2018年12月17日月曜日

三章 四十九話 間際と唇 キャロル15歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 アレックス王子を取り戻す機会はなかなか訪れなかった。護衛騎士三人と従者一人に守られて、近づく事すら許されない。
 時間だけが経過する中、私の元にバウルと呼ばれる蝙蝠に似た生き物を模した伝達魔法が届いた。バウルを好んで使うのはバスティア公爵家だ。差し出した手にバウルが止まる。

「明朝、研究棟の東屋に来い。遅れるな」

 ディエリの声が呼び出しを告げる。精霊の子の治療術式を切りだすべきかを、呼び出された内容より先に考える私は案外ディエリが嫌いじゃない。

 明朝、東屋に行くと柱にもたれてディエリが待っていた。組んだ腕に添えた指が苛立たし気に時を刻む。私に気付くと僅かに顎を上げて緑の瞳が見下したように見る。

「遅い。俺を待たせるな」

 朝の清々しさが一気に吹き飛ぶ。それでも不躾な態度にも慣れてしまい、腹立たしさはあまりない。

「そんなに早く私に会いたかったんですか?」

 笑顔で憎まれ口を一つ叩き込む。鼻で笑って会いたくないと即答された。皮肉の応酬は、戦う前の準備運動みたいなものだ。

「情勢が騒がしいな。根を上げて、そろそろ跪くか?」

 黙り込んだ私に近寄って、人差し指で顎を上げさせる。

「手駒なら、かわいがってやるぞ」

「本当にディエリは私の顔が好きなんですねぇ。こちらは計画通りに進めてます。読めない程度の男だったとは失望ですね」

 学園内の派閥は打った布石が確実に効いて、期待派は持ち直した。中間派の動揺も収まりつつある中で、面白い手を打つ使えそうな人材も出始めた。競い合いの真剣勝負は人を成長させる。
 ディエリが見下した視線を射貫くような視線に変える。

「計画通り? 殿下の行動一つで破綻する綱渡りが虚勢を張るな」

 顎にかかった指に力がこもる。さすがにディエリには誤魔化しは通用しない。今の効果は私とカミュ様が虚構の殿下を作って無理やり周囲を踊らせて成り立ってる。アレックス王子が戻らなければ、いつかは齟齬が出て破綻するだろう。

「綱渡り? 燻っていつ火が付くか分からないなら、試しに火を見るのも一手だと思いませんか?」
 
「狸の好きそうな手だが、火が大きければ止まらんぞ。綱渡りが成功してる今、動かせば五分。後になるほどミスが出て、こちらが有利だ」

 ディエリもよく状況を把握してる。追い込むように覗き込んだ緑の目を睨み返す。
 その目が面白いものを見る色を浮かべたのに気づいて、この会話が遊びだと知る。

「消す算段ぐらいは整えています。火をつけてみて下さい。ただし焼けるのはそちらです」

 自信を湛えて言い切る。守り切る為なら多少の犠牲を払って打つ覚悟はある。
 舌打ちして、指が離れた。

「こざかいしいな。俺は火をつけない。しばらく、学園を離れる」

「えっ……」

 突然の離脱宣言に驚きが口をつく。ディエリを失えば、学園内の反旗派はまとまりを失う。何故、この時期に学園を離れる? ディエリが口の端を上げる。

「傑物、怪物がいないバスティアが公爵まで上り詰めたか訳を知ってるか? 奪える蜜は吸い尽くす、だが危険は決して冒さぬ。必要ならば、身内の当主でも切り捨てる」

 バスティア公爵家内の内部粛清の素早さは有名だ。悪事の温床でありながら、火の手があがれば誰であろうと切り捨てる。そして、何食わぬ顔でバスティア公爵家としてあり続けるのだ。
  
「まさか……」

「お前の親狸が動きはじめた。小火どころか大火がくるぞ。バスティアは反旗派を降りる。既に父は実権を失った。器じゃないのに、深い悪事に手をだした自業自得だな」

 次の公爵ならディエリだ。直系以外は権力を失うこの国では当然の流れ。だが、ディエリには体の負担は大きすぎる。

「ディエリが当主なんて若すぎます! 無茶です!」

「バスティア公爵家の歴史には、俺より若い当主など山ほどいる」

 唇を歪めて笑うと、私の手を掴む。ディエリの手はいつも冷たい。体が魔力を求めているからと思うのは穿ち過ぎか。

「バスティア公爵家は当主交代で手一杯で、暫く悪事はお休みだ。火をつけるのはジルベール・ラヴェル。バスティア公爵家はそこにいない。まだ、バスティアの中心しか狸達の動きに気付いてはいないが、奴は敏いぞ注意しろ」

 捉えた私の手の平にディエリが蜜玉を六つ落とす。
 崩落戦の以来、時々蜜玉を投げて寄こす。毒入りじゃないか心配になるが、疲れている時なので毎回美味しく頂いていた。

「お前を潰すのは復帰後だ。疲れた顔では潰す気にならん」

 笑える状況じゃないのはディエリもなのに、見下した態度の中で目だけが今日は優しく笑う。
 心配しても気づいても、労いの言葉や慰める言葉は私たちには似合わない。

「潰す前に潰れないで下さい。勝負はまだ続きです」

 疲れている時期を知るのは、同じ視点で動いているからだ。
 友じゃない。協力もしない。常に反目しあってる。でも似た場所で戦い続ける彼をなんと呼ぼうか?

 六つの蜜玉は私の居場所に向けられた無言の激励。握った手の蜜玉をポケットにしまう。
 去り行く背に向かって声を上げる。

「ディエリ! 疲れた貴方と再戦する気は起きません!!」

 覚えたばかりの術式を書く。精霊の子の治療術式だ。

「ユーグが作った新しい回復術を! 蜜玉の分の借りを返します!」

 乗せた魔力がディエリを包む。振り返ったディエリの一瞬の驚きが、術式の成功を伝える。
 一瞥して何事もなかったように、私の好敵手が背を向けて立ち去っていく。復帰は多分三か月後。
 ゲームでもディエリには空白の三か月がある。色々決着をつけてきた、で片付けられる三ヶ月はゲームのエンディング直前。バスティア公爵と呼ばれるのは見落としそうな小さな場面で一度。
 前世では決して辿り着けない空白の真相。早まった当主交代のシナリオはどこへつながるのか。
 物語後の知らない世界が忍び寄る気がした。

 そのまま、王族控室に向かうと、カミュ様とユーグが既に来ていた。ディエリからの情報で反旗派の粛清が動き出した事を伝える。

「あらゆる所に根を張る情報量は流石ですね。私が見ていた動きより早いです。これも国政管理室の策略でしょうかね」

 私から見て、父上に目立った様子はなかった。本気の時は徹底する人だから、私にも時期を悟らせる気はないという事だろう。いつ起こるか分からない以上、一刻を争う段階だ。

「ドニを戻しましょう。ドニの力はにラヴェル家の支持派に必要です。あの状態のまま粛清の現場に立たせる訳にはいきません」

 カミュ様が頷くのを確認してから、伝達魔法をドニに向けて飛ばす。舞台の終幕について語りたいと伝言を乗せる。

「アレックスも手段を選ばず早急に戻さねばなりませんね。リード、クリス中に入りなさい」

 カミュ様が外で見張りを行う護衛騎士の二人に入室を命じる。室内に入ると二人が跪く。

「アレックスの護衛従者を抑えられますか?」

「……努力させて頂きます。ただ、あちらは三名でギデオンがおります故、ご期待の結果を残せるかは厳しい状況です」

 アレックス王子の護衛騎士は三人、中には元近衛騎士でもあるギデオンがいる。カミュ様の護衛騎士二人での正面突破は厳しいだろう。

「どこかに誘導はできないの? 護衛騎士が離れるような事態って何かない?」

 ソファーで書き物をしていたユーグが問いかける。

「特定の条件がそろった襲撃で、殿下が出撃を命じれば二名はお側を離れる事はありますね……」

「人を雇っても、学園の敷地内に入れるのに結界の登録から必要になりますね」

 王族も通う学園内は強固な結界に守られていて、特定の行事以外は関係者以外の侵入は不可能だ。

「結界を解こうか? シュレッサーならできるよ。ただ、始末書どころじゃない騒ぎになるけど」

「大規模結界は中枢の文官が関わりますからね。学園内だけなら私がどうにかして差し上げられますが、外が絡むと隠しきれなくなります」

 伸ばして届くなら、迷わずどこまでも手を伸ばすのに近づく事すら叶わない。
 
「ノエル様、発言をご許可頂けますか?」

 ジルが一歩前に進み出て跪く。カミュ様に伺って、発言を許すことを伝える。

「ありがとうございます。ユーグ様にご協力頂ければ襲撃を偽装する仕掛けをご用意できます」

 カミュ様の護衛騎士が驚いた表情でジルを振り返る。その顔にジルが笑い返す。

「お世話になっていた部隊の特殊な技術なので、ご内密にお願いいたします」

「ええ。必ず内密に致しましょうね」

 カミュ様が偽装技術の秘匿の念を押す。ジルのいたのはモーリスお爺様の戦備前準備部隊だ。職務内容と技術がそぐわない。僅かな違和感にジルとカミュ様の顔を見るが二人ともただ笑うだけだ。

「なるほどな……、魔法を使わない中規模襲撃の偽装は一日で可能か?」

 得心した様子のリードの問いかけに、ジルが頷く。あっという間に二人で襲撃の偽装の詳細を詰める。

「エトワール泉近郊の襲撃偽装をご許可願います。重要地点が近く、魔法を使わない相手なら出撃する可能性はかなり高い筈です。最後まで残るギデオンは、私とクリスが二人がかりで抑えます」

「では、私の従者はアレックスの従者を、私はルナに対応します。それから、クロードを戻してアレックスの牽制を頼みます。ノエルは隙を見てアレックスを取り戻して下さい」

 役割を決めて準備の為に動き出した頃、ドアを叩く音がした。カミュ様が入室の許可を告げるとドアが開く。

「全員が中なんて珍しいねー? 誰もいないから勝手に開けちゃったよ?」

 走ってきたのか肩で息をしながらドニが顔を出した。カミュ様が頷いて、護衛騎士が持ち場に戻る。

「舞台は終幕です」

 緊張した面差しになってドニがしっかり頷く。父上が動き出したならラヴェルの舞台も整っているはずだ。

「うん。大丈夫。僕たちは必ず演じきる」

 決意を秘めた若草の瞳が私たちを見つめる。
 剣で指先に小さな傷を作って、ドニも同じようにする。血の浮き上がる指に私の傷口を乗せると、ユーグが効果が表れる時間が計るために机を指で叩く音が室内に響いた。

「……ドニ、時々ぼうっとするのは気づいてますか?」

 血の混ざりあう指先を見つめて、ドニが頷く。一瞬、目から表情が消えそうなっても、カールした薄緑の髪を揺らして振り払うと変わらない瞳が戻った。
 傷を合わせ続けているからか、ルナの支配が薄いからか、クロードの時よりも回復が早い。

「……気づいてるよ。どうしてかも、僕はわかってる。きっと、皆も気づいてるんだよね?」

 悲し気な笑顔で呟いた言葉に、私たちが驚かされる。胸に手を当てて、小さくドニが頷く。

「帰郷の季節の前に伯父様と揉めて大きな怪我をしたんだ。手当てを受けてる時にルナが来ちゃって、僕を見て泣きだした。自分のせいでごめんなさいって言って、すぐに僕はすごく自由になったんだ。変調はルナがしてるって気付いたけど、意識が薄くなるから皆に話せなかった。今は解けたんだね……」

 ドニが目を閉じて恋の歌を口ずさむ。若草色の瞳を開けると寂しそうに微笑んだ。

「今なら彼女が求めた恋を歌えるのに……何故あんな事をしたのかな? ルナをどうするの?」

「アレックス殿下を取り戻して、ルナに聞きます。ドニも来ますか?」

「ノエル!」

 ドニを誘った私を咎めるようにカミュ様が声をあげる。

「ドニがいた方が良いです。ルナにとってドニは特別だから」

 一番近くで彼女を守ろうと支えてたドニに、彼女は本当の笑顔を見せてた。抗うと決めたルナの帰る場所はドニだと思う。
 
「ラヴェルの一人として、決して邪魔はしない。でも、男としてルナ側に僕をいさせて!」

 逡巡する瞳の奥でカミュ様は何を思ったのか? 小さなため息と共に首を縦に振る。

「邪魔は許しません。ドニは私と共にルナを抑えて下さい」

 翌日の午後。取り戻す為の最初で最後の機会。厚い雲が光を覆って泣き出しそうな空は、今にも雫を零しそうだった。
 逢瀬に使ってる東屋に殿下とルナがいる。取り囲むのは護衛騎士三人と従者が一人。
 他学年はカミュ様の計らいで、王立図書館や研究所から誘いを受けて外に出た。同学年の半数は帰路についている。

 私、カミュ様、クロード、護衛騎士二人とクロードの従者がこの場にいた。ドニと従者は反対方向から回り込む。
 少し離れた場所から様子を伺っていると、カミュ様の従者が講師室から戻ってきた。
 襲撃はカミュ様の指示による極秘訓練の為、移動制限をとるよう書簡を届けて周知は完了したと言う。

「ご苦労様です。では、必ず友を取り返しましょう」

 カミュ様が手首を回して、一回り小さなハルシアが飛び立つ。
 束の間の静寂の後に、エトワールの泉がある丘の中腹に爆発音が響く。同時に林から逃げるように鳥が飛び立って、誰かの存在を感じさせる物音が響いた。

「見事です。本物の襲撃と遜色がない」

 リードが感嘆の言葉を漏らす。煙が立つあの場所にジルとユーグとユーグの従者がいる。駆けつける護衛騎士を引き付け足止めする三人の無事を遠くから願う。

「では、参ります」

 カミュ様が従者だけを伴うと、異変を訝しむアレックス殿下達の元に走る。

「アレックス! 救援を! エトワールの泉が近いです。貴方も護衛騎士を向かわせてください」

 計画通りのカミュ様の言葉に、アレックス王子が頷く。

「ダメ、側を離れないで」

 立ち上がろうとしたアレックス王子の腕をルナが止めると、魔法のように瞳から感情が消えた。 
 
「貴方に指図される謂れはございません!」

 カミュ様がルナを冷ややかに見下ろして一喝すると、ルナがその身を強張らせる。とりなすようにギデオンが動く。

「殿下、私以外の二名を現場に向かわせます」

 ギデオンの言葉と同時に二名の護衛騎士が丘に向かって駆けだす。勝負は護衛従者二人が見えなくなってから、偽装に気づいて戻るまでの時間だ。
 カミュ様の護衛騎士が合図をして、東屋に向かって一斉に駆け出す。
 突然現れた私たちに何かが起きている事を察したギデオンが、行く手を阻むように剣を抜いて前に立つ。

「ギデオン、剣を下ろしなさい。アレックスを取り戻しに参りました」

 後方からのカミュ様の宣言にギデオンが狼狽するのを、ルナに袖を引かれた殿下が一蹴する。

「ギデオン、護衛騎士の役目を果たせ!」

 その言葉にギデオンが剣を構え直すと、カミュ様の護衛騎士が剣を抜いて斬りかかる。刃がぶつかり合う音が響く。

「カミュ様! 我々がギデオンを抑えます!」

「ご成功をお祈りします!!」
 
 傷つけぬ戦いを挑む護衛騎士二人の剣と、強者であり職務を遂げようとする護衛騎士の剣は二対一で拮抗してぶつかり合う。
 その横をすり抜けて、私たちはアレックス王子を目指す。

「殿下の元にお通しするわけには参りません」

 アレックス王子の従者が主を守る為に立ちふさがるのを、カミュ様とクロードの従者が引き受ける。

「「ご成功を!」」

 願う言葉を背に受けて、辿り着いた先で私達はカミュ様と共にルナとアレックス王子に向き合った。

「ルナ。アレックスを返してください!」
 
 カミュ様の言葉に、ルナが悲しそうな目をしてアレックス王子の手を取って身を翻す。反対から向かってくるドニが見えた。

「ドニ? どうして?」
 
 ルナの訝しむ声が聞こえて、走る速度が落ちる。背中を追う視界に映るアレックス王子の手に精一杯手を伸ばす。届く。届くなら手を伸ばすと決めた。あと少し。あと少しだけ。ほんの少しで指先に触れる事が出来る。

「ダメ! 止めて!」

 ルナの叫びに、アレックス王子が振り返って剣を抜く。手を伸ばした体は避ける事も受ける事もできない。重なる視線。淀んだ紺の瞳に私は映らない。何の思いも消えた目が冷たく見下ろして、刃がまっすぐに振り下ろされる。

「ノエル!」

 クロードの声がして、目の前で剣が弾かれる高い音が響いた。一撃の起こす風が私の前髪を僅かに揺らす。私から引き離すようにクロードがアレックス王子に打ち込んで、剣戟が響く度に遠ざかった。

 膝が震えて、崩れるように座り込んだ心臓が激しい音を立てる。
 躊躇なく向けられた剣。届かなかった指先。目に映らない私。傷つけあう可能性。違うと分かっても、同じ姿が私を動揺させた。行き交う感情が胸を襲って、頬を温かい雫が行く筋も落ちる。息が詰まる様な吐息が嗚咽に変わって、堪えていた全てが、溢れて止まらなかった。

「ノエル」

 座り込んだ私の手をカミュ様が手を引いて起こす。嗚咽が止まらない私を同じ泣きそうな顔で見つめて、頬の涙をその手で何度も拭ってくれる。

「大丈夫。後で怒ってやりましょう。ふざけるなって。私も怒ってやります。必ず貴方に謝らせます。だから、泣かないで下さい」

 言葉の痛みを知るカミュ様の言葉はいつも優しい。滑らかな指先が涙を払う度に、今ある別の絆に救われる。

「取り返しましょう。彼じゃない彼に絶望しないで、彼が彼に戻った時に伝えましょう。辛かったと」

 言って、強く抱きしめると優しく背を数回叩く。ただ、受け入れて優しく添ってくれる腕の中で私は頷く。安心したようにカミュ様はそっと腕を離すと、呆然と立ちすくんでいるルナの前に立った。

「私は貴方が許せません。女性でなければ手を上げていたでしょう。私の大切な者をこれ以上傷つけないで頂きたい。心の支配を解きなさい!」

 怒りのこもる声をルナに向けたカミュ様の横顔は壮絶な程美しかった。その顔を、驚いた表情を浮かべてルナが見つめる。

「……ナ? 嫌、怒らないで? 解けないの。それに、私は諦められない!」

 少しずつ、後ずさるルナの背をドニが抱き締めるように捕まえる。

「ルナ、殿下を戻して!」

「ドニ……とけたの? 絶対解けないはずなのに……」

 ルナに向かってドニが微笑むと、ルナの手がドニの頬を一度だけ撫でる。一瞬だけ嬉しいのか悲しいのか分からない複雑な表情を浮かべた後、覚悟を決めたように叫ぶ。

「ごめんなさい、ドニ。私はまだ抗う……殿下だけは絶対に解かせない!」

「誰かを傷つけて何かに抗う事に意味はあるのですか? 人を傷つけながら進むなら、私は絶対に貴方のやり方を許せません!」

 目に映るカミュ様の姿を拒むようにきつく目を閉じて強く首を横に振る。

「私はただ幸せを願ってる……。約束したの貴方の代わりに守るって!!」

「誰かを不幸にして約束を守るのですか? 見なさい。幸せな者は誰もおりません! 私の大切な友が傷ついて、傷つけあってる。こんな光景を私は見たくない!!」

 身を竦ませて、恐る恐るルナが瞳を開く。カミュ様の瞳からも涙が落ちて、ルナの顔が歪む。苦しそうに胸を抑えて、幼い子供のように首を振り続ける。

「…ーナ、責めないで。お願い。今度こそ、守ろうって思ったの。お願い。許して、シーナ」

 壊れたようにルナが謝罪の言葉を繰り返す。カミュ様を見つめて、シーナの名を呼び続けた。

 高い剣戟の音が響く。振り向くとクロードの剣が空に高く跳ね上がるところだった。
 自分を取り戻して、剣を抜いて走る。私を守ってくれたクロードを今度は私が守る番だ
 辛うじて鋭い剣先から身をかわし続けるクロードを追うアレックス王子に叫ぶ。

「アレックス殿下! 剣を下ろしてください!」

 私の声に反応して、剣が止まる。間合いを離れたクロードを確認して、今度は私がアレックス王子の前に立つ。相対するアレックス王子には、まだ傷一つない。

「目を覚まして下さい! 貴方を皆が待ってます!」

 ルナはアレックス王子は絶対解かせないと言った。だから覆う力はきっと誰より強い。
 でも、感情が抜け落ちるのは大切な事を覆う時なら、一時も戻らぬ瞳の奥に私たちがきっといる。
 降り下ろされた剣を受ける。

「皆で貴方の立つ場所を守ってます。 抗ってください!」

 覆われた想いに向かって、語り掛ける。表情のない瞳が僅かに揺れて、少し力が緩んだ気がした。
 受けた剣を押し返す。甘いと分かっても、振り返す事は出来なかった。大切な人を傷つけるのが怖い。

「貴方の隣に立ちたいんです。約束通り側にいたいんです」

 確かに瞳が揺れて、僅かに剣を持つ手が下がる。思わず一歩進み出た途端に二撃目が襲った。
 受け流すのが遅れて、弾き飛ばされる。肩口から地面を削ぐように倒れた体を起こすと、口の中に砂と鉄の味が広がった。口の中の砂と血を吐き捨てて、剣戟の方を見れば再びクロードが剣を合わせていた。

 勢いを欠くクロードの剣は、やはり傷つける事を躊躇うせいだ。このままじゃ、ダメだ。
 二人の剣の流れを見つめる、剣を捨てて鞘を掴む。私は殿下に隙を作ればいい。後はクロードに任せる。
 見極めた僅かな殿下とクロードの間合いに飛び込む。全力で一閃させたのは剣じゃなくて鞘。確かな手応えと、小さな呻きと共にアレックス王子の体勢が崩れる。

「クロード、任せます!」

 飛び退く瞬間、クロードの剣が掬うようにアレックス王子の剣を絡めとるのが見えた。刃の重なる音がして、アレックス王子の剣が宙を舞う。
 安堵した一瞬、素早い動きでアレックス王子が体勢を立て直してクロードに蹴り放つ。クロードの脇腹に入ると同時に、殿下の頬にも剣を捨てたクロードの拳が入った。両者がそれぞれ吹き飛ぶ。

「殿下を……戻せ……」

 大の字に倒れた、クロードの小さな呟きに弾かれて。草の上に倒れ込むアレックス王子に寄りそう。
 苦しそうな吐息が漏れて口元から血が滴る。頬に触れると、僅かに開いた瞳は瞬きする度にクロードと同じように何度も入れ替わった。

「ノエル……、カミュ……」

「クロード……、ユーグ……」

 アレックス王子の口から苦しそうに、小さな声で私たちの名が落ちる。
 慌てて指先に傷を作って、アレックス王子の唇の傷口に這わせる。

「アレックス殿下。大丈夫です。もう、すぐ帰って来られます」

「ノエ、ル……」

 私の頬に触れようと伸びた手が落ちて、苦しそうに顔を歪める。
 強い支配のせいか、血を合わせても表情のない瞳が瞬きの度に増えていく。
 
「ダメです! ダメです! ダメです! 帰ってきて……ここに帰ってきて!」

 厚い雲から雫が落ち始めて、空が泣くのを許してくれる。雨に隠れて泣きながら、金の髪を撫でて唇の傷に指を重ね続ける。

「ノエ、ル……側に……」

 唇に触れる手にアレックス王子の手が重なった。届いた手は、顔を歪めながらも振り払われる事なく重ね続けられる。それでも、苦しそうな吐息と目まぐるしい変化が続いた。
 
「……泣く……な」

「泣いてません」

 入れ替わる瞳の中で、初めてアレックス王子の口元が僅かに綻んだ気がした。
 伸ばされた手が私の眼尻を撫でる。私の嘘だけは見抜けると言った言葉を思いだす。時々戻って来るようになった紺碧の瞳は、私の嘘を今も見抜いてくれているのか。眼尻を撫でる手に、乗せるように頬ずる。 

「殿下、ちゃんと一緒に帰ってきて下さい。皆のいる居場所にちゃんと帰るまでがエンソクなんです。皆も、私も待ってます。私は貴方がす……」

 頬に触れていた手が離れて、髪を撫で上げた。抱えるように引かれて、唇に柔らかいものがふれる。いつか耳朶に落とされた熱と同じ温度を唇が知った。

 そっと触れ合う唇には誰のものかを教えるような、血の味と僅かな砂の感触があった。
 間違えているのは分かっても、その感触から逃れようとは思わなかった。ただ、目を閉じて触れる自分より熱い体温が唇から私に伝わる感覚を追う。

 どれくらい熱を追って唇を重ね合わせていたのか分からない。僅かの気がするし、ずっとの気もした。

 一度息を継ぐように離したのに唇はもう一度、引かれて重なって、同じことが何度あったのか。

 アレックス王子の指が私の髪を優しく梳くのを感じて、それが合図のように目ゆっくり開ける。
 目の前で晴れた空と同じ紺碧の瞳が私を見つめて微笑んだ。

「おかえりなさい」

「ただいま……ノエル」

 


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