2018年12月17日月曜日

三章 五十一話 夢とキャロルと恋 キャロル15歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 私、キャロルには小さい頃から夢があった。
 一番似合うドレスで、大好きな人と舞踏会で優雅に踊る。

 今日の私にはマリーゼの愛情という最高の魔法が掛かっている。

 念入りにお手入れされた肌にきらきらと粉をはたく、艶やかに彩られる唇、まつ毛も綺麗にカールされて濡れたような色を湛えさせていく。 
 ドレスは水色に白いレースがたっぷり使われた甘い色合い。でも、デコルテは大きく開いて、ウエストもくっきりとさせた大人っぽさのあるデザイン。
 出来上がりは、もう別人だ。

「マリーゼ、ありがとうございます。でも、これは偽物です! ノエルでも、キャロルでもありません!」

 私の悲鳴にマリーゼが笑う。ゲームの悪役令嬢のスチルとイメージが全然違う仕上がりは、とても気に入ってる。でも、この姿であの日の女の子として立つのには罪悪感を感じる。

「初めての化粧ですから、そう思えるんです。お嬢様は元が良いんです」

 右を見て、左を見る。違う事ばかりが目について戸惑う。ノエルと分からない方が良いから、これで良いと言い聞かせてもそわそわしてしまう。

「そうですね……ジルを呼んで参りましょう。一番近くで見ている者の意見を聞けば、少しは落ち着かれるでしょう?」

 マリーゼがおかしそうに吹き出しながら部屋を出て行く。
 ドアが閉じると、ジルに会う事すら恥ずかしくなってきた。部屋中を歩き回って、カーテンの中に隠れる。ジルが微妙な顔したり、噴き出したら私はその場で倒れるだろう。
 ドアをノックする音が響いて、心臓が跳ねる。

「キャロル様?」

 姿が見当ない事を訝しむ声の後、まっすぐカーテンに向かってくる足音がする。
 開けられるのと、自分から顔を出すのと、どちらが得策かを天秤にかけるうちにカーテンが開いた。
 少しだけ目を見開いてから、未熟なオリーブの瞳が優しく笑う。

「……お綺麗です」

「本当ですか?」

「ええ。見惚れてしまいました。こんなに美しい方を見たのは初めてでございます」

 いつも通りの笑顔で降ってくる賛辞は、どうしてこんなに馴染むのだろう。絶対に嘘はつかない確信と安心感が私の中にいつもと違う自分を受け入れる余裕をくれる。

「本当に? 絶対ですか? 殿方が見て、……いいなって思います?」

「はい。間違いなく、あの方も愛おしいと思う筈です」

 漸く素直に笑って飛び跳ねる。
 カーテンから出て、くるくると回るとふわりと広がるドレスの裾が気持ち良かった。
 鏡の前まで踊る様に歩く歩幅がノエルの歩幅だった事に気付く。綺麗に着飾って大股なのはまずい。
 令嬢のお作法の出番は随分と久しぶりだ。鏡の前でとった令嬢の礼はぎこちない。男性の礼なら完璧なのにと思う。

「ちょっと練習します! ジルは殿方の役目をお願いしますね」

「畏まりました」

 ジルと相対して、ゆっくりとスカートを摘まみ上げて令嬢の礼を取る。

「キャロルと申します」
 
 まずまずの出来栄え。綺麗な所作でジルが膝まづいて、手を差し出すと、指先まで気にしてそっと手を乗せる。この時の指の揃え方が重要だ。柔らかい形できちんと揃える。

「お手を取ることをお許し頂き、光栄です」

 ジルが指先にキスを落とす。舞踏会で倒れる令嬢の気持ちが初めて分かった。こんな風に大切に扱われて、落とされる唇の感触には恥ずかくて倒れる力がある。

 それに、私のジルは従者なのが勿体ない涼し気な美形だし、所作も完璧。改めて見ると本当に素敵な大人の男性だと思う。

 そんな風に思っていた所に顔を上げられる。いつもと違う艶のある男らしい笑みに、慌てて空いた手で顔を覆う。

「ダメです! 令嬢の立ち位置は刺激が強すぎます。私には耐えられません!」

「そうおっしゃられても……今日はご令嬢になるのでしょう?」

「ジルも素敵すぎます。狡いです! 崩してください。変な顔でしてください。この先の練習に進めません!」

 沈黙が落ちた後、いたずらっぽくジルが私を見上げる。お願いだから、この立ち位置でその顔は辞めて欲しい。どんどん恥ずかしくなってくる。

「麗しい方。貴方はとても美しい。愛しい方。可愛らしい細い首筋に口づけたくなる。愛してます。貴方の為なら何でも出来ます。私の女神、可愛い天使」

「私の女神と可愛い天使はお父様の十八番です! ジル、私で遊ばないで下さい!」

「練習でしょう?」

 楽しそうにジルの褒め殺しが続く。何度も何度も練習の為に褒める言葉と愛の言葉を囁かれる。
 人間って頑張ればどうにかなるものだ。令嬢の挨拶から指先へのキスまでの恥ずかしさを何とか克服する。

 ジルが手を乗せたまま立ち上がると、腰を引きよせる。昔は腰の辺りまでしかなかったのに、今はお日様のにおいのする肩に頭が届く。

「では、ダンスを」

 耳元で舞踏会で人気の歌劇の曲を口ずさむ。少し高い時の声はドニにもよく似てて本当に綺麗な声だと思う。愛を捧ぐ歌を紡がれながら、ゆっくりジルのリードに合わせてステップを踏む。

「ジルは声も綺麗で上手です。狡いです。何でもでき過ぎです」

「歌は昔から好きなんです。旅芸人時代はこっそり舞台にも立ちました」

 器用な人だと思う。リードだってその辺りの貴族より上手い。丁寧なリードに任せて、美しい歌声を聞きながら踊るのは心地よい。思わず目を閉じる。
 絶対の安心感と慣れた温度が心地よくて、身を任せる感覚を楽しむ。ダンスだけは令嬢の方が楽しい。

「キャロル様、目を閉じるのはおやめ下さい。危ないですよ」

「ジルなら大丈夫です」

 目を閉じたままでもジルとなら絶対失敗せずに踊り切れる自信があった。
 小さなため息が耳元で堕ちる。

「零れ落ちるか、届かないものばかりですね」

 その言葉に目を開く。思ったよりもずっと近くにあったオリーブの瞳が悲し気に揺れた。

 久しぶりの歌に旅芸人の頃を思い出したのだろうか。ジルにとって過去の楽しい思い出と失った痛みはいつも隣り合わせだ。

「ジル? 悲しい事を思い出しましたか? 私はここにいますよ」

 繋いだ手を僅かに握る。側にいると約束した。ジルにとって私はきっと家族みたいな存在だから。失わせたらいけないと思う。
 ジルが一度目を閉じてから笑う。未熟なオリーブの瞳に揺れる気持ちはもうない。

「キャロル様は、大切なものを掴んで離してはいけません。貴方の幸せを見つめる事が、私の幸せと思っています」

「ジルはジルの幸せでなきゃ、ダメですよ?」

「私の幸せなんです。貴方が笑っている事が……」

 ジルのステップが止まる。腰から手が離れて立礼をとる。ダンスの終わりの所作だ。

「貴方に告げる言葉に嘘は一つもありません。練習はもう十分かと存じます。殿下の前に愛する美しい令嬢とお立ち下さい」

 もう一度、今度は従者の礼をとる。お日様の香りが突然離れると指先が冷たく感じた。
 いつも通りに笑うジルの姿に、もう悲しいことが彼に起きませんようにとそっと願う。

 ドアがノックされてマリーゼが顔を出した。

「お嬢様慣れましたか?」

「はい! ジルのお陰で完璧な令嬢になりました!」

 マリーゼがジルに向かって微笑むと、ジルが穏やかに頷く。最後の全身チェックを終えると、鞄と上に羽織るケープをジルが抱えた。

「お嬢様、エントランスで奥さまと旦那様がお待ちです」

 ノエルの歩幅にならないように、小さめにゆっくりと手を前に添えて歩き始める

 エントランスでは、お母様を気遣うように、お父様が肩を抱いて待っていた。

「お母様、体調はいかがですか?」

「ありがとう。大丈夫よ。キャロル、今日はとても綺麗だわ」

 そう言って私の手をとってそっと撫でる。その横でお父様がちょっと膨れてる。

「私の可愛い天使、今日は一段と可愛いね。だから、心配なんだ。門限を過ぎたり何かあったら、お父様は相手が誰で全力で潰してしまうかもしれない」

「レオナール。そんなこと言うと嫌われますよ」

 お父様が寂しげに眉を下げて、久しぶりに腕を広げて抱き締める。
 最近は息子としてシビアな事を要求されていたから、どんな発言をしても甘すぎるお父様の姿はとてもくすぐったい。

「お父様、大好きです!」

 私の言葉に嬉しそうな顔でお父様が更に強く強く抱きしめてから、相手は潰そうと呟いたのは聞かなかった事にする。

「では、キャロル。鍵と招待状ですわ」

 お母様が貸してくれた鍵は二つ。一つは普段開かない研究棟の裏庭の鍵。もう一つはその近くの戦前準備部隊の王宮倉庫。お母様は人気のないこの場所に舞踏会の度によく通っていて、偶然お父様と出会ったらしい。何のために通っていたかは教えてくれない。

 招待状は遠い北の国の令嬢の名前で急な来賓参加を認める内容。お父様がこっそり用意してくれた。

 受け取った私を、お母様が抱き寄せる。少しだけ触れるお腹の感触は我が家にくる新しい命。

「我儘は一度だけなんて決めないでね。今日も明日もずっと、貴方には私達の子供として我儘を言う権利があるわ」

 お母様は最後まで私の選択に反対していたと聞いている。お父様に愛されて、お母様は叶わない夢を手放す事ができた。だから、私が叶わぬ夢を選んで、愛する事を諦めるのを心配している。

「辛かったらキャロルはお母様に一番に相談します。それまでは、応援して下さい」

 私の言葉にお母様がゆっくりと腕を放す。浮かんでいるのは、いつも通り優しく私を見送る笑顔だった。

「何かされたら、枝でも箒でも得物になります。最悪ドレスはたくし上げても、勝てば大丈夫ですわ」

 お母様の最後のアドバイスはどんな事態を想定しているのか。お父様が隣で顔を青くする。

「キャロル。男が顔を寄せたら欠伸をする振りをして口を覆う! 当主命令だよ。男は間合いに入ったら隙を狙って掠め取る生き物だからね」

 キャロルは既に一度掠め取られております……と思って、自分で赤くなる。

 両親に相対して綺麗に令嬢としての立礼を取る。

「お父様、お母様。キャロルの我儘を聞いて下さって有難うございます。私はノエルの自分が大好きです。大好きな自分の明日の為に今日があります。たくさん楽しんでまいりますね」

 顔を上げた二人は寄り添いながら、柔らかく微笑んで送り出してくれた。


 馬車はモーリスおじい様が調達してくれた。
 隠れる様に待つ馬車には、異国の令嬢の突然の訪問を語る珍しい異国のランプが揺れる。
 御者は見た事のない人だけど、私を見て、ジルを見て、目を懐かしそうに細める。

 私は手首を回して伝達魔法を発動する。

「こんばんは。ちょっと調べたい用事が出来ました。舞踏会に遅れますね」

 ノエルの言葉を乗せたツーガルが飛び立つのを見届けて、馬車に乗り込む。
 
 夜の闇を真っすぐお城に向かって駆け抜けた馬車が止まる。
 私の知らない声が門番に見知らぬ家名と舞踏会の来場を告げた。

「来賓入門!」

 力強い声の後に門が開く音がして、馬車が再び動き出す。レースの端を直して、最後の身支度を整えて息を吐く。
 マリーゼの魔法がかかる私はキャロル。幼い恋を慕う異国の令嬢。おとぎ話のような時間の始まり。

 馬車が止まるとノックの音がしてドアが開く。少し長い銀の髪に上品な口ひげ、年齢はお父様よりも上の見知らぬ男性だ。

「よく出来ておりますでしょう?」

 見知らぬ人の声はジルの声だ。驚いて顔を覗き込む。二十年たったらこんな風になるかもしれないと思えないこともない。

「別人です。私よりもっと完璧な別人です」

「細工しておりますから。今日の私は銀の髪を持つ異国の執事でございます。さぁ、お嬢様。どうぞ」

 差し出された手を取って馬車を降りる。振り返った御者も銀の髪に変わっていて、目が合うと片目を閉じて見せる。

 奪還の日の偽装の件は、ジルもリードもカミュ様も答えをくれない。異国の用意を周到に整えるおじい様。同じ部署の二人。きっと、誰も触れてはいけない秘密があるのだろうと推測する。
 
 中庭に出ると舞踏会の音楽が聞こえてきて、胸の鼓動が早くなる。思わず立ち止まってしまう。この姿で皆の前に立つ。

 見つからない? 笑われない? 失敗しない?

「キャロル!」

 癖のある声に顔を向けると、盛装に身を包んだユーグが研究棟の方から歩いてくる。

「ジルから連絡を貰って待ってたんだよ。異国の美しい人のエスコート役をしてもいい?」

 ジルを振り返ると口元が穏やかに笑う。本当に何でも知っていてくれる。私が怖気づいて立ち止まる事も、誰なら私をきちんと連れて行ってくれるかも。
 
 差し出されたユーグの手に手を重ねる。
 目に映る全てが夢みたいだ。中庭の花も、噴水の水の動きも穏やかで美しく幻想的に見える。

「すっごく綺麗だよ、キャロル。渡すのが惜しくなりそうだね」

 重ねた手に、一度唇を落としてユーグが歩き出す。
 そっと窺う横顔はいつもと違う。ユーグは滅多に社交界には顔を出さないけど、参加すると失神者が続出する。切れ長の目に艶のある眼差しと薄い唇。時折、眩暈がするぐらい色っぽい微笑み見せる。
 その手に引かれて、舞踏会のドアが開く。

 息を呑むような気配が広がって会場が静寂に包まれる。楽団の美しい音楽だけが会場に響いていた。

「君が綺麗すぎるから、皆が声を失ってる」

 ユーグが見知らぬ令嬢の手を引く事に驚いたと思っていたのに、指摘されて見渡せば視線の多くが自分に向けられていた。慌てて俯いた顔が恥ずかしさに赤く染まる。

「違います。知らない女の子に驚いているんです」

「……まぁ、いいや。さあ、君を届けよう」

 一歩、一歩、歩き出すと、戒めが解けるように人々にざわめきが戻る。なのに向けられる視線は一向に減らない。
 ダンスホールから令嬢のリードを放り出してディエリがまっすぐこちらに向かって来る。鋭い彼には私の正体が分かってしまったのかもしれない。不安で固くなる指先をユーグの親指が安心させるように軽く叩く。

「ユーグ。そちらのご令嬢は?」

 鋭い眼差しを向けるディエリの言葉に、楽しそうに唇を歪めてユーグが立礼を取る。

「こんばんは、バスティア公爵。こちらは異国のご令嬢です。研究棟から参る時に偶然お会いし、エスコートをさせて頂いています」
 
 ディエリが滑らかな動作で右手を差し出す。見知らぬ女性に対する最初の挨拶に相応しい完璧な所作だ。その手にそっと右手を乗せると、ゆっくりと唇が二度落とされる。

 見上げる不躾な目は私を暴こうとする色を隠さない。焼けるような熱量を湛える緑の瞳に、冷たい態度を取られても彼に熱を上げる女性が耐えない理由が少し分かる気がした。

「マールブランシュ王国にようこそ。ディエリ・バスティアと申します」

「ごきげんよう。キャロルと申します。忍んでまいりましたので、家名はお許しくださいませ」

 用意してあった口上を述べる。一応、家名も用意してあるが、極力出すつもりはない。頭を下げる私に、身を寄せてディエリが囁く。

「後ほど、ダンスを。紫の瞳が名だけじゃなく全てを暴きたい気にさせる」
  
 熱のある言葉の意味が、キャロルに向けた誘惑なのか。ノエルへの揺さぶりなのか。ディエリには今日はもう近づかないと誓う。

 人垣が割れるとカミュ様がこちらに向かってくる。
 珍しくユーグがきちんと立礼を取って、私もそれに続いて令嬢の立礼をとる。
 
「はじめまして。異国の美しい姫君。思い出を探しにいらっしゃると、友から聞いておりました」

 出された手に指先を揃えて乗せると、細く綺麗な黒髪かさらりと音を立てて、指先に唇を落とす。ジルと練習しておいて良かったと心から安堵する。
 カミュ様は本当に綺麗。女の子よりきめ細やかな白い肌と黒い髪にはエキゾチックな魅力がある。黒い瞳を見つめると吸い込まれそうな気持ちになった。鮮やかな唇を綻ばせて女神様の微笑みを浮かべる。

「何故だか貴方をずっと知っている気がします。友と似ているからか。貴方の話をよく聞いていた所為でしょうか」

 良く知る悪戯めいた笑みに、私の中のノエルがいつも通りの含み笑い返したい気分になる。でも、今日は我慢して、見知らぬ令嬢らしい優雅な微笑みを返す。

「貴方の探し人はもうすぐ参りますので、少しお待ちくださいね」
 
 その言葉に頷くと胸が高鳴った。あと少し待ったら、キャロルとして会える。怖気ついていたのが嘘のように今は待ち遠しい。

「ねー、カミュ様。その子はだあれ?」

 後ろから声を掛けられて振り返るとドニとクロードがいた。クロードが驚いた顔で目を白黒させている。
 私の一番の親友には、ノエルの姿の方が重なって見えるのかもしれない。
 カミュ様に、異国の来賓として紹介されて、二人に立礼で決めてあった口上を述べる。
 
 柔らかい髪を揺らして、ドニが子犬を思わせる動きで膝をついて手を差し出す。

「こんにちは。今日は僕が新しく提供した曲が流れます。きれいな君に気に入って貰えると嬉しいです」

 若草の大きな瞳を瞬いて屈託なく微笑む姿は、眩しくて天使のようだ。差し出した手に手を乗せれば、そよ風のように小さな音を立ててキスを落とす。

 クロードがぎこちない表情で膝をつく。なんだか相対するのが一番気恥しい。

「はじめまして。……楽しい一夜を」

 差し出された手に手を乗せる。いつも肩を並べていた友の初めて見る男性としての顔。意志の強いふせた目と引き締まった肩は精悍で物語に出てくる勇敢な騎士そのもの。異性だけじゃなくて、同性からも憧れの眼差しを受けるのがよく分かる。彼らしい触れるか触れないかの吐息のようなキスを指先に落とす。

 ユーグ、カミュ様、ディエリ、ドニ、クロード。形は違うけど全員に指先にキスを落とされて、まるでゲームのエンディングみたいだ。

 僅かなざわめきが大階段の方から広がる。

「ようやく来たようですね」

 カミュ様の言葉に騒めく方を見れば、会いたかった人がこちらに向かってくる。
 
 物語の王子様のような端正な顔立ち。歩くたびに揺れる綺麗な金の髪。まっすぐで全てを見通そうとする紺碧の瞳。だれよりもきらきらしてる。この国の期待を背負う私の大好きな王子様。

 目が合うと驚いた様に瞳を瞬いて、僅かに照れたような顔で懐かしそうに笑う。
 彼までの距離はあと何歩だろう。五歩、四歩、三歩、二歩、一歩。

「ようやく君に会えた……」

 私を見つめて、私の為に彼が言葉を口にする。溢れた想いに溺れて、声を出す事が出来ずに頷く。

 アレックス王子がそっと跪いて差し出した手は、いつもの握手のように差し出される手じゃない。
 優しくに差し出された手の平に震える指先を乗せる。私の知る熱より僅かに熱い温度。
 金の髪が手の甲をくすぐって、指先に唇がふれる。指先を捕まえて長く強く触れる唇から、離す事を惜しむような吐息が落ちる。
 紺碧の瞳で見上げると真剣な眼差しで私に彼が問う。

「君の名を今日は聞いてもいいだろうか?」

「キャロルと申します」

 小さく私の名を呟いて。指先を離さず立ち上がると、ゆっくり空いた手を腰に回す。

「キャロル、ダンスを君に申し込みたい」

「もちろん、喜んでお受けします」

 楽団の音楽が新しい曲に変わる。聞き覚えのある曲はこの世界では初めて聞く曲で、「キミエト」の中では何度も聞いた懐かしい曲だった。

「この曲……」

「僕の新しく提供した曲だ! 古い宮廷音楽を発掘して譜面に起こしたんだよ。良い曲でしょ?」

 私の呟きを拾って、答えたドニが笑う。「キミエト」メインソングのクラッシックバージョンと古い宮廷音楽。
 シーナと呼んだルナの顔が過ぎる。

 先にあるのは「キミエト」のシナリオか。この世界があって「キミエト」があるのか。

 心配する様に覗き込むアレックス王子に慌てて首を振る。今だけはキャロル。全てを忘れて楽しむ。それは、今日が終わった明日から考える。

 殿下のエスコートでダンスホールの中心に向かう。
 優しく包まれる指先、後ろから腰を抱く大きな手。たくさんの人の視線を受けて、私の小さなころからの夢が叶う瞬間だった。

 ホールの中央で向き合って礼をすると、すぐに体が触れ合うほど引き寄せられて、ゆっくりと弧を描くようにステップを踏む。

 初めて知るアレックス王子のリードはじゃれて遊ぶようだ。無理のない小さな緩急をつけては、悪戯するように私に微笑む。それに上手く応える度に褒めるように指先を撫でるから、その度に背中に甘い刺激が走って眩暈がしそうになる。

 腰から手が離れて筈かに腕を上げるから、私は回って見せる。ふわりとドレスの裾が広がって、また抱きしめるように腰を引かれる。笑うような吐息を見上げれば、瞳に私だけを映して微笑んでくれる。

 気がつくと私達以外の踊り手は誰もいなかった。呆然と多くの人に見つめられているのが分かる。でも、恥ずかしさは不思議となかった。夢を叶えるこの時間は、大好きな人だけがいてくれれば、私は幸せだった。
 
「君を迎えにいく。あの日そう言ったのに迎えに行けずに、すまなかった」

 僅かに目を伏せて、そっと私に囁く。その言葉に小さく首を振る。

「私もです。貴方を知っていたのに、来ることが出来ませんでした」

 音楽にあわせて、柔らかい弧を描きながら遠い過去を思い出す。
 秘密の場所での自由で真っすぐで少しだけ周りの見えてなかった小さな王子様との出会い。
 
「君は、私の始まりなんだ。多くの者が私を私に導いてくれたけど、君に会わなければ今の私はなかったと思う。とても感謝してる」

 秘密の場所での出会いが悲しい悪役令嬢のシナリオの一部でも私も出会えて良かったと思う。

 重なった手を握りしめると、愛しい人が気付いた様に握り返してくれる。

 あの日がなければノエルとして側に呼ばれず、愛しいと思う気持ちを知ることはなかった筈だ。

「私も出会えて良かったです。貴方を思う時間は幸せでした」

 答えた私の中に浮かぶのは、キャロルとして出会ったあの日よりノエルとして側にいた日ばかりだ。

 街を見下ろして、零れる光のような金の髪が私の頬を触れたのはいつ?
 意志の強そうな唇から落ちる吐息が額をくすぐったのはいつ?
 濡れた紺碧の瞳が晴れやかな色に変わって手をさしのべたのはいつ?

「……君をずっと欲しいと思ってた。今度こそ望んでも構わないかい?」

 重ねた手に強い力が籠る。出会った時から真っすぐな所はずっと変わらない。
 その瞳に見つめられて、望まれて私は本当に幸せだ。

 聞きなれた「キミエト」の音楽がもうすぐ終わる。
 それは「ゲーム」のような時間の終わり。少女の夢の終わり。初恋の終わり。

「お言葉とても嬉しいです。幸せです。でも……私は異国の娘。故郷で婚礼があります。お忘れ、くだ……さい」

 ずっと練習してきた言葉は綺麗に最後まで言えなかった。こみ上げる涙を隠すように、手を放して音楽の終わりに合わせて礼を取る。
 
「申し訳、ありま……せん。懐かしさに涙が溢れてしまいました……。顔を、洗って、まい、り……ます」

 駆けだすように控室に向かう。もう、戻らない。

 このまま控室を通り過ぎて、中庭に行く。ジルが開けてくれている筈の中庭の扉をくぐって、研究棟の裏庭に抜ける。その先にある王宮倉庫でノエルの姿に戻る。
 魔法が解けて、いつも通りノエルとしてアレックス王子の隣に立つ。

 中庭を駆けながら、流すはずじゃなかった涙が止まらない。
 ずっと心の準備をしていたのに、泣き止む事ができなかった。

 研究棟の裏庭のドアを開けると、いつもの姿に戻ったジルが待っていてくれてその胸に飛び込む。

「ジ、ル……。苦しいです。苦しいです。苦しいんです。どうして、こんなに悲しいんでしょう」

 お日様の匂いに包まているのに心が元に戻らない。これが失恋の傷み。泣き続ける私の背をジルが何度も優しく撫でる。

 ジルが私を強く抱きしめる。執事服の胸に顔をしっかりと埋めると同時に、私は大きな声を上げて泣く。ここなら、私を許してくれる。そして、私を直してくれる。

「ジル。ジル。ジル。大好きだったんです、殿下が。キャロルを望むと言ってくれました。でも、ノエルは絶対に言ってもらえない。望んでもいけない! 明日からまた近くにいて、側にいるのにどうしたらいいんです? ジル、助けて下さい。私をいつもみたいに戻して……」

 きつく抱きしめていた手が僅かに緩む。泣き足りなくて顔を上げると、優しく頬を撫でて涙をぬぐう。オリーブの瞳がいつものように微笑みかける。

「一度、中庭のカギを閉めてまいります。少しだけお待ちくださいね」

 頷くと、ゆっくりと私を支えるように木の下に導いて、芝生の上に座らせる。一度、子供の頃のように頭をなでて、真っすぐに中庭の方に駆けだす。その背中を見送りながら、私はまた子供のように涙を零す。

「早く、戻って……、ジル。辛いん、です。殿下が、好きで……壊れちゃ、い、ます」

 遠くに聞こえる舞踏会の音楽。あの場所で殿下は今何を思っているのか。
 怒っているか、呆れているか。私を探してくれているか。
 今日が終わってあの場所で、いつか殿下は誰かの手を取るのか。
 思う事が全てアレックス王子に繋がって涙が途切れない。
 
 ジルが駆けだして戻る頃。いつもと違う戻る足音に気付いて、顔を上げた暗闇の中で目に映ったのはジルではなくてアレックス王子だった。
 月明かりの下で、必死な顔で私に駆け寄る。

「殿下……? どうして、ここに……」

 私の前に忙しない吐息を漏らして膝をつくと、剣を握る男の人の手が私の頬を優しく掴む。

「君はやっぱりバカだ。なぜ、逃げる?」

 少しだけ怒ったような顔をして、紫の瞳をしっかりと覗き込む。

「私は異国の娘で、結婚を控えて……」

「それは、嘘だ。嘘なら見抜けるって教えたはずだ」

 言葉の意味に戸惑って、何を答えてよいか分からなくてただ首を振る。
 私の頬を掴む手が、いつもより優しく頬を潰す。それは、殿下がいつもノエルの私に会うとする癖。話しずらくて困るけど、ノエルだけにする事が嬉しい小さな幸せ。

「う、ひょを、見抜けるなんてズルいです」

「あぁ、本気でそう思ってるんだね」

 困ったように笑顔を浮かべてから、掴んだ手が離れて涙をぬぐうように両手で頬を優しく包む。

「私は、キャロルなんです」

「それは嘘じゃないんだね。でも、君は……」

「ダメです。違うんです……」

「それも、嘘だよ」

 私の目をしっかりと見つめて、はっきりと嘘と本当を言い当てる。
 そして、迷うことなく、決して触れてはいけない名前に触れる。

「君はノエルだ」

「違います」

 その言葉と同時に殿下の唇が私の唇に重なる。血の味のしないキス。砂の感触のない唇。あの日と同じ熱だけが変わらない。
 唇が離れて、吐息がかかる距離で大好きな瞳が私の瞳を見つめる。

「君の感触を忘れる事なんてない。随分前から君が代わりなのか、代わりじゃないのか分からなくなってた。同一人物だと気付いたのは、あの日君の唇に触れる前だ。君は君しか知らない言葉を言った」

 あの日、私は何を言ったのだろうか。ただ、必死で呼ぶように重ね続けた言葉は後で思い出そうとしても、曖昧だった。

「君はね。エンソクって言ったんだ。血だらけで叫んだ言葉で、どこにもない言葉だからずっと覚えてた」

 私と殿下を繋いだ小さな言葉。嘘を重ねる事も、隠し続ける事もできないと知った心はとても軽かった。

「私はノエルとしてしか生きません。アレックス殿下の隣には臣下としてしか立てません」

 紺碧の瞳が全てを見透かすように私を覗く。優しく頬を包んでいた手が離れて、強く抱きしめる。

「未来はこれから創る。何があるのかなんて分からない。どちらを歩んでも、私は君をもう諦める気はない。今の本当の気持ちを答えて欲しいんだ」

 優しく撫でるように風が吹き抜ける。早春の花の香りを運んだ風が、大切なものを掴んで離さないようにと背中を優しく押す。

「私……、アレックス殿下が好きです」

 大きく祝福するように風が吹いて、何処かから運ばれてきた花弁が舞う。私を抱きしめるアレックス王子の腕が微かに震えて、耳元をくすぐる透明な声がはっきりと告げる。

「今度こそ迎えに来れた。君が好きだよ」

 僅かに体を放して長い節のある指が唇をゆっくりとなぞる。そっと瞳を閉じて熱を待てば、優しく触れるように唇が重ねられた。

 吐息を重ねるような長い口づけが何度も何度も落とされて、深く深く想いに沈んで恋に溺れる。

 キャロルの一夜の夢が、ノエルの続く夢に変わる。

 それは、シナリオの終わりで、この世界の誰も知らぬ続きの始まりになる。 




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