教会に別れを告げて、向かったのは数か月に一回、各地区の公園で開催されている路上バザール。
人気店の屋台、リアカーに積んだ野菜を売る農民、冬の間の手仕事を籠に入れて売る女性、たくさん売り手と、楽しそうに買い求める人たち。
その賑わいを眺めながら芝生の上に腰掛けて、厚切りのハムと卵をお野菜とパンに挟んだものにかぶりつく。すこし濃すぎるけど、とても美味しい。
そう言えば、この世界でこんな風に手づかみで何かを食べたのは初めてだ。前世を思い出して懐かしいと思うのと同時に、はしたないと不安に思って隣を見上げる。
「どうした?」
「いえ。はしたないかと?」
同じ様に屋台で購入したものを食べようとしていたアレックス王子から小さな笑い声が落ちる。私の手をとって私の食べかけを一口食べると、上目遣いに楽しそうに見つめる。
「これも、はしたないかい? 誰かの途中を一口貰うのは初めてだ」
アレックス王子は私が対応に困るような事ばかり考えつく。
赤くなりかけてる私に向かって、ハムと卵の代わりに、香ばしく焼けたお肉を挟さんだ自分のものを差し出す。
「こちらも美味しいよ」
二口分の食べた跡、そこに口を付けると思うとキスとは違う羞恥心が湧き上がる。ちらりとアレックス王子の顔を伺えば、ほんの少しその頬が赤い。食べさせっこが恥ずかしいのはお互い様みたいだ。
どきどきする気持ちを抑えて、小さく口を開ける。そっと一口頂いて、甘い味だと思う。でも、ソースが甘いだけじゃなくて、心が甘いから今日は特にそう感じるのかもしれない。
顔を上げると、アレックス王子の綺麗な白い肌にはっきり朱が落ちて、慌てたようにそっぽを向かれてしまう。
「自分で誘った事で赤くならないで下さい」
「思った以上に可愛い君が悪い」
顔を背けて続きを食べ始めた人は、もう耳の先まで赤い。その耳が愛しくてそっと指を伸ばして撫でると、僅かに身を竦ませてアレックス王子が恨みがましい目を向ける。
「君は、どうして困らせるのかな」
「どきどきさせられてばかりでは、悔しいので」
そのまま、紺碧の瞳にかかった金色の髪を払おうとしたら、目を閉じて手首に唇を寄せられる。
「狡いです」
「そうかな? 君の方が余程狡い」
大好きな人が一口食べた跡に目を落とす。手首に落ちた感触を思い出すと、その続きを食べるのが更に困難になった。
恨みがましい目を向ければ、得意げなアレックス王子の表情とぶつかった。お互いに吹き出し合う。恋をすると、食べる事すらままならない。
好きな人と並んで、青い空の下で食事をとる。話を楽しみながら、笑い続ける。
バザールに来た子供たちの笑い声。たくさんの笑顔と騒めき。賑やかで心躍る雰囲気。目の前の世界はとても幸せで平和だった。
この景色が壊れてしまう日が本当に来るのか、信じられないぐらい穏やかで満ち足りている。
「私、すごく幸せです」
膝を抱えるのは、幸せが逃げてしまわないように、何かを抱き寄せたかったからだ。
私の言葉に今は夏空の瞳が瞬いて、大きな手が私の髪をくしゃくしゃにする。
アレックス王子は私の空だと思う。金の髪はお日様を湛えていて、紺碧の瞳はまっすぐな感情を乗せ四季の空の色に変わる。いつでも、上を向けるようにそこにいて、明るい世界をつくってくれる。
「もっと幸せにするから、期待するといい」
その言葉と行動が既に私をもっと幸せにしているのを気づいてますか?
側にいられる僅かな時間を重ねて、触れられるたびに恋に支配されて溺れていく。
ノエルとしてじゃなくて、キャロルとしての自分に手を伸ばしたくなる。
「アレックス殿下に秘密を一つ教えますね。もうすぐ、私の弟か妹が生まれるんです」
私たちの前をバザールに来た子供達が手を繋いで駆けていく。下町で当たり前の光景は貴族の社会では決して見れない光景だ。
「そうか、楽しみだね」
少し驚いてから、アレックス王子が祝福の言葉をくれる。
この国の貴族の子は、十歳まで公にならないのが決まりだ。家族以外に存在は秘匿される。だから、こんな風に新しい家族の事を告げるのは、決まりを破ることになる。
「庶民の子たちの、屈託なく遊ぶ様子がいつも羨ましいんです」
井戸の広場で楽しそうに友達と集まってお手伝いをする子供たち。バザールで友達と買い物を楽しむ子供たち。マリーゼがいてくれて、ジルも途中からいてくれた。お父様お母様もいた。でも、公になるまで子供の頃はずっと一人で寂しいと思ってた。前世の記憶があったから、当たり前だと思えなかった。
「アレックス殿下だけじゃなくて、皆に教えて新しい家族を祝福して欲しいです」
遥昔の法も秩序もない混乱の時代に跡継ぎ争いの末、子供が狙われた。歳月は国を変えた、一人一人の考え方も変わった。この国の法も秩序も、もう子供を守る事が出来る
「それは、君がいつか変えたいこの国の未来の一つかい?」
問いかけに頷く。「君に会わなければ今の私はなかった」アレックス王子が私に言ってくれた言葉。私も貴方から学んだことがある。ノエルの始まりはアレックス王子の歩き方、手の伸ばし方、仕草がお手本だった。出会ってなければ、バルバラおばあ様の前で上手に演じられなかったと思う。
「私も出会いで色々な事を学びました。貴族の子は学園で見ていて視野が狭いです。隠されていしまうのが原因なんだと思います。子供の頃からより人に触れて多くの経験を得るべきです。それに、これから我が家に来る命が、寂しくないといいです」
「いいよ。いつか必ず変えよう」
私の願いに、はっきりと力強く頷いてくれる。でも、この願いはとても簡単である事を、私もアレックス王子も知ってる。国政管理室が少し工作すれば、来年にでも通すことが出来る内容だ。
「もう一つ。妹ができたら、未来を選ばせてあげたいです」
「それは、きっともうすぐ叶う。すでに実力主義での改革が進んでる」
違う。それだけじゃ足りない。少なくとも、私はそれだけじゃあ未来を選べない。
理由を伝えたら、澄み切った空色の瞳は曇るだろうか。知っておいて欲しい気持ちと、知らせぬままでいたい気持ちが交錯する。
「私が、名前を付けていいって言われました。男の子はまだだけど、女の子の名前はもう決めてます、キャ――」
私の口を大きな手が塞ぐ。顔を寄せて抑えた声が私を叱る。
「言うな。無理に口を塞がれたい?」
空色の瞳は私の先の言葉に気づいても曇る事はなかった。ただ、まっすぐ静かな怒りを込めて私を見つめる。
アングラード侯爵家は、直系の男子がいない。傍系に譲れば領地は半減される。ラヴェル家の立て直しを間近に見て想像以上の困難であることを実感した。もしも私が戻る事を望みたくなったとしたら、弟が生まれるか、国の決まりが変わるかしか一族を守れない。
「未来はこれから創ると約束したはずだ」
直系への譲渡は聖域だ。自分の子に未来を託す事が決められていることに、価値を見出している貴族はとても多い。実力主義よりも反発は大きく、父上と現国王ですら次の改革案の一つには上げていても手を付けかねている。
「……」
「その先の名を口にするのは許さない。その名は私の愛しい人の最初の名だ。いつか必ず返すと決めている」
静かな声ではっきりと宣言する。空よりずっと澄んだ紺碧の瞳に、降り注ぐ光のような長いまつげがおちる。一段と深色になった紺碧の瞳には、はっきりと私が映っていた。
頷いてから、口を塞いだ手に手を重ねて離す。
「『私』は貴方の隣に立ちます」
父と国王が未来に小さな種を蒔いた。その種は今大事に育てられている。新しいまた別の種を蒔けるのは、まだ先だ。次の種を蒔くころには、『私』とアレックス王子はもう学生じゃない。立つのは中央だ。
「『君』を私の隣に必ず立たせる。もう一度、必ず望む未来を選ばせる。だから、その名も捨てるな」
遠い空は届かない。でも、私の空には私がいる。
零さないように抗うだけの未来に、手が届く夢があると信じれた。
私の瞳の中に答えを見つけたのか、柔らかい笑顔をアレックス王子が浮かべる。
立ち上がったアレックス王子が手を伸ばす。外だというのに手の平を上に向けて差し出された手に苦笑いしながら、指先を揃えて乗せた。強く引かれて私も立ち上がる。
「さあ、今日の残りの時間を楽しもう」
手を繋がなくても、恋人のように触れなくても、一緒にいる時間は楽しい。
賑やかなマーケットを二人で並んで歩く。気になる物があれば立ち止まって、手に取る。その度にアレックス王子が「欲しい?」と聞くけど、私は首を振る。
「一つぐらい、何か買わせて欲しいんだが?」
「……アネモネ石のアクセサリーでしたら」
ワンデリアの村の経営からは退いてしまったけれども、今だってちゃんと気にしている。父上の元にくる報告書は欠かさず目を通していた。
サミーもヤニックもマノンも新しい職人も頑張っている。新しい宿泊施設だって進んでいて、じいじが今観光計画を立てている。
マーケットには可愛いと思うものはたくさんある。だけど、絶対にアネモネ石は譲れない。
「薄々、君はそう言う気がしてた……まぁ、いい」
私の言葉に残念そうにアレックス王子が空を仰ぐ。アネモネ石のアクセサリーは取扱店が限られるので、バザールでの流通は望めない。好きな人からの贈り物には心惹かれるけれども、これだけは主張させてもらう。
「うちの一押しですから! アネモネ石は譲れないんです」
突然、アレックス王子が腕を引く。指さした先は野菜を積んだリアカーで、その隣で少年が小物を販売していた。その中に、見かけたことのある真っ白なケースを見つける。
「いらっしゃいませ!」
私とアレックス王子が小物の前に立つと、良く日に焼けた少年が元気に挨拶をしてくれる。
敷物の上に並んでいるのは、農村で閑散期によくつくられる布製の巾着や木製の小物入れなのだが、その中に真っ白なジュエリーケースが一つだけ並んでいた。
「見てもいいですか?」
少年に断ってからジュエリーケースに手を伸ばす。ジルに貰った物よりも小さく花のデザインが違うけど、アネモネ石でできていた。
「それとってもいいでしょ? こないだ行き倒れていた人から貰ったんだ!」
「行き倒れていた?」
「うん。お腹空いたんだって言ってたから、食べ物と交換してあげたんだよ」
ワンデリアの崖の村で作っているジュエリーケースは、貴族向けの店にしか卸していないし、このサイズの品物は作っていない。
「これ買います!」
「私が出そう」
「ダメです! これは私のお仕事なのです。だから私が買わないとダメです」
アレックス王子の申し出は即答で却下する。
少年の提示した金額は、流通金額の半分以下だった。隣の野菜売りが父親かを確認してから、正確な金額を伝えると唖然と口を開ける。
「本当ですか? いや、驚いたな。価値があるとは、その男も言ってましたがそれ程とは……」
「どんな人でしたか? もし、また会う事があれば是非お会いしたいんです」
「……頭頂部が禿げて、茶色い目の拭けば飛ぶような痩せぎすの男でしたね。探求者みたいな事をしていて、あちこちを旅していると言ってました」
一瞬じいじを思い出したが、じいじは紫の綺麗な目をしていて茶色じゃない。それに、今は観光事業にいそがしいから、昔のように旅はしていない。
最初にジルがアクセサリーケースを買った人なのかもしれない。いつか会ってちゃんとお礼をしなくてはいけないとずっと気になっていた。
「見かけたら、アングラード侯爵家の使用人が会いたがっていたと伝えて下さい」
お願いをしてから、その場を立ち去りながらジュエリーケースを眺める。職人たちの品より作りは荒く、彫り方の癖がジルがくれたものによく似ていた。
「君は本当に熱心だね」
「あっ! すみません。一瞬、――の事忘れてました」
少し拗ねたように私を見つめるアレックス王子に頭を下げる。顔を上げた時には、もう唇に手を当てて、楽し気な顔をしていた。
「そんな君に一つ罰を。あっちにある見世物小屋に入ってみよう」
そう言って人を器用に避けながら、私を背に庇って見世物小屋が並ぶ方に歩いて行く。
時折、振り向くと楽しそうにきらきらした笑顔で私が付いて来れているかを確認する。足取りはとても楽し気で、すこしうきうきとしているのは悪戯を考えている時の背中だと思う。
見世物小屋は色々ある。どれも銅貨数枚で入れるのだが、どこかの国の怪物の手とか、魔法使いの聖杯の欠片とか、スノーゴーレムの足跡なんていう眉唾ものばかりだ。
「うー。余りそそられません……」
「大丈夫だよ。決めてあるから」
アレックス王子が指差したのは、「真昼の星空の箱」と書かれていた。他に比べれば良いけれど、入る前から何となく種も仕掛けもわかる気がした。
「ギデオンは出入り口で待機」
そう告げると、箱の前の興行主に話しかけお金を払う。手慣れた様子に、お忍びが時折じゃなく頻繁なのかとギデオンに聞けば、苦笑いで頷く。
「さあ、行こう」
カーテンを押し上げると私を手招きで誘う。最初のカーテンを抜けて、二つ目のカーテンを抜ける。
人が四人も入れば一杯になりそうな薄暗い箱の天井には、無数の穴から零れ落ちる光がつくる星空があった。布か何かを被せて光源の調整をしてあるのか、お日様の星は夜空より明るいけれども、日の光よりは柔らかい。
予想通りの仕掛けだったけど、予想以上に綺麗な光景に少し心が躍る。
「思ったよりも、ずっと綺麗です」
「悪くないだろう?」
私の手にアレックス王子の手が触れて自然と指が絡まっていく。
「はい! 手を繋げて面白いものを見て、これはご褒美ですね?」
薄暗闇でくすりと笑う気配がすると、絡んだ手が腰を抱えるように回される。背中に引き締まったアレックス王子の胸の暖かさが触れたと思ったら、後ろからしっかりと抱きしめられていた。
「ご褒美もあげたいけど、先に罰」
背後から耳元に寄せられた唇から、熱い吐息が落ちる。
「私を少しだけ忘れた罰と可愛いすぎる罰」
軽く耳朶を噛んで囁くと、何度も囁きと共に耳元に唇が触れる。
甘く痺れる様な感触が度重なる度に、膝から力が抜けていく。
でも、これは罰なんかじゃないと思う。
耳に唇が触れるたびに、好きと言われて、愛しいと言われる。落ちる唇の数だけの甘い言葉に幸せしか見つからない。
「ん……。こ、れ、罰じゃない、です?」
「君からのキスは?」
そう言って再び耳朶を噛んで首筋をキスを落とす。
振り返ろうとしても、片手は指を絡めて握り合ってしまっている。更に身を寄せて抱きしめられてるているから、私の唇は頑張ってもアレックス王子には届かない。
「私を忘れた君に、ねだって欲しい。好きだと、触れたいと言ってごらん」
悪戯するような言葉に、知らない熱が体を支配する。
暗い中で困らせるように、愛を囁きながら落とされるつづける熱が、私をどんどん焦らしていく。
でも、それを声に出すのはとても恥ずかしくて、抱き寄せている手に縋るように手を重ねる。
「君が私を求める声を聞きたい」
左手が腰から離れて、私の唇をなぞる様に指で撫でる。
唇を撫でる指を僅かに食んで、私の唇は欲しいものを主張する。
「好きです……触れて欲しい」
零れ落ちた言葉と同時に私の顎を攫って振り向かせると、深く唇を重ねられる。
焦れたのは誰で、誰の罰だったのだろう?
食むように求めた唇の感触は、どちらが先に求めているのか分からない程、短く何度も重なる。
髪を梳く指が頭を撫でて、深い口づけになる。
「――殿下……溺れ、て、しまいます」
キスをすると溺れるように吐息が漏れるのは、愛しさに溺れていくからだ。
唇を離せば、アレックス王子が満足そうに笑う。
「名前を呼べ、ノエル。ご褒美をあげられなくなってしまうよ」
これが罰と言うならば、もう一度は甘すぎで壊れてしまいそうだった。なら、ご褒美は?
アレックス王子の胸に凭れて浅い吐息を漏らしながら考える。答えが出なくて見上げれば、眩しそうにアレックス王子が目を細める。
仮初の星空の外から、私たちに終わりを告げる声が響いた。
「もーし、もーし。まーだーです、かーー?」
ちょっと苛々したギデオンの呼ぶ声に、私と殿下が見つめ合った目を瞬かせる。今回もまた、焦れるような熱を僅かに残して時間切れだ。
「またか。ノエルへのご褒美がまだなんだが」
「これ以上は、心臓が壊れます」
今だって、立っているのがやっとなくらいの酩酊感があった。終わってしまうのが惜しい反面、今日も溺れずに済んだ事にどこかほっとする。
「やっぱり君は可愛い」
ぎゅっと抱きしめて、もう一度音を立ててキスをされる。
「もう少し、まて! ノエルが楽しそうだから!」
ええ?っと思った瞬間に続きの時間がやってくる。今度は唇をなぞる様に優しいキスが降ってきた。
キスをしながら覗き込まれた私の目の奥は、きっと今日も嘘が付けずにいるのだろう。
「楽しんでる。わかるよ」
伏せた眼差しで指摘された言葉に、小さく頷いてもう少しだけ味わう。ご褒美の味は、色々な所に落とされる優しいキスとたくさんの言葉。どちらが好きかと聞かれたら、秘密と答えるだろう。
小さな見世物小屋を出て、一声目はギデオンのお叱りだった。
「遅いです! どんだけゆっくり眺めてるんですか? 踏み込もうかと思いました」
踏み込まれなくて良かったと心底思う。ご褒美は本当に少しで終わらせてくれたのだけど、溶けてしまった私が立ち直るのに少し時間がかかってしまった。幸せだし、触れたいとは思うけど、次は本気で気を付けようと思う。
「ノエルが楽しそうだし、私も楽しかったんだ」
また、少年みたいな笑顔でアレックス王子が答える。表情には出さずに隣でにっこりと笑った私の胸の中は、時間を忘れるぐらい甘い時間を思い出して早鐘をうっていた。
「さて、ノエル。欲しいものを一つ買ってあげるよ」
アレックス王子は、どうしても何かが買いたくて仕方ないらしい。周囲を見渡して一つだけ、欲しいものを見つける。
「じゃあ、風毬を……」
風の魔法を入れた小さな毬は、前世の風船と同じ様に空をふわふわ浮くので密かに気になっていた。
「可愛いものを欲しがるんだね。いいよ、買おう」
真っ赤な風毬を嬉しそうにアレックス王子が買ってくれて、ふわりふわりと浮かせながらバザールを隅から隅まで堪能する。
それから、下町の甘いお菓子のお店を何件か回って蜜玉を買う。凍らせた果実を食べられるお店で休んで、また二人で気ままに歩き回ると太陽の色が変わり始めた。
帰宅の為に、街はずれの馬車寄せに向かって戻る。井戸のある広場では、十歳になる前の小さな子が夕飯の用意なのか野菜の皮むきをしている。楽し気に笑いあう姿が、今日もとてもいい。
「楽しかったです。ありがとうございました」
「確かに楽しかった、でも……」
アレックス王子の手の甲が僅かに私の手の甲に触れる。
それから耳元に顔を寄せて小さく囁くように聞く。
「ギデオンには私たちの事を話してしまいたいと真剣に思った……」
呟かれた本音に首を振る。なかなか、二人の時間は取れないけれども、十分すぎる程愛されている思う。
それに、我が家には我が家の事情がある。
母上は私がアレックス王子と想いを通じていることに気づいている。アレックス王子の名前は出さないけど、誰かの好きな人という事にして話をしたりする。
父上も多分気づいている。だけど、父上は頑なに気づいていない振りをしている。話そうとすると逃げる。最近は特に私の帰宅時間や外出先に厳しい。
「父上は凄い怒ると思います。大丈夫ですか?」
アレックス王子が滅多にないくらい嫌な顔をする。そう言えば、父上が花を送って来た時もこの顔だったから、既に父上から何かされているのかもしれない。
「レオナールは……厄介だな。できれば、最初から最後まで君と手を繋ぎたいけど、ギデオンを振り切るわけにはいかないし」
その言葉に思わず私は笑いだす。一人で離宮を抜けてきてしまった少年は、今ではすっかり自分の自由を押し通してはいけない場を心得るようになっていた。
笑われている理由が分からなくてアレックス王子が不思議そうな顔を浮かべる。
「何か、可笑しな事を言ったかな?」
「いいえ、八歳の頃と比べて本当にアレックス殿下は立派になられたなと思った、にょ、で、ひゅ」
最後まで言い切る前に頬を掴まれる。さすがに往来ではやめて欲しい。井戸の広場で遊ぶ子供がこちらを見て指をさして笑いだす。女の子のかっこをしてなくても、侯爵子息でも変顔を世間に披露するのはやめたい。
「や、みゃ、へ、く、だ、しゃ、い!」
「だめだよ。君が失礼な事を言うから悪い」
「こ、にょ、きゃ、ほ、ふぁ、あ、にゃ、た、しゅ、か、見せたくないんです!」
アレックス王子の顔が真っ赤に染まって、口元を手て覆う。勝ったなんて思う私は少し意地悪だったりするのだろうか。
うな垂れて目を伏せてから、少しだけ上目使いにアレックス王子が私を見つめる。
「本当に! 君は可愛い過ぎて困る」
一瞬で形勢逆転される。拗ねたような眼差しでそんな事を言われて、私が赤くならないわけがない。どんどん好きになってしまうから、私がアレックス王子の言葉や仕草に取り繕える上限がどんどん低くなってる気がする。
「ア……ア、アレックス殿下、落ち着きましょう。私も、殿下が素敵すぎて困るんです!」
互いに顔をそらし合って無言で下町を歩く。私たちの真っ赤な顔は、後ろから距離を開けてついてくるギデオンに見えなくて助かった。
通り過ぎる横道の奥に、時折華やかな光が浮かび始める。下町とは違う雰囲気を漂わせた、夜の花街が動き始める時間が来たのだろう。花街に通じる通りの一つを過ぎた瞬間、私の視界に大切な人が映った。
オリーブ色のベストに琥珀色の髪の後ろ姿は、今日何度も私を振り返って微笑んだ。
一瞬の光景は鮮やかな写真のように脳裏に刻み込まれる。見送った筈のその背は華やかな街の手前の路地で、壁に女性を押し付けるようにして、何かを囁くように頭を耳元に埋めていた。こちらに顔を向けている女性はしどけない赤のドレスから出た腕を縋る様に背に回して、私が知ってる陽だまりの香りがする場所に顔を乗せてうっとりと何かを囁き返してた。
見知らぬ人だ。ジルは今日は買い物をしてるって、その後はずっと友達と飲むって言った。
友達って誰? ずっとっていつから? いつまで? どこに行った?
よく似た背中、よく似たベスト、よく似た髪色。それは偶然似ていただけの誰かの背中。私のジルじゃない。
そう言い聞かせて何歩通り過ぎただろう。知らぬと言い聞かせた背に耐えられなくなって引き換えす。
「ノエル?」
よく似た背中を見つけた路地の奥に、女の服と同じ赤いドレスの裾が翻って消えていく。
ジルじゃない事を確認したくて、路地に向かおうとした瞬間アレックス王子に手を掴まれる。
「どうかしたのか? この先は簡単に踏み込むべき場所じゃない」
「この先は花街なのはわかってますが、確認したい事があったんです。そこの三つ目の路地に行きたいんです」
アレックス王子がその路地を見つめて険しい表情になる。いつの間にか追いついたギデオンが口を開いた。
「三本目の路地はこの王都で最も暗く治安の悪い場所に続く道です。お二人の身なりで入るには危険すぎるでしょう。ジルベールの捜索でも騎士団がもっとも苦戦した場所になります」
夕闇に包まれる前の花街に向かう道にまだ人影はない。それでも、動き出した夜の街の独特な華やかさに染まりつつある通りで、三本目の道は底なしの穴のような暗闇をぽかりと開けていた。
「なぜ、あの道に行きたいんだ?」
「あの道に、ジ……」
ジルがいた。その言葉を口に出せば、取り返しがつかなくなるかもしれない。
アレックス王子とギデオンの表情を見れば、そこがどれ程この国でやっかいな場所なのか分かった。ジルが入っていったと言えば、アレックス王子の側近である私の従者を続けることが出来なくなるかもしれない。
「知り合いに似た服装の人を見かけたんです」
「誰ですか? 必要なら身辺の調査を行わせて頂きます」
ギデオンの言葉に、ジルの名を出さなくて良かったと思う。私はただ首を振る。
「冷静に考えると服が似ていただけで、髪色が僅かに違っていました。女性と仲睦まじい様子でしたので、冷やかすつもりで咄嗟に行動しただけです」
私の言葉にギデオンが苦笑して、彼に張り詰めていた緊張の糸が途切れたのが分かった。
「殿下やノエル様ぐらいになると、そう言った事に敏感なのは仕方ございませんね。私も学園時代に陛下と花街に探検に行きましたから」
ギデオンの言葉にアレックス王子が驚きの声を上げて、ギデオンに事の真相を問い詰め始めた。視界の隅で私はその通りを見つめ続ける。
出てきて見知らぬ服を着ていても、変わらぬ笑顔で「ノエル様、どうかされましたか?」と言って欲しい。
出てこないで見知らぬ服で帰宅しても、変わらぬ笑顔で「ノエル様、女性を案内しただけです」そう言って欲しい。
ただ、何でもない事だといつもの優しい顔で教えて、私を安心させて欲しかった。
「ギデオン、後ろを向いて目を瞑ぶって三十数えろ」
アレックス王子が突然、ギデオンに不思議な命令を下す。困惑するようにギデオンが声を上げる。
「殿下? 何ですか、その命令は」
「緊急の命令だよ。ほら、後ろを向いて目を閉じろ」
ギデオンが身を翻すと同時に、往来でアレックス王子が私を抱きしめる。
陽だまりとは違う香りが私を包んで、そっと髪を撫でる。不安定な私を包み続けた優しい陽だまりとは違うけれど、甘くて透き通るような香りが不安で空いた胸をちゃんと優しく満たしてくれた。
耳元で心配そうに小さく声が落ちる。
「君が泣きそうに思えた。時間は三十しかないが君を救えるだろうか」
小さく頷いて、胸の中で頬をこすりつける様に縋る。優しく頭を撫でてくれる手に、やはりこの人は私を照らす光なのだと思った。
信じればいい。いつでも、大切な人たちを信じてきた。
あの時だって、アレックス王子も、クロードも、ドニも信じられた。今はルナの事だって信じらてる。
だから、ジルなんだから絶対に、絶対に信じられる。
問えばいい、帰ってきたら今日ここに居たか? どうして、誰とあんな場所に入ったのか?
「十九、二十、二十一、二十二……」
不満げなギデオンの秒読みは残りわずかだ。
ゆっくりと殿下の胸から顔を起こす。
「二十六、二十七」
私の額にアレックス王子が額を重ねる。
「困ったらすぐに言う事。何かあれば君と共に……」
頷く同時に手を放す。ギデオンが三十を読み上げて、こちらを向く。いつも通りの距離で笑う私とアレックス王子の顔を、訝しむように交互に眺めた。
「お二人とも何だったんですか?」
「花街についてお約束してました」
私の言葉にギデオンがにやりと笑う。私とアレックス王子も視線を交錯させて、微笑み合う。
僅かに私の甲にアレックス王子の甲が触れる。かすめるようでも、伝わる心強い温度に心が凪いだ。
井戸の広場から男の子が駆け寄ってくる。私とアレックス王子の前に駆け寄ると、じっと顔を見つめる。
「男だよな? 男だよな? キスしないから、つまんねー」
そう一言残して、広場の方に戻っていく「男同士だからキスしないってよー」大きな叫びを上げるから、私とアレックス王子の手の甲も残念ながら離れる。
何とも言えない表情を浮かべるギデオンと、僅かに動揺を抱えた私たちは無言で歩き始める。
不安はもう、殆ど消えて残されたのは小さな心配だけだ。
もしも、もしも、ジルならば、そこに向かったその身は大丈夫ですか?
ずっと先まで行ってから、もう一度だけ振り返る。
薄汚れたマントを着た人が路地から出てきた、風に吹かれてフードが僅かにはためいて琥珀の髪が覗く。そっくり同じ髪色だけど、それがジルじゃないのは遠目でも走り去る後ろ姿で分かった。
その時の私は、少しだけ安堵していた。琥珀の髪の人は、やはり別人だったのかもしれないと。
<前の話> <次の話>
0 件のコメント:
コメントを投稿