は、ルナの想いに応えない。

 私の魔力の供給が止まって、目の前で光の粒が一つ小さく弾けた。再び泉の中へと膝を着こうとした私を、ルナが押しとどめる。

「駄目。お願い……お願い……お願い……。かつては私の一部だった。お願い……だから思いに応えて」

 お願いと、どれぐらいルナが呟いただろう。目の前で、小さな光の粒が一つ生まれた。

「ルナ! 一つ、祝福が生まれ――」

 言葉にするよりも先に、泉の変化が顕になる。私の時よりゆっくりだけど、確かに新しい祝福が生まれて鮮やかな輝きを増し始めた。

「届いている? 届いています! ノエル様!」

「はい! ルナの祈りが届いてます!」

「私の中でほんの少しだけど、何かが動くんです。これ……」

 言いかけてルナが小さく口を開く。それから輝く様な笑顔を浮かべる。

「ルナ?」

「誓約です! 私の中には少しだけど、ノエル様の魔力がある! それが今、流れてるんです」

 ルナが魔力の出力を上げると、ゆっくりだけど一段と泉が輝く。

 手の甲で急いで、瞼をこすって涙を拭う。
 私の愛しい人は、こんな風には泣いて立ち止まらない。止まるなら進むし、無理をするならとことん無理をする。

 上着から回復薬を取り出して、更にかみ砕いて飲み込む。ルナが私を休ませてくれたお陰で、少しだけど魔力がまた戻ってきた。

「無理はしません。私も休みながら祈ります」

 祈る事と休む事を、繰り返す。気付くと泉は、小さな光りの粒で一杯になっていた。

「届いて……」

 呟きと同時に魔力を流すと、泉から魔力の粒が一つ飛び出した。追いかけるように、二つ、三つ、と光の粒が湧きたつ様に空へと昇る。

「今ある全部の魔力を!」

 ありったけの魔力を泉に叩きつけると、一斉に鮮やかな光が空に舞う。
 黒く厚い雲に覆われた空を、祝福の光が星の様に彩る。

「私の星。貴方の為の星。……願いと約束を愛しい人に!」

 祝福の星の流れが、川の様になって真っ直ぐに西の空を目指していく。

 彼方へと消える祝福の星が作る川を、ルナと並んで見送る。辿り着く先を見たいと願うと、頭の片隅に見知らぬ景色が映った。

 景色は草原を眼下に、はるか彼方に街を見る。超える山の向うに、川が走る。瞬きの間に、岩肌の大地が見えた。

「ワンデリアが見えます! ルナにも見えますか?」

「はい。私にも!」

 不思議と祝福の星の行き先が、脳裏にはっきりと見える。私の魔力だから、私の体の一部のように感じる事が出来るのかもしれない。

一度、瞼を強く瞑ると、目の前に渓谷が見えて奥へ奥へと星々が進む。

「アレックス殿下!」

 愛しい人が見えた。残酷そうに笑う魔物の王の前で、ぼろぼろになった体で片膝を着いていた。でも、その目から希望の光は失われていない。剣を支えに、尚も必死に立ち上がろうとしている。

 クロードが、アレックス王子の盾になろうと足を引きずる。ユーグが、砂を噛んでまだ見ぬ術式を書く。ディエリが、悔し気に舌打ちして再び立とうと腕を張る。カミュ様が目に流れ落ちる血を拭って、指に魔力を纏わせる。ドニが今ある結界が支えと理解して、途切れそうになる意識を振り払うように頭を振る。

 必死に立ち向かうアレックス王子と、友に向かって、届かない手を伸ばす。

 アレックス王子が何かに気付いた様に、空を見上げた。驚いた様に紺碧の眼差しを見開くと、その眼差しの中に愛しさが浮かぶ。私に伸ばすかの様に、その手が空へと伸ばされる。

 その手に触れたいと願う。
 王都とワンデリア。これは幻だから届かない。それがわかっていても、何故だか触れられる気がした。だから、手を伸ばす。

 確かに、熱い指先に触れた気がした。
 指先と指先が触れたと思うと、貴方が私に愛を呟いたように見えた。

 私も愛しています。貴方に私の星の祝福を。


 ワンデリアに、祝福の星が降り注いだ。
 色とりどりの光の粒が、雪の様に降る。その景色を見た者は、一様に美しかったと声を揃える。
 星が触れる度に、アレックス王子を始めとした者達の傷が癒えて、力が増す。相反するように、魔物の王は力を弱めた。
 星が降りだして、半刻。アレックス王子の手によって、魔物の王は打ち倒された。
 この勝利は、魔物の王の撤退ではなく、完全な勝利だった。
 この世界から魔物王の脅威は消えた。


 季節はもうすぐ二巡り。
 控室に柔らかい日差しが差し込む。特別な日の、特別な装いに、私は身を包む。

 しっとりと柔らかいドレスは伝統的な型だけど、裾や胸元には流行の銀糸のレースがふんだんに使われている。ベールは慣例通りの三枚。左右に流すロングベールは同じ銀糸のレースで細やかに縁どられる。ひときわ目立つ髪飾りは大輪のアネモネ石で、輝透石と白宝珠が散りばめられていた。

 私の長いベールを、お父様が軽く引っ張る。

「お父様! 引っ張ってはいけません」

 ベール越しに、盛装に身を包むお父様が膨れる。今日は隙があれば、私の至る所をお父様は引っ張る。

「ノ……キャロル、家に帰ろう!」

「だ・め・で・す! 何回目ですか?」

「三十六回目のお願いだ。シャロルも寂しがるよ? リオンも君を待っている! はいはいとか、たっちはもうすぐだ!」

 片言のお喋りが、流暢になり始めた天使の様な妹。今年になって生まれた可愛い弟。どちらも髪は母上の銀がベースで、瞳はアングラードの紫。二人が並ぶと、最高に可愛い。
 黙り込んだ事を、好機と捉えたお父様が畳みかける。

「私の天使が大好きなじいじも、バルバラおばあ様も王都に戻る。いいのかな? 我が家は賑やかだよ」

 離れのダイニングの光景を思い描く。窓際の穏やかな日差しの中にお母様がいて、向かいで赤ちゃんのリオンを抱くバルバラおばあ様がいる。メインテーブルにシャロルを抱くモーリスおじい様がいて、その隣でじいじが孫の様子に目を細めつつ、お父様を叱る。お父様は苦み潰した顔をしながらも、時折嬉しそうに笑う。
 
 そんな光景が、毎日続く未来が愛しい。思わず目が潤んでしまう。

「嫌い……。もう、泣きたくなります」

「泣きたくなるなら、帰ろう?」

 今日のお父様は一段としつこい。でも、それは私を心から愛して、手放したくないと思っているからだ。ゆっくりとドレスの裾を摘まんで、お父様に礼をとる。
 
「お父様。時々は、おうちに帰ります。でも、キャロルは愛しい方の所へ参ります」

 深い深いため息が落ちて、ベール越しにお父様が私の頬をそっと撫でる。

「大事な日の大事な場面の前に、可愛い天使を泣かせてはいけなかったね。いつでも、帰っておいで。帰ってきたら、戻らなくていいからね」

 最後の一言はいらないけれど、お父様の愛情は十分伝わった。
 扉を叩く音がして、騎士が一人入室する。

「アングラード公爵、ご息女キャロル様。会場の支度がもうすぐ整います」
 
 今年に入ってアングラードとヴァセランは、公爵に格上げされた。謀反でベッケルが伯爵まで下がった為、公爵は一時バスティアだけになった。新公爵が多方面から求められ、順当に繰り上がる。

「では、キャロル。ゆっくり行こうか?」

 お父様が僅かに肘を出して誘う。その腕にそっと手を掛ける。ゆっくり私とお父様は歩き出す。この先を進んでいけば、もうすぐ私はアングラードの娘でなくなる。

 控室を出ると、広い庭に面した外廊下に出た。庭の向うでは、昼のお披露目式の準備が進んでいた。広い室内会場と、外に設えられた庭園風の会場。ここに何百人も集まる。考えると、緊張で少しだけ指が強張る。

 庭師の一人がこちらを見て、人懐っこい笑顔でこっそり手を振る。その顔に覚えがあって思わず、くすりと笑う。見渡せば他にも知っている顔があった。
 ここにいない人は、一体どこにいるのだろう。
 きっと今日は、ここの何処かにいるはずだ。この国の影の騎士は、今日も当たり前の景色に潜り込んでいる。
 小さく手を上げて長いベールの下で、ひらひらと手を振り返す。

 空を仰ぐと、雲一つない真っ青な愛しい色が広がっていた。明るい太陽の日差しが降り注いで、私の歩く廊下を照らす。

 廊下の向うから、跳ねるように駆ける人影が近づく。愛らしい姿に思わず顔が綻ぶ。

「ノエ……、じゃなくて、キャロルー!」

 薄緑のカールした髪が、走るのに合わせて揺れる。立ち止まると、大きく体を折る。何度か深呼吸を繰り返して息を整えると、勢いよく上げた顔は白い頬が薄紅に染まっていた。

「ドニ。走ったらダメですよ?」

「うん。でも、急ぎだからね? 今日は聞きたい歌はある? 中々会えなかったから、聞き忘れてたでしょ?」

 小さく首を傾げると、ドニが満面の笑顔で問いかける。

 ドニはとっても忙しい。歌声に磨きがかかって、芸術で名高いイリタシスを中心に色々な国からの招聘が絶えない。一年の半分は、国外を飛び回っている。それでも半分をこの国で過ごすのは、大好きなルナがいるからだ。

「ドニの歌なら、何でも好きです。とびきりの恋の歌と、アレンジした古い宮廷音楽をお願いします」

「うん。ノエ……キャロルの為に、心を込めて歌ってあげる」

 天使の様な顔でドニが胸を張る。ドニには、いつまでたっても少年の愛らしさがある。その笑顔が周囲を温かくしてくれる。

「ルナはお披露目に来ます?」

「うん。夜のお城の方に来るよ。僕がエスコートする約束したんだ」

「会えるのを楽しみにしていると、伝えて下さいね」

 ドニが大きく頷いて、踵を返すと来た道を戻っていく。

「相変わらず、ラヴェル伯爵家は自由だね」

 跳ねる様な足取りを見送りながら、呆れる様にお父様が呟く。

 ルナはあれから学園に復帰した。休学扱いの期間が長く、卒業は私達より一年遅くなった。
 今はアーロン先生の補助講師をしながら、国史の講師を目指している。この国を誰よりも見てきたルナは、最強の講師になれる筈だ。

 爽やかな風が吹いて、私のベールを揺らす。木漏れ日も揺れるから、大地に落ちた影が蠢く。

 あの日。私とルナが見ていたワンデリアの景色は、アレックス王子に触れたと思った瞬間に見えなくなった。後で聞いた話だと、その直後から祝福が皆に降り注いだようだ。
 突然失われたワンデリアの景色に、呆然と私とルナは顔を見合わせた。そして、泉の中に一粒だけ残る祝福を見つけた。
 色とりどりの光だった祝福とは違う真黒な祝福。それが何であるか、私達には直ぐに分かった。

――彼の魔力です……

――魔物の王なら、私は残すべきじゃないと思います。

――……考えます。だから、私が預かってもいいですか?

 私達の祝福の量は、シーナの時よりも多かった。魔物の王の本体は、打ち倒されるとルナは予感していた。封印ではないから、魔物の王は二度と甦る事はない。ここに残った一粒の真黒な祝福が、魔物の王の存在の最後の欠片になる。

――握りしめたら消えてしまう程、小さな欠片なんです。災いになる事はありません。

――ルナは、残してどうするんですか?

――わかりません。考えます。憎まなきゃいけない程、孤独だった彼に何かを教えてあげたい。

 黒い祝福の一粒を、ルナは今も持っている。私は賛成も、反対もしていない。
 大嫌いだし、許せない。でも、許したいし、救いたいと言う人が目の前にいる。
 だから、今は保留。ルナと納得する答えを、いつか出せたらいいと思っている。

 明るい日向の道を、ゆっくりと歩く。街のお祭りの喧騒がここまで届く。見知らぬ国の音楽と、湧きたつ歓声に心惹かれる。

 外廊下の出入り口に来ると、パンという音と共にきらきらとした光の粒が私に降り注いだ。
 飛び出してきた得意顔に、頬を膨らませる。

「ユーグ!! びっくりさせないで下さい」

「なんで、怒られるのかな? 君を喜ばせようと思ったのに」

 目じりの少しだけ下がった眼差しをすっと細めて、薄い唇をあげると惹き付ける様な色気が漂う。
 その姿に思わず嘆息する。相変わらずユーグは無自覚に色気を振りまき過ぎる。

「きれいです。すごく綺麗だと思います。光魔法を応用した魔法弾ですね? 音がダメです! パンはいけません。心臓がびっくりして、どきどきします」

「ふーん。そんなに、どきどきするなら聞かせてよ?」

 紫色の髪を掻き上げて、胸元に耳を寄せようとしたユーグの耳をお父様が掴む。

「シュレッサーの子息は相変わらず、遠慮と常識が欠落してるなぁ?」

「そう? 驚きと喜びの中間にある心音について、考察してみたいだけなんだけど? それに何か問題ある?」

 あります。ユーグ、今の私はキャロルです。見えてますか。思わずむ心の中で独り言ちる。

 ユーグは相変わらずだ。金色の眼差しは、いつも好奇心を浮かべて、穿つように人を見る。たくさんの人の興味を引くのに、本人は探求以外は気分次第。
 知識も技術も、この国で一番。シュレッサー最高の探求者と呼ぶ人も多い。

「ああ。君に花火の贈り物。終わった後に、部屋のバルコニーにいて?」

「はい! 楽しみにしてますね」

 ユーグが珍しく恭しい一礼を取って見せる。

「僕の初恋の君で、最愛の友へ。おめでとう。祝福する。嫌になったら、いつでも探求の旅に行こう」

 頭をあげると満足そうに口の端を上げてから、薄い唇を舌でゆっくり湿らせる。
 心からの祝福に、ドレスの端を小さく摘まんで答える。頭を上げた時には、気ままなユーグは踵を返した後だった。

 お父様が小さく咳ばらいをすると、真剣な眼差しを向ける。

「で、探求狂いの初恋の君って何なのかな? シュレッサーだけは嫌だからね」

 お父様のお小言に適当な合図ちを打ちながら、ゆっくりと廊下を進んでいく。

 高い天井に高窓のステンドグラス。差し込む光が色とりどりの輝きを落とす。
 泉に一杯だった祝福と、どちらが美しいだろうか。

 エトワールの泉に最初に辿り着いた第三者は、アニエス様とブリジット様だった。
 連絡しないと思っていた学園の衛士は、勇気を振り絞って国政管理室にも、情報戦略室にも、アニエス様にも連絡したらしい。
 私の突然の行動に、バルト伯爵は怒鳴って、国政管理室の副室長さんは大笑いしていたという。城奪還の後処理で二人は動けない。代わりにアニエス様がブリジット様を誘って、揚々とエトワールの泉に乗り込んできた。

 既に私がキャロルであると知っているアニエス様は、祝福の光が私だと気づいていた。

――祝福を国中の人が見たわ。どうするか、腹をくくりなさい。

 あっという間に関係者に箝口令を引いて、私とルナは離宮に連れ去られた。本筋とは関係ない事に溢れた混沌とした尋問。アニエス様とブリジット様との時間は、思い出すと今もどっと疲れを覚える。

 その後、王家とお父様との間で色々な調整があった上で、キャロルはノエルの双子の妹として表舞台に登場する事が決まった。そして、聖女の肩書もついてしまった。
 
 今の私の姿はアングラード公爵息女で、聖女のキャロル・アングラードである。

 王族の控室が近い区域に入って、歩哨を見かける事が増えてきた。特別な装いの私に向かって、小さなため息が落ちる事がある。がっかりさせるような事を、何かしただろうか。

 令嬢をやめて長い私にとって、女の子として表に立つのはまだまだ荷が重い。一巡りの季節分は経験を積んだけど、失敗もたくさんあった。
 だから、溜め息の度になんだか少し落ち込みそうになる。

 頭一つ大きな立ち姿を見つけて、思わず安堵に駆け寄りたくなる。

「クロード! ……様?」

 キャロルである事を忘れて、周囲に人がいるのに親し気に名を呼んでしまう。
 お父様が誤魔化すように名前を呼び直して、クロードを手招く。

「クロード、こっちにおいで」

 同じ近衛服の仲間に何かを言って、クロードがこちらに向かってくる。周囲の目もあるので、出来るだけ優雅に令嬢の礼を取って迎える。

「すみません。うっかり名を呼びました」

 声を潜めて謝ると、水色の精悍な眼差しが優しい色を帯びる。

「気にするな。兄であるノエルの呼び方が移った、と言っておく」

 裏表のないクロードのこの笑顔を見ると、心底安心できる。何でも任せられるという気になる。
 だから、信頼できる友の顔をじっと見つめて聞いてみる

「私、なんか変ですか?」

「いや。ちっともおかしくないぞ」

 私の問いかけに、真剣な顔でクロードが答える。その回答にホッとするけど、溜め息の理由がより分からなくなる。

「時々、歩哨の方がため息をつくんです。絶対、何かありますよね? 何だと思います?」

「ああ。綺麗だからだろう」

 晴れやかな笑顔で答えられると、それ以上は何も言えない。否定も肯定も出来なくて天を仰ぐ。
 私の親友は真面目で素直な人だ。彼の言葉なら、嘘だなんて否定できない。

「ありがとうございます」

「ああ」

 また、晴れやかで頼もしい笑顔をクロードが返す。
 今のクロードは、近衛に在籍している。剣の腕は若手で一番で、公式の席への帯同が増え、評価も高い。来年には、特定の王族につく噂を聞いている。
 無駄のない引き締まった体が示す通り、相変わらず時間があれば鍛錬ばかりだ。一緒に鍛錬する時の模擬試合の戦績は、私の連敗が続いている。

 こっそりベールの下で拳を作って甲を向ける。唇を僅かに上げ合うと、ベール越しに甲と甲を軽く当てる。私達の甲には、まだ薄く友の誓いの跡がある。

「クロード、そろそろ恋人を」

「そのうちな」

 お日様みたいに笑って、仲間の近衛騎士たちを追う為に駆けだす。クロードが近衛でここにいるのなら、この場所は世界で一番安全になる。

 お父様が顎を撫でて、愉快そうにその背を見つめる。

「年々、エドガーに似てくるな」

 歩き出そうとすると、真っすぐに向かってくる二人組が目に入る。少し顎を上げて、見下す様な視線を投げかけるのはディエリ。気難しい顔で唇を引き結ぶのは、バルト伯爵だ。

「アングラード公爵! お久しぶりです。この度はおめでとうございます」

「それは嫌味かな?」

「滅相もありません。折角です。今日の警備計画を見ていきませんか?」

 引きずる様にお父様を、バルト伯爵が壁際に連れて行く。警備計画書を押し付けらて、お父様の顔が面倒そうなもの変わる。相対するバルト伯爵は、気難しい顔の目だけを楽し気に輝かせて、お父様の意見を待っている。お父様への憧れは継続中のようだ。

「ディエリ、最近どうですか?」

 バルト伯爵とお父様を眺めながら、問いかける。瞳だけを動かしてディエリが鋭利な眼差しを私に向ける。

「つまらん」

「好調って聞いてますよ。情報戦略室は、謀り事が好きなディエリに似合います」

 ディエリは色々な院から引き合いが多くあったが、国政管理室の全面的な後押しで情報戦略室に行った。バルト伯爵とは予想通り相性が良いらしく、騎士団は彼の未来の無茶振りに、戦々恐々としているらしい。
 騎士団だから、私とは年に数度しか駆け引きする機会がなくなってしまった。少し残念に思える。
 
「子狸の化けの皮は、何時はがすんだ? 似合わんぞ」

 思わず自分の純白のドレスを、上から下まで眺める。ドレスとか小物は完璧なので、やはり問題があるなら中身しかない。クロードは褒めてくれたけど、何処かおかしいのかと慌ててしまう。

「に、似合わないですか?」

 驚いた様に緑の目を見開くと、珍しくその瞳が甘い色で弧を描く。時折、こうゆう顔をするから、ディエリに嵌る令嬢が後を絶たない。

「つまらん反応だな。その服では、再戦できんぞ」

「ああ。大丈夫です。また、いつか負かしてあげます」

 ベールの下で挑発する様に唇を上げると、ディエリが面白そうに頬を上げる。

 バルト伯爵がディエリを呼んで、お父様が首を回しながら戻ってくるのが見えた。立ち去り際にいつもの舌打ちを残して、ディエリが背を向ける。

 お父様が、再び私に腕を差し出す。

「さあ、行こうか。それにしても、バスティアの小僧は、相変わらず生意気だねぇ。あの瞳に腹が立つ!」

 色鮮やかなガラスが作る光の模様を、踏みながら歩き続ける。、指定の大きな扉が見えてきた。あの扉の向うに私の新しい未来がある。

「キャロル」

 後ろから名前を呼ばれて振り向くと、小さく小首を傾げてカミュ様が黒髪を揺らす。少し伸びた髪型の所為で、以前よりもカミュ様はずっと大人っぽく美しい。

「ごきげんよう、アングラード公爵。今日の事は、おめでとうと申し上げてよろしいですか?」

 綺麗な顔に毒気を忍ばせてカミュ様が笑うと、お父様の頬が僅かに引き攣る。コーエンの聖女ディアナの扱い以来続く、カミュ様と国政管理室の因縁は未だに健在だ。
 王位継承三位として国政にも関わる事が増えて、カミュ様は療養所や孤児院などの救済に力を入れている。甘いけれど悪くない、と国政管理室は評価する。腹が立ちますが正しいと、カミュ様も国政管理室を評価する。
 コーエンの聖女であったディアナとは、数か月前に正式に婚約した。

「できれば、何も言わないで頂けたら幸いです」

 お父様の返答に楽しげな笑いを漏らして、カミュ様が流麗な動作で私に向き直る。

「畏まりました。では、レオナールには申しませんね。キャロルにだけ、申し上げます。ご結婚おめでとうございます。末永く幸せになってください」

 大輪の花が綻ぶように笑って、カミュ様が穏やかな眼差しを私に向ける。そっとドレスの端を摘まんで一礼で返すと、赤い唇に人差し指をあててカミュ様が笑う。

「アレックスは強いです。でも、その強さが彼に無茶をさせます。支えてやって下さい。そして、縋れるぐらい貴方らしい強さを、隣で持ち続けて下さい」

「はい。必ずお約束いたします」

 安堵したように大きく頷いて、別の扉から奥へとカミュ様が消えていく。
 
 開始を待つ胸が、早鐘を打つ。緊張ではなくて、これは畏れだ。
 ここはこの国で、王族だけが使用を許される神殿。この扉をの向うには祭壇がある。ここが使われるのは、王族が生まれた時、結婚する時、なくなる時の三度だけ。
 ヴェールの上から、お父様がそっと指先を撫でる。

「幸せになりなさい。欲張っていいんだ。その手に乗せられるだけ、幸せをつかむといい。苦しかったり、困ったら、逃げ帰って来なさい。その時は必ず、父と母がその手に手を添える」

「はい」

 祝福を示す大きな鐘の音が、神殿中に響き渡る。
 
「アングラード公爵、扉を開けます」

 お父様が頷く気配と共に、扉に向かって歩き出す。高い天井の所為で、足音がとてもよく響く。一歩一歩、進むたびに今との別れだと思うと、少しだけ寂しいとか怖いとか竦む気持ちが頭をもたげる。

 私の目の前で大きな扉がゆっくりと開く。荘厳な祭壇よりも、大勢の列席者よりも、見慣れた愛しい人の眼差しに今日も真っ先に目を奪われる。
 私と同じ白の特別な服に身を包んだアレックス王子が、紺碧の眼差しを眩し気に細めて私を見つめる。

 ラヴェルの楽団が奏でる美しい音色が、遠い場所から聞こえるかのように耳に響く。
 一歩一歩、ゆっくりと、何かを確かめる様な気持ちで歩く。

 愛し気な眼差しをアレックス王子が逸らさないから、私も目を逸らせない。吸込まれるように見つめ合うと、新しい運命に竦む気持ちが消えていた。早く早くと急ぐ気持ちに変わる。
 
 あと九歩、八歩、七歩……そう心で数えている距離は決して遠くないのに、時間の流れは緩やかで駆け出したいような思いに駆られる。

 重ねた紺碧の眼差しに、私の胸の内にある焦りによく似た色が浮かんだ。あと二歩。やや早いと思えるタイミングで、アレックス王子が私に手を差し出す。
 隣でお父様の小さな舌打ちが聞こえた。

「焦るのはどうかと存じます」

 抑えた一言に、驚いた様にアレックス王子が自分の手を見下ろす。

「失礼。耐えられないぐらい、愛しくて欲しいと思ったんだ」

 諦めたような吐息を落として、晴れやかな笑顔をお父様が浮かべる。

「うちの娘を泣かしたら、承知しませんから」

 美しい動作でお父様が一礼して、その礼にアレックス王子が流れるような礼を返す。
 私の手がお父様の手から、アレックス王子の腕へと導かれる。

「いってらっしゃい、キャロル」

「いってまいります、お父様」

 今この瞬間から、私の頼るべき腕が変わる。急に不安が込み上げて、指先に僅かに力が籠る。その指先を庇うようにアレックス王子が空いた手を乗せた。たったそれだけの事で、胸の不安が何かで満たされていく。

 私達はこんな風に生きていく。きっと愛で満たされる。そんな予感を持って仰ぎ見る。同じ事を思っていたかのように、アレックス王子が私に向かってしっかりと頷く。

 楽団の音色に合わせるように、ゆっくりとした足取りで祭壇へ進む。左右に並ぶのは王族と、この国の伯爵以上の当主とその妻だ。アレックス王子に見惚れたのか、嘆息の声が過ぎる場所から漏れる。

 緊張する私の為に添えられた手を、そっと見る。
 約束の答えを告げた時を思い出す。

 離宮の一室に戻るなり、アレックス王子は私の腰を抱き上げた。紺碧の眼差しで見上げて、愉快そうに抱き上げたまま一回転する。

――君が星になって降ってきた

 あの時幻だと思った事は、私とアレックス王子、互いにだけは見えていた。愛し愛される人を繋ぐ祝福。
 側に帰ってきて、こうして触れている。その実感に、瞬きの間も我慢できない程、今すぐに想いを伝えたいと思った。

 抱えられて一段高い所から、あの日の続きのようにそっと手を伸ばす。太陽の木漏れ日の様な髪に触れて、約束の答えを告げる。

――お約束です。アレックス殿下、答えを言わせてください。

 どれ程想い合っているのかは、ちゃんと互いに分かっていた。口にするのは、この距離で確かめ合いたいからだ。

――貴方を愛しています。ずっと、貴方の隣にいさせてください。

 抱えられた体が宙を浮いて、落下する感覚がした。落ちるより先に抱きしめられて、アレックス王子の胸の中に収まる。胸が早鐘を打つ音が聞こえる。
 この音は私の音か、アレックス王子の音か。分からない程、私達はぴたりと重なりあっていた。

 ラヴェルの楽団の演奏が、また別の音楽に変わる。愛を囁く様に歌うドニの声がとても美しい。

 剣を持つ人の少し節のある手から視線を上げて、ベールの下から秀麗な横顔を盗み見る。
 綺麗な鼻筋も、整った眉も、意志の強い真っ直ぐな眼差しも好き。形のいい唇は、触れると熱くて溶けそうになる。
 好きを数えて確認する度に、頬が赤くなる。今日からこの人の隣、新しい場所で生きる。

 私の名前は、キャロル・マールブランシュに変わる。
 友でもない、臣下でもない、恋人でもない、妻と言う名がくすぐったい。

 深い空の色の眼差しが、私を見て唇を綻ばせる。

「叶えてない約束が、まだまだある」

「はい。まだまだ、たくさんです」

 祭壇に着くと、神官様が光の女神の物語の一説を朗々と読み上げる。有名な一説を、厳粛な気持ちで目を閉じて聞く。
 綴られた本を、神官様が閉じる音が聞こえた。再び、そっと目を開ける。世界が一段と優しく、美しく色付くように思える。

「光の女神の言葉は以上です。互いに愛を誓い、生涯を共にできるなら、帳を上げなさい。そして、迎え合うと良いでしょう」

 これは、この国の結婚の決まりだ。帳とは、三枚のベールを指す。ベールは、人の境界、家の境界、心の境界、時の境界、色々な境目の意味を持つと言われている。三枚のヴェールを全て上げる事は迎えを意味し、ベールを上げて見つめる事は、互いを受け入れ一つになる事を意味する。

 互いに向き合って、ベール越しに見つめ合う。帳であるベールの向うで、アレックス王子が悪戯する色を浮かべた眼差しを見せる。

「最初の約束から、十年を過ぎた」

 その言葉に小さく笑う。いつか必ず迎えに行く。そう言った可愛い王子様を思い出す。
 節のある綺麗な手が、右手のベールを一枚開ける。ふわりと肩へベールがかかる。一枚の帳が取り払われた。

「あの時から、多分ずっとお待ちしていました」

 アレックス王子が嬉しそうに目を細める。長い金色の睫毛を瞬かせて、左手のベールをそっと反対の肩へと載せる。

「まだ、叶えてない約束がある。必ず、生涯をかけて叶えよう」

 言葉に小さく首を頷くと、最後の一枚のベールが柔らかく揺れる。

「貴方の隣に立ちます。ずっとお側に……」

 小さな吐息と共に、最後のベールにアレックス王子が触れる。少しだけ膝を屈めて俯くと、目の前が帳を払って明るくなっていくのが見えた。
 顔を上げて、私を迎えに来てくれた愛する人の顔を見つめる。
 その目に浮かぶ愛しさと、同じ愛しさが私の瞳にもきっも浮かんでいる。

「とても綺麗だ、キャロル」

 固い指先が頬を愛し気にそっと撫でる。いつからか、互いを迎え入れた二人が、最後に口づけを交わすのが慣習になっていた。
 そっと瞼を閉じて、何度知っても私を困らせる熱を待つ。

「生涯をかけて、誰よりも君に愛を」

 顎を優しく上にと指先がさらう。私の唇に愛しい人の熱い唇が重なった。

 少年の日の約束が、今日果たされる。私達のたくさんの約束が、また一つが叶う。


 昼の神殿での披露目の式は、蜂蜜色のドレスを着た。夕刻の城での舞踏会には、夜明け色のドレスで参加した。
 聖女と呼ばれてから、キャロルとして表に出る事が増えたけど、まだ慣れない。終わった瞬間には、いつも座り込みたい疲れを覚える。

 王族の住まいに入るや否や、つい溜め息をつく。攫う様に私を横抱きに抱えて、アレックス王子が笑う。

「君はもう少し、キャロルの時間になれないとね」

「なんでしょう? とっても疲れるんです。歩き方とか所作が違うから、一々緊張するんです」

 私の額に軽いキスを落としながら、アレックス王子が廊下を進む。とりあえず、他の王族の方達はまだ会場にいる。見られる心配がない事に安堵する。
 部屋のドアを開け放つと、まっすぐにバルコニーを目指す。ユーグが終わった後に、特別な花火をくれると言った。私達は、それを二人で楽しみにしていた。

「特別と言っていたな。城を破壊しないでくれると良いが」

 同じ様な心配を口にするから、思わず声を漏らして笑う。

「ユーグならやりかねません。アレックス殿下が――」

 言いかけた唇を唇が塞ぐ。愛し気な眼差しに焦れる様な熱を見つけて、胸が小さく音を立てる。

「アレックス、そう呼べ。気づくと君は、殿下という呼称にすぐ戻る」

 自分でも、よく分かっている。アレックスと呼びたいと思うけれど、アレックス殿下と呼び続けていたから直すのが難しい。嬉しいような恥ずかしい様なくすぐったさに負けて、いつもアレックスと呼べなくなってしまう。

「アレックス……殿下」

 もう一度、唇が唇を攫う。見つめる眼差しが、呼ぶまで続けるよと言うように熱っぽい弧を描く。
 触れて欲しいと思う数だけ、呼称をつけて呼んでみようか。そんな風に思ったら、自然とアレックス王子の唇に手を伸ばしていた。

「アレックス」

 ドンと大きな音が響いて、大輪の花が夜空に咲いた。本当は見なきゃいけないのに、長い長い口づけになる。吐息の数と花火の音を数える。五つ目の花火の音を聞いて、漸く互いの熱を手放す。空を見上げると、懐かしい花火が夜空を彩る。

「あの日の花火ですね、アレックス……」

 ユーグには珍しい大輪の簡素な花火。でも、この花火は大事な思い出に重なる。御前試合の後に、みんなで手を繋いで見上げたのと同じ型だ。
 花火が弾ける度に、思い出が巡る。巡る度に幸せだと思うと、胸が一杯になって涙が零れそうになる。

「何だあれは?」

 訝しむようにアレックスが呟いて、同じ方向に顔を向ける。
 城門の向うから、こちらに向かう馬車が見えた。速度はかなり早い。もう少し早い時間なら夜の舞踏会の遅刻者だと言える。だけど、今は舞踏会も終わっている。
 
 部屋をノックする音が響く。慌てて、抱えられた腕から降りて返事をする。
 誰か分かるから、私の頬は自然に緩む。反してアレックスは、微かに頬を引き攣らせる。

 ドアが開くと、私のよく知る従者服姿でジルが綺麗な一礼する。

「ノエル様に火急の報告を。フランチェルの貿易船が、海上で立ち往生しております。事業資材の到着が大幅に遅れる事について、協議されたいと大使がこちらに向かっています」

「資材の遅れだけですか?」

 私の問いかけに、ジルが即答する。

「フランチェルとしては協議で値を上げて、立ち往生の間の費用の補填をしたいようです」

 その言葉に私が頷くと、愉快そうな眼差しでジルが私を見つめる。

 ジルへの私の答えは、家族としての変わらない愛。
 ジルは今、黒近衛に戻っている。でも、戦前準備部隊にはいない。
 ノエル・アングラードの従者兼キャロル専属の黒の近衛という立場になる。
 だから、私とジルは今も、昔も、これからも、変わらずに一緒にいる。
 
「わかりました! 今、支度しますね。アレックス、今日は先にお休みになってください!私は、国政管理室のノエル・アングラードとして、少しだけ出て参ります!」

 マリーゼ特製の銀の縦ロールのつけ髪をベールごと外して、前よりは長いけどまだまだ短い髪を揺らす。

「一応、今日から本業は、私の妻で王太子妃なんだが?」

「分ってます。でも、私とアレックスの約束は、たくさん残ってます。変えると約束した政策もたくさんです。約束が全て叶ういつかまで、妻のキャロルは勿論、臣下のノエルとしても、貴方の隣に立ち続けます。だから――」

 眩し気に私を見て、アレックスが長い長い諦めの溜め息をつく。
 小さく舌を出してから笑って宣言する。

 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になりました。

「王太子妃は時々やめて、公爵子息になります」

 これが私の新しい日々。そして、続く長い未来の物語。

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