2018年12月22日土曜日

四章 七十三話 光の女神と選択の決断 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります



 薄紅色のまつ毛に手を伸ばして、ルナの涙を指で拭う。待つ人がいる事に涙を零す少女の肩はとても細く、指に触れる雫は暖かい。
 
「絶対に帰りましょう。今の私達は、ルナを信じられる根拠を持ってます。同じ未来を願うから、今度こそ手を伸ばして下さい。一緒に抗いましょう」

 ルナが目を瞬いて、長いまつ毛が私の指を擽る。

「一緒……? もう私には、神としての力はありません。一人の令嬢でしかないです。それでも構いませんか?」

「勿論です。私も未熟な侯爵子息でしかないです」

 シーツの上に置かれた細い指に、手を重ねる。ルナの眼差しが、嬉しそうに綻んで深い弧を描く。

「光の女神と呼ばれた頃から、私はずっと私でした。楽しい事にお腹がよじれるぐらい笑い、悲しい事には罵る言葉を叫んで泣いた。人と同じ感情があるから寂しいのに、本性は大きなリュウドラだから、皆と同じにはなれなかったんです」

「本性がリュウドラ? リュウドラは女神様の使いが定説でしたから、逆なんですね」

 ユーグが聞いたら、きっと眠れない夜がまた増える。
 私達の知る物語で、人に語りかけるのは光の女神だった。リュウドラは戦いの場に使いとして姿を現し、咆哮を上げて敵を力でねじ伏せる存在と信じられてきた。
 だから、リュウドラに男の子は憧れて、女の子は光の女神に憧れる。

 腕を伸ばして、ルナが大きな円を描く。私の眼差しが手を追って一周すると、悪戯するような微笑みをルナが浮かべる。

「リュウドラは、この両手より大きな口をした怖い容姿でした。向けられる畏敬の念が寂しくて、魔法で女性の幻を映して話すようになったんです。それが皆の知る光の女神の姿です。幻だから透けて触れる事もできません。声も遥か空の上のリュウドラの本体から発してたんです。慕われたけど、私が欲しかったものとは違いました」
 
 最初に記録された大崩落は六百年前。それ以前にも、大崩落は何度も繰り返されてきた。それを示す壁画や文献には、既に光の女神は存在している。
 透き通るような眼差しでルナが見つめる遠い過去は、千年だろうか、二千年だろうか。
 
「リュウドラでも、光の女神でも、手に入らなかったものは、意気投合する友達、愛を語らう恋人、側にいる家族。悠久の時間の中で、人の嫌な部分もたくさん見ました。でも、小さな繋がりが愛しい気持ちは、消えずに募るばかりでした。世界に私が不要になったら、小さな意志の欠片から私という人になりたかった」

 重ねたルナの手に僅かな力が込もる。
 遥な時を経て、この小さな手は自分の場所を手に入れた。ルナとしてルナの場所に居たいと言った気持ちが今なら分かる。

「ルナは今、ちゃんと繋がってます」

 強く手を握り返すと、ルナがはにかむように微笑む。

「はい。繋がってます」

 握った手を、ルナが嬉しそうに上下させる。その笑顔に、心がふわりと軽くなる。

「ルナが小さな欠片になったのは、泉が出来た時ですよね。すぐに人にならなかったのは、何故なんですか?」

 手が止めてルナが表情を曇らせた。空いた手がケットを強く握って、口を開く。

「言葉が生まれ、人が繋がり、国になりました。法が整備され、人は自分達の道筋を得たんです。役目は終わったという世界の声を、確かに感じました。共に終わろうと思って、彼に会いにいったんです。でも、彼は終わる事を拒んだ」

「彼と言うのは、魔物の王ですね。終わりの声は、ルナだけが感じたのでしょうか?」

 首を振ったルナの眼差しに、憐憫の情が浮かぶ。何故と思う私に、慈しむような声が語る。

「彼も役目を終えた声を感じたけれど、終わる事に気持ちが納得できなかった。……私達は対です。私は世界の慈愛や希望に繋がる存在で、彼は欲望や嫉妬に繋がる存在だった。人は良い感情は表に出すけれど、悪い感情は心の底に隠します。私は常に人に寄り添えたのに、彼は歪に繋がれて世界に厭われた」

 虚空を見つめて、その時の魔物の王の言葉をルナが呟いていく。

「あの日。何も自分は知らないと、彼は怖い顔で私に叫びました」

――お前ばかり狡い。

――閉じ込められて、厭われて、お前に負け続けたまま終わるのか。

――我は何のためにこの世界にいたのか。

――お前しかいないのに、我を置いていくなら許さない。

――ずっと、……までとどまり続ける。

 何もない暗い歪で、魔物の王は天を仰いで呪う言葉を紡ぎ続けたという。
 私の固い眼差しに気づいたルナが、魔物の王の為に小さく頭を下げる。

「人の感情は美しいものだけじゃありません。奥深くに隠す暗い感情もあります。私と彼が一緒に対で生まれたのだから、きっと彼にも生まれた意味があったんです」

 ルナを思えば止めるべきだった厳しい言葉が滑り出る。

「私は魔物の王が嫌いです。例え意味があっても、彼を許せないと思います」

 流れた血の色を私は知っている。悲痛な決断を知っている。
 魔物の王が大崩落を繰り返す度に、この国は危機に瀕した。人の悲しみと苦しみも、その度に繰り返されてきた。 

「甘いと分かってます。でも、対峙するより前は、二人で親しく話す事もあったんです。閉じ込められた歪みの中で、彼は外の様子を聞く事を喜んだ。そして、自分が役に立つ方法を試行錯誤してた。彼は人にとっての災いでしたが、世界の転換点でもあったんです」

 何かが欲しいと思うから手を伸ばす。何かを知りたいと思うから学ぶ。負けたくなくて追いかける。
 そんな思いを私も知っている。過ぎれば欲や嫉妬と暗い感情になるけれど、芽生えたばかりの欲や嫉妬は悪くないのかもしれない。

 ルナの言葉に揺れてしまったた考えを、振り払う様に強く首を振る。

 乗り越えようとする力が、世界の転換となったとしても、犠牲があって悲しむ人がいたら駄目だ。
 私は魔物の王を認めたくない。心が何かに触れても、彼の言葉や起こした事を肯定したくない。

「ごめんなさい、ルナ。魔物の王にも、人と同じ心があるのかもしれません。意味があるのかもしれません。転換点として役割を果たしたのかもしれません。……けど、私は魔物の王が嫌で、未来に残したいと思わない」

 力が抜けたルナの手を、離れない様にしっかりと握りしめる。
 長い時間を共にした対を思うルナの眼差しと、今を生きる痛みを知った私の眼差しが、互いの思いを乗せて対峙する。

「ごめんなさい、ノエル様。私も理解はしているんです。でも、後悔が残るんです。私は人だけじゃなく、共にあった彼の事も思いたい。もう遅いとしても、救いたいと心の何処かで思ってしまう……」
 
 互いに目を逸らさないまま、見つめ合う時間が続いた。理解じゃなく感情だから、分っていてもルナは引けないのだろう。
 
「ルナの気持ちは、わかりました。……魔物の王が世界に留まり続けたから、直ぐに人にならなかったんですね?」

 話を進める私の言葉に、小さく息を吐いてルナが眼差しを落とす。私も同じ様に吐息を落として、握り合った手を見つめる。

 答えが出ない事は、たくさんある。そんな時は、互いの言葉を保留にする事は間違いじゃない。
 
「最後に魔法の力を人に委ねれば、人は人の力だけで生きられる筈でした。私の中でも世界が、そう決断を促していました。でも、彼が残ったら魔法だけでは人が残れない」

 壁画や文献に、魔法の力を光の女神が委ねた記録が残っている。エトワールの泉と同種のものは世界中にある。でも、聖女の仕組みはこの国にしかない。

「聖女は魔物の王が残るから、後からルナが用意した。上手く人が扱えるかが不安で、欠片になった後も見守り続けた。違いますか?」
 
 サイドボードに置いたグラスに手を伸ばして、渇いた喉を潤す為にルナが口をつける。淵に浮かんだ水滴が、不安定な軌道を描いて滑り落ちていく。

「神に対峙するには強い力が必要です。犠牲を減らし干渉を排除しようと思ったら、条件は厳しくなります。考え抜いた仕組みは複雑で、とても不安でした。欠片になった後も、私は見守り続けた。最初の大崩落はとても上手くいき、二度目の大崩落も途中までは順調でした。残り僅かで権力争いにより、精霊の子が失われてしまったんです」

「それが、アルノルフ王と聖女シーナの時代ですね」

 遊ぶように長い髪に指を絡めて、ルナが表情を変える。楽し気な色が浮かんだ理由は、すぐに察する事ができた。
 親し気にシーナの名前を、ルナは何度も呼んでいた。大切に想うような時間を、その時代に育んだのだろう。

「はい。私にとって特別な時代でした。欠片の私では、彼を歪には戻せない。だから、失われた精霊の子の代わりを用意する事にしたんです」

「確か……聖女になれる条件に歪みを知る者がありましたね。どういう意味なんですか?」

「歪みの奥には、別の世界に繋がるひび割れが幾つかあります。こちらから、あちらへ。あちらから、こちらへ。異界の人が偶然に迷い込む事が過去に何度かありました。迷い人は歪みの中で溶けやすい性質を帯びて、新しい世界に染まります。溶けやすくなった性質は、精霊の子の魔力と近いんです」

 植物や動物につけられた懐かしい名前、カミュ様が纏う着物に似た服、ドニが歌った古い子守歌。
 溶けやすい性質を持つ異世界人として、ルナが連れてきたシーナは遠い昔の日本人だったのだろう。

「欠片の私は、一つのひび割れを抜ける事に成功しました。そこは、こことは違う世界でした。色濃い緑と、少し湿った心地よい空気。見知らぬ衣服と懐かしい音色の子守歌。シーナはその世界で雨乞いの供物として、生贄にされるところでした」

「生贄ですか?」

 遥昔には、そういった事があったと社会の授業で教師が話していた。あれは、どの時代を学んでいた時だろうか。江戸時代の飢饉の話のついでに語られた気がする。

「はい。日照りが酷くて、その村は困窮してました。自分達で出来る事はなく、予言の力が少しあった巫女のシーナを生贄にして、神に頼む事にしたそうです。惨い話だから雨は降らせたくなかった。でも、シーナが望んだので叶える事にしたんです。あの世界は仕組みが違うので、魔法は酷い負担でした」

 村人に二度と生贄を出さない様に脅してから、ルナはシーナを攫ったそうだ。リュウドラの姿のルナを、シーナは神様の使いだと信じた。雨が降った事を感謝しながら、導かれるままに歪みを渡ったという。

「歪みを渡る事は、人にとって負担が大きいんです。異世界で魔法を使った上に、彼に見つからない様に魔力でシーナの姿を隠した私も限界でした。歪みを抜けると、二人揃って意識を失ってしまったんです」

「絵本の最初のページですね!」

 何度も読んだ物語の始まりは、地下渓谷でアルノルフ王が魔物の調査をする場面から始まる。歪みに近いその場所で、アルノルフ王は小さなリュウドラとシーナ王妃を見つけるのだ。

「そうです。絵本は私たちの活躍を大きく省略していますが、書かれている事は殆ど本当です」

 リュウドラだったルナとの出会いを経て、黒い髪と瞳の異国の娘が若き王子と恋に落ちる。絵本の最初の一頁が開く瞬間に、私の心が小さく高鳴る。 

「では! 物語で悪徳商団退治がありますよね? 悪い商人の髪をリュウドラが引っ張って、悪事を教えたのは本当ですか?」

 幼い頃に何度も読み返して笑った場面を口にすると、ルナが少女の様に瞳を輝かせる。

「本当です! あの時は、お手柄だと皆にたくさん褒められました。シーナと一緒に保護された私は、小さなリュウドラとして人の側で生きた。その日々は大変でしたが、眩くて胸がどきどきしました」

 預言の力でシーナが王子の危機を救ったり、攫われそうになったシーナを王子が助けたり、物語に綴られたシーンをルナが次々と口にしていく。

「シーナはカミュ様にそっくりの綺麗な顔立ちで、明るく優しいんです。アルノルフ王子だけじゃなく、素敵な臣下達もシーナに想いを寄せたんですよ」

 筆頭騎士とアルノルフ王子のシーナを賭けた一騎打ち。親しくなった探求者によるシーナの拉致騒動。気障な文官の面映ゆい言葉の数々。
 弾む声で語られる物語はとても面白く、『君のエトワール』のエピソードとよく似ていた。

「ルナはシーナが大好きだったんですね」

 私の言葉にルナがくしゃりと笑う。本物の笑顔に、胸が締め付けられる。楽し気なルナの思い出の結末を、私はよく知っている。
  
「シーナが大好きでした。魔法が使えず喋る事はできませんでしたが、肩の上で相槌を打ったり、じゃれ合ったりしたんです。アルノルフ王子と臣下の人達とも、仲良しでしたよ。二人が結ばれて、可愛い王子が生まれて、国中が祝福に包まれた。とても幸せな時間でした……」

 痛んだ胸が、ルナの強張った笑顔で壊れそうになる。悲しいエンディングの気配に、一瞬だけ強く目を閉じる。
 
「大崩落が起きて、王妃としてシーナは泉に向かいました。彼女が精霊の子じゃなくとも、役目を果せる事を知っていました。魔力が殆どない彼女が祈れば、その身が失われる事も知っていた。大好きな友達だと思っていたのに、シーナじゃなく私は世界を選んでしまった」

 柔らかいルナの頬を、絶え間なく涙が零れ落ちていく。
 大切なものを選ばなくてはいけない経験は私にもある。でも、失っていない私が、失ったルナに掛ける言葉は見つからなかった。
 ルナの涙をひたすら拭って、その頬をそっと包む。言葉が見つからない私ができるのは、寄り添う事だけだ。
  
「消えていくシーナが、次の大崩落で国が亡ぶのを見ました。酷い選択をした私を友と呼んで、シーナが一つ願いを口にしました。残した幼い王子から繋がる未来の子供たちを、彼女の分まで守って欲しいと言ったんです。何度も必死に首を振ったら、シーナが笑ってくれました。今度こそ友の為に、私は守りたいんです」

 私の手の中で、濡れた瞳が再び強い光を宿して輝く。シーナを失ってからの二百年近い時を、ルナは諦める事なく一人で抗ってきた。

 もっと早く寄り添ってあげられたら良かった。『君にエトワール』の世界との一致が怖くて、避けてしまった事を悔やむ。
 でも、どうして世界は一致したのか。
 
「本当は『最初のルナ』が運命を変えて、皆から愛され、この世界を愛してくれる筈だった。でも、眠りから目覚めた後の世界は、知らない未来に動き始めていました。アングラード侯爵家も幾つかの変化の一つです」

 答えの欠片は時折繋がるのに、どうしても繋がらない場所がある。
 『最初のルナ』『今のルナ』。十歳の時にルナが目覚めたのならば、いつ力を使い果たしたのか。
 それは、私が前世を思い出すよりもずっと前である可能性が高い。
 どこで私と変化は繋がるのか。いつなのか、それが分かればきっと答えに手が届く気がする。

 戸惑いながら口を開いた私より先に、ルナが自分の決断を口にする。

「誓約を結んでください、ノエル様。交って魔力が安定しても体は精霊の子で、私は光の女神の欠片です。小さな希望でしかなくとも、最後は泉で祈りたいんです」

 ルナが胸元を押し下げて、柔らかな白い肌を晒す。

「歪みに惑う女神の木漏れ日」

 魔力印の名前をルナが呟くと、胸元に白く輝く印が浮き上がる。
 円一杯の渦の中に一筋だけ陽が落ちて、小さな女神が天を仰ぐ。切なくなるような情景がルナの魔力印だった。
 握り合った私の手を、胸元の印に導く。

「ドニを愛しています。同じぐらい世界を愛してます。殿下も世界の一つだから、想いが届けばいい。私が作った仕組みだから、甘いような気がするんです」

 必死の顔でルナが微笑む。言葉は確信ではなく願いで、明後日を前にしたルナの瞳は不安で揺れていた。

 白い肌に浮き上がった魔力印に、指先で触れる。拒むような抵抗を僅かに感じながら、指先に魔力を集中させる。

「誓約を結びます。歪みに惑う女神の木漏れ日、わが身の内に入ることを許す」

 誓約の言葉を呟くと、私の中にルナの魔力が一気に流れ込んでくる。瞬間、跳ねる様な強い衝撃が体中に走った。ルナの魔力を攻撃する様に、私の中で魔力の一部が暴れ出す。

 暴れる魔力の所為で、痙攣する様に何度も体が波打つ。それでも、激しい抵抗の中、ルナの魔力が小さく圧縮されていく。
 突然痙攣が止まって、私の魔力が攻撃を止めた。体の一部にルナの魔力が納まるのしっかりと感じる。

 小さく息を吐くと同時に、私の魔力がルナに流れ込む。
 薄紅の瞳を見張って、ルナが私を見上げる。ルナの体の抵抗は、私よりも激しい。崩れそうな様子に手を引こうとすると、掻き抱くようにルナが私の手を止める。

「ノエル様、やめないで下さい。このまま、続けてください」

 ルナが目を閉じて、痙攣を抑える様に体を強張らせる。体が跳ねる度に不安に襲われながら、納まるのをじっと待つ。
 ジルとの誓約でも、魔力が流れ込む感覚はあった。でも、こんなに酷い抵抗を感じる事はなかった。

 目の前で、ルナの肩から力が抜ける。魔力が無事に納まったようで、激しい痙攣の気配が消えた。
 深く息を吐いて、薄紅の瞳が困惑したように私を見上げる。

「ノエル様の魔力に、少し彼の魔力が含まれてます。心当たりはありますか?」

 最初に魔物の王に出会った時、誰も知らない前世を言い当てて、キャロルからノエルに変わった事も言い当てた。また助けてやろうと言って、私にはよく魔力が馴染むと言った。
 二度目であるならば、魔物の王の言う一度目はいつの事なのか。
 
 やっぱり、全ての答えは始まりにある。
 問うより早く伝わる筈だから、懐かしい歌を口ずさむ。驚きの表情の後に、ルナが同じ歌を口ずさむ。私とルナが、互いの繋がりに漸く気づいた瞬間だった。



 四日目がやってきた。
 ルナを泊めた客間の窓から、我が家の庭を見下ろす。
 誓約を終えたルナは、昨夜のうちに私と共に王都に戻ってきていた。

「アングラード侯爵家の庭は、冬でも美しいですね。私も今朝、目を楽しませて頂きました」

 母上から借りたドレスに身を包んだルナが、胸元のリボンを結びながら口を開く。
 王都の中心地には珍しい広い庭は、落ち着いた冬の美しさに整えられている。

「一番のおお薦めは春なんです。色とりどりの花が咲きます」

 冬が終われば、次は春がやって来る。草木は一足訪れが早いから、一か月後にはきっと花が綻びだすだろう。

「ならば、その頃はお茶に呼んでくださいね」

「はい。必ずお茶を!」

 我が家の前で止まった馬車が、門をくぐるのを確認してからルナに向き直る。

「出掛ける前に、渡しておきますね」

 カミュ様が書いてくれた、エトワールの泉への許可書を渡す。

 アレックス王子たちを見送る為に、私は騎士団に今から移る。後には奪還作戦があるから、そのまま騎士団に留まるので屋敷に戻る事はない。

「お預かりいたします。ご無事と成功をお祈りいたします」

 ドレスの端をつまんで、ルナが優雅に令嬢の一礼を取る。その礼に、私は騎士の一礼を選んで返す。

「はい。絶対に取り戻します。連絡を待っていてください」

 顔を上げると、ルナが少しだけ頬を染めて唇を尖らせていた。

「見惚れました。ノエル様は、貴公子にしか見えません」

 悪役令嬢の結末から逃れるために侯爵子息になった。気付けば令嬢としての所作よりも、子息としての所作の方が得意になっていた。

「光栄です。運命から逃れたくて、努力しましたから」

 私の言葉に、ルナが更に唇を尖らせて頬を膨らませる。その頬を軽く人差し指でつつくと、ルナが大きく息を吐いてくしゃりと笑う。

「ノエル様、一晩考えたんです。アルノルフ王はシーナの事を悲しんで、祈りによる犠牲を生まない為に秘宝を作りました。ずっと先の未来の為に、人の彼が希望を残したんです。今も、先の未来でも、誰一人失わせたらいけませんよね」

「はい。誰一人零さない結末を、必ず一緒に迎えましょう」

 ルナが小指を差し出したから、小指を絡ませる。この世界では私とルナしか知らないやり方で、無事と希望を誓い合う。

 互いに微笑みあって指を離すと、ノックの音が部屋に響いた。

「ああ。迎えが来たようです。ドアを開けてもよいですか?」

「もうご出発ですか? 少し早いのでは?」

 残念そうに呟いて、ルナが許可するように頷く。その顔に得意げな笑顔を返して、ドアに向かって声を掛ける。

「開けていいですよ!」

 ドアが開いた瞬間、ルナが息を飲んだ。見開いた薄紅の視線の先で、私の友が天使の笑顔を輝かせていた。

「ドニ……どうして?」

 ルナの言葉に応えるよりも早く、軽やかに駆け寄ったドニがルナを抱きしめる。嬉しくて泣きそうな顔をして、ドニがルナに来た理由を告げる。
 
「ノエルがね。迎えに来たら、世界で一番大好きな人に会えるって言ったんだ!」

 抱きしめるドニの肩から、ルナが私を睨みつける。

「ノエル様の嘘つき。呼ばないって約束でした……」

 昨日の夜、ドニに会いたいかルナに聞いた。会わないとルナは寂しそうに答えた。終わりまで何が起きるか分からないからと言うのが、ルナの言い分だった。

 どんなに睨んでも、真っ赤になって口元を緩ませるルナなら全然怖くない。悪戯の成功を告げるように、ルナに向って小さく舌を出す。

「ルナの為には呼んでません。これは、私の迎えの為なので不可抗力です」

 肩の上で私と話すルナの体を少しだけ離して、ドニがルナの額にキスを落とす。

「ごめんね、ルナ。ノエルを責めないでね。僕は君に会えて良かった。君がここに居るなら、僕は明日をもっと頑張れる。今日が終わりじゃないから、明日の為に言わせて……おかえりなさい、ルナ」

 その背にしっかりと腕を回して、ルナがドニに抱き着く。二人の為に部屋を出る間際、私の耳にルナの囁きが届いた。

「ただいま、ドニ。次は私がおかえりを言うから、無事に帰ってきて」

 閉じた扉に凭れて目を閉じる。ドアの向こうから天使の歌声が響き始めた。
 愛する人に愛を囁く、甘い歌声に耳を澄ます。世界で一番綺麗な声が、世界で一番愛する人に愛を歌う。
 私のお節介は、ドニの願いを一つ叶えることができた。

 たった一人の人の為に、私も同じ歌を小さく口ずさむ。明日が分からないからこそ、私は愛する人に会いたい。

 
 耳に朱を残したルナに見送られて、私とドニは騎士団に向かった。
 建物の外側の警備は物々しいのに、内部の廊下に立つ歩哨の数はとても少ない。今夜の作戦に参加する兵が休息に入っているとしても、運用が厳しい状況なのは一目瞭然だった。

 ワンデリアの魔物の王、王都の攻城戦、国境のヴァイツへの対処。三つの戦いを同時に仕掛けてきたのは上手い戦略だった。
 
 人払いを澄ませた室内には、既にアレックス王子とカミュ様が待っていた。
 窓の桟に軽く腰を下ろしたアレックス王子が、書類から顔を上げて笑顔を零す。

「見送りに来てくれたのか?」

 嬉しい時は嬉しい。悲しい時は悲しい。嘘をつかない素直な瞳の、輝く様な色が愛しい。

「勿論です! いってらっしゃいと言いたかったんです」

 私が紺碧の瞳に気持ちを探すのと同じ様に、アレックス王子が私の紫の瞳を覗く様に見つめる。
 交わる視線に微笑むと、素直な人が困ったような微笑みを浮かべた。何故と問いたかったけれど、この場所で気持ちを問う事はできない。

 戸惑う私の腕にドニが腕を絡めて引っ張る。

「今日は有難う! 明日は皆をちゃんと守るから、期待して待っててね!」

 ジルと似た色の瞳を綻ばせて、ドニが愛らしく微笑む。

「たくさん期待してますね。ディエリはすぐに無茶な作戦を振ってきます。万全じゃないアレックス殿下の事を頼みます」

 ドニが真面目な顔で何度も頷く。その様子に側に来てくれたカミュ様が小さく笑う。

「土壇場に来ると、貴方がいない事が残念に思えますね。でも、貴方には貴方しかできない事がございます。秘宝と一緒に大切な方を取り戻して下さい」

 その言葉にしっかりと頷いて微笑む。
 気づいたことが誤りじゃなければ、ジルを取り戻せる可能性が私にはある。でも、私の元に取り戻すなら、他の誰かじゃ駄目なのだと思う。ジルが同じ場所に戻るなら、私が迎えに行かなくてはいけない。

「一緒に行きたい気持ちも、やっぱりあります。でも、ジルを取り戻せるのは、私だけです。それに……」

 きっと心配させてしまうから、その先の言葉を飲み込む。
 不自然に切った言葉が悟られないか不安で、そっとアレックス王子を盗み見る。アレックス王子は窓の外を見つめて、憮然とした表情で髪をかき上げていた。陽の光を受けた髪が、その横顔に流れ落ちる。

 何故、そんな顔をするのだろうか。いつもと違う様子に、不安がこみ上げる。
 カミュ様が私の手を取って、安堵させるよに軽く叩いた。

「大丈夫です。どんな状態でもアレックスは、すべき事を必ず果します。貴方も自分のすべき事に集中なさってください。別の場所で互いに精一杯の事を致しましょう」

 カミュ様が優しく笑ってから、黒曜の瞳に悪戯の色を浮かべる。

「王城の作戦には、私の母と王妃様も参加致します。色々あるかと思われますが、頑張ってくださいね」

 その言葉に思わずたじろぐ。アニエス様もブリジット様も、人を揶揄うのがお好きなようだった。以前の事を思い出せば、お相手はとても大変そうだ。

「カミュ様が不在だと不安です。でも、頑張ります!」

 小さく笑い声を漏らしてから、カミュ様が窓際のアレックス王子を見て小さなため息を落とす。

「アレックス。守りの戦略で見直したい部分があるので、ドニと私は先に参ります。貴方は少し頭を冷やしてから、ゆっくりいらっしゃって下さい。ノエル、貴方の武運を祈っております」

 私を抱き寄せて、カミュ様が優しく背を叩く。背中に軽い衝撃があって、ドニが挟むように私に抱きついた。

「僕も武運を祈ってるよ! 帰ってきたら、祝杯をあげようね!」

 次に会えるのは、全てが終わった後になる。
 もう一度こうして、温かく触れ合いたいと心から願う。そして、何時からか止まってしまった賑やかな日々を、また一緒に皆ですごしたい。

「ワンデリアでの武運を心から祈ります! またですね!!」

「「また!!」」

 いつも通りの笑顔で、二人の友が部屋を出ていく。その背をドアが閉じるまで見送る。

 友と私をドアが隔てると、頬から一筋の涙が流れ落ちた。
 今、涙を零させる感情を、私は何と呼んだらいいか分からない。
 今日があって、明日がある。私が今日を戦って、明日を友が戦う。その先に未来がある。そう思ったら、ただ涙が溢れていた。

「ノエル?」

 向き直らない私の背に、アレックス王子が訝しむように名を呼んだ。慌てて袖で涙を拭ってから向き直る。戸惑うような眼差しで、アレックス王子が私を手招く。

「泣くな」

「……はい」

 少しだけ怒ったように私に命じて、近づいた私の涙の痕を固い指先がそっとなぞる。
 既視感に、一体いつの事かと記憶を巡らせる。

「私が必ず、君の元に皆を連れて帰る。だから、待っているといい」

 出会った日の別れ際によく似ていた。
 あの日、寂しくて泣いた私に、ぶっきらぼうに怒った少年を思い出す。

「必ずのお約束ですか?」

 別れた後に私が振り返ったら、堪えようとした想いを止められずに少年は泣いていた。何度も袖で涙を拭う顔が、切なくて愛しくて、胸がぎゅっと苦しかったのを覚えている。

「必ずだ」

 涙の痕を撫でた指が、耳に掛かる私の髪を掬う。愛し気な眼差しが、別の感情に時折揺れる。
 あの日と同じような眼差しに、胸が騒めいた。

「側に居られないから、無理はするな。傷一つでも、君にはつけたくない」

 愛し気に髪を絡ませた指先に、頬を摺り寄せる。 
 失う怖さを知った今なら、アレックス王子の気持ちが私にも分かる。

「私、誰にも傷つけられません。無理はしないし、自分を過信しません。失う怖さを知ったから、失わせてはいけない事を本当に学びました」

 答えると、アレックス王子の瞳が安堵の色を湛えて柔らかい弧を描く。
 必ずまた会えると信じて、私も微笑み返す。 

「帰還をお待ちしてます。私との、たくさんの約束を果してください」

 紺碧の瞳が私の心の底を求めてじっと見つめる。その眼差しに、同じ様に知りたいと覗き返す。
 少し硬い指先が瞼に伸びたから、そっと目を閉じる。

「見つめられても、閉じられても困るな」

「どうしてですか?」

 呟かれた言葉に瞼を閉じたまま問い返す。
 愛し気に髪か弄ばれると、落ちる髪が耳朶を擽った。甘く優しい感触を感じながら、じっと待つ。
 
 私が本当に待っているのは、答えじゃなく熱だった。
 側に居ると、触れて欲しいと思ってしまう。こんな時だから、いつも以上に求めたくなる。
 私に想いを抱かせて欲しい。今日の熱を覚えたら、明日もと続きを求められる。
 
 僅かに近づく温度に、唇が寄せられるのを感じる。でも小さな吐息の残して、熱は触れる前に離れていった。

 髪から移った指先が、頬を軽く摘む。いつもの悪戯だけど、アレックス王子らしくない。

「……何かありましたか?」 

 瞳を開けて問いかける。交わった眼差しは、初めて見る色をしていた。僅かにちらつく怒りに似た色に戸惑う。

 何を堪えているのか。
 あの日みたいに堪えきれない想いがあるのなら、我慢せずに教えて欲しい。

「ノエル。気づかない振りが出来るなら、苦しくても良いなんて狡いだろうか?」

 その言葉に小首を傾げる。それが出来ない真っ直ぐな人だと言う事は、良く知っている。

「狡いかはわかりませんが、アレックス殿下には似合いません」

「そうか……」

 頬を軽く摘まんでいた指を離して、切なげにアレックス王子が目を細める。

「ジルが好きかい?」

「はい。ジルが大好きです。ずっと側に居てくれた大切な人です」

 指の背で私の輪郭をそっとなぞる。その指に頬を乗せる様に傾けて、顔をずらして指の背に唇を当てる。
 戻そうとした私の額にこつりと小さな音を立てて、アレックス王子が額を重ねた。落とした視線の先に、綺麗な唇の赤が見えた。

「知ってる。君にとって、ジルがどれ程大切かを私は知った。あんな風に取り乱す君を見たのは初めてだった。彼の事を考えると、浅慮だと分かっていても羨ましくなる。君の側で、勝てないぐらいの愛を君に注いでいた」

 その言葉の意味に戸惑う。
 ジルが注いでくれた愛の深さを知っている。でも、アレックス王子が私にくれた愛の数だって知っている。

「比べないでください。だって、二人は全く違うから。ジルはジルで、アレックス殿下はアレックス殿下です」

 私の言葉にアレックス王子が深いため息を落とす。

「私と彼は立場が違うんだ。私の方が多くを持っていて、彼は何も持っていない。それでも彼は君にとって、代わりのいない特別な存在なんだ。対等なら君は、どちらを選んだ?」

 弾かれる様に額を離して、アレックス王子を真っすぐ見つめる。私に問うアレックス王子の眼差しは真剣だった。

 あの日から時間の許す限り、自分の想いに向き合うようにしてきた。
 二人とも同じぐらい大切だった。失いたくないと同じぐらい思った。どちらも代わりのいない私の愛しい人だった。

「私がジルに抱く愛情と、アレックス殿下に感じる愛は違います」

「本当に違うのか? 私は君に愛しいと囁いて触れる事が出来た。彼は寄り添って密かに想いを注ぐしか出来なかった。なのに、君にここまで想われたんだ」

 ユーグの言葉が頭を過ぎる。

――君は女の子だね。男心が分かっていない。

 分からないから、それ以上の言葉を重ねないで欲しい。一番愛している筈のアレックス王子に、そんな風に言われたら、私の心は揺らいでしまいそうになる。

「ひたむきな彼の愛情に、私は嫉妬してる。あの男にだけは、勝てないかもとすら思う。私が彼の代わりになれないなら、君は彼が一体どんな存在か考えるべきだ」

 冬の強い風が吹きつけて、窓が小さく音を立てる。

 ジルは誰よりも側に居てくれて、私をずっと守ってくれた人。失うと足元が崩れるぐらい苦しい人。私にとっての特別な人。
 でも、アレックス王子も特別な人。私に壊れそうな時ですら希望をくれる。ずっと憧れてきて、今も私の胸を焦がし続ける人。

「ジルも、アレックス王子の代わりにはなれません」

 愛し気に目を細めるのに、切ない顔で私をアレックス王子が私を見つめる。

「私は君の幸せを心から望む。君が嘆くのを見るぐらいなら、君の望みに出来る限りの事をしたい。同じ位置で同じ男として、誰が必要かよく考えるんだ」

 その言葉に唇を噛む。どうしてわかってくれないのかと、叫びたくなる。どうして今なのかとも、叫びたい。でも、私が迎えに行く今日だからこそ、アレックス王子は私に告げたのだろう。

「私は『アレックス』を愛しています。ジルも大好きだけれど……きっと違うんです」

 顔を歪めて見上げると、アレックス王子が空を仰ぐ。
 互いの思いが、一方通行じゃないのはわかっている。私が苦しいのと同じ様に、私に告げたアレックス王子も苦しい。
 知らぬ振りをすればいいのに、それが出来ない人だというのはよく分かってる。

「選ぶなら公平であるべきだと思う」

 私を見つめて、そっと頬に触れる。今、紺碧の瞳に浮かぶのは優しさで、愛しさで、苦しさだった。私を心から案じた末の決意だと思うと、重ねたいのに手を重ねる事すらできない。

「だけど、どうしょもないぐらい君を愛していて、絶対に手放したくない。注いだ愛が足りないなら、この先の時間の全てで、誰よりも君を愛する。……君の言葉と未来を信じて戦うから、戻って来た時には私を選んで欲しい」

 そう言って、アレックス王子が唇を一瞬だけ重ねる。
 この熱が愛しい。そう何度も思った。触れる度に胸がいっぱいになる。

 触れ足りない熱のある眼差しで、アレックス王子が私を見下ろす。いつもの様にもう一度触れないのは、選べという言葉が本気だからだ。

「……分かりました。答えを聞くために、必ず帰ってきてください」

「ああ。必ず帰ってくる」

 跪いて見送る為の礼を取ろうとして止める。
 自分の唇に残る熱を確認する様に触れる。送り出すならば、今日は一人の女性でいたかった。
 背伸びをして、アレックス王子の頬に見送りの口付けを落とす。

「どうかご武運を。貴方に祝福がありますように」



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