2018年12月19日水曜日

四章 五十六話 信頼と父の弟 キャロル16歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 見慣れた景色。小さな三角公園のブランコには小学生が二人いる。楽しそうだと眺める私の目の前を、赤い自転車が曲がっていった。
 真っすぐ進むつもりだったけど足を止めて、その自転車を目で追う。右手に続く細い道は近道だけど、車を壁に張り付くように避けないといけない。いつもは通らないし、好きじゃない。でも、今日は迷って近道に進路を変える。

――ダメです! その道……
 
 足取りは少しだけ急いでいた。大好きな「キミエト」の続きを早くしたかったから。
 大好きなキャラクター、大好きな世界、このゲームを世界で一番好きだと言えるぐらい大好き。

――今はもっと好きです。でも、この世界も大好きでした。

 小声でエンディング間際に流れる音楽を口ずさむ。
 止まってしまったスチルはネットを探しても報告が見つからない幻のエンディング。六人同時攻略は私が最初だったりして? 
 残り一枚はどんなスチルかな? 絆を繋げたその先に、一体どんな未来がくるの? 楽しい想像に思わず口元が緩む。

 やっぱり、アイスは買って帰ろう。家族にも幸せは分けてあげないとね。

――ダメです。引き返して! 大切な人を泣かせてしまう.

 道の半ばで身に迫る音がおかしいと気付いた。振り返るより先に、私に鈍い音が響く。
 目まぐるしく空と大地が視界を入れ替わる。残していくモノを掴もうとした手は空をきり、何も掴めなかった。

――助けられない過ぎた日の夢なんて見たくない。

 真っ暗な場所で、私は痛みも感じず漂い続ける。闇に飲まれそうになる度に、消えかける意識が温かい光に包まれた。でも、それも終わりが近いことを弱くなった光が教える。
 光が消える。黒に染まる。『抗え』と怒りと悲しみを乗せた哄笑が最後に響いた。

――さようなら。そして、はじめまして。


「……ル様、ノエル様。お目覚め下さい」

 肩を優しく揺する手の感触も、落ち着いた呼び声も良く知っている。
 瞼を開けば、従者の服に琥珀の髪を撫でつけたジルが柔らかい微笑みを浮かべていた。
 
「久しぶりに、うなされておりました」

 薄暗い部屋の中で、ジルが私の頬をハンカチでそっと拭う。前世を思い出してから時折見る夢には、いつも泣きながら目を覚ます。
 いつもと同じように縋ろうとした手を、ベッドの天蓋に漂う赤い風毬に気づいて止める。
 胸元のリボンと同じ色を楽しそうに選んでくれた顔を思い出すと、自然と顔がほころんだ。
 涙が止まった私を気にするジルに、笑顔で決めていた言葉を伝える。
  
「おかえりなさい、ジル」

「ただいま、帰りました」

 従者の礼を取りかけて、途中でやめると小さく空咳をしてからジルが微笑む。少しだけ遠くを見るような眼差しで、何かを見つけたように優しく笑う顔がジルは一番だと思う。
 うなされた私を優先して、後回しになったカーテンを開ける為に踵を返した背に問いかける。

「昨日は、ジルも楽しかったですか?」

 カーテンを引くと金色の朝の日差しが部屋に差し込んで青い空が見えた。思わず大好きな人を思い出して、引き寄せた風鞠にキスをする。昨日の別れ際の耳は、私もアレックス王子も風毬と同じ赤だった。

「とても楽しませて頂きました。お休みを頂き有難うございます」

 カーテンを開け終えて振り替えったジルは、珍しく年相応の明るい笑顔を浮かべていた。

「買い物しましたか? どこで飲んだんですか? 誰と一緒だったんですか? どんな話をしたんですか?」

 前のめりになって矢継ぎ早に質問したのは、不安を確認したかったからじゃない。ジルの楽しかった一日の話を心から知りたいと思ったからだ。

「服を数点新調致しました。昼前には昔の仲間と合流出来たので、随分早くからお店を変えながら杯を傾けました。あんなに飲んだのは久しぶりです」

「どんな服を買ったんですか? 気になります」

 大人の色気があるジルを思い出して少し慌ててしまう。私服のジルはとても素敵だけど、私は従者服の方がやっぱり好きだ。

「買ったのは私服なので、お休みの日かノエル様が就寝された後しか機会がございません」

 笑顔で告げられた言葉に、次の言葉が止まる。従者にだって自由な時間はある。雇用主である父上の許可が得られれば、私の就寝後なら外出できる。
 私が知らない時に、知らぬ夜の時間があったのか。知らない時間はどれ程か。知らない事が不安で拳を握ると、赤い風毬が引っ張られて僅かに沈んだ。

「ジルも夜にお出掛けするんですか? 知りませんでした」

「年に二、三回程度は旦那様とクレイに連れ出されます。ノエル様のお側を離れるのは落ち着きませんから、あまり出たくはないのですが……。お二人とも強引なので」

 苦笑いを浮かべた回答に、自然と頬と拳が緩んで風毬が小さく跳ねた。ゆらり、ふらふら、下がって、上がって、私の心は風毬とお揃いみたいだ。
 
「夜のおでかけ一緒に行ってみたいです!」

「……お勧めしません。旦那様もクレイもかなり飲みますし、お二人とも治安の悪い場所がお好きなので」

「治安の悪い場所って、花街とか騎士団も入れない黒街ですか?」

 あの悪い場所を騎士団では黒街と呼ぶらしい。
 他の誰かが相手なら上手く立ち回って聞けるのに、ジルが相手だと正面から聞いてしまう。嘘や取り繕う事に抵抗があるのと、何でも答えてくれる安心感が私にそうさせる。

「花街は真夜中に開いていて、安く美味しいお店が案外ございます。お二人とも隠れた名店を探すのがお好きみたいです」

「母上に父上が花街に出入りしていると言いつけておきます」

 ケットを畳むジルと笑いあう。穏やかな今なら何を聞いても大丈夫な気がした。

「昨日、ジルを見かけました。南西地区の花街から黒街に繋がる路地です」

「……南西地区の花街ですか? あの辺りにも少しだけおりました」

 風毬のリボンが手の平を滑ってふわりと離れそうになる。
 私にしか分からないジルの笑顔の変化。目の前の綺麗な笑顔は従者として控えている時のもので、私と話す時にはしない笑顔だ。小さく息を吸い込んで、声音に気を付けて更に尋ねる。

「赤いドレスの女性と一緒の所を見かけました。とても親し気でしたが、お友達ですか?」

「飲んでいたのは男性でございます。私はノエル様に気づきませんでしたよ?」

 仮面の笑顔で答え続けるジルをじっと見つめる。絶対に目を逸らしてはいけないと思う。嘘を付かないと私に言った人が嘘をつくなら、見抜くのは私の役目だ。

「背中だけしか見ていないから絶対の証拠はないです。でも、背中だけでも見間違えない自信があります」

 驚いた様に明るいオリーブ色の瞳を瞬かせると、ジルが目を細めて笑いだす。
 突然戻ったいつものジルの表情に思わず力が抜ける。

「ノエル様は本当に……ですね。以前にも申し上げましたが、貴方に告げる言葉に嘘はありません。赤いドレスの女性は、人に頼まれて花街で送った覚えがございます。私を信じていて下さいませ。何処に誰といても、何をしても、今の私は貴方の為にしか生きられません」

 そう言って、いつものジルが「この話はおしまい」と言うかのように騎士の立礼をとる。
 顔を上げた瞳にはこれ以上踏み込ませない強い意志があって、尋ねてもきっと明確な答えはもらえないだろう。だから、一つだけ確認しておく。

「ジルは、ちゃんと幸せですか?」

「はい。私も幸せでございます」

 小さく私が頷くと、ジルは朝食の席を整える為に退室した。閉じたドアに溜め息を零す。

 言葉に嘘はなくとも、秘密は抱えていますよね?

 手を離すと風毬は上に上にと逃げていく、でも手を伸ばせば簡単リボンを掴んで手繰り寄せる事ができた。
 顔を上げる瞬間に苦しげに見えたとしても、ジルが幸せと言って望むなら、今は信じる事を選ぼうと思う。必要だと求められたら、いつでも手を伸ばせる準備をする。何かあれば手を伸ばせばいい、側にずっといると私とジルは約束した。
 

 休みが明けると、カミュ様とユーグは学園にいなかった。コーエンに壁画を探しに行ったとアレックス王子が教えてくれた。二人とも暫く帰れない可能性があるそうだ。魔物の王、光の女神、聞きたいことはお預けになる。
 いつ帰れるか、進捗はどうかを聞く伝達魔法を送っても、返事は「待っていて」だった。

 はっきりしない二人の帰りを待つ日々に焦って、もう一度伝達魔法を使う為に演習場に向かう。
 早めに授業を終えた私が、人のいない廊下で鉢合わせしたのはディエリだ。驚いた様に一度大きく目を見開いた後、相変わらず見下す様に緑の目を向ける。

「人の道を塞ぐな」

「そちらこそ、私の道を塞がないで欲しいです」

 肩を並べるつもりはないのだが、方向が同じで譲り合わないから肩を並べて歩く事になる。

「付いて来たいなら、膝を折って一歩下がれ」

「そんなに私といたいんですか?」

 苛立たしげな舌打ちが落ちて、互いに嫌そうに顔を顰めあう。
 騎士専科と文官専科に分かれてからは顔を合わせる事は減っていた。皮肉の応酬は久しぶりだ。
 ディエリが挑むような鋭い眼差しを私に向ける。

「探求狂いが、病の女を治療せず囲い込むのは何故だ? 次第によっては許されないぞ」

 告げられた言葉に身を固くする。
 病の女は精霊の子だと推測する。私の所には精霊の子についての話は何も届いていない。

 ユーグが探して手元に置いているとしたら、理由はもちろん魔力簒奪ではなく治療か聖女候補だ。
 
「ご存知でしょう? ユーグは術式の治験の為です」

「知らされてないのか。コーエンで大公を巻き込んで動いているぞ」

 返答までの僅かな間で、私が知らないと言い当てるディエリはやはり鋭い。
 コーエンで壁画の調査というのは名目か。本当の目的を私に告げないのは、アレックス王子なのか、カミュ様とユーグなのか。
 情報が入って来ないのは、それぞれの優しさや気遣いなのは容易に想像できた。

「知らされていないのではなく、信頼できるからお任せしてます。ディエリは苦手な使い方ですね」

 顔色を変えないように注意して答える。バスティア公爵家は国内の薬の調達ルートを押さえてる。ユーグの動きが見つかったのは、そのルートから精霊の子の調査をかけた所為だろう。相変わらずバスティアのコネを使った情報収集は細かい。

「足元を救われる貴様が見たい」

「残念ですね。見せるつもりはありません。人の心配より浸水中の貴船の心配をしたらどうですか?」

 僅かに目を細めて忌々し気にディエリが私を見つめる。
 粛清から逃げ切ったが、バスティア公爵家の浮上は遅れている。反旗派から支持派に移った事で我がアングラード侯爵家やヴァセラン侯爵家の派閥に流れた元バスティア支持者も少なくない。

「嵐は織り込み済みだ」

 顔色を変えずに言い切るが、嵐に例える辺りが容易ではない現実を物語る。
 ディエリは能力は高いが、若すぎてまだ清さがあるとほくそ笑んだのは私の親狸だ。
 バスティア公爵家の本来の強みはこの国で唯一、濁を飲み込みそれを制する事。今は若いディエリが支持派である事を意識しすぎて、悪事から距離をおいている為に本来の土壌を活かしきれてないらしい。

 父上は敵か味方か分からないバスティアの力は削いで放置する気だ。でも、デイエリが未来で味方なのを私は知っている。バスティア公爵家は問題が多い、でも味方にするなら強い。

「ディエリの欠点は適材適所ですね」

「貴様は駒を自由にしすぎだ。気に入らな――っ!」
  
ディエリの胸元を掴んで手近な壁に押しつける。至近距離から見上げた顔には驚きがある。

「取引しませんか、ディエリ? 利用し合うのも面白いですよ?」

 力で押し返すのは簡単なのに、ディエリは私を見つめるだけだ。

「飲むかはわからぬが、聞いてやる。言ってみろ」

「帰港するなら立派な手土産が必要でしょう? その際に私も欲しいお土産があるんです」

 面白そうに口の端を歪めるとデイエリが私の顎に指をかける。冷たい眼差しに時折情熱的な揺らぎが映るのは、取引の内容が気になるからだ。

「跪いて可愛いく鳴いて、貴様が土産をねだるか?」

「跪きません、鳴きません。お互いの為の取引です。中央が目を輝かせる土産を用意したいでしょう?」

 ディエリの胸元を掴んだ手に、更に力を入れて引き寄せる。寄せた耳元で囁く

「騎士団すら手の届かない黒街の情報が私は欲しいんです。本領の汚い手も見せてください。それとも、当主が代わって悪事に怖気づきましたか?」

 この距離でなら誰にも聞こえない。ここでは音を掠める魔法も使えない。
 文官のアングラード、武官のヴァセラン。そして裏のバスティア。ジルベール捜索が難航している理由の一つは、黒街に影響力があるバスティアが協力できる状態じゃないからだ。

 ジルベールが最初に隠れたのは必ず黒街だ。ワンデリアの何処に向かったかを追うなら、探らなければいけない。それに、ジルが最初にその場所の事を隠そうとしたから、情報だけは入って来てほしい。
 私の後髪を粗くデイエリの手が掻き揚げて、返す低い声が耳元に落ちる。

「俺の為のメインディッシュはなんだ?」

「ジルベール・ラヴェルです」

「貴様のデザートは?」

「関係者の出入りを」

 肩を押されて離される。冷徹な瞳が暗い炎を湛えて不敵に笑う。バスティアの本領を思い出した顔に、敏いディエリ相手の匙加減は難しいと反省する。

 去り際に放り投げられたのは、いつも通り蜜玉だ。否と言わないのなら、諾。
 この国で一番厄介な場所の情報がこれで手に入る。

 ディエリの背を見送って、ここが学園内で魔法使用が許可させる演習場の敷地に入っている事を確認する。
 手首を回して伝達魔法を発動しようとしたところに、私の魔力を待っていたようにユーグの伝達魔法が届いた。
 賢そうな梟に似たフージュを自分の手に留めさせると、ユーグの癖のある声が語りだす。

「ノエル、幸せ?」

 突然何を言い出すのかと思う。人に幸せを聞く声は、ちっとも幸せそうではない。

「迷う事が同じ答えにならないのは、何故だろう? 両方選べないのは残酷だ」

 フージュが大きな目を瞬かせてユーグの声で言葉を紡ぎ続ける。コーエンで二人を悩ませているのは聖女の問題なのか。任せたのは助けを求めるなという意味ではない。そして、助けを差し伸べない意味ではない。

「だから、人の感情だけは研究したいと思わないね! ごめん、忙しいから愚痴。もう少ししたら、カミュ様と帰るね。また」

 フージュが消える。すぐに返信するために手首を回して、自分のツーガルを出す。早くてたくさん飛べる鳥は、きっと直ぐに返事を届けてくれる。

「幸せです。迷ったら話して下さい。その為に私たちは一緒にいます。一人で抱えないで下さい。困ったら私もそうしますから」

 私の背を押してくれたクロードの言葉が、私の想いを乗せて遠い友にも届くことを願う。互いに苦しい決断を迫られるなら、いつも一緒に悩んでいけばいい。覚悟はできてた。

 黒い鳥が飛び立った空は、もうすぐ完全な夏色になる。


 そして、小さな命が我が家に生まれた。
 別邸のお部屋で眠る子はアングラード家に多い紫の瞳、髪の毛は銀に少し赤を乗せた綺麗な色をしている。

「かわいいです! かわいいです! かわいいです!」

「天使だね! 天使だね! 天使だね!」

 ベッドの横で私と父上が繰り返す褒め言葉に母上が笑う。
 赤ちゃんは、どうしてこんなに可愛いのだろう?
 ふわふわ柔らかい肌を父上と競うように撫で続ける。赤ちゃんは見つめているようでも、視力はまだ弱い時期だからよく見えていないらしい。

「父上、赤ちゃん可愛いです。この子の為なら私すごく頑張れる気がします」

 小さな手に指を乗せるとぎゅっと掴んでくれる。離されるまでは、断固として離れたくない。父上が羨ましそうに見て、反対の手に自分の指を乗せる。そして、父上も動かなくなる。

「本当に可愛いよねぇ。天使だよ! ノエルが生まれた時は出張中だったから、この時期は逢えなかったんだよね。会いたかったな。この時期のノエルも、きっとすごく可愛いかったはずだ」

 父上がベッドに顔を乗せて、溶けそうな笑顔で私と赤ちゃんを交互に見つめる。
 親ばか全開だ。愛情を隠さない笑顔を見ていると、父上が私を嫌ってしまう未来は想像できないし、想像したくなくなる。

 公になる前の子に接する事が出来る人は少ない。
 最初に訪れてくれたのは、モーリスおじい様だ。赤ちゃんを抱きながら、戦備前準備部隊の年内引退を教えてくれた。隊長の後任は母上の兄であり、ピロイエ伯爵家の長男であるマクシム伯父様が就くそうだ。第二騎士団にいる次男のジェミニ伯父様には、剣の道が好きだからと断られたと少し拗ねていた。
 来年から暇だから、たくさん遊びに来るっと嬉しそうに笑う。出産祝いの品は今回も父上と張り合った。来年はその戦いに私も参戦する予定だ。新しい家族から一番を貰うのは譲れない。

 それから数日後、バルバラおばあ様が訪ねてくる日を迎えた。
 エントランスで父上と到着を待つ。手紙や品物のやり取りをしていたけれど、顔を合わせるのは七年振りになる。

「父上、おばあ様が来てくださって良かったですね」

「そうだね。思ったよりずっと嬉しいかもしれない」

 父上が少し子供の顔で笑う。父上はおじい様とおばあ様とは良好な関係ではなかったみたいだ。
 早くに引退をしてしまったおじい様は国政管理室室長を務めた傑物で、家にいる時間は短かく、何週間も姿を見かけない事もあったという。
 おばあ様は何事にもとても厳しかった。父上を立派にすることに心血を注いでいたというのは、一番の古株である執事がこっそり教えてくれた。本当は弟もいるはずなのだか、詳細は誰も知らない。
 
「おじい様はいらっしゃらないんですね?」

「あの人は放っておいても大丈夫だ。面倒だから来なくていい」

 そう言った父上の顔はすっきり明るい。言葉の割に、嫌っている様子はない。

「お父様は、おじい様とおばあ様は好きですか?」

「昔は嫌いだったけど、今は嫌いじゃないよ。自分が大人になって初めて父親の凄さを知った部分もあるし、君が生まれて初めて母親の思いを垣間見れた。納得はしないけど、許せる。好きではないが嫌いじゃない。これから、今よりは好きになれたらいいと思ってる」

 屈託のない笑顔で父上がそう言ってから、自分の右手に視線を落とす。剣を握らない父の、剣を持つはずの手。握りしめた父の手が掴んだものは何なのだろう。
 剣を握らない理由、誰も知らない弟の事、尋ねてみようと口を開きかけた時、おばあ様の来訪を告げる最初の連絡が届いた。

「レオナール様、大奥様の馬車が正門をお通りになったそうです」

 クレイの言葉に父上と私はエントランスホールを出る。外で耳を澄ませば馬蹄の音が少しずつ大きくなって、豪奢なアングラード家の家紋の付いた馬車がやってきた。

 私が以前より大きくなったせいか、馬車から降り立ったおばあ様は記憶よりも小さい。気品と貫録を兼ね合わせた立ち居振る舞いで歩む姿に、私たちの背筋が自然と伸びる。
 父上と私が並んでおばあ様に立礼をとる。

「ようこそ。母上」

「お待ちしておりました、おばあ様」

「一段と成長したことを嬉しく思いますよ、ノエル」

 おばあ様が私を抱きしめる。相変わらず無表情ではあるが、撫でてくれる手の優しさで気持ちは十分伝わった。体を離すと私の顔をじっと見つめる。それから丁寧に頬を撫でると少しだけ、悲しそうに顔を歪ませた。何かを振り切る様に小さく頭振ると、おばあ様が再び無表情を取り戻す。

「さあ、ノエル。私に貴方の新しい家族を紹介して頂戴」

 差し出された手を取って、おばあ様をエスコートする。微妙に無視されている感のあるお父様が複雑そうな表情で後に続いた。
 別邸のエントランスホールに入るとおばあ様が目を細めて見渡す。

「一つも変わっていないのね……。ここを捨てて何十年経つのかしら」

 父上が侯爵を継ぐまでは、おじい様とおばあ様がこの家の主だった。私が育てられたように、父上とその弟はここで育てられた。おばあ様が階段を上りながら、空いた手で愛しそうに手すりを撫でる。

「ノエルもこの別邸で十歳まで過ごしたのね。裏庭で剣は練習しましたか? エントランスホールを駆けた事はありましたか? 手すりを滑り降りた事はありましたか?」

「はい! 全部致しました」

 おばあ様が大きく頷く。そして階段を登りきると振り返って、エントランスホールを一望した。

「ソレーヌは、この家の中を変えずにいてくれたのね」

「ああ。未だに母上から借りているだけだと言い張っているからね」

「本当にあの娘は強情。でも、久しぶりに立ってみるとそれが有難い」

 本日、初めて父上とおばあ様の会話が成立した。
 ここを捨てたと言ったけど、変わらなくて嬉しいのはたくさんの思い出があるからだ。お父様と弟はここで二人で遊んで過ごし、おばあ様が育てた。

 ノックをしてお母様のいる室内に入ると、新しい家族は母上の腕に抱かれて目を覚ましていた。

「お久しぶりでございます、バルバラお義母様」

 立ち上がって母上が先に礼を取る。顔を上げた母上にバルバラおばあ様がそっと手を差し出して、赤ちゃんを受け取った。
 おばあ様の手が、赤ちゃんの少し赤みのある銀の髪を流すように優しく撫でて頬に触れる。それから小さな手を撫でると、おばあ様の指を赤ちゃんが捕えた。母上と私は思わず顔を見合わせて微笑む。触れる手順がお父様とおばあ様は全く同じだ。

 暫く赤ちゃんに指を握らせていたおばあ様が、指を解放されたのと同時に母上を見つめる。僅かに緊張した面持ちで、母上はしっかりとおばあ様の眼差しを受け止めた。

「ソレーヌ、貴方にアングラード侯爵夫人の全てを譲りましょう。家族を良く守りなさい。かわいい孫を二人もありがとう」

 その言葉に母上がドレスをつまんで、令嬢の立礼を取る。肩が小さく震えていた。

「承知いたしました。必ず家族を守ってまいります」

 そう言って笑った母上の眼尻から一粒だけ流れた涙は、雪解け水みたいに綺麗だった。

 おばあ様は殆ど表情を変えなかったけれど、赤ちゃんの小さな手に指を何度も握らせて、僅かに口元を綻ばせる。口数は少ないけれども、ぽつりぽつりと私と赤ちゃんを褒める。そして十回に一度は母に質問をする。父上はどうしてだか無視されていた。

「そろそろ帰りましょう。また、まいります」

 一刻も立っていないのにおばあ様が暇を告げる。優しい手つきでお母様の手に新しい家族を返すと、年齢を重ねた優雅な所作で退席の挨拶を述べた。手を差し出して、再びエントランスまで私がエスコートする。

 そして、屋敷を出たところでおばあ様が私を再び抱きしめた。確かめるように肩を撫でて、背中を撫でる。そして身を離すと、父上をきつい眼差しで睨みつけた。

「レオナール、私についた二つの嘘の弁明をなさい」

「何のことですかね?」

 父上が分かっているだろうに、知らぬふりをする。
 おばあ様についた二つの嘘。一つは我が家に精霊の子がいると言った事。もう一つは私が男の子であると言った事。

「ノエルの事と精霊の子ことよ。必要なら残酷な方法を選べるところは父親にそっくりだわ」

「なっ、似てない! 私は最大限本人の意向を尊重するよ。ノエルが望むなら今でも好きな道を選ばせる用意はあるつもりだ」

 父上には珍しい失策だと思う。知らぬふりをして逃げ切る事もできるのに、そうそうに認めて回答している。

「いいえ、そっくり。顔もあの人の若い頃にそっくりになったわ。それに一番嫌がる事を見つけるのが上手いなんて、あの人の手法そのまま。母親によくも酷い事が出来たものね」

 厳しい眼差しのおばあ様に、父上が必死に首を振る。

「あの時は家族を守る為に縁を切る覚悟だった。憎んでる精霊の子がいたら絶対に来ないのは分かっていたからね。でも、今なら私の意見が通るから、漸く連絡をとれたんだ。酷いくても、あの時の私にとっては最善の策だ」

 以前、お父様が悲しそうに「精霊の子がいる」と告げて、おばあ様の目が潤んでいるように見えた。後に精霊の子が何かと知った時は、おばあ様の感情は孫の立場への悲しみと判断していた。
 憎しみだなんて、何があったのだろう? 浅い息を数度吐いてから、おばあ様が顔を歪める。
 
「バカ息子。母の心配は貴方に一生分からないのでしょう。家族を守る嘘は、私にとって真実だった。私と同じ様に精霊の子に複雑な思いを抱いた貴方が精霊の子を育てられるか、ずっと心配しておりました。せめて貴方が苦しくなったら、逃げ先になれるよう遠くの領地から動かず見守る覚悟だった……」

 おばあ様がハンカチを取り出して目に当てる。複雑な顔で父上が目を伏せて、おばあ様に歩み寄ると抱き寄せた。

「時間を無駄にしてしまったわ。ノエルの成長は殆ど見れなかったじゃない」

「母上、ごめんよ。守りたくてついた嘘は確かに最低だった事を認める」

 そう言った、父上の頭をぴしゃりと音を立てておばあ様が何度も叩く。

「この家に精霊の子はいないのね? 私は大事な孫に憎しみを重ねる事に怯えなくて良いのね? あの頃、救ってあげられなかった貴方の為に逃げ場になろうとする必要ももうないのね?」

 おばあ様に頭を叩かれながら、父上がおばあ様の髪に顔を埋める。悲しいのに少しだけ嬉しそうな顔で父上が唇を噛み締めた。

「リオネルの事を利用して、ごめん。私はソレーヌとノエルを守りたかった。もう、気にしなくていい。いつでも会いに来て下さい」

 おばあ様が叩くのをやめて、父上を抱きしめ返す。

 リオネル。精霊の子。憎む。その言葉が父上の弟の死と関わる事は想像できた。そして、聞かなければならない事だと、私の心の中で何かが必死に訴える。
 おばあ様が父上から身を離すと、問いたげな私の視線に気づいた。

「ノエル、私を宿まで送って頂戴。レオナール、また参ります。生きているうちに私を二度と悲しませないで」

 背を向けたおばあ様に手を差し出して、馬車にエスコートする。送ってかまわないか視線を父に向ければ、頷いてくれたからおばあ様と馬車に乗り込んだ。

 ドアが閉まって、馬車が動き出すと直ぐにおばあ様が口を開いた。

「私が女の子だった貴方を、ソレーヌを追い出す理由にした事が発端なのね。きっと綺麗な髪だったのでしょうに」

 私の頭を優しく撫でる。撫で方がキャロルの髪を撫でた父上にそっくりで、思わず笑みが零れる。
 発端ではあったけれど、悪役令嬢にならない為にいづれ私は選んでいたと思う。

「私、ノエルの今が幸せなんです。誰かに幸せかと聞かれても、迷うことなく幸せだと答えます」

 おばあ様が私の手を取ってそっと撫でる。一つ撫でる度に、悲しさと愛しさが混じった息を落とす。

「レオナールともリオネルとも違う、細い女の子の手ね。また、私は大切な事を見落としてしまったのね。ずっと飾り物の夫人だから、飾り物として外ばかり見つめてた。今度は近くをみるから、もう一度やり直させて頂戴ね」

 はっきり頷くと、おばあ様が優しく笑う。それから決心したように唇を一度引き結ぶ。

「最後のやり取りは驚いたでしょう? 我が家には、リオネルという男の子がもう一人いた。でも、公になる前に精霊の子の男の子に殺されて、この世界にいない子になってしまったわ」

 だから誰に聞いても詳細を答えられなかった。子供を公にしない決まりの残酷なもう一面、公になる前に亡くなった子はこの世界に存在しない子になる。

「公になる前の子は外に出ないのに、何故そんな事が……」

「リオネルはレオナールより三つ下で剣が得意で元気な子でした。兄弟で練習するとレオナールは剣が苦手だから引き分けになる事が多かった。だから、小さい頃はリオネルの方が目立ってよく褒められてたの」

 魔力が分かるのは学園に入ってからだ、それまでは剣や知識が評価されやすい。
 何でも出来る弟のリオネルと剣がダメな兄のレオナール。おばあ様もおじい様もそう評価していたという。

「でも、公になるとレオナールは社交界で評判を上げていった。あの子は頭が良くて社交の天才だったわ。苦手なものは上手く隠し、人心を掴んで完璧に立ち回った」

 父上は特に物事の先を見通すのが上手い。剣以外は完璧な美少年が、話術と頭脳を駆使して周到に活躍するところを思い浮かべる。

「私が社交界でのレオナールの活躍を褒める様になると、負けず嫌いのリオネルは今まで以上に剣で勝負をしたがるようになりました。リオネルを可愛がっていたけど、レオナールは外の世界に興味を引かれてたのでしょう。リオネルの自尊心を満足させる為に勝負でワザと負けるようになった」

「リオネル叔父様は満足しましたか?」

 世界が狭い貴族の子を学園で何人も見てきた。目の前の障害や目的しか見ず、取り囲む更に大きな世界を絡ませて考えない。ヒントを与えるうちに外に目を向けられるようになる子もいるが、狭い世界から抜け出せない子もいる。父上がワザと負ける選択をしたのなら、リオネル叔父様は後者だったのかもしれない。

「素直に喜んでいたわ。でも、久しぶりに帰宅した夫はレオナールだけを認めた。食い下がるリオネルに夫は、外に出て認められなければ意味がないと言ったわ。闘志を燃やしたあの子の目を、頼もしいと思った自分を私はその後、何度も悔やみました」

 自分より弱いと思った相手が自分の届かない世界で高く評価される。狭い世界で一番だったリオネル叔父様は納得がいかなかっただろう。

「当時、精霊の子による魔力略奪事件が起きていました。外に出るレオナールに事件の注意をしていたのをリオネルは隣で聞いていた」

 リオネル叔父様は時が来るのを待たなかった。闘志をいつかの為の準備に回すのではなく、すぐに世界に飛び出す事に向けてしまった。
 リオネル叔父様は判断は甘いけど頭はいい。使用人も少ない別邸を遅くに抜け出し、自分で推測した事件が起きやすそうな場所を徘徊しはじめた。

「そして、魔力を奪う精霊の子だった男に出会ってしまった」

 今までで一番つらそうな顔をおばあ様がした。零さないだけで、その目には涙が溢れそうな程溜まっている。

「リオネルを失ったあの頃の我が家は滅茶苦茶だった。決まりを破った事を隠す為に夫は相当無茶な取引をした。結果あの人は傑物と言われながらも、国政管理室の室長より上に行けず引退も早かった。私は嘆きと怒りで何も見てなかったわ。夫と顔を合わせれば、危険な存在を野放しにした国のやり方を責め。レオナールを見ればリオネルを思い出して泣き続けた」

 父上は何を思っていたのだろう。精霊の子を憎んだのだろうか。国のやり方に怒りを抱いただろうか。
 私に精霊の子の説明をしてくれた時は穏やかに笑って話してくれた。あの表情の裏側に私の知らない思いがあったのか。

「私がレオナールの事に目を向けた時には、あの子は身の回りの剣をすべて処分していた。理由を聞いてもあの子は決して教えてくれなかったわ。リオネルと打ち合った思い出が苦しいのか、何か他に思いがあるのかはわからない。でも、未だに剣を持てないのならレオナールの心にもまだ痛みはある」

 おばあ様の瞳が私を見つめる。そして、私に向かって頭を下げた。

「リオネルの事は聞かないで、精霊の子と関わる事があるなら遠ざけて欲しい。今、貴方たちが幸せならば、再び傷を掘り起こす必要はない。リオネルは存在しない子だから、誰の口からもその名が上る事はないわ。私がリオネルを覚えているから、レオナールは忘れて皆で幸せになって欲しいと思う」

 馬車の速度が落ち始めた。
 おばあ様を抱きしめて、皆で幸せになると約束をして頬にキスをする。
 涙を拭いたおばあ様はいつも通りの無表情で馬車を降りた。

 扉が閉じると、ぞわりと悪寒が走って不安で暗い闇に堕ちる気がした。蹲って腕を抱く。何がこんなに不安なのだろうか。
 
 揃い始めた欠片が作る答えに、私はまだ気付けていなかった。






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