2018年12月17日月曜日

三章 四十四話 答えと告発 キャロル15歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります



 短い沈黙の間に、答えるべき言葉を探す。
 
「突然何ですか? 順を追って説明してください」

 見つめるアレックス王子の顔を、平静と見つめ返して握られた手を放す。私とアレックス王子の正しい距離。熱の残る手の平は、あった温もりを漏らさないように握りしめる。

「ジルは、女の子の護衛従者だったんだ」

 今になって、その問いが来るとは思わなかった。公になって直ぐの頃は、ジルの事を覚えているか流石に心配していたけど、何も言い出さないから安心していたのに。

「それは七年も前の事ですよね? 結論の道筋はしりませんが、間違えでは? ジルの主は私だけです」

 アレックス王子が僅かに頬を引きつらせて顔を顰める。伸ばされた頬を掴もうとする手は後退して避ける。掴まれたら喋りにくい!

「君は相変わらず、時々失礼だな。剣を携えていたから、一日限りの護衛従者だと思って重要視していなかったんだ。それに魔力制御が抜群であれ程の騎士が、まさか従者に転身すると思わないだろ?!」

 公になる前の子に護衛や従者が必要な機会は数える程だ。必要な時だけ親族や信頼できる所から、騎士を借り受けて一日だけの護衛従者契約をするものは多い。あの日、おじい様は私の一日だけの護衛従者として部下のジルを連れてきた。

「……面差しも違いすぎるんだ! 七年前は表情の殆ない暗い男だった筈だ。今の微笑みを絶やさない顔と比べたら別人だよ。戦いの日、前線立てる実力を知って騎士かと、君に確認して初めて思い出した。戦場では見事に風魔法を使うし、感情を消した顔に一変したから確信できたんだ」

 ジルはそんなに変わった? 最初は確かに表情が少なかったけど、笑うと優しい笑顔だった。それにアーロン先生も変わったと言ったけど、ちゃんと気づいていた。首を傾げると、アレックス王子の頬に急に朱が指して頭を抱える。

「あぁ、もう君は本当に……! ちゃんと見てなかったんだ! 私は女の子の表情に夢中だったし、二人になった帰りは怪我をした彼女が心配で他の事なんて目に入らなかった。悪いか?」

 困ったように前髪をかき上げて頭を振るのは、戸惑う時のアレックス王子の最近の癖だ。この人は狡い。勝手で気ままなのに、まっすぐで自由。一緒にいると、私の心を簡単に上下させる。速い鼓動の音を数えて、顔が赤くなりそうなのを抑える。一緒にいると、こんな事ばかり私は上手くなってしまう。

「殿下も知っての通り、護衛従者の契約は一日限りで、契約主が秘密のままの場合もあります。私のジルなら護衛従者として人気があったでしょうから覚えてないと思いますよ? 主の私に女の子の話の申し出はありませんから」

 護衛従者は、子供に泣かれない外見と美しい所作、そして騎士としての強さを求められる。子供の相手だから貴族は望まぬ仕事だし、ジルなら相当需要があってもおかしくない。
 何人もの中の一人では覚えていない、雇い主はいつも秘密で教えてもらってない、それが最初に用意した逃げ道だ。

「違う。ジルじゃなく、君があの子を知っていると言っているんだ。護衛契約は親族に頼る事が多い。君の母方は騎士のピロイエ伯爵でジルはその部下だ。……君はずっと似すぎてるって思ってた。あの子は縁者だろ?」

 似てるのは本人だから当然だ。
 縁者であっても、公になっていない以上はいない存在。幾ら追及されても、他人の空似か、記憶違いと言い切れる。用意していた言葉を答えようとした私の頭に、殿下の大きな手が乗って僅かに顔をあげさせられる。息を飲むより先に、耳の上の髪に何かが当たる。それが唇だと理解する一瞬は瞬きより短いのに長い。

「ほら、そっくりじゃないか? 君の髪も、君の瞳も、君だと思うぐらい似ている……」

 髪に落とされた二度の唇が、風に乗った吐息にお酒の香りが僅かに混じる事を教える。顔に一つも出ていなくても、何時にない行動に走らせる程に酔っているのだ。
 酔った彼に、このまま私があの女の子だと言えば全てが手に入るのだろうか。
 そんなことを思いながら、アレックス王子の吐息に交じる果実酒の香りで私が酔っていく。体の芯が熱くなって、頭が霞がかかって目前の人の事でいっぱいだ。

「どうして、君じゃない? 戸惑うんだよ。君ならいいのにって、何度思ったか知ってる?」

 耳朶をなぞる様に吐息が移動して、耳たぶにに一度唇づける。その感触に、ぞくりと震えて力が抜けそうになった。透明な声が甘く囁き続ける。
 
「前に、君を食べたくなるって注意したよね?」

 そのまま落ちそうになる膝に力を込めようとして、ようやく自分が誰かを思い出す。
 私、ノエルです! キャロルじゃありません! 

「殿下、ダメです! 食べられるのは困ります! 知りませんから!!」

 私の言葉に柔らかい感触は遠のくけど、代わりに見上げた紺碧の瞳が触れそうな距離で覗き込む。

「通じない」

 頭だけじゃなく、左腕も逃げるのを閉じ込めるように掴まれて、ぴしゃりと言葉を否定される。酔ってるとは思えない表情に告げられて戸惑う。

「ノエルの嘘は通じない。他の誰かの嘘が見抜けなくても、君の嘘は見抜ける自信が今はある」

「通じます」

 絶対嘘。私がキャロルであることは見抜いてくれないくせに。 
 言葉の一つ一つに震えるような甘い感触が体を走るのに、抵抗する言葉しか浮かばないのは、どこかに悔しさがあるからだ。でも、これは八つ当たりだって理解している。
 
「嘘をつくとき、瞳の奥が一瞬だけ暗くなる。ノエルは女の子の話をする時はいつもそうだ」

 紺碧の瞳にうつるのは、髪の短い私。ちゃんとノエルを見て、ノエルを知ってくれている。キャロルはいないから、何も知らない。だから、聞いてもいいですか?

「好きですか? 女の子のこと、何も知らないじゃないですか」
 
 眉をしかめて少し睨んで「ノエル」を見る。お願いだから、そんな風に傷ついて怒った顔を私にしないで欲しい。そして、その後に誇る様に「キャロル」の為に微笑まないで欲しい。

「好きだよ。初めて会った日からずっと。すぐにでも迎えに行きたい」

 胸の中で、はっきりと何かの音がした。
「キャロル」と貴方はお互いに思いあう。でも、私はノエルだから、届かない、これはお互いに片思いだ。

「私は……」

 飲み込む言葉は、決して口に出せない。私は臣として男の子としてここにいる。こうやって近くにいても、アレックス王子が愛しそうな態度をとっても、それは私のモノじゃない。

「夏の帰郷の季節が明けるまでに、改めて確認してみます……」

 どんなに心が揺れても、出せる答えは決まっていた。

「分かった。君がそう言うなら信じて待つ」

 笑顔の中で紺碧の瞳が可愛いと思うぐらい晴れやかなのは、信じて良い結果を待ってくれるから。でも、望まぬ答えを持ち帰ったら貴方は私を怒りますか? 
 頭に乗せた手が褒めるように私の頭を軽く叩く。笑いながら離れていく顔は友達の顔だと思った。

「今年は帰郷の季節に、皆で君の家の側の泉に行こうか? 前に話した光る生き物を見に行こう。アングラード邸に泊まったら楽しそうだけど、どうだい?」

 変わらなぬ姿に戻ったアレックス王子に頷いて笑う。いいですね、と答えてから、未来の私の為に一つだけ。

「殿下。何かに失敗しても、ノエルは貴方の隣にいたいです」

 今夜が無礼講で許されるなら、私がアレックス王子に触れることも許してほしい。空いた手で頭に乗せられた手に触れる。
 十を数える間だけ、私からあなたに触れていたいと思う。ノエルの私が貴方を好きです。
 一、二、三、……九、十。離すより先に重ねた手が後ろに滑り落ちて、アレックス王子が体を預けるように私を抱きしめる。

「そんな質問、君はバカだ。ずっと昔に約束しただろ……」
 
 その呟きと共に、アレックス王子が私に重なってもつれるように倒れこむ。見た目よりしっかりとした体の重みと熱。首筋にかかる吐息は規則正しい寝息。
 私の好きな人は一体どこまで今夜の事を覚えているのだろうか?
 見上げた空には月がなくとも星は輝く。夏が過ぎた頃に出す答えの行き先も、きっと貴方の隣にあると信じよう。
 今は暫く、私の上で寝息を立てる人を楽しむ。触れる金の髪も僅かに感じる頬の感触も、愛しむように触れる事は普段なら絶対に許されない。この時間は祝杯よりも何よりも、私へのご褒美だと思う。

 さすがにちょっと重たいぞ、と思い始めた頃にカミュ様の驚く声が上がって私は助け出される。
 助け起こすと、カミュ様が一生懸命私の背を払ってくれた。ちょっと膨れて、アレックス王子を冷たく睨みながらその頭を叩く。アレックス王子に起きる気配はない。

「どうやら、アレックスは王族に多い絡み酒ですね! あれ程、共通課程を出るまでは辞めなさいと申したのに!! ノエル、嫌な思いはさせられませんでしたか?」

 言葉よりもずっと心配そうな顔は、問われる可能性があった質問を承知だからだろう。
 ディエリを見るたびに元気かを気にする私と、女の子の話の度に心配げに私を見つめるカミュ様。
 私の秘密は一体誰かをどれ程傷つけることになるのだろうか。

「大丈夫です。帰郷の季節が終わったら、報告に上がるとお約束しました。殿下にとっていい報告はできませんが」

 安堵するようにカミュ様も目を細めてくれたから、変わらぬ良い笑顔を浮かべて答えることが出来たと思う。
 私の未来図の答え。増えたキャロルの大切なものとノエルが守れるものを天秤にかけたら、どちら一つしか選べない。

「そろそろ、よい時間ですね。アレックスを置いてきたら、自由に解散するように伝えましょう。ノエルも皆と楽しんでらっしゃい」

 アレックスに絡まれて終わるのは惜しいでしょうとカミュ様が笑う。
 皆で楽しむ声はその後も名残を惜しむように続いた。そして、それぞれの心に新しい未来図を残して終わる。
 王族から庶民まで、二十七人が同じテーブルについて祝杯をあげたこの日は、「二十七の祝杯日」と呼ばれて多くの人に語られるようになる。目論見通りの歓迎と警戒通りの悪意の両方の意志を乗せて。



 祝杯後の学園は、僅かに寄り集まる者に変動があった。大きな派閥を抜ける者、逆に大きな派閥にすり寄る者。そこには三つの意志がある。
 一つは実力主義の流れで自らが上に上がろうとする意志。一つは、現状の維持を望み反旗する意志。もう一つは迷って中立の場で見極めようとする意志。
 祝宴後すぐ、ディエリは昨年同様領地周遊に出ると宣言し、先に帰郷の季節に入った。その為、反旗を望む者の派閥は仰ぐ者を失ってまとまりきれずにいた。
 一方で、国策に期待を寄せる者はアレックス王子と側近と目される私たちの周りに集まり始めた。意気盛んで売り込みが激しい者達の対応に追われながら、取り込みつつ、平等な機会を周囲に提示する必要を感じた。期待が大きい程、何も手応えがない時の落胆は激しくなるからだ。課題を出して競わせるなどするべきではと、伝達魔法で殿下に進言する。同じように対応に追われているのか返事は来なかった。
 帰郷の季節前の最終日なのに、私は図書を抱えて廊下をかける。領地周遊を建前に探求目的で、勝手に帰郷の季節に入ったユーグから返しておいてと本が大量に送り付けられたせいだ。空いてる時間は殆ど売り込みの生徒に囲まれて、最終日の帰り慌てることになった。図書の返却を課題にしたらよかったと思うぐらい大変な量だ。
 クロードと夏の間の鍛錬の相談もしたくて、早くしなければと図書館内もこっそり走る。最後の一つだけビセンテ先生の個人蔵書だったので、三階の講師室まで行かなくてはいけない。

「ノエル!! 待って」

 階段を登りきったところで、呼ばれた声に振り向くとドニがこちらに駆け寄ってくる。薄緑の柔らかい髪が額に張り付いてしまって、荒い息を胸を押さえて整える。いつもマイペースなドニには珍しい姿だ。

「話し……たいことが、あって……て。さがし、てたの」

 最初に思い浮かべたのはルナの事だった。私アレックス王子を愛そうと思います、そう言ったルナに祝杯の前と後で大きな変化はなかった。相変わらず基本はドニと過ごして、時折ディエリを見かけて駆け寄る。アレックス王子はもちろんカミュ様に近づく様子もない。ただ、以前と違って目が合っても、まっすぐに私を見つめ返すようになった。私の方がその瞳の強さに負けて目を逸らしてしまう。
 ドニが私の手を引いて、三階のテラスに移動する。講師室の多いこの階のテラスは利用者は少ない。眼下の中庭には休みに入る前に友と語りあう者のざわめきがあるのに、ここは取り残されたように静かだ。周りを伺ってから、ドニが切り出す。

「アングラード侯爵家当主は、国政管理室だよね?」

 一度、決心するように頷いてから、ドニが小さな黒い箱を差し出す。祝勝会の前にギスランが渡したものより一回り大きいけど、それは声を拾う魔法具だった。

「ジルベール伯父様がお土産と言ってくれた楽譜鞄の裏地の中に縫い付けてあったの」

 ドニが顰めた顔の中で、話す唇が震える。ドニの楽譜鞄はよく知っている。ドニが大切にしている楽譜が詰め込まれていて、誓約を終えた従者が大事そうにどこに行くのにも抱えていた。ドニの体の一部みたいにいつも一緒にあった。

「多くの舞踏会で招待されて歌うけど、最近は伯父様に頼まれて行く回数がとても多いんだ。歌は楽しいよ。でも楽譜鞄を抱えた従者を連れた僕の前で交わさた会話は、楽しい話ばかりじゃない。この魔法具は僕の鞄の中で知らないうちに、その会話を盗んできた。しかも縫い後は一つじゃなかったから、何度も繰り返されてる」

 青い顔で唇を噛むドニに、最近歌を歌いにいった舞踏会の先を聞く。いずれも古い貴族で、ディエリの取り巻きの名前と、中立派の生徒が多い。

「ノエルならこの意味が分かるよね? 伯父様は一体何をしようとしているの? 一族の中もどんどん伯父様の色に染まって来てる気がする。前は笑っていた人が、厳しい顔ばかりするようになった。芸術を楽しんでるか? って聞かずに、誰が何を話したとかそんな事ばかりを皆が尋ねてる」

 ドニの握りこぶしが震えているのは怒りの為なのか不安の為なのか。でも、強く握ったその拳の中にきっとドニは自分の考えた答えをもっている。

「ドニは、どう思っているんですか? ドニの答えを私は信じます」 

 私の目をまっすぐ見つめ返してから、一度ぎゅっと目をつぶって開く。黒い魔法具に向かって、ドニが自分の答えを語り始める。

「僕はラヴェル家次男のドニ・ラヴェルです。この魔法具の内容から察せられる通り、当主の兄であるジルベールに怪しい動きがあります。今まで交流がなかった古い上流貴族との交流を増やしています。活動は王都にとどまらず、ワンデリア領方面にも何度も足を延ばしています。持ち出すことはできませんでしたが、バスティア公爵名義の書状を複数所持しているのも目にしました。……ラヴェル伯爵内に逆心の兆し在りと僕は考えています」

 そこまで一気に語ると、泣きそうな顔で笑う。

「私を含め、ラヴェル全体が王の意志に逆らおうとしている訳じゃありません。今後の早い対応と叶うならこの報告から寛容な処断となる事をラヴェル伯爵家の直系の一人として望みます」

 ドニが震える手で黒い箱を私に渡す。私から国政管理室へ、ドニから国への内部告発。それが、どのくらい重い決意なのか同じ貴族である以上は分かるつもりだ。いつも笑顔を絶やさないドニはいつからその笑顔の裏で苦悩を抱えていたのか。
 ジルに箱を預けると、従者二人を人払いする。箱のないところで、ドニと話したかった。

「ドニ、二人で話しましょう?」

 手を引くとドニが若草の目を少しだけ柔らかくする。少しでもドニは笑っていてくれた方がいい。
 従者たちからも離れて、テラスの柵を背にして二人で座り込む。今日の私たちお行儀がわるいですね、と言って緊張で冷たくなった手を包むと、ドニの口元がようやく綻ぶ。

「私に魔法具を渡したのが、見つかったら大変じゃないですか?」

 魔法具がないことがジルベールに見つかり、ドニの身が危険に晒されることが不安だった。

「大丈夫だよ。もう、ケンカしてきちゃったから。その時に魔法具は川に捨てたっていってあるし」

 ちょっと得意げに笑って見せるドニは普段は天使みたいに見えてもやっぱり男の子だ。

「ドニ、強いですね」

「うん。みんなと戦えるからね僕は。一応、ラヴェルの本邸には結界も張ったし」

 ドニは剣は苦手だけど、魔法は上手だ。こないだも攻撃魔法で活躍を見せた。でも、ドニが本当に得意なのは守ったり癒したりする魔法。守る魔法なら、私やアレックス王子だって簡単には破らせてもらえない。

「一応、家族は伯父様から距離を置くって言ってくれた。父上も当主として伯父から離れたい一族をどう守るかは一生懸命考えてる。でも、当主一家だから僕も処分は免れないと思う。そしたら、イリタシスに戻ろうかな。父も母も兄も芸術があれば生きていける人だし。ノエル、手紙をくれる?」

 少し寂しそうに笑う。ジルベールの行動は謀反に近い。当主一族にかかる責任はこれまでの処分に従えば重くなるだろう。 

「ダメです! ドニの歌声が聞けなくなるのは嫌です。皆も嫌がります。何か道をさがしましょう」

 頷くことなくただ私を柔らかい笑顔でドニが見つめる。私が今、ドニに出来ることは一つだけだった。ドニみたいに上手ではないけど、私は歌う。友達の歌。
 時折歌詞を間違えたり、ちょっとだけ音が怪しい。でも、ドニの心に向けて、元気とずっと一緒にいたい気持ちを乗せるて最後まで歌いきる。ドニがドニらしい本当の笑顔で拍手をしてくれる。

「うん。ありがとう。今、諦めたらだめだよね。少しでも処分を避けられるなら、協力しますと伝えてくれる? ラヴェルがこれ以上伯父様に飲み込まれないように頑張ってみる」

 そう言って、ドニが歌い始める。天使の歌声が紡ぐのは希望をつなぐ歌。苦しくても悲しくても、何度でも諦めない戦う者の為の曲。美しい歌声に乗せられた強い物語を確かに感じる。今まで一番素敵な歌声だと思った。
 歌が終わったら今度は私が拍手を送る。僅かに頬を紅潮させて、ドニが息を整える。

「最近の中で一番気持ちよく歌えたよ。でも、なんでだろう? 最近ずっと悩んでいたせいか、心がおかしいな。心の中の一番大切なものが消えてしまってる気がする」

「大切なもの?」

「うん。歌への思いかな? ルナが好きなのに、ルナへ恋の歌を歌いたってちっとも思えない。前よりずっと大好きなのにおかしいね」

 空を仰いで、不思議そうな顔をする。何かを思い出そうと一生懸命考えるドニから、突然表情が消えた。徒ならない様子に慌てて、ドニの肩を揺する。薄緑の髪が軽く揺れてから、ゆっくりと私の方を振り向く。何度か目を瞬いた後に、いつも通りのドニが戻った。

「ノエル、時間をありがとう。なんだろう? ちょっと頭が痛い気がする。まぁいいや、帰郷の季節の間に僕も頑張って父上にも当主として踏ん張ってもらう」

「はい。私も何か気づいたら連絡をします。でも、ドニ今のは大丈夫ですか?」

 何がというように目を瞬く、ドニに今の事を説明しても首を傾げるばかりだった。
 それ以上の追及を、諦めて二人で立ち上がる。

「あー、ルナとクロード」

 ドニの声に、中庭を見下ろす。既に生徒の姿はなく、中庭の木の下に向き合うルナとクロードだけが見えた。
 困った顔のクロードに、ルナが何かを話し続ける。そして、ルナの手がクロードの手を取って、その指先を口に含むのが見えた。
 振り払うことなく、クロードがルナを見下ろして、そっとその肩を抱きしめる。
 何が起きているのか?
  クロードとルナの突然の接近にただ唖然とする。ルナを大好きなドニが共に見ていることを思い出して、慌てて振り返る。
 ドニの顔にはなんの表情もない。先ほどと同じように、表情が消えている。暗く淀んだ若草の瞳に似た瞳を知っている。でも、その瞳がうつす感情には失望も嫉妬も怒りもない。「無」だと思った。




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