2018年12月19日水曜日
四章 五十七話 成果と決断 キャロル16歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります
大地に落ちる木漏れ日が、風に揺れるのに気づいてサクラの木を見上げる。たくさんの緑の葉の隙間から、眩しい日差しが零れていた。
今日、コーエンに出掛けていたカミュ様とユーグが戻ってくる。そんな日に、漏れる光より葉の影に目が奪われるのはなぜだろう。
「ノエル? どうしたんだ?」
講義を一緒に終えて歩いていたラザールが、歩みを止めた私を振り返って訝し気に尋ねる。片手を上げて謝意を示してから、駆け寄って肩を並べる。
「すっかり夏ですね。日差しも眩しくて強いです」
歩くだけで汗ばむ額を拭う私を見て、ラザールが不服そうに顔を顰めた。
「この程度の日差しを強いだなんて甘い。ノエルはスージェルなら干からびるぞ」
砂漠の土地であるスージェルは一年中暑い。夏は日差しで肉が焼けるという話もある。
スージェルの暑さを力説するラザールの話を聞きながらのんびり歩いていると、校舎を見上げてラサールが呟く。
「おっ、カリーナ発見」
同じように見上げれば、窓に鈴なりになった令嬢専科の女の子達から悲鳴のような歓声が上がった。
その中にカリーナを見つけて小さく手を振ると、真っ赤になってから時間をかけて手を振り返してくれる。
「よし、ノエル交代だ」
押しのけるように私の肩を引くと、白い歯を見せて笑いながらラザールが一歩前に出た。大きく息を吸い込んで、カリーナに向けて大げさな礼をとる。
「カリーナ。今年は一緒に帰郷しないか? スージェルに戻る前に、商売の話でミンゼアに寄る。許してもらえるなら、君の両親に君を攫いたいとご挨拶してもいいかな?」
「お断りします。勝手に一人で行って、勝手にお帰り下さいませ。攫われる予定はございませんわ」
頬を膨らませて、赤い顔のままカリーナが拒絶する。
情熱的な友人は一番の令嬢を射止める為に、熱烈な告白を何度も繰り返していた。顔を合わせる度にだから、周囲も慣れてしまって苦笑いを浮かべて見守る。
「また、頑張りましょう。行きますよ、ラザール」
断られて肩を竦めたラザールを促す。
令嬢たちの前を通り過ぎ、暫くするとラザールが振り返って大きく手を振る。告白を突っぱねた後、カリーナは必ずラザールの背を見送ってくれるらしい。
「よし! 今日もカリーナの見送りを貰えたぞ!」
初めて会った時は大人しそうに見えたが、ラザールの中身はスージェルの日差しのように熱い。
「やり過ぎると、嫌われますよ。カリーナがいい子だから、気にかけてくれるんです」
「いい子ではなくて、いい女だ。惚れるなよ! 友と競い合うのは心が痛むし、ノエルだと勝ち目がなくなる。砂漠は立ち止まったら終わりだ。情熱と進撃はスージェルの男の矜持」
ラザールが胸を張る。実は彼のやり方に憧れる令嬢も少数いるらしい。カリーナはどうか?
私を見て赤くなるけど、今の彼女が最後に見つめる背中は私じゃなくてラザールだ。半分はすげない対応を詫びてだけど、半分はラザールの心が離れるのを気にしてるのだと思う。
「競う予定はないです。それに、今のカリーナ……」
上手く行きかけている事を伝えるようとして辞める。カリーナのはにかむ顔や仕草をを思い出すと少しだけ悔しい。だから、言いかけた言葉の先を待つラザールとの話題を変える。
「ミンゼアに寄ると言う事は、例の商売の話は上手く行ってるんですね?」
「得意分野だから領内も前向きだ。図書館の浮いた資金で上手く回せるから、冬にも動かせるだろう」
改善を迫られていたスージェルの図書館は、閉架図書の開放を条件に格安でシュレッサーに委託出来た。浮いた予算で事業を立ち上げるとラザールが言い出したので、二人で講義を利用して一つ計画を立てた。
お金と周囲への目配りは抜群のラザールが、冬の始動を明言したのなら問題ないだろう。
「じゃあ、あとは勝手にやってください」
冷ややかに言って、そっぽを向くのはラザールに意地悪をする為だ。可愛いカリーナを困らせる方法で射止めるなら、少しお仕置きが必要だと思う。
「ノエル!! 一緒に検討を重ねた計画だろ? 最後まで一緒にやろうな?」
眉を下げて慌てふためいて、ラザールが私のベストの裾を引く。もう、私がいなくても軌道に乗ると思うのだが、スージェルは厳しい土地柄で事業の失敗が多く心細いらしい。
「冗談です。カリーナの件も含めて手伝います。困らせるのはやめて、そろそろ笑顔にしてあげたらどうです?」
ずっとノエルを好きでいてくれたカリーナには、誰よりも愛されて幸せになって欲しいと思う。
「友に感謝だ! カリーナも他の商売も含めて! 早速だが、カリーナを笑顔にする作戦会議を始めよう。花を贈るか、手紙を送るか?」
花、手紙を送るのがアレックス王子ならとても素敵だ。でも、ラザールがやると節約にしか見えない。ならば、逆手をとるのがいいかもしれない。
「うちのアネモネ石のアクセサリーをお勧めします。ラザールがお金を掛けると本気っぽいです」
「今日は意見が厳しいな。……値引きしろよ?」
「愛情に値引きは不要だと思いますが? 善処します」
愉快そうに笑うラザールの背を叩く。
日に焼けた頬を染めてラザールが、カリーナなら大輪の花のモチーフがいいと言う。強引でも必ずカリーナを笑顔にするだろう。幸せにすると決めたら、無理してもラザールならする。だから、二人が上手くいくといい。
「王族控室に私はこのまま向かいますね」
「カミュ様の戻りは、昼からだったな。宜しく伝えてくれ」
中庭で別れを告げて本校舎に向かう。ユーグは今日はお城の研究棟に行っているから、会えるのはカミュ様だけだ。
控室の扉を守る一人が久しぶりにカミュ様の護衛騎士なのを見つけて安堵する。時間より早いけれど、既に到着しているみたいだ。
「おひさしぶりです。カミュ様は予定より早いですね」
「ええ。奥の演習室に入られておりますよ」
軽い挨拶を交わしてから中に入ると、いつもと違う光景に目を瞬く。普段は演習室のドアの脇で待機するギデオンが、ドアを塞ぐように立ちはだかっていた。
「何かありましたか?」
「許可があるまで、誰も入れないよう命令がありました。申し訳ないが、控室でお待ち下さい」
すまなそうに告げるギデオンに頷いて、ソファーに座って課題の確認をしながら待つ。
結界が張られた室内の様子は決して漏れる事はない。それでも気になって、頭を上げては扉を見つめる私にギデオンが苦笑いを浮かべる。
「気になりますか? 暇つぶしに話の相手になって差し上げましょう。四年生になる前に専科の移転が可能です。騎士専科――」
「しません!」
「残念です。代わりにジルを騎士団に戻しませんか? 彼なら――」
「ダメです! ジルはずっと私の側にいるんです」
全力で即答した私にギデオンが微妙な表情を浮かべる。ギデオンは騎士団のスカウトに相変わらず熱心だ。諦めきれないのか、私の背後に視線を移す。
「ジル、戻らないか? 騎士なら誰もが憧れる第一騎士団への推薦は確約するぞ。後見に私がつく」
一度は諦めてくれたのに、襲撃偽装がジルだと知ってから騎士団に誘う事が再び増えてしまった。
頬を膨らませて慌ててジルを振り返れば、何とも言えない表情を浮かべてジルが答えて良いかと首を傾ける。頷いて発言を許可するとジルが口を開く。
「ギデオン様、私は第一騎士団には参りません。ご了承ください」
騎士の礼をとってジルが答えると、残念そうにギデオンが肩を落とす。きっぱり断ってくれて安堵できるはずなのに、何故だか心が落ち着かない。
その理由を探しているうちに、扉が開いて厳しい声が響いた。
「アレックス! 話は終わっていません!! 我々の立場を思い出しなさい!」
カミュ様の叱責の声に被せるように、アレックス王子の怒声が重なって身を竦める。
「そんな事は分かってる! だが、これ以上は言うな!」
厳しい表情で姿を現したアレックス王子が、私の姿を見つけて狼狽するように瞳を揺らす。
「――っノエル! カミュ、話は止めだ!」
私の名を口にすると、カミュ様の叱責する声もぴたりと止んで室内に沈黙が落ちた。
険悪な雰囲気に戸惑う私を、アレックス王子が憂いを含んだ眼差しで見つめる。
「ノエル、来ていたんだな」
「はい。あの、カミュ様と何かあったんですか?」
向けられた言葉に弾かれる様に慌てて近寄ると、続きの言葉を言うより先にアレックス王子の手が私の頬を掴んでしまう。
「な、にゅ、を――」
それでも問いかけようとする私の言葉を遮る為に、唇に人差し指を押し付けられる。
感触を楽しむように人差し指が軽く二度三度と唇を叩いて、アレックス王子が表情を緩ませる。
「気にしなくていい。カミュと少し意見が割れただけだ。後で仲直りするから、君は知らぬふりをしていてくれ」
どうするか迷うように震わせた唇をアレックス王子の人差し指が今度は強く押す。
「命令だ。これはカミュと私の問題だからね」
命令と言われれば従わざる得ない。それでも納得がいかなくて軽く睨むように見上げると、優しい眼差しに変わって耳元に唇を寄せる。
「君が好きだよ。私を信じてくれるね」
誰にも聞こえない小さな声で落とされた言葉に、魔法に掛けられたように問いかける言葉が消えてしまう。
言葉を飲み込むように私が息を飲むのを確認すると、唇から離した指を満足げに自分の唇に当てて微笑む。
「いい子だ。もうすぐ講義だよ。ノエルもカミュも遅れないようにね」
頭を撫でるとアレックス王子は一足先に部屋を出ていってしまった。
微妙な状況に置いていくのに、身動きできなくなる言葉を囁いて、知らぬふりを命じるなんて狡いと思う。
小さくため息をついてから、カミュ様が残っている演習室のドアを覗く。厳しい表情で唇を噛むカミュ様の横顔に声をかける。
「カミュ様、大丈夫ですか?」
私の声に顔を上げたカミュ様は、前髪が伸びた所為か以前より大人びて見えた。
「……帰ってきて早々に、お恥ずかしい所をお見せしてしまいましたね」
私に向かってゆっくり微笑みを浮かべる。だけど、笑顔は儚げで何も聞かないなんて無理だ。
「何かありましたか? 聞くなと命令されましたが、カミュ様が辛そうなのも嫌です」
小さく頷いてから、無理に明るい笑顔をカミュ様が浮かべる。差し伸べた手が、友に無理をさせてしまう。
「ありがとう。でも、王家の事情です。頭を冷やしてアレックスともう一度話して、皆にもきちんとお伝えしますね。今日は控室に立ち寄らぬよう、クロードとドニにも伝えて頂けますか?」
追及が許されない回答に頷くと、講義に向かいましょうと肩を並べて促される。
その後は、いつも通りのカミュ様だった。コーエンでの話もたくさんしてくれた。でも、ユーグの無謀な行動やコーエンでの食事など当たり障りのない事ばかりで、本来の目的など大事な事には一切触れない内容だった。
講義が全て終わると、直ぐに学園を出る。
ドニとクロードには、休み時間のうちに控室が使えない事は連絡を済ませた。二人も、アレックス王子とカミュ様の様子に気づいて心配していた。
何があったのか。予感はあったから答えを確かめたくて、お城の研究棟に寄ってユーグに会う事にする。
至る所で怪しげな音が響いている城内の研究棟の中を進む。ユーグが占拠している研究室は一番奥だ。頑丈そうな扉を恐る恐るノックする。
「ユーグ、いますか? 開けても大丈夫ですか? 爆発しませんか?」
開けた拍子に大爆発だってしかねないから、ここの入室は慎重になる。
「いるよ。今は開けても大丈夫」
癖のある声の返答にゆっくりとドアを開ければ、私の分と思われる茶器を用意したテーブルでユーグが待ち構えていた。
「ただいま。ノエルが来ると思ってた。アレックス王子とカミュ様は揉めるだろうし、カミュ様も自分では話しにくいだろうからね」
複雑な顔でそう言って、自分の従者に外で人払いするように命じる。従者が一抱えの本と椅子を持って退室するのを見送ると、手招きしてユーグが私を呼んだ。
「ノエル、もう少し前」
言葉通り近づけば、椅子に座ったまま私を引き寄せてユーグが腰に抱きつく。相変わらずの距離感に苦笑する私の腰で、ユーグが深いため息を漏らす。
「大変でしたか?」
「うん。ちょっと色々あった」
すっきりとしない言葉に、伝達魔法で幸せかと聞いてきた事を思い出す。
「ユーグ、幸せですか?」
「あ、覚えててくれたんだね。今は幸せだよ。手の届くところに君がいて、君の匂いがするから」
甘い言葉に居心地が悪くなる。抱きしめるのはユーグの挨拶だと分かっていても、アレックス王子以外の体温には罪悪感が湧いてしまう。
貴方だけ、私だけ。そんな風に思うほど好きだと、些細な事で気付かされる。
「そろそろ手を離して下さい。聞きたい事がたくさんあります」
腰に回された手を離そうとすると、子供がイヤイヤをする様にユーグが首を振る。一層の力を込めて縋るように抱きつく姿に思わず手を止める。
「あと、少しこのままでいてよ。僕はこれから君に残酷な決断するかもしれない……嫌われる前の最後だから」
その言葉に目を瞬く。ユーグに困らせられる事はこれまでもたくさんあった。でも、嫌いになった事なんてない。
「嫌いになんかなりませんよ。私たち友達ですよ?」
「うん。でも、君から大切な者を僕は取り上げてしまう」
絞り出すような声で縋りつくユーグの頭に手を乗せる。猫のように柔らかい濃い紫の髪をそっと撫でると金色の瞳が私を見上げた。
「以前は目的の為にただ走れた。今は誰かの為に立ち止まりたくなる。成果と大切な人を天秤にかけて動けなくなるなんて、僕たちには許されない。苦しいよ。探求者に心は邪魔だ」
初めて会った時に探求の為ならば、死をいとわないとユーグは明言した。
あの時、シュレッサーの覚悟を知って悩んで、私は誰かの犠牲の上に知らずに立っている事に気づいた。
あの時のユーグなら決して言わなかったであろう言葉。時を経てユーグも変わった。誰かを想って立ち止まる事を知ってくれた。
「想う事は邪魔じゃないです。立ち止まる事もあるけど、誰かの為だから頑張れる事もあります。ユーグが迷って手を伸ばすなら、私は握ります。友の手は離しません。……それに覚悟はしてます。ユーグ、探求者として正しい決断を胸を張ってして下さい」
驚いたように私を見上げてから、柔らかな弧を艶のある眼差しが描いてユーグの手が私の腰から離れた。それから私の手を取って、その手に額を当てる。
「ありがとう。僕はシュレッサーの探求者として決断しなくてはいけないね」
額から手を離すとユーグが向かいの席を勧めた。自分の従者が人払いの為に外に出ていることに気づいて、ジルにお茶を入れるように頼む。
「決断の内容を君は知っておくべきだと思う。話していい?」
真っすぐ尋ねるユーグに頷く。
ルナの言葉、ディエりの忠告、アレックス王子とカミュ様の諍い。聖女。覚悟はできていた。
温かいお茶の入ったカップが私とユーグの前に置かれると、一口だけ口をつけてからユーグが口を開く。
「質問をうけていた、白い神と光の女神は同一の存在で間違いない。光の女神で統一する。コーエンの目的の一つだった壁画も新しいものを見つける事ができた。最初よりも古い時代を書いたものが圧倒的に多くて、驚く事がたくさんあった」
言ってから、ユーグが赤い火の属性の魔力で空間に文字を書く。
『本来、人は魔力を持っていても使えない』
その意味を問う為に首を傾げる。
「エトワールの泉が生まれる前は、人は魔法が使えなかった。魔物が現れれば剣だけで戦うしかない。大崩落が起これば、光の女神は魔物の王と戦う。その間、溢れた魔物は戦うすべのない人を襲って甚大な被害をだしていた。エトワールの泉は魔物に抵抗する魔法を使えるように、人に魔力を使う力を与える為に本当は生まれたんだ」
確かに魔力印の儀式をする前は魔力があっても魔法は使えない。それに、魔法が使えるのはエトワールの泉を飲むことが出来る貴族だけで、エトワールの泉を飲むことがない庶民も魔法使えない。
「魔物を創る術式も、術式自体は魔力の入れ物を固定するだけだ。流石に根源を生むのは神の領域だよね。人に魔力を使う力を与える為に、光の女神はその身をエトワールの泉に変える。神の力は泉の水として、人に分け与えらるようになった。だから、光の女神の存在が世界から消えた」
魔力印の儀式を思い出す。エトワールの水は魔力と結びついて使える力に変わった。体の中に渦を巻く魔力は、光の女神の力の欠片の証だった。
「でも、人の力だけでは魔物の王とは対峙できません」
力のお陰で、中規模崩落でも多くの魔物を倒して被害を止める事ができた。でも、魔物の王自身の欠片と戦った時は、ジルと二人でも敵わなかった。本物の魔物の王ならばもっと強い。
私の問いかけにユーグが頷く。
「うん。人が持てる魔法だけでは魔物の王と戦うには不足みだいだね。だから、女神はもう一つの力を泉に残した。それが聖女の祈りと王族の力だね」
絵本に書かれた文章を思い出す。
愛する方の為に祈りを捧げると、水が七色に輝いて星のように天に昇り、愛しい人のもとへ祝福となり降り注いだ。
祝福は一番愛する人に多く降り注ぎ、思いを寄せ合うすべての人にも降り注ぐ。
「何故、祈れるのは精霊の子で、受け取れるのは王族だけなんです? 愛する人の力に皆なりたいのに……」
気が付くと胸の前で手を握りしめていた。もし私の祈りが届くなら、一番大好きな人の為に私が力になりたい。
誰よりも愛しているのに、祈れず役に立てない事実に胸が締め付けられる。
「聖女に精霊の子が選ばれたのは魔力の質の問題だと思う。仮説だけど、魔力を泉に溶かす事で一定量の魔力が泉に溶け出して、光の女神の力と結びつく。それが祝福という力に変わるんだろうね」
精霊の子のレポートにもその性質は書かれていた。魔力は周囲に溶けやすく、自然にしていても魔力が溶け出す。更に、望めば魔力を溶かして他の人に与える事も奪う事も出来る。
「ただ、愛し愛されると、受け手を王族に限定する必要が見つからない」
ユーグが不満そうに眉を顰める。
せめて、その条件がなければどんなに良かっただろう。
精霊の子が愛した人なら誰でも良ければ、私は自分が祈れない事を悲しまずに済んだ。愛し愛される条件がなければ、祈れなくても側にいられた。
そこまで思ってしまってから、初めて自分の勝手さに気づく。自分の事ばかりで、祈る人のことも、戦う人の事も何も考えていなかった。
そして、光の女神の選択の意味に漸く気づく。
「ユーグ、分かりました。その条件の意味が……限らなければ、ダメだったんです。昔、この国は跡継ぎの子供を隠さなければいけない程、人と人は争っていた。今だって、精霊の子を利用しようとする人がいる」
もし、精霊の子が誰にでも自由に祝福を送れるとしたらその存在を利用する人が必ず出る。今だって精霊の子の女の子は魔力を奪う道具にされるのを恐れて姿を隠す。彼女たちを利用して大きな力を得られるなら、手に入れて利用する人が後を絶たない。
その力が魔物の王ではなく、人と人の争いにまで使われたらどんな事になるだろう。
「成程ね。争いの多い時代に人と人の争いに使われるのを避ける為に、王族に限ったのか」
その言葉に頷く。そして、もう一つ私の身勝手さが気付かせてくれた事を口にする。
「それから、祈りを捧げた精霊の子がどうなるか分かってますか?」
その問いかけにユーグが首を振ってから、目を僅かに細めて何処か遠くを見る眼差しで考え込む。
「壁画には聖女のその後は残っていない。聖女シーナの事例が物語として一つあるけれど、彼女は魔力の殆ど持っていない異界の人だ」
「聖女シーナは命を落としました。魔力が彼女にはないから、力の全てを使い果たしたと書かれています。精霊の子は普通にしていても魔力を失う体です、祈りに魔力を使えば同じ結末が待つ可能性が高いのではないですか?」
私の言葉に、暗い顔でユーグがゆっくりと頷く。
精霊の子は祈りに体がもたない。そして、王族が身勝手な力の為に精霊の子を利用しないとは言えない。
そこに愛があればどうだろうか。
力を受ける者は愛する人を道具のように使えるか。祈る側は誰の為に身を捧げる決断ができるのか。
「重い決断。人が判断を誤らないためには、これしか方法がないように私は思えます」
過ぎた力は争いを生む。だから、力を得るのに相応しい者を選ぶ。そして、愛という名の最も重い制限をつける。
ユーグが顔を歪めて、怒りをぶつける様に机を大きく叩いた。
「どんな顔で僕は報告書を書けばいいんだ! 君と殿下を引き裂いて、カミュ様まで傷つける!」
「ユーグ! 貴方は自分の仕事をしているだけです。その成果はたくさんの人を救います!!」
私の言葉に怒りを消すと、途方に暮れた子供のような瞳になって見つめる。
「本当なら口伝や書物で王家に伝わっていた筈だ。だけど、混乱の多い時代で、古式文字も曖昧、壁画は埋もれ、必要なのは二百年に一度、いつの間にか王家から情報は失われた……。初めから知っていたら、君たちは想いを抱えて苦しまなかった」
探求者として情報を大切にするユーグは、失われた情報がままならない未来を生んでしまった事は悔しいのだと思う。
でも、私は知らずに愛した事を悔やんでいない。想えてよかった。そして僅かな間でも想ってもらえて良かったと思う。
「ユーグは次の時代に残してあげて下さい。貴方は探求者です。正しい成果を人に広めて残す。それも大事な仕事ですよね」
ユーグがきつく目を閉じる。いつから彼は私たちの為に真実を抱えてくれていたのだろう。
演習の内容を超える真実は、未来まで残さなくてはいけない大事なこの国の礎だ。これ以上は躊躇わせてはいけない。
テーブルの上に手を差し出してから、ユーグに聞こえるように二度机を叩く。ゆっくりと目を開けたユーグが私の手をじっと見つめる。
「ノエル、僕はまだその手を掴めないよ。君に告げていない事実がまだあるんだ。壁画に書かれたのは『王冠を抱く光の女神』だ。『光の女神』の魔力印はカミュ様も含めて王家の血を引く者に何人かいる。でも『王冠』は王家の中でも王の資質が高い者にしか発現せず各世代に一人。今は現国王と殿下しか有していない」
予感はあった。ルナはアレック王子に固執していたし、『君にエトワール』のメインヒーローはアレックス王子だ。六人同時攻略でも唯一ヒロインとラストダンスを踊る。
まだ見ぬ最後の一枚のスチルは、泉で祈りを捧げるヒロインと最愛の祝福を受けるアレックス王子、そして共に戦う皆の姿の気がした。
「一つ教えてください。聖女は見つかっているんですよね?」
「噂はコーエンで聞いていたから、ルナの件が片付いてすぐカミュ様と会いに行った。僕は殿下なら君を渡してもいいと思ってた。カミュ様も殿下には好きな子を待たせたいと言って、聖女の相手を自分が引き受けるつもりだった。だから皆にはずっと秘密にしていた」
予想以上に速い動き出しに驚く。私が最初にコーエンの話を聞いたのは、壁画の件で春になってからだ。
「どんな子ですか?」
「良い子だよ。僕たちより二つ上で、コーエンのマグマみたいな赤い髪と赤い瞳なのに大人しい子。短い時間だけどカミュ様は一生懸命向き合ってきた。だから、治療術式を使ってあげられない事も悩んでた。今度は命を掛けさせなきゃいけない。きっと苦しむんだろうね」
その言葉に唇を噛んでから、ユーグに精一杯の笑顔を向ける。
ユーグが倒れるように椅子の背に身を預けて紫の髪が流れると、天井を仰いだ顔を苦しそうに片手で覆った。
「成果が導く結末は、悲しいばかりだなんて……ひどいね」
「そんな事ありません。私たちが誰かを守りたいと思うように、たくさんの人が守りたいものを持っています」
昔、ユーグが教えてくれた。たくさんの人の命を救う薬や研究は、見知らぬ誰かの為に戦った探求者の犠牲の上に成り立っている事もあると。
「次代の王であるアレックス殿下の為に、私たちが選ぶべきなのはこの国の未来です」
ユーグが顔を上げる。その目にはもう迷いはなく、差し出した手に手が重なる。
冷たくなった指先を心配げに見つめるユーグに、しっかりと笑って頷く。
「ユーグ、次代の王の探求者として中央に報告を。私は次代の王の臣下です。アレックス殿下の為に、一緒に頑張りましょう」
自分だけの大切なものを零さない為に握りしめた手を開けば、その手にはきっと握るより多くのものを乗せられる。握った手では守れたものを零すとしても。
研究棟のユーグの部屋を後にするともう日暮れだった。
足は自然と研究棟の中庭に向かっていた。探求者は室内にこもりがちだから、ここには人影がない。
一本の木を見つけて立ち止まる。舞踏会の夜、アレックス王子がキャロルとノエル、二人の私を見つけてくれた場所だ。
ユーグの前では装う事ができた平静が崩れそうになる。でも、ここで我慢出来たら、私はアレックス王子に恋の終わりを告げて、王族の責任を全うするように進言できる気がした。
目を閉じて大きく息を吸う。一つ息をする度に、大事な思い出が溢れる。
重ねられた唇の感触。抱きしめられた体温。愛し気に覗き込む紺碧の瞳。月に照らされた金の髪。
一時、愛する人の全てを手にする事が出来た。ノエルの人生を選んだ私には、それだけでも十分な幸せだ。
「ジル。あの時は有難うございます。引き合わせてくれたから、女の子としての幸せな時間を手に入れる事が出来ました」
私の前に進み出て、ジルが手を伸ばしてゆっくりと髪を撫でる。あの日、私の背を推した風と同じ様に優しくて、泣きたくなるのを拳を握りしめて耐える。
「ノエル様、諦めるなんて貴方らしくありません」
許可なくジルが私に意見を述べるのはとても珍しい。オリーブ色の瞳がいつにない厳しい眼差しで私を見つめる。
「諦めていません。最善を選んだだけです。ジルだって魔物の王の強さは知ってる筈です」
対峙したから分かる力の欠片ですら、あれ程強かったのだ。次善の策を選ぶ余裕なんてない。
ジルが手首を一度回すと綺麗な蝶の伝達魔法が現れる。
「ジル? 何処に連絡するのですか?」
「殿下をお呼びいたします。本当の貴方は迷ってらっしゃる。何故貴方が見知らぬ者の為に、何かを失わなくてはいけないのですか? 貴方から大切なものを奪った末の幸せなんて認めたくありません。決断を止められるのは、あの方だけでしょう」
「ダメです! 呼ばないで! ちゃんと決めたのに、この場所にアレックス殿下が来たら私……」
慌ててその腕を掴んで引き留めると、伝達魔法の蝶の姿が消える。
ジルが何かを失う事を嫌う気持ちは知っている。そして、与えられるものを、当たり前のように受け取る者を嫌っている事も。
「だから、お呼びするんです。貴方には零してほしくありません。それが一番大切なものなら尚更です」
夢中で腕を抱えるように捕まえて首を振り続けると、ジルが私の肩を強く抱き寄せた。私から求めて抱き着くことはあっても、こんな風に強引に抱き寄せられることは初めてだった。
「ジル?!」
「聞き分けがありませんね。少しこのまま、大人しくして頂きましょう」
抱きしめられた体は身じろぎすらできず。あっという間にジルは再び伝達魔法を発動してしまう。
「殿下。ジルです。至急あの晩の場所にお一人でいらして下さい。でなければ、大切なものを貴方は失います」
言葉を乗せた蝶が赤と紺の混じった夕闇の空を舞う。呆然と見つめた蝶はお城の居住地区の方に向かった。大好きな人はきっとすぐこの場に現れるだろう。
「ジル酷いです! 嫌だって言ってるのに! 嫌いです!! どうして、私に皆を守らせてくれないんですか! 誰かを不幸にして、失わない選択だって辛いんですよ!」
ジルが私を抱きしめる腕に力が籠る。耳朶に聞いたことがない程苦し気なジルの声が落ちた。
「貴方は愛しい人が、他の方を愛しているのを隣で見る辛さを知っていますか? 自分が触れたいものを誰かが奪う。決して傷みを見せずに笑えますか? 一度も手に入っていなくても辛いんです。一度は手に入れた貴方に耐えられますか?」
アレックス王子が私以外の誰かを愛して、その隣に臣下として立てるのか。
同じような眼差しで、同じ様に触れるなら、きっとその度にとても傷つくのだろう。どこまで私は耐えられるのか。
「苦しいのは分かってます。それでも、最善の道をと決めたんです」
「……っても、貴方が幸せなら私は幸せでした。殿下が戦うなら、彼が勝つよう貴方の為に命を懸けます。一番愛する者を失う辛さで貴方が苦しむのは嫌なんです。……なら、愛する人に愛されて幸せな貴方を見ていたい。私の身勝手だと分かっていますが、お許しください」
聞き取れない言葉があったけれど、ジルが私を大事にしてくれる気持ちは分かった。ジルの言う通り愛する人が誰かを愛するのを見るのは辛い。でも、未来を救えない決断を選ぶことは私には絶対できない。
アレックス王子がここに来てしまう前に逃げ出したくて、腕の中で必死に身じろぎをする。
会ってしまったら、気持ちが揺らぐ。会ってしまったら、今すぐ伝えなくてはいけなくなる。
「嫌です!!」
「――っ」
パンと大きな音がしてジルの身が弾かれた。倒れ込んだジルの従者服の袖が破れて僅かに血が滲んだ。
「ジル! 今のは何です? 怪我をしてます、私の所為ですか? どうして?」
慌てて駆け寄って傷口を押さえる。思ったよりも傷は浅いが、至る所が擦り切れて血が滲んでいた。
「今のは誓約による罰だと思います。貴方が拒絶しているのに強く捕まえた所為でしょう。私が捕まえていた場所は痛かったですか?」
怪我をしているのにジルが私の腕の方を心配してそっと撫でる。慌てて首を振ると安堵のため息を漏らす。
「従者の領分を越えた処分は、いかようにもお受けいたします。ですから、殿下との事は諦めずに、どうか……せめて、愛される貴方の幸せな顔を私に見せていて下さい」
優しく笑うジルの瞳はちゃんと前を向いた明るいオリーブの色をしている。なのに、とても切なく苦しそうに見えて、私は胸が締め付けられるほど悲しくなる。
どうして、ジルは私をここまで大事にしてくれるのか。過去を話した時に、家族だと言ってくれた。けど、あまりに優しく必死に守ってくれるジルに、家族だと思っているのに私は同じだけの気持ちを返せていない気がした。
後方から走る足音が聞こえて振り返る。
あの晩と同じ様に私を求めて走る姿を見つけて、思わず視界が滲む。未来への責任と貴方への愛とジルの願い。秤にかければ選ぶべきものは見えていたのに、頬を落ちる涙と一緒に零れていきそうだった。
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