2018年12月19日水曜日

四章 七十話 確執と人質交換 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 指定された時刻に離宮につくと、出入口を物々しい騎士が守っていた。

「アングラード侯爵代行のノエルです。ラ・ファイエット大公家のカミュ様の命令で参じました」

 騎士にカミュ様からの書状を渡す。厳しい確認の後、一礼した騎士が漸くドアが開く。普段とは違う状況が、今が日常から遠い事を突きつける。

 エントランスホールに入ると、国政管理室の副室長さんが来ていた。私に気づいて真っすぐに駆け寄ってくる。

「ノエル君! 伝達魔法が今朝届いた! 王城陥落で、こちらに移動してしまったんだ。対応できず、すまなかった。無事でよかったよ」

 眉を下げて私の両手を掴むと、上下に振って謝罪し始める。激しい謝罪に、思わず苦笑いが浮かぶ。

「大丈夫です。不思議な事態のお陰で窮地を脱せました」

「リュウドラだな! ワンデリアの各地から報告が上がってる。一体、あれは何なんだろうね。シュレッサーが、嬉々として調べてるけど情報なしだ。魔物は中でどうなっているのか、いつまで続くのか」

 驚きに思わず目を瞬く。広大なワンデリアの各地で、小さなリュウドラが見えるなんてあり得ない。ルナの魔法は、私たちの魔法と異なるのだと思う。
 シュレッサーでも短時間で答えを導くのは難しいだろう。今の段階で魔法の内容を知るのは、ルナの手紙を読んだ私だけだ。

「それにね。ヴァイツも帰還の途中で、こちらの大崩落に気づいたみたいなんだよね。歩みを止めて様子を窺っている。本当に、次の手に難儀してるんだ!」

 副室長さんに相槌を打ちながら、ジルの手に手紙を滑りこませる。目顔でカミュ様に届ける様に指示を出す。

 ルナの手紙に書かれた内容をどうするかには迷いがあった。手紙を公開すれば、魔法を使ったのがルナと知られる。異質な力は、きっと光の女神に繋がってしまうだろう。

「副室長さんはワンデリアの状況をどう考えますか?」
 
 私の問いかけに副室長さんが顎を撫でて、複雑そうな表情を浮かべる。

「神の加護、と兵の中では話題になってるね。個人的には苦手だ。不思議って言葉は、理解できないとか、根拠がないのと同義だと私は思う。そんなの怖くて利用できないよ」

 信じられないモノを、受け入れない者は多い。じいじが言った言葉と、副室長さんの立場は近い。ルナの正体を明かさずに、私が手紙の内容を伝えてもきっと受け入れられない。でも、情報は次の一手に出来るだけ早く必要だった。

「光の女神が現れるかもしれませんよ? 副室長さんなら、どうします?」

「美味しく利用させてもらう! 聖女より効果が見込めるだろう!」

 ルナをルナのままで居させてあげたい。ルナのが帰りたいと願う場所。ルナの帰りを待つ人たちの場所。そこに帰してあげたい。そんな思いが私の中にはある。
 目の前で力を見たのに、私の中のルナは光の女神じゃない。ドニの大切な人で、私と同じ様に運命に抗おうとした女の子だった。

 小さくため息をつくと、副室長さんが思い出したように手を打つ。

「そうそう。おじさんから一つ報告だ。バスティア公爵、ヴァセラン侯爵子息は無事に各領を守り切ったよ。本人たちも無事だ。ラヴェル伯爵の天使も陥落前に城を出ていて無事。シュレッサー伯爵の次男は、ワンデリアで不思議にのめり込んでぶっ倒れそうだ!」

 その言葉に思わず頬が緩む。それぞれ役目があるから、個人的な安否の連絡は控えざる得ない。信じてたけど、ずっと心配でもあった。ユーグ以外は、もう心配いらない。

「ありがとうございます。分かって嬉しいです!」
 
「うん。じゃあ、これで色々な事を許してね! 今は王城担当の私が王都で、ワンデリアには中堅くんがいるからね」

 副室長さんの笑顔をまじまじと見つめて、昨日の事に思いを馳せる。

 謁見室でのやり取りには、随所に違和感があった。
 いつも一番に資料を欲しがるのに、取りに来ると言った。文字が美しいベテランさんが、ベッケル宰相に乱筆と嘘をついた。父上の暴言を止める側の、中堅さんには珍しい失言と退席。
 一つ一つは取るに足らない事だけど、重なるなら意図がある。

「副室長さん。中堅さんは、王城から撤退したんですね。いつから気付いて、何処まで手を打ってるんですか?」

 争う事は力と力のぶつかり合いだけじゃない。知識と知恵を持つ人たちは、先を読み合って潰しあう。
 興味深そうに目を細めると、副室長さんが楽しそうに私の髪をぐちゃぐちゃにし始める。

「ノエル君は敏いなー。卒業したら必ず国政管理室だね。広場で騒ぎがあったんだろう? その辺りから、皆で予防線を張り始めたらしいよ。宰相相手で分散が精一杯だったようだが、カミュ様と室員の半分は囚われずに済んだ。全員失ったら、人手不足は免れなかったからね。及第点かな」

 感覚を大事にしろ、と前に言っていた。言葉通りに最速で対処してると思う。これを及第点というなら、彼らの水準はとても高い。同じ水準に立ちたいと思う私は、国政管理室の仕事に惹かれている。

 副室長さんが、階段の上を見上げて一礼する。同じ様に見上げると、カミュ様がこちらに向かって下りてくる所だった。私もゆっくりと一礼して迎える。

「お二人ともご足労頂き、有難うございました。執務室にてお話いたしましょう」

 顔を上げると、黒い瞳と視線が重なる。

「ノエルとは友としてお話したい事がございます。副室長殿は先に行って頂けますか?」

 副室長さんが踵を返して、一足先に廊下を進み始める。その背が遠くなったのを確認して、カミュ様が護衛や従者に少し離れる様に指示を出した。全員と距離をとると、ゆっくりと歩きながらカミュ様が声を潜めて話し始めた。

「お手紙を読ませて頂きましました」

 私はジルに二通の手紙を託していた。一つはルナが私に渡した手紙。もう一つは私が書いた手紙で、私に関わること以外の領地で起きた事と、ルナの対処を相談する内容になっていた。

「私だけでは抱えきれませんでした。すみません」

 私の謝罪に、カミュ様が穏やかな笑顔を零す。私の髪に手を伸ばして、副室長さんが乱した髪を優雅な手つきで丁寧に直してくれる。

「友に頼るのに、謝罪は不要ですよ。私はルナには憤りを覚えた事もありました。でも、彼女なりに戦っていたと今は理解しております。ノエルの考えた通り、公表すればルナは光の女神になる。せっかく帰ってきたのに、帰りたい場所には戻れないでしょう。それでは、悲しいと私も思います」

 憂いを浮かべた眼差しの目元は、私と同じ色をしていた。国にとって大事な事は、私達も理解している。でも、大切な人を失う事の、苦しさや悔しさも経験したばかりだった。

「ドニはルナを待ってます。ルナのいた教会の神官様も子供達も待ってます。帰してあげたいです。ダメですか?」

 優しい顔で、ゆっくりとカミュ様が頭を振る。

「私は光の女神は不要だと思います。泉にその身を変えた時点で、この世界は私達に託された。その名を利用しても、その身と力に頼ってはいけない気がします。この件ですが、シーナに生き写しの私なら、ルナを隠して表に出す事が出来ます」

 繊細で優美なカミュ様の横顔を見つめる。黒い髪と黒い瞳は傍流であっても、必ず王位継承権の三位を与えられる。それは王家にとってシーナが特別な存在で、彼女の姿を継ぐ者に預言者の期待を寄せる為だ。
 
「カミュ様が、再び辛い思いをされませんか?」

 過度な期待が幼いカミュ様から言葉を奪った。預言者への期待をカミュ様が使えば、その瞬間から幼少の時と同じものが再び向けられる。
 
 私の心配に、カミュ様がいつもの様に小首を傾げた。見上げた顔には不安や悲壮感はない。

「誰かに利用されるつもりはありません。今度は、私がこの容姿を利用させて頂きます。母上と陛下と国政管理室の副室長殿にのみ、光の女神から夢で言葉を賜った伝えます。私の書く絵図は、如何でしょうか?」
 
 名の上がった三人の考えの行方を想像する。三人だけの情報は、誰にとって利益があるか、どんな影響を及ぼし合うか。

 母であるアニエス様は、カミュ様の流出を嫌う。陛下は、王城陥落の悪報を払拭する何かを望む。副室長さんは不思議に預言者の言葉という根拠を見出す。国益に最善な利用を画策するだろう。
 私の頭の中で、三人の利益が一致する絵図が生まれた。

「この国はとても不安定な状況です。カミュ様が預言者であるより、陛下が光の女神に選ばれた方がきっと価値があります。国政管理室は、物語の作り手としても優秀だと思いますよ」

 カミュ様の顔に、珍しく大人の狡さが浮かんだ。私の顔には、いつも通りの小賢しさが浮かぶ。
 人は成長する。そして強くなる。優し過ぎて傷ついた少年は、身を守る知恵をもう手に入れていた。

 執務室にカミュ様と入室すると、先に着いていた副室長さんがお茶を啜っていた。カミュ様を見て慌てて美しいカップを降ろす。

「お話は終わりましたか?」

 席に着きながら、副室長さんに待たせた事を謝罪する。

「すみません。副室長さんも忙しいのに、お待たせしました」

「気にする事はない。こんな時だから、親しい人と話したい事もあるだろう。ノエル君が少しでも笑顔になるなら、良かった」

 副室長さんが、優しく答えてくれる。私の横でカミュ様が、何とも言えない表情を浮かべた。

「国政管理室は、ノエルには随分と優しいのですね」

 罰が悪そうな表情になって、副室長さんが肩を竦める。
 そういえば、カミュ様と国政管理室の間で、ディアナの対応について厳しいやり取りがあった事を思い出す。私にとっては陽気で明るい人達だが、仕事上の評価は容赦がない冷たい人の方が優勢だった。

「さて? 何と比べてご判断されたのでしょうか? 我々は最善を選んでいるだけです。ノエル君に対して優しい事もありますが、厳しい事を選ぶ事もございますよ。さあ、ここからは無駄なく先に勧めましょう」

 呆れたような溜め息を漏らして、カミュ様が席に着く。従者が温かいお茶を入れる傍らで、今日の本題が話し始められた。

「まず、ノエル君。敏い君なら気づいている事もあると思うが、ここまでの事を話しておくね。王城陥落でジルベールを手引きしたのはベッケル宰相だ。陥落まで半刻。非常に短時間だったのは、城内の結界が書き換えられた所為だ」

 ベッケル宰相は術管院の出身だから、城内の結界の書き換えも可能だ。普段、張られている結界は、外からの攻撃に対する防御と城内での伝達魔法以外の魔法の使用禁止。
 少数とはいえ、精鋭の近衛騎士を倒すならどうするか。

「魔法の使用禁止を解除したんですね? 他のやり方もありますが、多分それが近衛には一番効果がある。近衛は城内を熟知しているからこそ、絶対に魔法での戦いを選択しない。初撃で相当の被害が出たでしょう……」

 肯定の頷きを返して、副室長さんが再び口を開く。

「陥落後、すぐに謀反者から取引が持ちかけられた。一つは、怪我を負った近衛の身柄とベッケル宰相子息ファビオの身柄の交換。もう一つは、カミュ様が持つ秘宝と殿下の身柄の交換だ。次の段階の為にも早い成立が好ましい。今日の夜、取引決行で合意した」

 次の段階。それはアレックス王子を取り返した上で、王城と秘宝を奪還し、秘宝を持って魔物の王と対峙する事を指す。国政管理室はまだ知らないが、ルナの魔法が魔物を抑える期間は残り四日だ。

 ここまでの話の理解を確認する様に、副室長さんが私の顔をじっと見つめる。気になる事はあるが、今はその視線に大きく頷いて続きを促す。

「この取引で謀反者は、アングラード侯爵子息が立ちあう事を求めた。君に心当たりはあるかな?」

「私自身にはありません」

 ベッケル宰相とは挨拶程度の付き合いしかなく、ジルベールに限っては会った事すらない。

「うん。やはり室長に対する意趣返しの可能性が高いと思う。でも、来てもらえるね?」

「はい。是非、私も手伝わせて下さい」

 私の言葉を遮る様に、カミュ様が片手を上げた。いつにない厳しい眼差しを副室長さんに向ける。

「副室長殿。約束が違います。危険がある事を説明し、断る事が許されると伝えるようにお願いした筈です」

 受けた副室長さんの目に冷たい光が宿る。

「お願いは、確約ではありません。それに最善ではない。この取引は必ず成功させます。謀反者の指示には、極力添うべきでしょう」

 取り付く島もない回答に、カミュ様の護衛騎士と従者が副室長に敵意のこもった眼差しを向ける。その気配をカミュ様が手で制して、黒曜の瞳で私を見つめた。

「私はノエルが行く事に反対します」

 カミュ様の言葉に、思わず椅子から立ち上がって答える。

「イヤです! 私は行きます。副室長さんの判断は最善だと私も思います。それに、私はアレックス殿下を助けたいんです」

 友として私の身を案じてくれているのは有難い。でも、私を指名したなら、それに理由が必ずある筈だ。ならば、私が行く事はアレックス王子の奪還に確実に繋がる。危険があっても、残る選択を選ぶつもりはない。

「アレックスは、貴方が危険に陥る事を望みません。私は一番アレックスと付き合いが長い。誰よりもあれの想いを知ってます。待つという選択肢も一考して下さい。アレックスが魔物の王の討伐から、貴方を外した意味と願いを貴方は知っている筈です」

 背中を冷たいものが滑り落ちた。カミュ様は、私が女の子だと気付いているのだろうか。言葉が私とアレックス王子が想い合うのを知っていて、諭している様に聞こえた。
 
 でも、机の上に着いた手を握りしめる。

「……ダメです。私は行きます!」
 
 私が狙われたら心が乱れると、アレックス王子は言った。壊れそうで不安だと、早鐘を打つ鼓動を聞かせた。頬に、耳朶に、髪の先に言い聞かせるように触れた唇が、愛しいからだと理由を教えた。
 そうやって向けられた愛を幸せだと思う。でも、隣に立とうとした『私』は、そんなに弱くない。

「私はノエルです! アングラード侯爵子息として必ず、アレックス殿下をお助けする一助になります!」

 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になった。愛したのが『私』なら、待っているだけなんて惜しいと思って欲しい。『私』なら貴方に負けない強さで助けてみせる。

 カミュ様が長いため息をつく。困ったように私を見上げてから、ゆっくりと華が綻ぶように笑う。

「ノエルは、ノエルですね……。本当は友であるノエルが、一緒に来てくれた方が私も心強いです。宜しくお願いします」

「はい!」

 私とカミュ様を交互に見た副室長さんが、とりあえずと言った感じで拍手をした。カミュ様の近衛と従者が凍り付く様な視線を向けて、拍手はすぐに止まる。

「若さを称賛したのに、居心地が悪い……。とりあえず、ノエル君の同行は決まったし、続きを始めますね。まだ、王城陥落を民は知りません。知らせるつもりもありません。知られる前に奪還しましょう」

 やっぱり、秘宝の事も含めて最速での奪還を目指すつもりのようだ。何か勝算はあるのだろうか。
 窺うように見つめる私に、副室長が意味ありげに口の端を上げて言葉を続ける。

「崩落に伴って、昨日から夕刻以降は民に行動を控えさせています。夜の裏門なら、目立つ事もなく取引可能です。最初はファビオ殿と近衛の交換。これは問題なく終わると予想してます」

 ファビオの名を聞いた時から、気になっていた事があった。遮る様に片手を上げて口を開く

「ベッケル宰相は、ファビオ様を事前に呼び寄せなかったのでしょうか? 武装兵に関与した疑いが晴れた後は、一時期の警戒はなく可能だったと思うのですが」

 染め変えを行う魔力の量は、多い方が良いと聞いている。老齢のベッケルでは、魔力に若干の衰えがある筈だ。ジルベールは伯爵家で、王家の血の可能性はない。ファビオだけが、謀反者の中で染め変えには最も条件があう。
 取り込むべき者を取り落とすなんて、絶対に何かがおかしい。私が間違っているのか、何か裏があるのか。知っておきたかった。
 
「拘束したファビオの証言では、随分前から文官試験の為に、王都に来るよう誘われてたらしい。ファビオは中央文官は諦めていたから、聞き流していた。謀反と聞いたのはここ数日で、同調できないが、父親も告発もできずに迷ってた。その内に、大崩落が起きてワンデリアで拘束だ。中途半端な結果だね」

 副室長さんが忌々し気に舌打ちを漏らす。口には出さないが、告発をするべきだったと態度が語っていた。視線をカップの水面に落として、カミュ様が意見を口にする。

「ファビオは憐れだとも言えます。騎士がファビオを拘束した時、彼はベッケル領の最前線で領主の務めを必死に果たしていた。親が望んだ道と子が望んだ道が違う。貴族ではよく聞く話ですが、ベッケルの罪の大きさ故に結末は取り返しがつかない」

 国政管理室は常に国という大きな単位で物事を見る。カミュ様は一人の心という小さい単位に目を向ける。だから、副室長さんとカミュ様は相性が悪い。

「接見は情が移りやすい。でも、毎回忖度していたらキリがありません。それに少し甘い。ファビオにも罪があります。彼には父親を止める責任があった。貴族は個でなく、家で臣下の恩恵を受けます。恩恵を受けるという事は、責任を伴う事です。王家もそうでしょう? 以前も申し上げたと思いますよ」

 カミュ様が唇を噛むと、従者と護衛騎士の空気が完全に凍り付いた。副室長に噛みつきそうな眼差しが周囲から向けられる。

 噛んだ唇を開いて、カミュ様が副室長を見据えて答える。

「甘い事は解っております。でも、王家が寄り添う事は、正しいと私は思います。我々の責任は民の幸せです。ベッケルは罪を犯した。ファビオは同じ罪を犯したわけではありません。接見でファビオは、父を捨てなかった事に憤り、守るべき民を選ばなかった事を悔いて涙を流した。ファビオとベッケルは違うと私は思いました」

 カミュ様の言葉は間違っていない。でも、副室長さんの言葉も間違っていない。
 ファビオは罪を積極的に犯していないが、王家の臣である貴族として告発する義務を怠った。告発すれば未然に防げたかもしれない。でも、人は迷う事がある。結果か過程か、どちらを罪に問うべきだろうか。

 副室長さんの顔に、大人の悪い笑顔が一瞬浮かんだのを私は見た。

「成程、カミュ様はファビオ殿を救いたいとお考えですか。結構です。私達には出来ない尊いご判断ですね。一度、持ち帰らせて頂きます。今回は善処いたしますよ」

 いつにない副室長さんの発言に、カミュ様の顔に不安と期待が交錯する。私の心の中も、心配と疑いで一杯になる。
 あの悪い笑顔は、副室長さんがカミュ様を利用する道を見つけたから浮かんだ。

 カミュ様が黒い髪を一度揺らして、女神さまの様な笑顔を浮かべて微笑む。

「ああ。私も気付きました。国政管理室は流石に国の方針を理解なさってますね。この国は家の名声ではなく、個の才に舵を切ったのでした。ベッケルが私欲の為に謀反を起こす中で、最後まで領主として大崩落の最前線にあったファビオ。評価されるべき領主としての、才であり、美点だと思いませんか?」

 僅かに目を細めると、面白そうに副室長さんが口の端を上げる。背後では護衛騎士と従者が誇らしげに胸を張っていた。

「カミュ様の今の言葉は刺さりました。痛恨の一手です。ファビオ殿には中央の文官の才はない。しかし、領主としての才はありました。今回は国政管理室副室長の私が責任を持って、貴方の選んだ道に絵図を書かせて頂きます。ご覚悟くださいね」

 少しだけ空気が柔らかくなると、一口だけお茶を口にして副室長さんが再び言葉を紡ぐ。

「ノエル君。ちょっと話がそれて、すまなかった。ファビオ殿がベッケル宰相に合流しなかったのは、誤算だったと思うよ」

 その言葉に頷く。誤算が二つ。カミュ様の秘宝を得られなかった事と、ファビオの身柄が得られなかった事。取引が上手く行けば謀反者の絵図は完成してしまう。

「ファビオはカミュ様の秘宝を塗り替えるでしょうか?」

 私の言葉にカミュ様と副室長が目を瞬く。私の考えの流れに気づいた副室長が小さく笑い声を漏らした。

「ああ。成程! ノエル君はベッケル宰相が息子のファビオ殿に、染め変えをさせると考えたんだ。最短ならそれもある!」

「間違ってますか?」

「いいや。ありだ。正確な情報量の中では、可能性の低い選択だけどね。ノエル君は、染め変えは前の持ち主の魔力に近い方が有利なのを知らないね? 直系を守るこの条件下だと、歴史と同様に傍流の染め変えには王冠を持つ程の才が必要になる」

 同意するように頷いて、少しだけ自信を湛えた笑みをカミュ様が浮かべる。

「アレックスには及びませんが、私の魔力も決して低くありません。ノエルやディエリは私を越えていますが、それはとても稀な事です。学園内でもお二人以外には、私を超える魔力の方はいないでしょう?」

 その言葉に頷く。それでも心の中で何かが引っかかる。

「ならば、何故カミュ様の秘宝まで求めるのでしょう? ファビオが王冠を持つ可能性はないですか?」

 副室長さんが答えを口にする。

「一つは、魔物の王の確実な勝利を求めてだろう。魔法の進歩はとても大きい、聖女も祈りを捧げる決意を固めた。今なら、秘宝一つでも脅威になるとベッケル宰相は考えた筈だ。そして、魔物の王が勝てば、秘宝の持ち主が消える。意味は解るね? 持ち主のない秘宝を新しい命が得るのは、とても簡単だよ」

 今の継承者が命を落とした後、ファビオの子供が秘宝の持ち主になる。染め変えるよりも確実な方法を告げられて、思わず顔を伏せる。悔しいけどそこまでの未来は見えてなかった。
 上機嫌に手をすり合わせて、慰めるように副室長さんが言葉を重ねる。

「経験値だからね。君たちは誰かと結ばれることも知らない若者だ。次代の存在に気付かなくても、当たり前だよ。私にとっては、ノエル君の意見の方が見落としだった。不可能だと思っていたが、可能性がないわけじゃない。対策はきちんと取らせてもらう」

 カミュ様が合図をして、従者が新しいお茶に入れ替える。爽やかな香りが室内に広がる。
 
「ファビオ殿と人質の交換の後、秘宝と殿下の交換になる。殿下には多分足があるが、秘宝に足はない。誰かが届けるならば、ノエル君が指名されるだろう。その時は、贋物の秘宝を運んでもらうよ」

 そう言って副室長がジャケットから、カミュ様の秘宝とよく似た青い宝石を取り出した。記憶の中にある猫を模したものと、見分ける事は不可能に近い出来に見える。

「これを届ければよいのですね?」

「最後まで届ける必要はない。中には小さいが閃光魔法の術式が仕込んである。殿下が安全な位置まで辿り着いた時点で、発動して引き返すんだ。安全の保証はできないが、全力で守る事は約束する」

 贋物の秘宝に手を伸ばして近くで見つめると、本物とは違う小さな魔法の瞬きがあった。殿下の安全を確保しながら、最適な位置で自分の安全を確保する。出来ると信じて、大きく頷く。

「必ず殿下を取り戻します!」

 私の決意の言葉で、離宮での打ち合わせが終わる。
 副室長さんは騎士団に戻り、私もまた屋敷に戻る。離宮を去る前に、カミュ様が私の事を尋ねるか迷った。
 でも、ノエルはノエル、とカミュ様が言ってくれた。私が立っている場所は、悪役令嬢キャロルじゃなくて、公爵子息ノエルの場所。友がノエルと言ってくれるなら、確認する必要はない。


 駆ける窓から見る空は、もう暗闇に染まっていた。城門を閉じた城は、夜より暗い影を抱く。
 取引の場所に向かう馬車は、裏門手前の小さな林の中で止まった。ジルがドアを開くと、冷たい風が吹きつける。
 小さく震えた体を抱くと、ドアの外からジルが心配そうに私を見つめた。

「大丈夫ですか、ノエル様?」

 降りようと出入り口に手を掛けながら、囁かれた声にしっかりと頷く。
 震えるのは寒かったせいだけじゃない。一つの間違いが、愛しい人を失う事に繋がるのが怖いと思ってしまった。
 頭を小さく振って、弱さを振り払う。アレックス王子なら怖気づかない。間違えても、俯かない。怖いじゃなくて、できると信じる。

「大丈夫です。絶対に助けるんです。ジルは……」

 額に触れた唇を思い出して、一度言葉を飲み込む。誰の為にジルが、怪我の酷い体で従者服に身を包むのか。私はちゃんと知っている。
 でも、今日はアレックス王子を守って欲しい。私は一人でもなんとか出来る。

「ジル。今日はアレックス殿下を守って下さい」

 ジルの目が馬車の中のランプの光を反射する。瞳の奥を過ぎった色には、はっきりとした意志が浮かんだ。降りるのを留める様に、馬車の扉の前にジルが立つ。

「……ノエル様と殿下なら、私は貴方を選びます」

 証が揺れる腕が伸ばされて、手が頬に触れるぎりぎりで止まった。苦痛を感じる様に、ジルが顔を僅かに顰める。

「危険だから、行かせたくございません。でも、私にはお止めする事ができない。せめて貴方を守れと仰って下さい」

 駄目だと言わせない、強さのある声に息を飲む。ジルの手が私の頬を包むように触れる。
 許しを求めず触れた冷たい指が、そっと頬を撫でた。

「ちが……」

 弾かれる様に私は身を引いてしまった。ジルが何かが壊れるのを見た表情を一瞬浮かべる。

「ごめんなさい。ジルが私に突然触れるのが、珍しくて、驚いて……」

 さっきの私は、違うと声を上げようとしていた。何が違うのか。
 アレックス王子と違う。従者と違う。家族と違う。今日のジルが違う。

 零れる事より羨む事が苦しい。私が何かと比べて否定したら、ジルを余計に苦しめる。

 ジルが浮かべ直した笑顔は、いつもと同じなのに悲しげだった。掛ける言葉が見つからないくて、慌ててジルの手を取る。壊れたものを元に戻す様に、取ったジルの手に自分から頬を重ねる。

「ジル、私を守ってください」

 冷たい手が、私の頬を撫でずに離れていった。
 ジルが騎士の礼をとって、道を開ける様に出入り口から身を引く。

「貴方の幸せを、必ずお守りします。貴方は私にとって一番大切な存在です。忘れないで頂けますか? これから先も、それだけは信じて、私を許して頂けますか?」

 その言葉に首を傾げる。許してもらわなければいけない事を抱えているのは私だ。ジルは何一つ私に許しを請う事なんてない。

「ジルなら何でも許すし、全部信じます。それだけは絶対自信があります!」

 馬車から一歩外に出ると、冷たい風が何かを攫う様に吹き抜ける。風が吹きつける城を見上げると、立ち上がったジルも城を見つめた。何度も通った場所なのに、見知らぬ不吉な場所に見えた。

 西門近くに揃った取引に同行する人物を見回す。
 カミュ様、副室長さん、戦略室バルト伯爵。そして、カミュ様の母のアニエス様がいた。ドレスではなく、動きやすい服に身を包むアニエス様はとても凛々しい。

 バルト伯爵が兵にファビオを連れてくる様に命じた。連れてこられたファビオは青白く今にも倒れそうな姿で、魔法を封じる術式が刻まれてた鎖に両手を拘束されていた。
 ファビオがカミュ様の前に跪く。青白い顔の中で瞳にだけは、明るい光が灯る。

「このファビオは、頂いた優しさに必ず報いてみせます。罪ある私の生涯ですが、偽りない忠誠をカミュ様に捧げます」

 差し出されたカミュ様の手を拘束された両手で受けて、ファビオが指先に忠誠の印を落とす。
 私の横に並んだ副室長が声を潜めて囁く。 

「ファビオ殿はカミュ様と誓約を結んだ。これでファビオ殿の魔力に、カミュ様の魔力が混じる事になる。秘宝の持ち主になる道は完全に断たれた」

 離宮で見せた悪い顔の答えは、ファビオにカミュ様と誓約を結ばせる事。
 誓約を結べば、主に対しての攻撃は一切できない。謀反者に求められて悪意の中心に行くファビオ。彼とこちらが誓約を結ぶ意味は大きい。

「城内で密偵の役割を果たせば、功績になりますね。逆臣の父に背いて国に忠誠を誓う。ラヴェル伯爵家の確執と同じ絵図ですから、父上の真似ですね」
 
 王族のカミュ様に忠誠を誓ったファビオは、ベッケルと完全に道を違える事になる。宰相子息として生きるのではなく、個として生きる証明には最善だろう。

「ノエル君、厳しいなぁ。尊敬を込めた応用と言ってよ。ファビオ殿がいなくても奪還は出来るけど、上手く動いてくれたらより簡単になる。カミュ様のお願いを叶えた私は、評価も修正されて仲も改善できた筈! 最善の上の策を何て言うか知ってる? 最高の策と僕たちは言うんだ」

 副室長さんが茶目っ気たっぷりに片目を瞑って笑う。取引に立ち会う者達の中心で、美しい女性の声が響いた。

「取引の刻限になりました。それぞれの役目をきちんと果たし、必ず成功を!」

 取引の前面に出るのはカミュ様、バルト伯爵、私。少し後には副室長さん、アニエス様、それから陛下から借り受けた精鋭の近衛が控える。更に後方の林には、選ばれた騎士団の小隊が隠れて待機していた。

 城から吹きつける風に向かって真っ直ぐ進むと、他の門の半分程の大きさの裏門が見えた。取引の為にか、堀に掛かった跳ね橋は既に降りている。

 城門の上に動く影が見えた。私の隣でバルト伯爵が目を細める。

「人影が誰か分かったら、報告せよ」
 
 護衛達に素早く命じると、ファビオの身柄を抑えているカミュ様の護衛騎士が答える。

「城門の上は、ベッケル宰相と視認致しました。ジルベールの姿はありません」

 バルト伯爵が小さく頷く。

「交渉役はベッケル宰相か。相手としては楽だが、ジルベールの姿がないのは不気味だ。ノエル、君は父上と同じ闇属性か?」

「はい」

「跳ね橋まで行ったら、魔力の動きが何処まで捕えられるか試せ」

 跳ね橋の前で私達が足を止めると、少し後方で副室長さんとアニエス様が率いる近衛騎士も足を止める。

 城門の上からベッケル宰相の楽し気な声が降ってきた。

「ご足労頂き、有難うございます。優秀な人材の中で最も取るに足らない私が、謀反者であった事に驚かれましたか?」

 その声にカミュ様が、落ち着いた声でゆっくりと答える。

「残念に思います。貴方は良い宰相に見えました」

「従順な都合の良い宰相の誤りでしょう? 有力な貴族の中で、ベッケル公爵家は最も才がなかった。才がないと言う事は、戦う術がないと言う事です。私は従順になるしかなかった。才ある者は愚か者の苦悩を知らない。陛下と文官達は、身の内で私という悪意を見落とした。愚かで結構!」

 ベッケル宰相の言葉にファビオが俯いて唇を噛む。ベッケル宰相の言葉は、ファビオにとって自分に向けた失望に聞こえたのだろう。カミュ様が声を潜めて、ファビオを叱咤する。

「ベッケルは中央に意識を囚われ過ぎて、民に寄り添える貴方の才を見落とした。それこそ愚かな過ちだと、私は思います。貴方が顔を下げる必要はございません」

 ファビオがゆっくりと顔を上げると、バルト伯爵が満足げに口の端を上げる。そのまま一歩前に進み出て、交渉の開始を促す。

「誰が愚かかは、歴史が証明するのでしょう。さあ、取引を! まずは、ご子息の身柄をお渡しする。怪我を負った近衛達をお返し願いましょう」

 裏門の片方の扉だけが小さく開いて、魔法を封じる鎖で拘束された近衛が姿を現した。思わず小さな呻きが漏れる。魔法による傷が酷いのは、遠目にも見て取れた。
 後方に控えた近衛騎士の気配に殺気が混じると、ベッケル宰相が鋭い声を上げる。

「知る顔がおります。後ろに控えるのは近衛ですな。更に後方の林には、騎士を控えさせているのでしょう? 教えておきましょう! 城全体により強い結界を張りました。遠方からの魔法の攻撃は無駄です!」

 バルト伯爵が忌々しそうな舌打ちを落として、声を潜める。

「結界をいじられるのは面倒だ。ファビオ、恩に報いるなら託された役目を中でしっかりこなせ」

 ゆっくりと頷いて、ファビオが跳ね橋の端に立つ。ベッケルを見る顔が悔しそうに歪むと、バルト伯爵が感情を殺せと小声で叱る。

「ノエル、魔力の動きは城の中まで見えるか?」

 バルト伯爵の問いかけに、顔を横に振る。
 何度も魔力の動きを捕えようと試しているが、跳ね橋と城壁を境に城の中は流れが読み取れない。

「……ダメです。跳ね橋の向こうが全く見えません。ジル、音を拾う魔法は見えますか?」

「いいえ。結界の所為で魔法が効力を発揮できません」

 バルト伯爵が地面を蹴る。

「ベッケルに、こんな使い道があったとはね! 大規模結界は、土地の条件そのものを変えてしまう。戦いにおいて、地の利と不利が分からないのは危険だし。利を押さえられるのは非常に厄介だ」
 
 再び城門の上から、ベッケル宰相の声が響く。見上げた宰相は踊る様に手を上げて、満面の笑みを浮かべていた。

「ファビオ! 漸くお前は正しい評価を得る。誰がお前の才を認めずとも、その隠れた正統性を私はずっと信じてきた! この日をずっと待っていたんだ! さあ、こちらに来ると良い!」

 ファビオがゆっくり城に向かって歩き出す。一歩進むたびに、人質だった近衛達もこちらに歩を進める。
 速度を合わせながら、橋の中央で行く者と解放される者が擦れ違う。

 指先に魔力を纏わせて、バルト伯爵が城壁や周囲の気配を探り続ける。私達も同じ様に、何処かに謀反者の手の者が潜んでないかを探る。
 橋の半ばを近衛が過ぎると、城門の影に術式を書いて待機する手が一瞬だけ見えた。

「バルト伯爵。城門の中で一人ですが、術式を書いている者がいます」

 私の言葉を受けて、カミュ様が合図する。護衛騎士が近衛の背後に、結界と対抗魔法の狙いをつけた。

 引き絞るような緊張の中で、一歩、一歩、交換がゆっくりと進んでいく。近衛の一人が跳ね橋を渡りきる。そのまま、一人一人と怪我を負った近衛たちが、次々と橋を渡り切った。
 全員が渡り切るのを確認して、ファビオが城門をくぐる。

 カミュ様の唇から小さなため息が落ちた。

「最初の交換は、予定通り済みましたね」

 その言葉に頷く。
 辿り着いた近衛達を運ぶ声を背後に聞きながら、拳を一度強く握る。ここまではトラブルはないと予想されていた。アレックス王子と秘宝の交換が、最も危険が伴い何かが起きる可能性がある。

 再び城門の上から、ベッケル宰相の声が響く。

「確かに我が息子はお返し頂いた。次は秘宝をお渡し頂きます。カミュ様、秘宝をお出しください」

 ジャケットの胸ポケットから、カミュ様が贋物の秘宝を取り出した。ベッケル宰相に見える様に指で支えると、顔の高さに掲げて見せる。真偽を問う様にベッケルが、身を乗り出して秘宝を見下ろす。

 風が吹き抜けて、林の梢がさわさわと音を立てる。瞬きを何度も繰り返した後に、ベッケル宰相の指先が術式を書いて、同時に叫ぶ。

「殿下の身柄を優先されるなら、お動きになりませんように! 一人でも魔法を遮れば、殿下のお命はありません!」

「全員動いてはなりません!」

 ベッケルの声にカミュ様の声が重なって、対抗の魔法を書いた全員の手が止まった。

 小さな水の刃が秘宝とカミュ様の間をすり抜ける。黒い髪が僅かに散って、白い頬に一筋の赤が走る。ゆっくりと雫になった血が頬を這った。血を滴らせたままカミュ様がベッケルを睨む。

「アレックスの身を盾に、何を確かめるつもりでしたか?」

 強い怒りを含んだ冷ややかな声でカミュ様が問う。

「覚悟を確かめたのです。逃げていたら、取引はここでお終いでした。殿下をお返ししましょう。ノエル・アングラード、秘宝を持って橋の中心まで来なさい」

 ベッケルの指示にカミュ様が即座に否定の言葉を投げつける。

「ベッケル! 先程同様の、同時交換を希望します!」

「いいえ。橋の中央まで先に来て頂きます。来て頂けたら、こちらも殿下を城門の外に出します。取引を続けるなら、私の指示に従ってください」

 唇を強く噛んで、カミュ様が私を心配そうに見つめる。カミュ様の頬に滴る血をハンカチで拭ってから、私は贋物の秘宝に手を伸ばす。

「ありがとうございます、ノエル。無理はしないでください。身の危険を感じたら、戻ってきて構いません」

「大丈夫です。必ず殿下が戻れるようにします」

 受け取った秘宝をカミュ様と同じ様に、ベッケルに向けて掲げながら橋の始まりに立つ。ゆっくりと周囲を伺いながら歩みを進めていく。

 城門の上、橋から見える茂み、木々の枝の影、どこにも謀反者の手の者の影はない。緊張でこめかみを汗が滑り落ちていく、秘宝を持つ指先も汗が滲んで滑りそうだった。

 周辺への警戒は怠ってはいけない。でも、緊張や恐怖に負けてはいけない。
 一度だけ浅い呼吸を深くする。最後の数歩は息すら止めて、細心の注意を払って進んだ。

 橋の中央に立つと、城門が開く。
 近衛たちと同じ枷に両手を捕らわれ、喉元に剣を突きつけられたアレックス王子の姿に息を飲む。白い王の装束は傷つき、所々が赤黒い血に染まっていた。血の不足か、魔力の不足なのか、肌は血の気を失っていて、口元には渇いた血の跡がはっきりと残る。
 
 私と視線が合うと、紺碧の瞳に苦しみが浮かんだ。ごめんなさい、と呟こうとして唇を引き結ぶ。

 私は負けない。貴方の隣に立つ強さを信じて欲しい。

 想いを乗せて真っ直ぐと見つめ返すと、アレックス王子が僅かに口元を上げる。愛しい人の眼差しに、真っ直ぐな強い光が戻り始める。

 



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