2018年12月19日水曜日

四章 五十八話 進言と別の想い キャロル16歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 私に向かって真っ直ぐ駆ける姿に、慌てて立ち上がる。悲しさも、愛しさも、溢れると涙に変わって堰を切った。
 伸ばしそうになった手を抱えた私を、ジルがそっと押す。

「ダ、メです……。嫌と、言いました……」
 
 逃げるように俯いた視界に影が映って顔を上げる。瞬きを繰り返す度に落ちる涙に、慌ててアレックス王子が手を伸ばした。

「何があった? ジルも怪我をしているではないか?」

 大きな手が頬を包んで、少し硬い指先が涙を拭う。愛しい人の唇から漏れる浅い呼吸が、私の為に急いで駆けた事を教える。

「アレックス殿下、――」

 唇を噛んで無理矢理飲み込んだ言葉は、側にいたいという願いだった。
 私の事をよく知るジルの優しさが仇になる。何度も何度も息をする度に、せりあがる言葉を飲み込むのは苦しい。

「なぜ、何も言わない?」

 薄暗闇の中で答えを見つけようと私の瞳をアレックス王子が覗き込む。私の影が映る瞳は、言葉にしない事まで探り当ててしまいそうだった。

「……言えない? 正解みたいだけど、どうしてだ?」

 絶えず頬を濡らす涙を何度も拭って、答えられない私からジルに視線を移す。

「ジル、君の怪我は大丈夫か? 中庭の戸を出た所にギデオンがいる侍医の元へ向かうとよい」

「侍医に見て頂く身分ではございません。私がここを離れれば、ギデオン様がいらっしゃいます。愛しい方が泣いているのに、そのような選択で宜しいのですか?」

 冷ややかな言葉に振り向くと、見た事のない深緑の瞳がアレックス王子を見つめていた。見知らぬ表情に、ジルに感じる不安がまた湧き上がる。
 私の頬を撫でながら、ジルの言葉に落ち着いた声でアレックス王子が答える。
  
「身分を理由に治療のできぬ侍医も、助けられる者に手を差し伸べぬ王も不要だと私は思う」

「……治療は結構です。私の怪我は誓約に対する罰ですが、傷は浅いです。ノエル様のお側にいるのが務め、後ろに控えさせて頂きます」

 私の涙を拭う指が止まって、アレックス王子が目を細める。ジルが傷ついている胸から腕を眺めて、私を見ると涙を拭う指がやや強く頬を滑る。

 一滴の涙を、愛しい人の唇が拭う。熱く優しい感触が頬を滑って雫を受ける。
 この身の一滴も漏らさぬ程、愛されたことを忘れないように一瞬目を閉じる。

「ノエル、君の涙の原因はなんだ?」

 耳元で尋ねられた言葉に、頬を包んだ手をゆっくり遠ざける。
 
 今夜は月がない。照らすもののない夜は、側にいなければ互いの顔は見えない。嘘をつくには最適だ。

 大きく吸った息を吐きだすと同時に、漸く私は言葉を発する。

「後悔をしないと決めています。この先もノエルはアレックス殿下の隣におります」

 私の言葉に暗闇で瞳が柔らかく笑う。今は近くにある愛しそうな笑顔が、誰に向けられる事になっても残ればいい。
 その胸を軽く押すようにして大きく一歩下がると、私はゆっくりと跪いて礼を取る。

「臣下として進言させて頂きます。この国の未来の為に聖女様とお会い下さい」

 研究棟の僅かな明かりは表情を照らすには弱く、見上げた私の王の表情は伺えない。

 自分の顔はどんなだろうか。笑ってはいない事は分かる。泣いてもいない事も分かる。
 でも、愛していることを隠せている自信はなくて、暗闇にいる事に安堵する。

「誰に聞いた? ……そうか、ユーグだね」

 私の為に膝を折ろうとするアレックス王子を制止する。

「膝をお着きにならないで下さい! 私は臣下として向き合っております! 魔物の王は強いです。今の力だけでは決して勝てません」

 その言葉にアレックス王子は膝を折るのを止める。表情は伺えないが、その影がまっすぐ私を見降ろすのが分かった。

「君がそれを願い出るのか?」

 掠れるような声が私に問う。

 二つの未来がずっと心にあった。
 聖女のいない未来が一つ。勝機は少なくとも、愛する人と一緒に未来を創ろうと思った。
 アレックス王子が私の一つの未来を牽引した言葉を口にする。

「未来を創ると言った言葉を私は守る。だから、私を信じてほしい」

 異なるもう一つは、聖女が見つかる未来。愛する事を失うけれども、必ず魔物の王を倒せる。

「聖女が見つかった以上、アレックス殿下は王族としての務めを果たされるべきです」

 夏とは思えない冷たい風が、光を失った金の髪を攫う。輝きを失わない瞳は空よりもずっと明るいはずだけれど、夜に隠されて私には届かない。

「……まだ時間はある。決して離したくないんだ」

 私に向けられた言葉に頷けば、アレックス王子も友も最大の努力をしてくれるだろう。その選択は聖女に頼らない新しい未来を創るかもしれない。だけど、それは一体いつで、勝算はあるのか。
 聖女とアレックス王子が愛し合う方が確実にこの国を救える。

「私とジルは魔物の王の欠片と対峙しました。上位魔力を持つ二人がかりでも、苦戦したんです。本来の力は、想像を超える強さが予測されます」
  
「騎士団も含め二人を超える強者もいる。騎士団の配備はもちろん、騎士団以外の貴族の体制も今進めている」

 その言葉に私はゆっくりと頭を振る。臣下としての自分が嫌いになる程、返すべき答を選ぶ私は冷静だった。 

「私は国政管理室長を経て、宰相として貴方の隣に立つと決めています。未熟とはいえ戦況の判断はつきます。いつ、どこに現れるか分からない魔物の王に、民を守りながら対処すれば強者の分散は避けられません。足りないぐらいです」

 目の前に落ちた、アレックス王子の拳が僅かに揺れて握りしめるのが分かった。私の為に拒んでくれているだけで、本当はアレックス王子も状況は理解できているのだ。

「その為の戦略だ。まだ、時間は残されている」

「時間は残されているとシュレッサーから報告されていますが、いつまで許されるかは分かりません。それに、祈りの条件を満たすには……アレックス殿下にも聖女にも時間が必要です」

 最後の言葉を言った瞬間、その言葉の意味に冷静だった感情が荒れる。

 私を忘れて、聖女を愛してください。

 静寂に包まれた中庭に責めるような風が吹く。
 本心とは別の言葉に、見えない闇の中で互いの視線が混じりあう。浅い吐息が聞こえて、先に静寂を破ったのはアレックス王子の苦し気な声だった。 

「想いは、簡単に変えられるものではない」

「だから、時間が足りません。助けられる者に手を差し伸べぬ王は不要と、貴方は先程おっしゃいました。最善の道を拒むなら、それ以上の道を今、示してください」

 僅かに風が凪いで、髪を攫うのをやめた。

 厳しい言葉を言い切った私の顔は、きっと見せられない程泣きそうだった。
 それでも、今選べるのはこれしかない。守りたい人がたくさんいる。何よりアレックス王子はルナの言葉通りになるなら、魔物の王と対峙する。愛されなくてもいいから、勝って生きていて欲しかった。

「君は私に王になる事を望むか?」

 感情を押し殺した声音が私に問う。選ばなくてはいけない時に正確な判断ができる聡明な方だと思う。それが嬉しくて悲しい。

「はい。アレックス殿下は私の王です。救える多くの命の中に、殿下のご家族も、友の家族も、私の家族も、大切な者がたくさん含まれています。救ってください」

 あの日と同じ場所で互いの立場を決断をした今日を、いつか笑って話せる日はくるのだろうか。
 
「臣下の進言を受け入れる。今は他に道がない以上、私は責任を果たす努力をする」

 感情を抑えているのが分かる声に胸が痛む。返す私も苦しませない声を出したいたいと思うのに声が震えた。

「感謝いたします。お呼びだてして申し訳ございませんでした。私はこれで下がります」

 顔を見ずに立ち上がって踵を返した私の手を、アレックス王子の手が掴んだ。
 私の指先が冷たいのは耐えるために拳を握っていたせいだ。同じ温度のアレックス王子の指先はやはり耐える為に拳を握っていたからだろう。

「ノエル……」

 求めるような呟きの先をアレックス王子が飲み込んだ。振り向けば、きっとその腕は抱きしめてくれる。
 でも、一時の幸せを互いに許せば、未来にきっと後悔する。
 同じ思いを抱いているから、その先の言葉を出す事が相手を苦しめるとお互いが分かっていた。

 互いの指先が離れる。これ以外の選択は私たちにはなかった。

「ノエル様」

 踏み出した私の前に止めるようにジルが進み出る。
 ジルは私に甘い。辛い経験が、私以外を切り捨てさせたのだと思う。でも、守ろうとしている私にはそれが許せなかった。
 
「ジル、発言を許可しません。帰ります」

 命じた声は思った以上に冷たくなった。そのまま、振り返ることなく私は立ち去る。

 はじまりの場所で初恋が終わる。
 最後に唇が涙を拭った目元に触れると、新しい涙がまた落ちた。

 愛してます。だから、叶わなくても愛し続けてもいいですか? 

 声にしなかった言葉を何度も胸で繰り返した。


 その翌日から、私は学園を休んだ。顔を合わせて泣かない自信がなかったから仮病だ。

 二日目の夕刻に、父上の計らいでお抱えの医師が私を診た。ユーグ達シュレッサーの報告書が中央に届いたのだろう。仕事が早いなと感心する。

「帰郷風邪ですね。一週間はお休み致しましょう」

 泣き過ぎて腫れた顔を見て、熱はないのに夏に流行りやすい風邪と診察された。堂々とお休みする理由が私につけられる。

 四日目の晩、天蓋に浮かぶ風鞠を横になって眺めていた私の所に父上がようやく来た。

「体調はどうだい?」

「まあまあです」
 
 枕元に置かれたのはアングラードの直轄地の資料だった。

「暫く周れてない領地を見てきて欲しいんだ。多分三ヶ月ぐらかかるから、このまま帰郷の季節に入ってもらうのがいいだろう」

「引き受けます……。たまには王都の外も楽しいです」

 ワンデリア以外の遠方の領地に行くのは、随分久しぶりだ。
 アングラードの領地は比較的経営も順調で、問題を抱える場所はない。だから、わざわざ学園を休んでまで巡る必要なんて本来はなかった。
 父上が泣き腫らした私の頬を悲し気に見つめて優しく撫でる。

「ごめんね。体調が治って、ジルと仲直りしてからでいいよ」

 言葉少なく静かに父上が部屋を出ていく。
 領地巡りの真意は、私とアレックス王子を引き離す事なのだろう。
 報告書が届いたと思われる日から二日、国政の中心にいる父上は私と同じ判断を下した。
 ずっと止まらなかった涙が初めて止まる。私がこれからできる事はなんだろう。漸く私は失った先を思う。
 

 スカートを翻してカーテンを開ける後ろ姿を見つめる。お休みを始めてから、私を朝起こすのも身の回りの世話もマリーゼが担当している。
 寝るか、本を読んでるか、泣くかで外に出ないなら、私の世話はジルじゃなくても許される。鈍った体を大きく伸ばして体を起こす。

「おはようございます、お坊ちゃま。今日は如何ですか?」

 マリーゼが私の側で、額に手をあてて尋ねる。安堵した笑顔は私の頬が今朝は濡れていないからだ。

「もう、平気です。領地周遊の話は父上から聞いてますよね?準備をお願いします。それから、ジルはどうしてますか?」

 意に添わぬ行動の処罰として、ジルはあの日から午前はモーリスおじい様の所への鍛え直しに出て、午後は暇を取らせている。

「準備はおまかせ下さい。そろそろ許してあげては如何ですか?」

「マリーゼにお世話を頼むのは、お仕事の邪魔ですか?」

 上目遣いに尋ねれば、首を振ってマリーゼが答えてくれる。

「いいえ。マリーゼは大歓迎です。ジルにお坊ちゃまを返したくないくらいです! でも、怪我をして帰って、お役目を外され続ければ屋敷の中でジルの立場がなくなります」

 ジルは出会ったばかりの頃は、仲間と居場所の為に復讐を思い留まれたと言った。でも、あの日のジルは私以外の誰かの事を一切考えていなかった。
 それが一時の憤りの所為なのか、ずっと前からそうなのか。何時から、どうしてなのか。増えていくはずだったジルの居場所が、私だけになってしまった。

「マリーゼは、ジルが好きですか?」

 私の言葉に畳んでいたケットをマリーゼが取り落とす。その顔が真っ赤になっていて、知らなかった事実に驚かされる。

「マリーゼ! ジルが好きなんですか?」

「ち、違います! あまりに突然で驚いただけです!!」

「でも、顔が赤いです!」

 必死に否定する為に振っていた手をマリーゼが頬に当てる。それから、大きくため息をついて、困ったように笑う。

「ジルとは周囲から揶揄われる事が多いので、赤くなってしまったんです。とても素敵な人だとは思いますよ。でも、ノエル様のお世話を共にしてきた信頼できる同僚です!」
 
 マリーゼやクレイや他の使用人、私の家族、それに私の知らない友達。たくさんの繋がりが今のジルにはあるのに、どうして見えてないんだろう。
 
「元の友達と会えて楽しそうにしてませんか?」

 今の罰は、私から離れて元の居場所に行く事で以前の友達や居場所に目を向けてもらう為だ。マリーゼから返ってきた言葉は期待とは違った。

「全然ですね。可哀そうなぐらい寂しそうです。クレイにも暗いと弄られてますが、言い返さないで余計暗くなってます。目的があるのでしたら、ジルにはお話しされた方が良いかと存じます」

 赤い風鞠をそっと引き寄せる。バザールでアレックス王子に買ってもらってから、ずっとベッドの天蓋を楽しそうに浮いていた。

「ジルは優しいです。でも、私にだけ優しいんです。お話しするのは簡単だけど、ジルが自分で気づかないとダメだと思います」

 風鞠は今日は半分しか浮いていない。いつか地に落ちてしまうとしたら、とても悲しい。

「風鞠の魔法の補給はジルがしておりました。教えられて気付く事も多いと思います。」

 風鞠に触れる私にマリーゼが微笑んで教えてくれる。

「気付きませんでした。変わらずに浮いていたから」

「従者は主の空気だと以前、クレイがジルに教えていました。そっと心地よく過ごしてもらうそうです。たくさんの優しさは、一つの間違えも自分で気づかなくてはなりませんか?」

 毎日ベッドの天蓋で目覚めた私の心を躍らせてくれた風鞠。当たり前の私の空気は、何一つ気づかなくてもずっと居心地が良かった。

「マリーゼ、朝食が終わったら、別邸の中庭で鍛錬をします。ジルに来るように伝えて下さい」

 優しい笑顔を浮かべてマリーゼがスカートの両端を摘んで礼をとる。
 マリーゼのジルへの優しさ、ジルの私への優しさ。どれも一方通行なら、あの日のようにジルは私の為に不幸を選ぶと思う。だから、気づかないなら伝えるべきなのだと漸く思えた。


 朝食を終えて別邸の中庭に着いた時には、もうジルが来ていた。私に向かっていつも通りの笑顔で従者の礼をとる。

「先日は、申し訳ございませんでした。クレイにも叱責を受けました。私はノエル様との境界が甘いと」

「クレイの方が甘いと思います。父上に暴言を吐きすぎです」

 私の言葉に苦笑いを浮かべてから、ジルが首を振る。

「クレイはよく心得ております。誰かに仕えるなら、沈黙も必要と言われました。それが理解出来ないのなら、アングラード当主の従者は務まらないそうです」

 確かに、父上の決断に沿わない事はクレイは絶対にしない。
 でも、心得るまで熾烈な言葉で父上に異を唱える若いクレイは簡単に想像ができた。

「クレイは今、満足だと言っていますか?」

「旦那様の決断が理解出来なくても、結果を見届けるのが楽しみだそうです。見習わなくてはいけませんね」

 クレイはジルを可愛がってる。時折、ジルの物言いがクレイに似てきてるから、ジルもクレイを慕ってるのだと思う。
 
 ジルは自分の選択がマリーゼもクレイも友達も不幸にする事だと分かっていたのか。

 ジルに騎士の剣を渡して、いつも通り二本の剣を抜く。ジルもまた抜いて真っ直ぐに構えた。

「クレイの意見も貴重ですが。ジルに一番気づいて欲しい事は別です。今日、私に一筋でも傷を付けられたなら従者へ復帰です。でも私が無傷なら役目を降りてもらいます」

 驚いた様に目を見開いたジルに、言葉と同時に踏み込む。振り払った剣をジルが容易く受け止める。弾くと同時の二撃目も、僅かに剣をずらして簡単に止められた。
 三撃、四撃と重ねるように打てば、全て受け止めて返される。

「私はジルから奪う側になりたくありません」

 重ねた刃が拮抗する向うで、穏やかな笑顔のままジルが目を細める。
 ジルは騎士団の力強い剣筋の他に、柔らかい変わった剣筋を使う。柔らかい剣筋なら私より全然強く、勝とうと思えばいつでも勝てる筈だ。

「……貴方がいらっしゃれば、それで構わないと申し上げました。ですから、貴方が奪う側にはなりません」

「それでは、マリーゼやクレイやお友達を失っても、ジルは私が笑っていれば満足ですか?」

 離れると同時に横に払った剣をジルが身を逸らして躱す。
 追うように振い続ける二本の剣を、ゆっくりと後ずさりながら無理なくジルは避けた。余裕のある笑顔が、ためらいもなく答える。

「満足です。貴方が笑ってる事が一番大事です」
  
「悲しくないのですか?」

 躱せない角度で切り上げた剣をしっかりと受け止めると、ジルが小さくため息を落とした。

「悲しくないと言えば嘘になります……先日の件なら、心よりお詫びします。貴方まで何かを取り上げられると思ったら、後先考えずに動いておりました。私が求めた結果で、貴方が大切な者を多くを失って苦しむまで至れませんでした」

 そう言って、初めてジルが剣を跳ね返して私に切り込んでくる。それを今度は二本の剣で絡めるように止める。丁度いい重さの剣撃は、手加減している証拠だった。

「違います! 失うのは私だけじゃないです!」

「……私には、貴方が全てで結構です。他のものまで守りきる自信はないんです」

 力づくで剣を押し返されてよろめく。隙があるのにジルが打ち込むことはない。
 体勢を立て直した私の方また先に仕掛ける。

「それてば、ダメです! 諦めずに、私以外の誰かを失う事も嫌だって思って欲しいんです!」

 本気で倒すつもり振るうのは、ジルにも真剣になって欲しいからだ。

 ジルが大切に握った手の中には私しかいない。
 たくさん失って守る事に臆病だから、ただ一人の家族だから失わない事に必死だから。
 大切な者はたくさんできた筈なのに、全部零してその手は私だけを守ろうとしてる。

「前に言いました! ジルはジルの幸せも掴まなきゃって!! ちゃんと手を開いて、掴めるだけ掴んでださい!」

 格段に鋭く撃ち込まれる剣撃に手が痺れる。僅かに厳しくなったジルの攻めをぎりぎりで躱す。簡単につく勝負に決着がつかないのは、ジルが傷つける事を嫌がって確実な一撃を緩めるせいだ。

「ノエル様は優しいけど、残酷ですね」

「ジルは臆病で残酷です! 私の為に何かを犠牲にする関係は嫌です!」

 何か一つに傷をつけないとしたら、その他全てを犠牲にすることになる。
 それは傷つかない何かが、間接的に何もかもを奪うのと一緒だ。ジルと私の関係がそんな風になるのは嫌だ。

 踏み込んで突き出した剣は簡単に絡めて、高い音を立てて弾き飛ばされた。ジルが決まりかけた勝負にため息をつく。

「……勝ったら一つ、お願いをしても宜しいでしょうか?」

「どうぞ! 私にちやんと傷を付けられるなら」

 傷をつけて欲しいと思う。
 私に傷をつけて、他の大事な者を守る事を躊躇わないきっかけになればいい。私だけの拳を開いて、大事な者をたくさん一緒に乗せて、自分の幸せを守る為の判断を誤らない機会になって欲しい。

 目の前に迫る切っ先を躱して避ける。

「失礼いたします」

 目の前でジルの姿が突然消えたと思った途端、足が払われた。倒れ込んだ私の手の上に、小さな針のような痛みが走る。

「私の勝ちでございます」

 手の甲に突き立てるように剣先が当たって、僅かに血が滲んでいた。想像よりも小さな傷は何かを変えるきっかけになるだろうか。
 見上げても、柔らかい太陽を背にしたジルの表情は伺えなかった。

「負けました。私が傷つくのを怖がらないで下さい。少しぐらいで私は失いません。私にジルから奪わせないで下さい。ジルは家族だから、たくさん幸せでいて欲しいんです」

 剣が離れると、ジルが私の側に膝を着いて血の流れる手をゆっくり取る。涼し気な眼差しが私を見つめる。

「縋る気持ちはないと言ったのに、貴方に縋っておりました。間違える程、貴方が大切なんです」

 側にいすぎるのと、控えめな人だから意識しない事が多い。でも、こうして間近て見ると本当に綺麗な顔立ちだと思う。
 こんなに綺麗で優秀なのに、悲しい理不尽ばかり抱えてたくさん失ってしまった人。大切にされる私には何ができるのだろうか。
 琥珀の髪に空いた手を伸ばして、子供にするように頭を撫でる。 
 
「ジルの事は私も大切です。失わせないと私はジルに約束しました。だから、ジルは私にたくさん幸せになるって約束をしてください」

 薄い唇が私の手の甲の血を拭う。伏せた眼差しから流される視線に、紺碧の眼差しが被る。愛しげに熱をはらむ眼差しは、アレックス王子が私に向けるのと同じだった。
 傷から唇が離れると垣間見せた熱が幻だった様に、いつも通りの優しい笑顔をジルが私に向ける。
 
「ノエル様。従者に戻るのとは別に、お願い一つ聞いて頂けるのでしたね?」

 弾かれる様に我に返った私に、悪戯するようにジルが人差し指を一つ立てて見せる。
 変わらない様子にその人差指を捕まえると、安堵して笑って答える。

「はい。お約束です。何でもどうぞ」

「では、一度だけ頬に口づけても宜しいでしょうか? 家族が挨拶するように」

 直前の熱のある眼差しを思い出して、戸惑いながら頷く。

 ジルは家族で眼差しは幻、そう言い聞かせる私の髪に手が伸びた。何度も私を慰めてきた細くて長い指が、私の髪をそっとかき上げる。
 涼し気な瞳が優しく私を見つめる。私にしか向けない明るいオリーブ色の眼差がある事をずっと前から知っていた。その特別な眼差しが抱いた想いに、どうして私は気づかないでいられたのだろう。

「貴方が愛しいです。従者として、家族として」

 小さな風が頬を撫でるように、冷たい薄い唇が触れる。寄せられた肩には変わらない陽だまりの香りがした。何時から向けられた気持ちだったのか。陽だまりの香りが私を抱きしめて守った回数を数える。

 冷たい唇が頬から離れて、ジルの唇から漏れる息が頬をくすぐる。

「……もっと多くに目を向けなければ、幸せを逃し続けてしまいますね。ノエル様にはいつも大切な事を気づかされます。有難うございました」

 従者として。家族として。ジルにはそれ以上に私との繋がりを求められる言葉はない。
 私はジルが大好きだけど同じ思いは返せない。私が同じ眼差しを向けるのはたった一人だった。

 他の方を愛しているのを隣で見る辛さを知っていますか? 

 誰よりもジルを傷つけていたのは私で、傷つけるのも私だ。

「ジル……ありがとうございます。でも、いつも、ごめんなさい」

 私の言葉に、不思議そうにジルが首を傾げて目を瞬く。その瞳にもう特別な熱はない。

 想いに返すことが出来ないのなら、気づかない振りを続ける方が幸せなのか。
 気付いたことを告げて、別の道を歩く方が幸せなのか。
  
「では、今日からまた私の従者に戻って側にいて下さい」

 私だけをその手に握りしめるジルは、私にその思いを決して告げない。私との居場所を失わないためだ。
 ノエルとしてアレックス王子の隣に臣下としての居場所を求める私と同じ。叶わなくとも側にいたい。

 失わせないと約束し、同じ思いを抱えた私には変わらない事しか選べなかった。



 それからすぐに私は父上の指示通り、王都を出て領地を巡る事になった。
 準備期間にジルは一日暇を願った。モーリスおじい様の所で途中になっていた用事を片付ける為だ。珍しい願い出が、幸せになって欲しいという言葉への前向きな一歩なら嬉しいと思う。

 領地巡りは遠く離れた土地を転々とするから、連絡は伝達魔法になる。行く先で王都をの友から便りが届く。 

「ノエル、大丈夫か? 戻ったら久しぶりに剣を合わせよう」

「大丈夫です。領地巡りがまだまだです。帰ったら遊びに行きますね」

 クロードの声でダーラが告げる言葉には、一番最初に訪れた南の領地の麦畑で返信をした。
 
「まだ、帰って来ないの? 返ってきたら連絡して。新しい魔法弾を試してあげるよ」

「遠慮します。魔法弾の実験には危険だから付き合いません。結果のレポートだけ楽しみにしてます」

 ユーグの声でフージュが告げる言葉は、南西の領地で子供たちに囲まれて聞いた。

 領地から領地を巡る馬車の旅は、移動ばかりが続く。真面目なジルですら従者台で目を閉じて居眠りをしている事がある

「戻ってきたら、連絡しろ。貴様に聞きたいことがある」

「まだ、帰れません。ディエリは私がいないと動けないお子様ですか?」

「二度と返ってくるな」

 ディエリの声でバウルが連絡をしてきたときは北への移動中だ。長い移動に飽きていたので揶揄うような言葉を送った。

「ノエルー。元気? 僕、元気だよ! 最近新しい結界魔法を覚えたよ。叔父様は所在不明。もう少し頑張るね」

「元気ですよ。北に来ると景色がとても綺麗です。ドニ、無理はしないで下さいね」

 ドニの声が連絡を告げたのは蝶だった。ラヴェル家は蝶を使う人が多いらしい。ジルの蝶は踊り子の母が好きだったから選んだそうだ。

「体調はいかがですか? アレックスとコーエンに来ております。私は帰郷の季節の終わりに一足先に戻る予定です。戻ったらお茶を致しましょう」

「私は帰郷の季節の終わりには帰れなそうです。カミュ様、帰ったら連絡しますね」

 少し小さなハルシアが連絡をくれた時には東の領地に来ていた。
 カミュ様より一回り大きなハルシアは私の元に訪れない。私のツーガルも遠いコーエンにいる忘れられない人の元を訪れる事はなかった。

 時折北の空を見つめて思う。

 貴方は何をしていますか? もう心は誰かのものですか?
 さよならを告げた私は、変わらず貴方を愛しています。




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