2018年12月19日水曜日

四章 六十話 悪魔の囁きと発端 キャロル16歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 前のめりになった体を支える腕が震える。叫ぼうとした声は、口の中を支配する空気の塊が掻き消していく。
 
「あまり叫ぼうとか考えない方が良い。正しい魔法の使い方じゃないから、傷つくかもしれない」

 首筋に落ちた声は、聞き取り難くぞっとするぐらい冷たい。言葉を無視して声を出そうとすると傷みが走って、唇から血が零れるのが分かった。

「言っただろう? 困らせなければ酷くしないから、大人しくするといい。女性には優しくありたい」

 そう言って、男の手が私の頭を撫でる。細く長い指の感触がこの部屋の持ち主と似ていて、その手が自分を押さえつける事がとても嫌だった。

「ここは、アングラード子息の従者の部屋でいいかな? まずは首をふって答えてごらん」

 迷ってから首を縦に振る。何処かで聞いたことがある声だが、聞き取りにくさもあって誰だか思い当たらない。今は時間を稼ぎつつ様子を見る方が良いだろう。

「素直なのはいいね。じゃあ、君をここで殺したら、騒ぎになってあの子は追い出されるかな?」

 首を振ると、口の中の空気の圧力が少し弱まった。私の答えを聞きたいのだと理解して声を上げる。

「……捕まります。騎士団に、追われ……ます」

 掠れてしまったが、声は何とか出た。多分、ジルが使う風属性の遠くの音を拾う魔法の応用だ。

「冷静なのは、命を伸ばす」

 また、髪に触れる。触られる度にその指の感触がジルの偽物のように思えて嫌だった。
 ジルは何処に行ったのだろう。いつも側にいてくれるのに、今日は私を置いてあの場所へ行ってしまったのか。

「貴方は、誰?」

「君も誰だろう? 夜中に部屋に来るなんて恋人? それとも盗人?」

 相手は私を女性だと理解していて、誰だかは分かっていない。なら、反攻の機会はある。闇の中なら、闇の魔力が私の見方をしてくれる。
 でも、口の中の魔法が邪魔だ。音を拾う魔法の応用なら大怪我にはならないだろうが、できれば消してから動きたい。

「……一緒に、……働いて、ます。明日の、仕事の件で」

 私が魔法を使える側じゃないと思い続けてもらう為に使用人の振りをする。

「そう。君も勿体ないと思わないか? あれだけの力があって従者に甘んじるなんて。子息のお守りをする人間じゃない。だから、ここから出してあげようと思うんだ」

「無駄です」

「説得して連れて行くつもりだったけれど、無理なら仕方ない。出て行かざる得ない状況を作ってあげよう」

 腕を捩じり上げる力が強くなる。痛みに漏れる呻き声は魔法に掻き消された。
 
「ご希望、通り……ジルの所為で……屋敷に不審者が、入った、と伝えます」

「悪くはないね。でも、狸は優秀な従者を手放さず、許してしまうかもしれない。徹底的にする方が私は安心だ。でも、殺したら物取りと間違えられる。君は伝言役だから安心していよ。魔法でボロボロに傷つけられるのと、この場で腕を折られるの。どちらがいいかな?」

「……恨まれますよ」

 言ってから、笑みが零れた。私が傷ついたらジルはきっと怒るから、連れに来た目的は永遠に果たせなくなる。
 
「加減するか、より滅茶苦茶にするか迷うところだね。あの子には使える価値があるから、どうしても欲しいんだ」

 我が家の警備は決して甘くない。ここまできた男は相当優秀なのか、そこまでジルを必要としいるのか。

「捕まりますよ?」

「隠れるのは得意だ。今日は狸は不在で、奥方は別邸だ。警備はいるが私なら倒せる。注意すべきは子息一人だけど、使用人の住居なら顔を合わせる危険性は少ないだろ?」
 
 ねぇ、と囁いて腕に更に力がこもると骨が軋む。口の中か腕一本か、選ぶなら口の中だ。

 捩じり上げられた腕の指先に意識を集中して素早く術式を書く。口の中の魔法が消えるのと同時に私の背後で、相殺する魔法が放たれたのが分かった。
 支えていた手の力を抜いて、肩から床に落ちると同時に体を反転させる。勢い余った男の手が私の手を離す。起き上がりざまに書いた次の術式に魔力を乗せると、室内の闇が動き出して男の足や腕を這って絡めとる。倒すよりも捕まえて聞きたい事があった。

「もう一度聞きます。貴方は誰?」

 ジルのベッドに上がって、壁を背にして男との間合いを取る。
 闇に四肢を捉えられた男はマントを羽織っていて、俯いた顔の半分もマントで覆われていた。暗闇の中でなくても顔を確認する事は難しそうだ。

「闇魔法……ご子息か。なら、あの子の言ってた家族だね。それにしても、とんだ狸だ。ご子息がご令嬢なんて驚いたよ」

「……」

 夜着の姿で仕方ないとはいえ、女であると知られた事に唇を噛む。でも、情報が漏れる事と、抑え込む方法を考えるのは後回しだ。今は男を捕えて離さないことに集中する。

「困ったな。身動きが取れない」

「当然です。闇夜の中では闇属性は最強です。今、貴方の四肢は私の闇が完全に捕えています」

 男が首を傾げるとマントの端で僅かに髪が揺れた。僅かな動きが、下町でジルと入れ替わるように路地裏から出てきた琥珀の髪の誰かと重なる。

「黒街の側の路地で貴方を見ました。ジルを知っているんですね?」

 楽し気に男が笑い声を漏らす。囚われている筈なのに余裕のある男の態度に悪寒が走る。

「身動きが取れないのは体じゃない。君がいるからジルが動けない。でも君を殺せばあの子は許さない。困ったな。機会は今日だけだったのに、選択肢がなくなってしまった」

 捕えて有利なのは私なのに、この場で選択権を持つかの様に男が発言する。
 背中に冷たい壁が当たった。いつの間に、逃げるように私が後ずさっていた。

「家族って便利な言葉だと思わないかい?ご子息、いやご令嬢? 君はジルを愛している?」

「わ、わたしは、ジルが好きです」

 慌てて返した言葉に、愉快そうに男が声を上げる。

「ああ。残酷だ。互いの想いが家族としてなら、愛していると迷わず答えるだろう? 愛していると答えられない君とあの子は家族じゃない。愛している以外の答えを返す君は、ジルの想いを知って逃げるんだね」

 狡さを見透かすような言葉に狼狽し、月日が育てた家族としての気持ちを否定する言葉に憤る。

「違います。家族です! 誰よりも近くて、ずっと一緒で大好きで、家族としてちゃんと愛してます!」

 男の言葉に胸が搔き乱されて叫ぶように答える。

 ジルの想いを知ってる。知っていて気づかぬ振りをしている。それはジルの為で私の為。

 ジルが私に向ける愛を、私はあの人に向ける。私は同じ愛をジルには返せない。でも、ジルの事を家族として想うのも、愛と言える自信はあった。

「家族なんて、血が繋がらなければ愛情に仮面を被せる為だけの言い訳だ。互いに嘘をついている。ジルが君に嘘をつくのは愛しているから、でも君が嘘をつくのは何故だろう? どこの馬の骨とも分からぬ庶民だから? 当然だね。思われる事すら貴族の君には不快だろう? でも、ジルの存在は便利で捨てがたい」

 悪魔のように冷たく低い声が、煽るような言葉を重ねて私の心を抉っていく。
 
  庶民だから、想いを返さないわけじゃない。便利だから、側に居て欲しいわけじゃない。

 世界で一番、私を大切にしてくれるジル。いなければ息が詰まるぐらい必要な人。だから絶対に離れないで欲しい。側に居て欲しい。

「違います! 違います! 本当にジルに側に居て欲しいんです。便利じゃなくて家族だから! いないと困るんです」

「なら、どうして愛してあげない? ほら、君が返してあげればそれで済む。当たり前の人の在り方だろう? それができないなら、狡いね君は。人の心を弄んでるんだよ。でも仕方ないよね。君にとってジルは、ただの持ち物でしかない」

「弄んでなんかない! 好きだけど。愛しているけど。……じゃない!」

 叫び返した言葉に思わず手で口を覆う。それは自分が意識したくない事、考えたくない事だった。

「ああ。そうか、君が可哀そうだ。ご令嬢の心の負担になる事をするジルは酷い。抱いてはいけない気持ちを抱くなんて従者として失格だ。折角、君が家族として大事に思ってあげているのに、その心を上回る愛を求めるなんてバカだね」

 この男は一体何なんだろう。人の心を抉る様に、壊すように言葉を重ねる。冷たく淡々とした声音と間合いが私から冷静さも余裕も奪っていく。

「違う。ジルは悪くない」

「そうかな? 君は別の誰かが好きだから、けっして返せないのだろう? それは負担だよ。ほら、ちゃんと分別を教えてあげたらいい。身分をわきまえろと、ジルの愛は負担だと、他の男を愛していると、家族なんてまやかしだとね」

「違う!! それ以上、私とジルの事を語らないで!! 全部、全部! 貴方の言葉は私とジルには当てはまらない」

 ジルと私を悪魔の言葉で貶めないで欲しい。ずっと一緒で、誰より安心する『家族』と呼ぶ気持ちを知らないくせに。

 だけど、私はアレックス王子に向けた想いを愛と呼んでから、それを同じ愛と言う言葉で呼んでいない。

「君は分からないのかな? 男と女は触れるものだ。君はどうせ誰かのものになるのだろう? ねぇ。奪われる君を、家族と呼んでジルに目の前で見せつけるのかな? 酷い仕打ちだね!」

「やめて!!」

 私の感情に応じるように、魔力が男の手足を這い上がる。その首筋まで闇で包むと、男が苦し気にうめき声をあげた。だげど、その呻きが哄笑に変わる。

「ああ。これなら、いつか堕ちる。愛はこの世界で最も残酷なんだよ。あの子も私と同じ運命だ。血は争えないね」

 不快な笑い声への困惑が隙になって、男に僅かな自由を与えた。捕えられた戒めの中で男の指が術式を書く。
 強い風の塊が私を襲う。男を捕えた術式を残したまま、掻き消す為に新たな術式を書いた。欲張った判断で、本来なら負ける筈のない力が負ける。
 風の塊が私の腹部を捉え、衝撃で頭の中が真っ白になった。

「ごきげんよう。ご子息。いや、ご令嬢。お会いできて光栄だったよ」

 強い風が室内を滅茶苦茶に搔き乱した次の瞬間、私の目の前から男の姿は消えていた。

 立っているのが辛くてベッドに座り込みながら、敷地内の闇の魔力の動きに意識を集中する。知らぬ魔力が屋敷の庭を駆け抜けるのが分かる。警備の者を綺麗に避けてれているのは、風の魔法で音を拾い集めているからかもしれない。
 知らぬ力に向かうように良く知る魔力が駆けるのを感じて、慌てて伝達魔法を発動する。

「ジル! 行かないで! 私は無事です!」

 知らぬ魔力とよく知る魔力がぶつかって相殺される。ぶつかったのは一度。知らぬ魔力が塀を越えて屋敷から遠ざかる。そして知る魔力がこちらにまっすぐ駆けてくる。
 息を吐いて、目を落とした私の手は震えていた。

 二度と現れないで。悪魔のような言葉で私の大切なものを壊さないで欲しい。

 足音がして、ドアが開くと室内に明かりが漸く灯る。 

「ノエル様、ご無事ですか?」

 明かりがついた室内は想像よりも滅茶苦茶だった。その中をジルが、荷物を厭わずに進んでくる。
 ジルは私が好きじゃない遊び慣れた男の姿をしていた。出掛けていた場所はきっと黒街だ。
 私の側に来て口の端に手を伸ばす。長い指が唇を拭って、オリーブ色の瞳が曇る。

「ここに血が付いております。どこか怪我をされているのですか?」

 優しい指先の感触と私を心配する眼差しに、漸く緊張が解け始める。

「怪我は口の中を少し切ったのと、打ち身程度です。でも、ジルの部屋が大変なことに……」

「私の部屋など構いません。少し触れますね」

 そう言って跪くと、私の腹部に手を当てる。
 見下ろした琥珀の髪はいつもと違う。降りた前髪の向うで涼しい目元が緩むと、ジルが安堵のため息を漏らす。

「大きな怪我にはなっていませんね。他に痛むとこなどは?」

 家族はまやかし、ジルは持ち物。あの男は私とジルの事をそう言った。
 心配そうに私を労わるジルに向かって、薬指を唇の前に立てる。ジルが私に甘えを許してくれる時の真似だ。

「大丈夫です。ジル、小さい頃みたいに抱っこ……して、ください。怖かったんです」

 腕を伸ばせば、長い腕が私をそっと抱きしめてくれる。肩に顔を埋めると、陽だまりの香りがした。

 あの男の言葉が私を子供に戻りたいと願わせた。久しぶりの分別のない甘えを、ジルはこうして許してくれる。

 ジルの腕は私を優しく包む。アレックス王子は苦しくなるぐらい力強く抱いてくれる。全然違う。
 
「怖い思いをされましたか? お側を離れて申し訳ありません」

 落ち着いた声が囁いて、細く長い指が髪の毛を優しく撫でる。あの男と似た手の感触なのに、この手は撫でるたびに私を優しく癒していく。

 お母様とお父様と同じ私の魔法の手。ほら一緒だ。

「大丈夫です。ジルの部屋に来たらマントの男が入ってきて、争いになりました」

「どうして、私の部屋に? 伝達魔法でお呼び頂ければ、直ぐに戻りましたのに」

 ディエリからの情報で不安になった事はまだ話せない。だから、子供の嘘をつく。ジルなら絶対に信じてくれる懐かしい嘘。

「怖い夢をみて。ジルを探しに……」

「ああ、夏初めに泣きながら目を覚まされたと、マリーゼが申しておりましたね。戻って気持ちが不安定になったのかもしれません。暫く夜中も様子を見に伺いましょう」

 小さい頃はよく怖い夢を見ていた。大抵は前世の最期の瞬間で、目覚めて泣けばジルは駆けつけてくれた。悪夢が続けば夜中に何度も様子を見に来て、泣き出す前に私を起こしてくれた。
 安心させるようにジルの手が背中を優しく叩く。

 この手に救われた事が幾つあるだろう。
 この先に、この手を求めたくなる日が幾つあるだろう。

 アレックス王子が聖女と一緒に戻ったら、私はきっとジルの胸で泣く。

「はい。見に来てください。ジルが夜来てくれたら安心します」

 これで暫くジルは夜間の外出を控えてくれる。
 安心して見上げれば、ジルが微笑んでくれていた。その笑顔が見せる明るい瞳の色が、また私を甘やかして許してくれる。
 もっと安心したくてしがみつけば、空いた手が私の頭に回って優しく髪を梳く様に撫でた。

「今日のノエル様は、小さい子供みたいですね」

 ジルが苦笑いするのがわかった。その言葉にただ頷く。
 初めて会った時は、物静かで背も私より全然高く、ずっとずっと大人に見えた。
 私が大きくなった分、ジルも同じくらい大きくなる訳じゃない。小さい頃は胸に顔を埋めていたのに、大きくなった今は肩に凭れて頬が触れ合うほどに近い。

「私はジルの前ではずっと子供でいたいです」

 ジルが笑って、その吐息が私の耳を擽った。私を抱える腕は力強く、胸は広くて逞しい。
 心を子供に戻したのに、触れ合う体は大人なのだと気づく。
 でも、目を閉じて気づかないふりをする。

「小さい頃からここが私の逃げ場所なんです。怖いときとか、悲しいときとか、困った時はジルの腕の中にいたんです。私はこれからもここに逃げたいんです。ダメですか、ジル?」

 あの男の哄笑が私の頭で響く。変わらぬ事、知らぬ振りを続ける事を選ぶのは、あの男の言葉の通り利用しているのだろうか。

 守る様にジルの腕が私の肩を抱いて、強く抱きしめる。アレックス王子と違う。でも、男の人の腕。私はジルから見ても、もう子供じゃない。でも、子供でいたい。

「……貴方がお望みでしたら、いつまでも子供でいらっしゃって下さい。私は貴方の望むままに致します。だから、お側に居させてください」
 
 ジルも変わらない事を求めてくれていると思ったのは、間違えなのか?

 残酷だね。男と女は触れるものだ。男の冷たい声が頭から離れない。

 ジルが僅かに頭を傾けると、頬が僅かに私の頬に振れた。ジルの肌は冷たい。陶器のようだから、頬を合わせるといつも心が落ち着く。
 
 でも、今はその冷たさがあの男の冷たい言葉を思い出させる。
 家族としてなら、愛していると迷わず答えるだろう? 答えられない君とあの子は家族じゃない。

「ジル、大好きです。大好き。家族だから、愛してます」

 以前ジルが私の頬に家族としてキスをした。私もまた顔を僅かにずらして、その頬に口づける。何かを返さなくてはと思った。

 呪いの様に男の哄笑が私の頭に響き続ける。

 髪を梳く手が止まって、ジルか一際強く私を抱いた。それから、ゆっくりと身を離す。

 愛し気に見つめる眼差しは知らない色だった。熱を隠して変わらず見つめる家族の色でもなく、時折私に見せる熱のある瞳の色でもない。
 琥珀の髪の下で揺れる眼差しは、胸が痛くなる程、切なくて苦しい色で、瞬きをする事すらその瞳が奪う。

「私は貴方を愛しております」

 そう言ってから、ジルが穏やかにいつもの笑みを浮かべて言葉を繋ぐ。

「貴方が望む限り、家族として……」

 悪魔の囁きに踊らされるように、自分を甘やかして求めた言葉。
 私は未来でただ一度、悔やむ。向き合わずに、ジルに無理をさせた事、甘え過ぎていた事を。
 
 ジルが立ち上がると、長い腕が私の背中と膝の下に滑り込んで、あっという間に横抱きに抱える。

「今日は本当に小さい子供みたいですから、久しぶりに抱えてお部屋までお連れ致しましょう。夜も更けておりますし、今日はお疲れでしょう? 続きのお話は歩きながらに致しましょうね」

 もうすぐ十七になるのに、これはかなり恥ずかしい。だけど、立ち上がるのも辛いぐらい疲れきっていた。

「大きな子供は、重くないですか?」

「小さい頃からずっと抱えていますからね。久しぶりで懐かしいぐらいです」

 ジルの腕の中は心地よい。歩調も歩く度の振動も懐かしくて、疲れた体にはとても良い揺り籠みたいだ。

 部屋の外に出ると、空気が変わった。嵐みたいに混乱した心が、新鮮な空気と柔らかい揺り籠のリズムに元に戻るのを感じる。

 何故、あんなに心が乱れてしまったのだろう。取り返せない言葉を思い出してジルを伺う。横顔がいつもと変わらない表情である事に安堵する。

「今のノエル様はお茶を入れて戻る前に、眠ってしまいそうですね。喉は渇いていませんか?」

「渇いてます。お茶を待てる気がしません」

「なら、冷たいもので宜しければ、厨房に寄って持って参りましょうか?」

 その言葉に頷くと、ジルが厨房の前で止まって器用にその扉を開ける。

「一番甘い果実水が良いです」

「寝る前にそれはお勧め致しません。気持ちが落ち着く花茶がございますので、そちらで我慢して下さいね」

 私を抱えたまま、手慣れた様子で冷室からお茶のボトルを取り出す。何故か胸が一瞬だけ跳ねる。今のジルは花街の遊びなれた人の風情があって、動作の一つも違って見える。

「ジル、ボトルは私が持ちましょうか?」

「では、グラスだけお願い致します」

 食器棚に行くとジルの腕の中から、自分で手を伸ばしてグラスを二つ取る。
 昔、今みたいに厨房でジルに抱えられてお菓子を探した事があった。少しだけ楽しい気分になってジルを見上げると、悪戯っぽい微笑みが返ってきた。思わずグラスを抱えて俯く。
 やっぱり、いつもと違う撫でつけずに遊ばせた髪型と、やや乱れた大人の色香を感じさせる服装は苦手だ。

「ジル、やっぱりその格好は嫌です」

「以前とは一応変えていて、前よりは良いかと思うのですが……」

 抱えられたままジルをくまなく確認する。確かに多少は控えめになっている。だけど、この格好のジルはやっぱり何処か目のやり場に困る艶めかしさがある。

「分かりました。今度は服を私が選びます! ジルにはもっと似合う服があると思います!」

 私の言葉にやや困ったようにジルが苦笑すると、背中を支えた手が優しく腕を叩く。

「漸く調子が戻ってまいりましたね。さて、先ほどの件ですが旦那様への報告は私から入れさせて頂いても宜しいですか?」

「ちゃんとジルが知ってる事を話してくれるならいいです。とっても怖かったんですよ? ジルがいないのも心配でした。ちゃんと教えてくれないのはダメです」

 頬を膨らませた私に、ジルが揶揄うような眼差しを落とす。

「急に子供になられた理由はそれでございますね。怖い思いも心配もさせて、申し訳ございません。一時でもお側を離れる選択をしたのは、やはり間違いでした」

「ジルに外に目を向けて欲しいと言ったのは私です。それは変わっていないから、気にしないで下さい」

 私の部屋に戻ると、ゆっくりとジルが私をベッドに降ろした。手にしたグラスを渡せば、すぐに冷たい花茶を入れてくれる。冷たいお茶に口を付けると、甘く優しい花の香りが口に広がる。

「ノエル様と殿下がお出掛けになった日、私を南西地区の花街でご覧になったのは覚えておりますか?」

 忘れるわけがない。しどけなく赤のドレスを乱した女性を壁に押し付けて、何かを囁くように耳元に顔を埋めたジルは私にとって衝撃的だった。

「やっぱりジルだったんですね! 忘れられない光景です! 品行方正なジルなのに、あんな……」

「品行方正ですか? ふふっ、そうですね。従者の私は品行方正でございますね」

 ジルが含むような笑い声を漏らす。花街のお兄さん風の姿で言われると、何とも言えない色香が漂って思わず目が泳ぐ。

「名は伏せますが、昼から戦前準備部隊の仲間と一緒でした。彼は黒街に関した資材の任務を担当していて、あの女性は資材のある場所と繋がりがあったんです。店を変える途中にあの花街で偶然見かけて、仕事熱心な友は私を巻き込んで任務を開始しました」

「むぅ。お友達の任務ですよね? 何故ジルが女性と、その女性と、その、その路地裏で……」

 ジルがくすくすと楽し気に笑うので、思わず音を立てて飲んでいたグラスをベッドサイドに置く。年頃の子には言いにくい事はたくさんあるのだ。

「品行方正な私には、花街育ちの手練手管がございます。女性を口説き落とすのは、とても上手なんですよ」

 唇に指を立ててさらりと言われた一言に、思わず赤面する。うっとりとした表情を浮かべた女性、手練手管の追求はやめておく。

「友は女性の攻略が苦手でしたから、彼女の相手に苦戦しておりました。私も元隊員ですから、資材の知識はありますし交渉も出来ます。その場でモーリス様と旦那様の双方にご許可を頂いて、一日限りの仕事の予定でございました」

「予定と言う事は、一日では終わらなかったんですよね? 」

 ディエリにジルの動きが気になって、黒街への出入りを確認させた事は黙っておく。

「お気づきでしたか? 女性を送る所まで漕ぎつけたのですが、資材の主には会えませんでした。女性が気に入っていたのは友ではなく、私でしたので……。私にも旦那様にも思う所もあって、ノエル様には秘密でお手伝いが続いておりました」

「思うところ?」

「ええ。大人の事情、政治の事情、男の事情でございますので、今回も秘密にさせて下さい。お手伝いの内容については旦那様とモーリス様でお話になられています。戦前準備部隊では奥深いところまでは入れませんから、報告可能な資材の収穫はありませんでした。末端の後方の更に後方にある部門ですから、成果がない事が多いのが救いです」

 そう言って、ジルが笑う。今のジルの発言とディエリの発言には小さな矛盾がある。

 父上に報告している仕事は深いところまで潜っていない。戦前準備隊は奥深くに潜らず、資材を得ていない。でも、ジルは深いところまで潜っている。そして、ジルが探していたのは資材じゃないジルベールだ。

「では、今日アングラード邸に侵入した男は何者ですか? 父上が不在とはいえ、警備もいる我が家に忍び込むなんて、余程の腕と覚悟が必要です」

 ジルの言葉は欠片を失ったパズルだ。私に教えてくれる事と、私に教えてくれない事。
 失った欠片がなくても絵図になっている。でも、失った欠片にはそこにしかない秘密がある。

 空になったグラスに手を伸ばすと、すぐにグラスに半分だけ花茶をジルが淹れてくれる。それからボトルを置くとジルが丁寧に今日は騎士の礼をとる。
 
「ご迷惑をお掛けし申し訳ございません。手伝いの中で、黒街の人物に目を付けられ、仲間になるよう迫られました。身分も偽っておりましたし、すぐに接触を断ったので、ここまで追ってくるとは思っておりませんでした」

「どうやってジルの事を見つけたんでしょう?」

「風の魔法は音や気配を探る事に優れており、応用すれば人探しも可能です。私の所在を見つけて、こちらに侵入したのでしょう。ここからは、横になってお話ししましょう」

 そう言ってジルが私からグラスを取り上げて、ケットを持ち上げる。ベッドに体を横たえれば、いつも通り肩までケットを掛けて、久しぶりに子供を寝かしつけるように髪を撫でる。

「マントの男は手練れでしたね。隠してもジルが少し魔力を使えば、実力を推し量れそうです。従者に甘んじるのは勿体ないと言っていました。ここから出すべきだと」

 庭で一度、ジルとマントの男は接触している。強い魔力のぶつかり合いがあった。マントの男はジルに何を囁いたのか。私の心を抉ったようにジルの何かを抉ったのか。

「その様な事をノエル様に言ったのですね。他にも、何か言っておりましたか?」

「ジルをここから追い出したいから、腕一本折るか、魔法でボロボロになるか選択させられそうになりました。お断りだったので対抗しましたよ」

 頭を撫でる手が、頑張った事を褒める様に撫でるのが少し早くなった。その感触にケットにくるまって思わず目を細める。

「ご無事で良かったです。それで、男は逃げ出したのですか?」

「はい。逃げました。でも、マントの男に私が女の子だって分かってしまいました」

「旦那様に合わせて報告しておきます。もう、大丈夫ですか?」

 その言葉に頷く。少しずつ瞼は重くなってきた。
 ジルが隠したパズルのピース。あの男はジルと私が互いを家族だと言っているのを知っていた。それはジルと私しか知らない事。そして、あの男はジルを時折『あの子』と呼んだ。ジルと同じ琥珀の髪。ジルに似た細くて長い指。

「ジルの処分は父上に軽くなるように、私がちゃんとお願いしますね。おやすみなさい」

「はい。おやすみなさいませ、ノエル様」

 部屋の明かりが消えて、ジルが部屋を出ていく。
 ジルは父を知らないと前に言った。でも、あの人はジルの『本当の家族』で父親の可能性が高い。そして私の事を話すような接触を持っている。
 でも、今のジルは私を選んでくれた。だから、私はまだジルの秘密を聞かなくても信じられた。


 ディエリの言葉通り、バスティア公爵家私兵による大掛かりな取り締まりがあった。
 取り押さえられたのは、ワンデリアからバスティア領をぬけてオーリック領に向かう隣国ヴァイツとの貿易商団。
 私兵による取り締まりとしては異例の規模と内容で、移動中の商団だけじゃなく、王都にある拠点にまで及んだ。
 
 この騒ぎで、ディエリは再び学園から姿を消す。

 貿易商談から見つかったのは、武装した兵だった。兵と言っても、殆どは金銭で雇われた庶民で、数名反旗派の貴族が含まれていた。
 何かの疑いがあるのか、バスティア公爵家がオーリックの国境の警備を、補佐という名で委譲された。
 これにより、西方の守りの要としてバスティア公爵家が中央の表舞台に返り咲く。

 この件の始末で忙しい父上とは朝すれ違った時に、ディエリから貰った黒街の出入りのリストを渡した。

「あの若造は何なんだ! 直前にあんな大事をしれっと連絡してきて、お任せ下さいだと。周到さに呆れる」

 珍しい程、嫌な顔をして父上が膨れていた。
 公爵として見事な手腕を発揮している様子のディエリには、一度だけ伝達魔法を送る。

「まずは、お祝いを。私兵は大切に。多分、次の嵐も近いです」

 一か月の月日がたった学園内を賑わす情報の中心は二つ。アレックス王子に婚約者がいるという噂と、月日が経ってもバスティア公爵が取り押さえた商団についてだ。
 商団の情報が長く取りだたされる背景には情報の錯綜がある。正しい情報より、出所不明の情報ばかりが頻繁に出回っていた。

 学園が終わって馬車に乗り込むと王城を目指す。
 今日は母上から差し入れを預かって、国政管理室の情報収集だ。先に伝達魔法で連絡を入れると、本当に忙しい時は門前払いされる恐れも稀にある。だから連絡なしの訪問を選択していた。
 どうしても、知りたい事があった。




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