2018年12月22日土曜日

四章 七十二話 最後の動きと目覚め キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります



 離宮から戻る道で見た夕日は、魔物の瞳と重なって不吉な色に思えた。
 心が景色を受け取って、想いを重ねる。今、深い青空を見たら、私は何を想うのか。育む若葉を見たら、何を感じるのか。


 屋敷に戻って軽い夕食をとると、隠し部屋に籠もる。
 当主代行として、王都でしなければいけない事はまだたくさんある。何かを考えて形にする事は嫌いじゃない。時間が立つのも忘れて、指示を書き綴っていく。全てが仕上がると、疲れを感じる手首を振って体を伸ばした。更に首を回していると、ドアをノックする音が響く。

「どうぞ」

「失礼いたします。騎士団より書状が届きました」

 ヴァーノンが携えた二通の書状は、作戦戦略室と国政管理室からだった。

 国政管理室の書状に書かれた、ワンデリアの状況と私兵隊への協力要請に目を通す。じいじの予測通りだ。奪還の為に兵力を割くと、元反旗派への警戒に騎士団だけでは手が足らない。用意しておいた私兵隊長への書状に、任された場所を書き加えて封筒にしまう。

 手首を回して副室長さんに了承の伝達魔法を発動すると、茶器が重なる小さな音がした。茶葉の缶の蓋が開く音がして、いつも違う香りが部屋に広がる。

「ヴァーノン、お茶は赤い缶でお願いします」

「イリタシスの品をご愛用では?」

「お仕事する時だけ、変えてるんです。フランチェル産の方が渋みがあって、頭がすっきりします」

 ヴァーノンが振り返って、小さく頷く。別の缶を開ける矍鑠とした後ろ姿を見つめる。
 ここでお茶を淹れるのは、今までジルだけだった。ジルしか知らない事、ジルだけがしてくれた事。小さな日常との違いが、私とジルの近さを何度も訴える。
 
 小さく息を吐いて、次に作戦管理室からの書状を開く。奪還作戦への志願に対する返事で、承諾の文字に胸を撫で下ろす。
 集合は明後日の夕刻、騎士団第四広間と記されていた。その後に書かれたバルト伯爵の文章を読み上げる。

「若く優秀な文官候補であっても、作戦では騎士として扱う。二度と失態は晒すな。騎士として使えぬなら、いつでも切り離すと心得よ」

 私の将来の選択が、騎士団でなくて良かった。バルト伯爵は人質交換での事をやはり失態と判断していた。私も、失態と十分理解してる。作戦責任者なら、私の参加を迷うのは当然だ。
 参加を認める可能性が五分だと予測して、カミュ様に口添えを頼んだのは正解だった。

「厳しい言葉ですな。騎士団の上役の方ですか?」

 ヴァーノンが私の前に淹れたてのお茶を置く。同じ茶葉なのに漂う香りはいつもと少し違う。
 
 誰にも代わりはいない。アレックス王子もジルも私にとって一人だけの人だ。

 失う事に取り乱した時、私の心は確かにキャロルだった。男の子のノエルは、強く冷静であろうと背伸びをする。でも、奥底にはキャロルとしての女の子の弱く脆い感情がある。
 この一年は、キャロルとしての私が以前より表に出やくなっていた。その理由は分っている。
 
 書状を畳みながら、ヴァーノンに笑って見せる。

「バルト伯爵の言葉です。失敗は事実なので、心して受け止めます。私が私でいるって難しいですね」

 ノエルとして抗い続けた私は、キャロルとして愛される事を知った。
 アレックス王子は、二人の時間にキャロルの私を見て、危険な場所に置来たくないと言ったのだろう。その言葉の意味が今はよく分かる。
 キャロルは守られる存在で縋っていい存在だと、漸く私は気づいた。

 それでも、ノエルの気持ちは危険な場所で隣にありたいと願う。
 
 ノエルとキャロル。私と私。揺れて行き交うのではなく、いつかは一人の私でいたい。

「良い経験かと存じます。アングラード公爵家は文官の家柄で、ノエル様も武官に接する事は少なかったかと存じます。生死を隣に戦う騎士の方達の緊張に触れる、貴重な機会だったのではないでしょうか?」

 甘さの足りないお茶に口をつけながら、その言葉に目を瞬かせる。アングラード公爵家執事は、若い当主代行のサポートも完璧だ。

「でも、ヴァーノン。私の側には元騎士のモーリスおじい様やジルがいましたよ?」

 書きあがった書状に封蝋を施すヴァーノンに、茶化すように言い返す。
 
「お二人は騎士から外しましょう。騎士らしさが全くないですし、ノエル様に甘すぎますからね」

 ヴァーノンが生真面目に答えて、封蝋用の蝋燭を吹き消す。

 戦前準備部隊の人達は、全員騎士らしくなかった。マクシム伯父様も、第二騎士団にあった時の騎士らしさが消えていた。
 ジルやモーリスおじい様が特別なのではなくて、あの場所に騎士らしさがなくなる理由がある。

「……」
 
 ジルは実戦では強い。モーリスおじい様だって、あのお母様を剣士に育てたのだから強い筈だ。
 
 懐かしそうにヴァーノンの顔の皺を深めて口を開く。

「旦那様がクレイを拾ってきた時は、教育が本当に大変でした。ジルも、騎士なので従者としては教育が必要だと気が重かったんです。でも、経験があるかのように、初めからジルは何でも出来ました。モーリス様も庶民の様に気さくな方でございます。二人は、本当に騎士に見えません」

 幾つかの記憶が頭を掠める。夜の庭に浮かんだ異国のランプ、知らない御者、護衛が驚いた技術。
 繋がる先が、ぼんやりとは見える。けど、ずっと先はまだ見えない。

 黙り込んだ私の顔を心配そうにヴァーノンが覗き込む。

「お心を煩わせる質問になるのですが、ジルの状況はいかがなのでしょう? 前日の怪我も酷うございました。騎士団で治療になったと言う事は、あまり良くないのですか?」

 ジルが謀反者側に去った事を屋敷の者は知らない。だから、怪我をして騎士団で治療を受けていると、私は嘘をついた。
 
 他の嘘にした方が良かっただろうか。ヴァーノンの眼差しに心配する色が浮かんで心が痛む。

「心配をさせて、ごめんなさい。大丈夫ですよ。守る為にいないんです。全部終わったら一緒に帰ってきます」

 安心させるように言った私の言葉に、使用人の中心である老執事が穏やかに息を吐く。

「そうですか。あの子は表情を取り繕うのが上手いから、何でもない顔で無理をします。お側にあるには心強いですが、無茶に繋がらないかずっと気にしておりました」

 緑の瞳が告げた言葉を思い出す。嘘と本当。願いと約束。ジルが私を誰よりも知っているなら、私もジルを誰よりも知っている。

「……ヴァーノン。一つ確認です。私が不在の間にジルを尋ねて来た人はいませんね?」

「はい。ノエル様がお出掛けになった後、騎士団からの訪問者はございません。奥さまの派閥のご婦人が数名、相談にいらっしゃったのみです」

 頷いてから、並べた封蝋の押された封筒の一つを指さす。

「私兵隊長宛てのみ急ぎです。他は明日の昼までに届けてください。今後の予定は、明日は早朝にはワンデリアに移動して、明後日の昼までに戻ります。下がっていいですよ」

「畏まりました。ノエル様も早めにお休みくださいませ」

 ヴァーノンが退室してドアが閉まると、椅子の背に体を預けて天井を仰ぐ。うねるような木目をゆっくり目で辿る。
 はっきりとした確信はない。でも、辿る先に希望は確かに見えてきていた。


 翌朝、まだ暗いうちにワンデリアに移動した。 窓の外では、ルナの魔法が早朝の景色を仄かに照らして揺らめく。眺めながら、当主の部屋で待っていてくれたじいじに挨拶する。

「おはようございます。じいじ」
 
「本当に早いな。年寄りだから苦ではないが……。」

 苦笑いを浮かべて、じいじが幼子をあやす様に私を抱きしめる。

「ヴァーノンから王城に向かった事は聞いている。ご苦労だったな」

 渇いた手が髪を撫でて、頬を緩める。ずっとこんな風にじいじは触れ合いたかったのだろう。

「全部終わったら、おばあ様をワンデリアに呼んで二人で案内しましょう。お昼は綺麗な岩陰で食べて、たくさんお話して甘えます。私とじいじの約束です」

「いい約束だな。ならば、今は踏ん張りどころだ」

 気合を漲らせて体を離すと、じいじが机の上に私兵団の状況を記した書類を広げる。
 向き合う様に席について、書類に目を通していく。元国政管理室長のじいじの指揮で、ここまでの状況は完璧だった。細やかさを加味すれば、父上の予定を上回る仕上がりかもしれない。

「流石です。ここまでは、言う事なしです!」

「ここまでは、なのか?」

「ここまでは、なのです。国政管理室から連絡がありました。足を止めていたヴァイツが、侵攻に転じました」

 知らされたワンデリアの状況は二つ。一つは、光の女神の宣託により決戦が明後日になる事。もう一つは、ヴァイツの再侵攻についてだ。 

 陛下への宣託は、国の発表では詳細が伏せられている。でも、まことしやかに凄い速度で広まっている噂が一つある。それは、夢枕に立った光の女神が、国王陛下に最大級の祝福を贈ったという内容の噂だった。見たかの様に語った華やかな内容は、兵士の士気を高め、国民の期待抱かせるのに一役買っている。作者が誰かを考えると苦笑いが漏れたけど、カミュ様と私を含めて全員の思惑通りの結果になった。

 国政管理室からの手紙を読み進めるじいじが、表情を険しいものに変えていく。

「馬鹿な事を……。結んだばかりの不可侵の条約に手の平を返せば、周辺国との信頼も無にする」

 条約は、守られてこそ真の価値を成す。履行の積み重ねに信用という価値が付随するからだ。三日で覆せば、長く不信の汚名が周辺に残る。対等に付き合う国を失う行為だから、普通なら絶対に選ばない。

「苦境に陥った我が国は攻めやすく見えますが、隣接するワンデリアには魔物がいます。この侵攻にそれ程の価値がないです」

 じいじが眉を寄せたまま目を閉じて考え込む。オーリック辺境伯が守る国境を破っても、魔物に阻まれてワンデリアを超えるのは難しい。

「……謀反者は大崩落に合わせて王城を狙った。発生の時刻は知っておった筈だ。同刻にヴァイツが足を止めたなら、両者は繋がる。大崩落の後の密約を、謀反者とヴァイツは交わしたのだろう」

「後の密約ですか?」

 情報が流出する時間を稼ぐ為に、大崩落発生後の国境は理由をつけて閉じている。発生と同時にヴァイツが足を止める事は絶対に不可能だった。

 じいじが考えを纏めて、私と同じ紫の瞳を開く。
 
「大崩落で今の王家が失われれば、秘宝を持つ謀反者達が新しい王を名乗る。ヴァイツは新王に協力した友好国に早変わりだ。相応の見返りが踏み込んでるなら、新王の後ろ盾を任されているやもしれん。バカバカしい浅知恵だ。ヴァイツの後ろ盾など、数年だ。いづれマールブランシュを統合しにくる」

 吐き捨てる様にじいじが言いながら、袖からお菓子を取り出して机の上に置く。包みを開けて口に放り込んでから、私の方にも幾つか投げる。糖分を補給してから口を開く。

「王家が消えても、この国に魔物の王が残ります」

「秘宝の詳細をヴァイツは手に入れる事はできない。謀反者は秘宝が手に入れば勝てると告げたのだろう。それを信じたから、謀反者が二つの秘宝を手に入れた時点で侵攻を始めた」

 登り始めた太陽が描く窓の影を見つめる。光が明るいほど、影は常に色濃くなる。
 ヴァイツは謀反者たちが魔物の王を倒す算段で動いている。でも、実際には謀反者たちは、秘宝を手にしても倒す事はできない。
 謀反者は内に魔物の王という破滅、外にヴァイツからの侵略を抱える事になるだろう。

「……私なら、双方をぶつけてみたいです」

 じいじが唇のお菓子の欠片を拭って、惜し気な眼差しで笑顔を浮かべる。

「一種の賭けだな。魔物の王とヴァイツの戦い。魔物の王が勝てば、弱体化させた上でワンデリアまで戦線をあげて打ち取る。ヴァイツが勝てば、混乱に乗じて国境までは押し返す。上手く行けば、双方倒れて物見で利。だが、機をとらえるのも、場を作るのも難しい。目論見が読まれれば、双方から睨まれる」

 綱渡りの選択でも、彼なら選ぶ気がする。ベッケルはともかく、ジルベールは心の底からこの世界を嫌っているように見えた。
 思い通りにならなかった世界を変えてしまいたい。でも、変えられないのなら全部壊れてしまえばいい。そんな風に叫んで、哄笑を上げるジルベールが頭を過ぎる。

「ジルベールはやると思います。彼は怖い人です。壊れる事を何一つ厭わない」

 暗い未来を思って沈黙が落ちる。じいじが袖から再びお菓子を取り出して、机の上に新しい山を築いた。

「ならば、必ず何とかせねばな。だが、大きな舵を切るのは、国政管理室の仕事だ。我々は領地の事に力を入れよう。……ノエル、もし男の子でいるのなら国政管理室に行くといい。まだ、甘いが着眼は重宝される」

 首を傾げて、その言葉に曖昧に答える。
 行きたいと思う。やりがいを感じるし、その仕事に私は夢中になれる気がする。でも、ノエルの未来では、キャロルの未来は選べない。キャロルの未来には、ノエルの未来はない。

「オーリック辺境伯は対ヴァイツに専念するようです。バスティアとベッケルでオーリックに流れる魔物を止めます。アングラード、ヴァセランは、援護の為の遊撃部隊を用意する様に指示がありました」

 前回はベッケル領の魔物が流れ込んで、撤退寸前まで追い込まれた。ルナの魔法で今の魔物は半減するが、魔物の王はまた新たな魔物を生み出す。楽観はできないから、遊撃部隊を作るのも簡単ではない。

 じいじが机を小さく指で叩きながら、国政管理室からの書状を見つめる。それから、小さく鼻で笑う。
 
「成程、そう来るか……。援護用には、ある程度の水準が必要だな」

「そうですね。前回の時はベッケル領にはファビオ様がいました。でも、今回は彼がいません。次の責任者が誰であっても、ベッケル領には混乱があると思います」

 補給、退路、人数の調整。ワンデリア内の配備をじいじと一から練り直す。大枠が出来た時には、窓から差し込む太陽の光は大きく後退していた。

 体を伸ばして、何個目になるか分からないお菓子の包みに手を伸ばす。なくなりそうになると、じいじの袖からは次々とお菓子が出てくる。空の包みは小さな山になっていて、今にも崩れそうだ。

 慌ただしい軽い足音が聞こえて、ノックの音が響く。返事をするより前に、クララが飛び込んで着て元気な声が響いた。

「当主代行様! お客様です!」

 戦う事が大好きなクララは、私兵団に混じって活躍したと聞いている。今も顔に暗さはなく、笑顔に活力が漲っている。

「クララ、返事の前に開けたらダメですよ。お客様は誰ですか?」

「ユーグ様です! お土産に回復薬をたくさん持ってきて下さってます」

 その名前に唖然と口を開ける。冗談で来るかもしれないと話していたが、まさか本当に来るとは思っていなかった。ユーグがここに無理矢理来た理由を考えて、思わずこめかみを抑える。

「ノエル。ここまで枠が出来れば、問題ない。残りは私が考えよう。行ってきなさい」

 心遣いにお礼を言って、部屋から飛び出す。既に勝手知ったる様子で、ユーグは階段を上ってくる所だった。

「ユーグ! 人の館を勝手に歩き回らないで下さい!」

 叱責を気にせず階段を上り切ると、ユーグが腕を広げて抱きつく。一瞬目があった顔は、何日寝てないのか心配にぐらい隈が色濃かった。

「ノエル! 僕は、戦う前に死にそうなんだ! あっちこっちに知りたい事だらけだよ。初日は不思議な魔法を調べていて寝れなかった。二日目は、殿下の怪我の薬を作ってて寝れなかった。疲労困憊で君もいるから離宮に行ったのに、君はいなくて悲しいし。帰って流石に寝ようと思ったら、カミュ様が手紙を見せてくれて寝れなくなった!」
 
 枕か何かのように私を抱きしめるユーグから体を離す。袖を掴んで離さずにユーグが懇願するような眼差しを浮かべる。

「とりあえず、僕と一緒に少し仮眠をとる気はない? 君を抱いてたら、きっとよく眠れる気がする」

「それは、眠気が見せる気のせいです。私よりも枕かケットを抱いた方がよっぽど良いです!」

 ユーグが残念そうに肩を落とすと、懇願の色が消えた眼差しに探求者の鋭い光が浮かぶ。胸元からルナの手紙を取り出すと、私に目の前に突きつける。 

「うちの領地じゃなくて、初日に君の領地にいれば良かった! いつもルナが何かをする時に、僕は側に居ないんだよね。今度こそ、術式が知りたいし、ルナ自身の事も知りたい」

 ルナが消えた時も側に居なかった事をユーグが悔しがり始める。宥めるように肩を叩くと、縋る様に手を掴まれてしまう。

「ルナの部屋に連れてって。女の子相手だから、無茶はしないと約束するよ。せめて魔法を使って眠り込む状態が、普通と同じか確認だけでもしたい」

 完全にユーグの目線は、探求対象に向けるものだ。
 もちろん、女の子相手だから拒否してあげたい気持ちはある。でも、眠り続けて三日目になる。健康状態を含めて、知識が深い人に見てもらう事は必要だった。

「私がダメって言ったら、離れて下さい。ダメは絶対です。約束してくださいね」

 警戒心を前面に出して念を押すと、疲れた目元でユーグが薄く笑う。目元の隈の痛々しさが、普段とは違う危うい色気に変わる。ユーグらしい表情に思わず息を吐く。

 ユーグを伴って廊下の奥の部屋に向かう。
 あの日からルナは目を覚ますことなく眠り続けいていた。

 ドアを開けて室内に入ると、淡い薄紅の髪がベッドの上で波打つのが見えた。近づいて見下ろすと、愛らしい寝顔で穏やかな寝息を立てるのが聞こえる。本当に普通に眠っているみたいで、揺すれば目を覚ましそうだった。隣に立ったユーグも、ルナの顔をじっと覗き込む。

「ずっと寝てるんだよね。食事や水分は?」

 その言葉に首を振る。村の女性が何度か起こそうとしてくれたけれど、目を覚ます事はなかったそうだ。

「眠り続けているので、水を含ませた綿で唇を湿らす程度です。食事はとれていません。光属性のお守りが少しだけあったので、魔力の補給はしています」

 ユーグの手がケットの上の、ルナの手首に触れる。額に触れて、唇を確認する。医者の様に手際よくルナの状態を確認すると、首を傾げてからユーグが薄い唇を舌で舐める。

「魔力の補給は、いい対処だよ。今のところ、ルナに人としての異常はなしだ」

 その言葉に安堵の息を吐く。正直ルナの事は分からない事ばかりだから、誰が大丈夫と言っても安心できずにいた。でも、ユーグの言葉なら、同じでも安心できる。

「いつ目を覚ますか、分かります?」

 問いかけると、ユーグがルナの瞼に手を伸ばす。押し上げて開けようとしたので、慌てて掴んで止める。
 
「それダメです! 知り合いに女の子はされたくないです!」

「そう? 眼球の動きが見たかったんだけど、ダメ?」

「ダメです。」

 ユーグが腕を組んで考え込む。二度首を傾げてから、椅子を引き寄せて座る。同じ様に椅子を持ってきて向かいに座ると、ゆっくりとユーグが口を開く。

「最初の状態も見てないから、状態の比較ができない。初めての症状だし、何時かは分からないよ。でも、いつ目を覚ましてもおかしくないと思う。ルナの手紙にも、五日目までには目を覚ますって書いてたしね?」

 今日か明日。明日の昼には奪還作戦の為に、私は王都に戻らなくてはならない。

「質問していた我が家のゲートをルナが使う方法は何かありますか?」

「誓約でいいと思う。君とルナの魔力が僅かでも交じり合うから、ルナもゲートを通る事が出来る筈だ。やり方はしってるよね?」

 ずっと昔、ジルの魔力印に唇で触れた事を思い出して頬が赤くなる。今度はルナにやるのであれば、私も恥ずかしいけど、ルナはもっと恥ずかしいだろう。ルナから見た私は、今も男の子のままだ。

「魔力印にキスですよね……。あれ、どうにかなりませんか? お互い凄く恥ずかしいです」

 私の言葉にユーグが噴き出す。苦しそうに目を細めて、笑いで途切れがちに言葉を繋ぐ。

「それは僕たちが、魔力を扱えなかった子供の頃の話! あれは確かに微妙だった! 今、思い出しても複雑な気分になる! 僕は、次は新しい誓約の結び方を研究しよう!」

「では、今はどうすればいいんです?」

 赤い顔のまま乗り出した私を、楽しそうにユーグが見つめて答える。

「今は魔力を扱える。ルナの魔力印に触れて、魔力印の名を呟く。それから、あの時と同じ言葉を言って、魔力を通す。いいね?」

 その言葉に何度も首を振って、やり方を心の中で復唱する。
 方法は分かったけれども、魔力印の名はルナ自身にしか分からない。だから、ルナが目覚めなければ、この方法は使えない。
 焦りを帯びた私の眼差しに気づいて、ユーグが首を傾げる。

「あのさ。明日は奪還作戦に君は参加するんだよね? 僕らの方に同行するのは諦めた?」
 
 覗き込んだユーグの金の瞳が、少し色合いを変える。心配と悲しみが混じる眼差しに、少しだけ非難するような険が浮かんでいた。

「狡いです。連れてってと言った時は、ダメだと言ったじゃないですか?」

 行きたいと言った時は断られたことを思い出して、思わず頬を膨らませてしまう。

「今もダメだけどね。……ジルを取り返す方が大事になったのかと思ってさ」

 改めて拒否を示しながら、尚も責める様に言ってユーグが私を見つめる。

 ジルを取り返したいと思う。私しか取り返せないと思う。
 でも、アレックス王子の隣に行きたくないわけじゃない。行きたくても行けない。行くべきじゃない。

 頬の空気を長い溜め息に変えて、ユーグの眼差しを見つめ返す。

「殿下の腕の怪我は見ましたか? 左は殿下の利き手です。あと少し魔法の貫通点がずれていたら、腕が動かなくなっていたそうです」

 アレックス王子が傷ついていく瞬間は、時間が止まったようにゆっくりと感じた。
 どうしてと思ったし、やめてと思った。痛くて苦しいのはアレックス王子だったけど、私の心も裂かれる様に苦しくて辛かった。

「私の所為なんです。アレックス殿下は立ってるのも辛い状態で、首元に剣を添わされていた。なのに、私を庇おうと腕を上げたんです。今回は下級魔法でも局所的な魔法だったから、あの程度で済みました。でも、中級魔法や範囲魔法なら腕が吹き飛びます」

 私の無事を見て、アレックス王子は安堵したように微笑んだ。戦いの場で私を隣に置けないと言った意味をはっきり理解した。
 アレックス王子にとって、私は女の子でキャロルだから守るべき存在なのだ。

「アレックス殿下は何度でも私を守ろうとしてくれます」 
 
「……殿下ならするだろうね。馬鹿みたいに真っ直ぐだし、君が愛しくて仕方ないもんね。きっと何度でも無理をする。分っててじゃなくて、彼の場合は無意識にしてしまう」

 少し羨まし気な眼差しで、呆れた様に言いながらユーグが微笑む。私もその言葉に微笑み返す。

 きっと何度も私の為に身を投げ出してくれる。そして、絶対にそれを責めない。ただ、私の無事をみてアレックス王子は微笑むのだろう。
 愛されると言う事はとても難しい。私の存在がアレックス王子の最大の弱みになる。私は守られて初めて、本当の戦いの場での危うさに気づいた。

「アレックス殿下の隣で戦うには、今の私は力不足です。悔しいけど、側に居たら同じ事を繰り返させてしまうかもしれません。だから、今回は同行しません。それに、ジルを迎えに行けるのは、私だけなんです。今の私が出来る事は、王城にいって秘宝とジルを取り返す。これだけです」

 私の言葉に目を閉じて、ユーグが沈黙する。何かを考え続けた後に目を開けると、私の知らない顔をユーグが見せる。

「……ノエルは、ジルが好き?」

 誰かを心配する顔で、ユーグが真剣に私に問いかける。

「はい。私はジルが大好きです!」

 小さく噴き出すとユーグが椅子の背もたれに体を預けた。大きく体を伸ばして、声を抑えて笑う。

「分かったよ。そういう事か。君はジルが本当に大好きなんだね!」

「何ですか? どうして笑うんです?」

「うん。真っ直ぐすぎるんだ。向き合いすぎて、迷うし悩む」

 何が可笑しかったのか答えずに、ユーグは楽しそうに笑い続ける。その眼差しからは険が消えていた。
 私が少し膨れると、笑いながら魔力で空中に文字を描く。

――君は女の子だね。男心がわかってない。

 その言葉の行き先が分からずに首を傾げると、またユーグが笑いだす。苦しそうに笑って、とても満足気に唇をなめる。

 口を尖らせてユーグが笑いを治めるのを待つ。ひとしきり笑った後にユーグが表情を引き締めて、別のものを魔力で空中に描く。

 円の中に飛ぶ蝶。それは、誓約の時に見たジルの魔力印によく似ていた。

「見覚えある?」

「あります。ジルの魔力印にも同じように蝶がありました」

「今、書いたのはラヴェル伯爵家の昔の当主の魔力印なんだ。蝶の印はラヴェルの特徴だよ。やっぱりジルとジルベールは親子なのかもね」

 残念そうにユーグが息を吐く。

 その蝶は確かにジルの胸の魔力印にあった。間違いなくジルがラヴェルの血脈にある証拠だった。

 流線状の模様の上に王冠を頂く蝶。幼い日にうっとりと見た美しい印の記憶が甦る。

「ジルの蝶は綺麗でした。小さいけど王冠を被っていて……」
 
 私の言葉にユーグが驚いた様に目を瞬いて、動きを止める。

「……待って。ジルの蝶は王冠を頂いてたって事? 王冠は王家の血を引く者の中で、王の資質が高い者にだけつく」
 
「それは知ってます。でも、お城で見た光の女神の絵とは王冠の形が違います。魔力の属性も風です」

 私の言葉にユーグが手早く王冠の絵を書く。それは壁画とは違うものだった。

「壁画の王冠と、印の王冠は形が異なる。これが魔力印に出るこの国の王冠の印。これを僕が知ってるのは内緒にしておいてね。また怒られるから!」

 ユーグが書いた魔力の跡をじっと見つめる。似てるけど、少し異なる様にも感じる。最後に見たのは十四歳の時だから、はっきり自信が持てなくて小さく首を振る。

「似てる気もしますが、少し違う気がします。ごめんなさい。私の見落としです」

「王冠の印は、魔力印学でも少し触れる程度だからね。僕がノエルに話した時は、光の女神が持つ『王冠』の有無としてしか言及してなかった。それに、君は王家の絵を見てるから、違うものと認識しても仕方ない」

 ユーグの言葉にはっきりと悟る。
 魔力印学をジルは学生の時に取っていた。だから、ジルは自分の魔力印の意味を知っていた。そして、隠していた。
 印について尋ねた事は何度もある。いつも王冠とラヴェルの事には触れなかった。
 
「ユーグ。同じ王冠なら、この国の王家の血が混じってるんですよね? 形が違っても、他国の王家の血が混ざる事には変わらない」

「そうなるね。ラヴェルに王家の血はないから、母親の血の方だ。ジルの母親は庶民だろう。血脈の歴史のどこかで、王家のお手付きの者がいたか、落胤の子の血が混ざったか……」

 過去の事を話しながら、何度も暗い眼差しになったジルの顔を思い出す。
 貴族の理不尽さをその身に知っているジルは、自分の血に王家の血が混ざっても声をあげない。利用されるのが嫌だから、隠し続けたのだと思う。

 でも、血の持つ可能性と現実に置かれた状況の乖離に、苦しむ事もたくさんあった筈だ。
 小さな可能性を思って羨まずにいられなかった、ジルは橋の上そう言った。

「ノエル。ジルは王家とは属性が違う。印の中心になる意匠も違う。陛下と殿下の間の年齢で、各世代に一人の条件に照らしても判定が難しい。でも、この国の王冠ならば属性も意匠も関係なく、王位を継承する権利を持つことになる」

 ユーグの言葉に小さく頷く。

 夢で貴族のジルを見た。王家に名を連ねるジルの可能性を重ねる。
 出会い方は大きく変わる。良い形か、悪い形か。それは誰にも分からない。でも、身分の隔たりのない出会いになる。
 私と友とお兄さんのようなジル。どんな風だっただろう。みんなで、ジルに憧れたかもしれない。私は幼い恋心をジルに抱いたかもしれない。違う形の可能性はたくさんあるだろう。

 でも、私は私の従者のジルが好きだ。別の形のジルとでは、今の関係は作れなかった。

 ユーグが私の意識を引き戻す為に、軽く手を振る。考えから意識を離して顔を上げと、真剣な眼差しでユーグが私を見つめていた。

「気付いてると思うけど、ジルの存在は危うい。中規模崩落戦や魔法の改善で、彼の魔力を何度か目の当たりにしてきた。魔力量は上位じゃなくて、本当はトップクラスだと思う。王冠の血脈次第では、この国の秘宝を染め変える事も可能だろう。君は彼を必ず取り戻せる?」 
 
 ジルの存在を脅威にするか、助けるべき大切な人にするか。私の答えで決めるとユーグは尋ねてくれている。

 私を見て優しく微笑む大切な人。どんな時に笑って、何を言ったのか、何を求めていたのか。
 あの橋の上の言葉にも、本心は混ざっていたと思う。でも、大丈夫。私はジルを間違えない。

「絶対にジルを取り戻します」

 友達の顔で微笑んで、ユーグが手を差し出す。その顔は少し得意げで、私とユーグのいつかの約束を思い出した。
 手を重ねると、ユーグがしっかりと握りしめる。

「今度は、君の為に僕が手を伸ばす。君はジルをきっと取り戻せる。だから、僕は君を信じて、この件は胸に秘密として抱えておく」

「ありがとう、ユーグ」

 お礼を言うと、満足気に唇を舐めてユーグが立ち上がる。私に向けて、令嬢への一礼を優雅に取る。

「僕は殿下の為に、帰って寝る事にする。初恋の君で、最高の友に誓うよ。明後日は全力で殿下を守って、君の元に必ず届ける」

 ドレスの代わりに、ジャケットの端を少しだけ摘まむ。答えるのは令嬢の一礼。

「ありがとう。最高の友の武運を心から祈ります」

 顔を上げると、少し垂れた切れ長の眼差しが、緩やかな弧を描いた。溢れる様な色気に、久しぶりに頬に朱が上りそうになる。

 そんな私に、一枚の紙をユーグが差し出す。広げれて見れば、ルナに対する質問が書き綴られていた。紙から顔を上げると、もうユーグはドアを開けたところだった。
 艶のある笑顔が私に軽く手を振って、手を振り返すとドアは静かに閉じた。

 椅子に座りこんで目を閉じる。
 耳を澄まして、魔力の動きに意識を向ける。昼間は少し感覚が鈍いけど、ユーグとユーグの従者の魔力を捉える事はできた。馬に乗って駆けていく友の魔力が、遠く離れるまでずっと追い続ける。

 出来る事なら、皆と最後まで側に居たかった。
 でも、今の私は隣に立つ事が出来ない。誰よりも強くならなければ、生死を分ける瞬間にアレックス王子は私を必ず庇ってしまう。
 それは、愛された幸せだけど、悲しい愛の終わり方でもある。

 だから、友にアレックス王子と魔物の王の闘いを託す事を許してください。
 そして、どうかお願いです。必ず勝って下さい。皆で戻ってきて下さい。 

 魔力を見送って、ゆっくりと目を開く。

 そこには、ベッドから身を起こした人影があった。薄紅の瞳を愛らしく細めて、柔らかそうな唇が鈴の鳴るような声を響かせる。

「ノエル様。ユーグ様を止めて下さって、ありがとうございます。瞼を強引に開けられた顔は、流石に見られるのは嫌でした」

 首を傾げて舌を出した笑顔は、ゲームの世界から飛び出したヒロインそのものだった。
 
「ルナ……。起きたのですね? あの、おはようございます?」

「はい。おはようございます」

 ユーグから渡された紙を、とりあえず差し出す。ここにはユーグの知りたい事が書いてある。そして、それは私が知りたい事でもあった。

 紙を開いたルナが、可愛い顔を顰める。

「やっぱりユーグ様がいらっしゃる間は、寝たふりをして正解でした。あの方は探求者として最高だけど、探求対象からすると厄介極まりないです」

「わかります。でも、私もルナの事は知りたいです」

 ルナの顔をじっと見つめて、目覚めたばかりだと思い出す。慌てて水差しからグラスに水を入れて、ルナに差し出す。

「ふふっ、有難うございます。喉は渇いてました」

「お腹は空いてませんか? 痛いところや苦しい所はありませんか?」

「少しだけお腹は空きました。でも今は大丈夫です。ノエル様、落ち着いて座ってください」

 ルナが椅子の方に手を差し出して、私に座る様に促す。小さく息を吐いて、心を落ち着ける。ルナが突然目を覚まして、私は慌ててしまっていた。

「すみません。突然だったので、驚きました」

「目を覚ますのは、何時でも突然です」

 ルナが小さく笑って、小首を傾げる。ルナはユーグが瞼を開けようとしたのが嫌だったと言っていた。ならば、ずっと目を覚ましていて、会話の全てを聞いていた事になる。

「大丈夫です。聞いていた事は誰にも話しません。だから、私の秘密も話さないで下さい」

「貴方が、光の女神の力の欠片だと言う事ですか?」

 困ったような笑顔を浮かべて、ルナが自分の手に視線を落とす。

「正確には、そうだったです。リュウドラが抜け出たのを、ご覧になりましたね? あれが女神の力の最後の欠片です。ルナに交った意識は残りましたが、力はもう消えました」

「交じる……十歳になる前に精霊の子だった『最初のルナ』が『今のルナ』に変わった事ですね?」

 驚いた様に目を瞬いて、少しだけ頬をルナが膨らませる。小さな動作一つ一つが『君にエトワール』のヒロインそのままだった。

「教会に行きましたね! 神官父さんが、驚きませんでしたか? すごく心配性なんです」

「ごめんなさい。大丈夫です。教会の人たちは優しいですね。ちゃんと心配されないように伝えました。皆、ルナの帰りを待っているって言ってました。帰れますか?」

 細めたルナの瞳から、涙が零れ落ちる。引き結んだ唇の口角は少し上がっていた。怒っているのではなく、嬉しさを抑えているのだろう。

「……許されるなら、帰りたいです。前のルナとは違いますが、私も皆が好きなんです。ずっと女神だった時から、人と触れ合ってみたかった。私はその思いから残された女神の欠片だったんです」

 ルナがゆっくりと自分がここにいる理由を語り始めた。

 


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