2018年12月17日月曜日

三章 五十話 ルナと幕の後 キャロル15歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 「おかえりなさい」「ただいま」自然と滑り出た言葉と同時に手を離す。
 離れた熱はいずれ冷めて、悪夢から帰還した夢になるのだろう。それでも、二度と触れられない切なさより、ここに帰ってきてくれたことが今は嬉しかった。

 起き上がったアレックス王子が握手を求めるように手を差し出す。友であり臣下であるノエルに差し出された手。手の平を合わせて握り返した手を、大きく熱いと思うのはキャロルがまだ残ってるせいだ。濡れた前髪を払うふりをして、慌てて放す。

「クロードを起こしましょう」

「ああ」

 雨に濡れながら、仰向けに倒れたままのクロードの肩を揺する。うめき声をあげて開いた水色の目が、アレックス王子に気付いて柔らかいを弧を描いた。
 体を起こすと、わき腹を抑えて僅かに顔を顰める。加減なしの殿下の蹴りで、ひびが入っているのかもしれない。でも、差し出された手を握り返したクロードの顔はずっと嬉しそうだった。
 
「おかえりなさい」

「ただいま、クロード」

 雨の中、クロードを支えてカミュ様達の元に歩きだす。三人で並んで歩くのはいつぶりだろう。
 クロードの背に回した指先が、同じように支えるアレックス王子の指先に触れる。戻った距離が私がノエルとしている居場所の大切さを教えた。
 僅かな距離を行くと影が見え、近づくと座り込むルナを後ろから抱くドニと、カミュ様の背だと分かった。
 ドニが近づく私たちに気づいて、嬉しそうに手を振る。

「おかえりなさーい、殿下」

「ただいま、ドニ」

 大きな声の出迎えにアレックス王子のよく透る声が返ると、弾かれる様にカミュ様が振り返る。

「おかえりなさい、アレックス」

「ただいま、カミュ」 

 黒い瞳が優し気に緩んで綻ぶような笑顔が、私とカミュ様の長い苦しみの本当の終わりを告げた。

 放心状態だったルナの瞳から大粒の涙が溢れ出す。堪えられない様にすすり泣いて、揺れる肩は抗い続けるにはあまりに細いと思った。

「ルナ、話せ。何のために、私達の心を制そうとした」

 向き合ったアレックス王子の冷たい声にルナが首を振る。何も答えてくれませんと、カミュ様が告げる。
 ドニがルナの雨に濡れた髪をそっと梳く。

「話せる時が来るって前に言ったよね? 今じゃダメ? どんな事でも僕は信じるよ」

 後ろから寄せられたドニの頬を、愛しむようにルナが目を閉じる。
 心が小さく音を立てる。お日さまの香り。無条件で許される場所。穏やかなオリーブの色。重なるのは何故だろう。

「ドニ。私……怖いの。言葉は時に混乱を招くわ。そんな光景を何度も知ってる。だから、ずっと見つめるだけだった。一人でを選び続けた私は、誰かの手を上手に取る方法を知らない」

 ルナがお姉さんでドニが弟。その関係はいつから変わったのか。
 抱きしめるドニは彼女を想う一人の男性で、腕の中で守られたルナは彼を求めた女性だった。

 こんなに弱くて傷つきながら、強い瞳で足掻いて抗い続けたルナ。幸せにすると約束したと私に告げた日の顔は、誰かの不幸を望んでいた訳じゃない。
 似た思いを知っている。ルナが嫌いじゃない。そう思った途端に言葉が滑り落ちる。

「私に出来ることがありますか? 私も生きる限り守る為に抗い続けます」

 祝宴の日に交わした言葉に重ねた想いは同じだ。言葉がルナに手を伸ばす。だから、その手をルナも伸ばしてほしい。
 ルナの手がドニの手に重なって、濡れた瞳が私たちを見回す。

「いづれ、かつてない大崩落が起こります。大きな混乱。魔物と対峙できたのは、兵力の半分。そして、最後の瞬間に魔物の王と戦ったのはアレックス、カミュ、ディエリ、クロード、ユーグ、ドニ」

 はっきりした未来の預言とも言える言葉。
 誰もが簡単に受け入れることが出来ない中で、ドニだけは優しく肩で頷く。
 それが、不安に負けそうなルナの語る力になる。

「その戦いで、この国に聖女がいない。だから、アレックスが率いた皆は負けてしまう。この国の全てが魔物に奪われて、壊れていきます」

 私の知るゲームの世界には、戦いも壊れた世界の描写はない。

「それはいつ起こる? 何故君がそれを知るのか?」

 アレックス王子の問いかけに、どう言えば良いのかを迷うように、開きかけた口を閉じる事を繰り返す。

「3年先の筈でした。でも、今は分からない。この国のシナリオは私が知らないうちに変わってしまった。混乱の中心が変わって、起こるべき事態が大きく変化してる」

 ルナの目が私を見つめる。アングラードの名前の悪役令嬢が失われて、侯爵子息が生きる変化したシナリオ。
 混乱の中枢が変わったと言った。アングラード家はゲームの中で腐敗した。今はどうだ?
 反旗派を纏めるジルベールがいるラヴェル家のドニの早い帰国、ゲーム中盤に突如起こったバスティア公爵当主の交代。
 頭の中で何かが引っかかってる。変化がもたらすものが良い未来か、悪い未来か?
 私だけが知る事実を語るべきか迷うのに、大切な居場所の前でせりあがる言葉を飲み込んでしまう。

 カミュ様が進み出てルナの前に立つと困惑するように、僅かに眉を寄せて口を開く。

「貴方は私をシーナと呼びました。シーナが大切な約束の相手なんですね? ならば貴方は何者でしょう?」

 悲し気に瞳を伏せてルナがドニの体に背を預ける。愛しそうに首筋に寄せた顔から、再び涙が一筋落ちた。

「言いたくない……。私はルナでいたい。たくさん失敗したけど、居場所を見つけたの。帰りたい場所も愛しい場所もルナの場所だわ」

 ルナの気持ちを受け止めるように、ドニが優しく額に口づける。

「大丈夫だよ。ルナが何者でも……」

 それでもルナは頑なに首を振った。

「私はここまで話して変だと思われても、まだ貴方と教会の皆の前ではルナでいたいの。狡いよね。人が勝手になる気持ちが今なら分かるわ……愛しいんだね。苦しくても愛しくてできないんだよ」

 ルナの言葉は私の胸を締め付ける。
 勝手だけど、愛しくて手放せない。後悔しないと決めたのに、私も自分の選択に何度ごめんなさいと泣いただろうか。

 ルナがアレックス王子を見つめる。
 
「最初に私が用意した聖女は、この国に私が戻った時にいませんでした。だから、シーナを真似て慌てて私が成り替わろうとしました。愛される事が力になるから。でも、失敗した。無茶をして私にはもう力がありません。アレックス王子、どうか、聖女を探して愛し愛されて下さい」

 ルナの手が素早く術式を書くと、まばゆい光に包まれる。

「聖女とはなんだ? 見つけて、どうすれば良い?」

 叫んだアレックス王子の言葉に返った声は、遠くて近い。そこにいたルナとの距離では、もうなかった。 

「王家の者に愛して愛される乙女に、エトワールの泉が応えて力となる。それは、聖女に想いを抱く者に降り注ぐ。聖女になれる条件は歪を知る者か精霊の子。この国の危機にはいつか私も力になります。ドニ……私はルナだよ。だから、さよなら」

 光が消えた時には、ドニの腕の中にはルナの姿がはなかった。
 誰も声を上げることが出来ず、静かな世界にどしゃぶりの雨の音だけが響く。

 ドニがルナのいた場所を抱きしめるように腕を抱えた。ルナの最後の言葉はドニへの別れだ。

「僕は君が好きだよ。変わらないよ。それに……僕は君に恋をまだ歌っていないよ」

 アレックス王子がドニに手を差し出す。殿下の手を見つめてドニが小さく首を傾げる。

「いつか国の危機に戻るとルナは言っただろ? 待てばいい。待つのは苦しくても、好きなら待ち続ければいい。私はもう7年待ってる」

 アレックス王子がそう言って口の端を僅かに上げる。カミュ様とクロードが小さく笑った気配がして、ドニがその手を掴む。待つよと言って若草の瞳が空を仰いて歌う。
 待ち続ける恋の歌。叶いますように、貴方に思いが届けられますように。
 歌声に胸が痛むのは、ドニとルナの事が悲しいから。大好きな人が待つから。叶わない温度を知ったから。そして、迷う私の中の答えが勝手でも変わらないからだ。
 
 ドニの歌声が終わると、丘の中腹を見つめてカミュ様がぽつりと呟く。

「大崩落。聖女。シーナ。精霊の子。歪。ユーグの出番なのに、本人不在ですね」

 聞いたらすごい勢いで悔しがる姿が目に浮かんだ。苦笑いを漏らした私たちの耳に、癖のある声が私たちの名を呼ぶ声が届く。声のする方を見て手を振る。出番に遅れた探求者が手を振り返した。
 肩で息をして駆け寄ったユーグがすぐに殿下に笑顔を向ける。

「殿下だね。戻ったんだ? じゃあ、奥歯を噛んでよ」

 殿下が訝し気に奥歯を噛むと、気持ちのいい音が響いて殿下がよろめいた。殴ったユーグは拳だった手を痛そうに振る。

「探求者の手は殴るのに向かない。これっきりにしてね。おかえり、殿下」

「殴るなら、殴ると言え! ただいま、ユーグ」

 痛そうに顔を顰めて殿下が帰還の言葉を返す。ユーグが殿下の後ろで慌てふためく、ギデオンと従者を見る。

「言ったら止められるでしょ? 大切な人が泣いた分、一発は殴るって決めてたんだ」

 アレックス王子の無事な方の頬に、カミュ様の手が伸びる。にっこり笑って、つねり上げる。

「私もやらせて頂きますね。とても怒っております。みんなに謝って下さい。ノエルには念入りにね。反対側の腫れてる方は、ノエルにお譲りします。どうぞ、ノエル」

 艶やかな笑顔が私を促す。抓られる殿下の顔をちらりと見上げれば、困ったような瞳にぶつかる。
 重なった視線が僅かに揺れて、逃げるように少しだけ視線を下げた。その視線が一カ所で急に止まると、途端にアレックス王子の頬が真っ赤になった。
 つねられた頬が引っ張られるのも構わず、困った顔でそっぽを向くと手の甲で口元を覆う。

「ノエル、君は今度にしてくれ。痛いからじゃなくて……ごめん」

 視線の先が見つめる意味に気付く。唇に触れていた時間。あの熱の感触。温かくて。柔らかくて。恥ずかしくて逃げ出したくなる。

 思い出したようにドニが私と殿下とクロードの顔を見つめる。
 
「ねーねー。めちゃくちゃ強い殿下ってどうやって解除できたの? どんなだったのー?」

「「言えない」です!」

 私と殿下の声が重なって、クロードは首をひねる。
 聞かれたときの口裏合わせが必要そうだけど、面と向かってどう切りだせばいいのだろう。
 どうしますか? と聞いて何を返されたとしても私はきっと恥ずかしくて倒れる自信があった。

 訝しむ雰囲気の中で、びしょ濡れのポケットからディエリのくれた蜜玉を取り出す。
 いつもは一つしかくれないのに、今回は六つ。
 アレックス王子、カミュ様、ユーグ、クロード、ドニ、私。
 私の手からそれぞれが蜜玉を取って口に放り込む。蜜玉の優しい甘さが疲れを溶かし、悲しみが雨に流がれていく。
 涙はいつか止まって、雨もいつか止む。そして、必ず晴れが来る。
 暗い雲の遥先には確かに薄日が差していた。



 アレックス王子を取り戻して3ヶ月が慌ただしく過ぎる。
 季節は秋を過ぎて、雪の降らないマールブランシュ王国でも寒さを感じる季節になった。

 あの日の二日後に大規模な粛清があった。武器を集め、無法者を雇って私兵の強化を進めていた上流貴族が捕まり、次々と関係した貴族が見つかった。国政中枢側はほぼシナリオ通りの成果を上げたと聞いている。
 ただ、中心のジルベール・ラヴェルは騎士団が踏み込んだ時には既に姿がなく。現在も行方不明で、必死の捜索が続いている。

「殿下、ここに新しい派閥状況の報告書を置きますね」

 机の書類の山にまた一つ書類を乗せる。王族控室は現在は職務室と呼ぶべき状況になっている。
 アレックス王子がいない間に起きていた事の書類、これからやるべき事の書類、国政の変わりゆく状況の書類。学生なのに休憩時間を惜しむ程忙しいけど、私はこの環境が楽しかった。

「ノエル、私は騎士専科に届け出を出してきた」

 来年からの専科は、文官専科で届けをもう出してある。合うたびにギデオンには、今なら変えられますよと言われるが、変えるつもりはない。
 アレックス王子の為に書類を作って、未来を考えて、現状に策を打って、改めて文官の仕事を自分が好きだと知った。

「ノエル、このやり方は実行して構わない。こっちはもう少し練り直せ。私がいない間に打った策に似て手ごたえがない」

 ソファーに座って持て余した長い足を組んでアレックス王子が二つの束をより分ける。

「練り直しの方はこれでいいんです。復習のつもりで出しているので、簡単にできてもらわないと困るんです。新しい事を次々にこなす人材も大切ですけど、失敗を糧に同じ事を繰り返さない人材も大事ですから」

 ドニは現在休学中で、もうすぐ復学する。
 謀反の着火地点でもあったラヴェル伯爵家の処分は、ドニの父マテオ・ラヴェルの貢献は認められた。マテオ側陣営には厳しい咎めはなく。褒章こそないものの国王からも言葉を賜った。
 だが、ジルベール陣営だった半数の親族は厳しく処罰を受けて財産と領地は没収された。半分の没収の衝撃は大きい。
 混乱するラヴェル家の立て直しの為に、ドニも休学して遠方の領地まで足を運んでる。
 一番最近会った時、たくさん人が助かったし、ラヴェルは芸術があれば生きていけるとドニは言った。その顔は前よりずっと大人になっていた。ドニも来年は文官専科に進む。

「復習ね。わかった、許可しよう」

 渡された書類の束を揃える間にアレックス王子の顔をちらりと伺う。相変わらず知らない事を知るのを大切にする人は、私とカミュ様とユーグが差し出す書類を文句も言わずに読み続ける。
 ふと書類から顔を上げた紺碧の瞳と目が合う。柔らかく笑う顔は本当に心臓に悪い。

「どうした?」

「いいえ。疲れたら適度に休んでくださいね」
 
 粛清は、ラヴェル家もそうだが、重い処罰と軽い処罰の差が明確だった。重い罰になったのは既得権が強く反旗に積極的な上流貴族だった。迷いながら参加した中流以下の貴族は少ない。マテオのお咎めなしの一件と合わせて中立派の動向には予定通り大きな影響を及ぼした。
 自身の潔白を示し、重い処罰で消えた貴族の空席を目指す支持派が大幅に増えたのだ。

「そういえば、カミュとクロードからお酒が届いた」

「あ、私の所にも届きました」

 カミュ様は王位継承三位の王族として、三大都市、コーエン、スージェル、ミンゼアの視察に行ってる。粛清後の各都市の緊張を緩和するのが目的だ。この視察にはクロードが帯同している。
 アレックス王子奪還の騒ぎは、粛清前に護衛と学園の緊急対応を試す演習と表向きはなっている。この演習について「たまたま」講師に呼び出されたクロードが素晴らしい活躍をした噂が流れてる。
 噂を流した張本人のカミュ様は視察に「演習で活躍したクロード」を帯同した。もう一花持たせる予定でいるらしい。
 二人から送られてくる各地の品物は珍しく、書かれた文は楽し気で少しだけ羨ましかったりする。
 ちなみにカミュ様は文官専科、クロードは騎士専科に進む。

「なかなかの美味だったな。コーエンの炎酒は」

「飲んだんですか?」
 
 アレックス王子は絡み酒だ。その場に居合わせなくって本当に良かった。以前の酒宴の席で耳にかかった吐息と、あの日の唇に触れた時間を思う。今、同じ状況になったら私は耐えられる自身がない。

「君も一緒にと誘うつもりだっけど、やめた」

「それは良かったです」

 まだ……というよりあれ以来、アレックス王子との距離には緊張があった。近くにいると触れたいとか、触れられたい気持ちに負けそうになるからだ。

「誘わない理由はきかないのかい?」

 声に不満げな色が混じる。誘われて困るのは、私だ。だから、すげなく答える。

「殿下は絡み酒なので、同席は遠慮したいです」

 粛清の波を内部粛清というお家芸で切り抜けたバスティア公爵家は今回も逃げ切った。前当主は姿を消して、毒殺されたと噂が流れている。新当主はデイエリが就いた。ふてぶてしいのが挨拶に来たと父上が拗ねていたので、間違いなく変わりないのだろう。そして、噂では騎士専科に進むと聞いた。

「マロー。レポートをビセンテ先生に届けて、図書館に寄ってくれ。禁書になっていた古式術式の本を司書に頼んである。ノエル、量が多いからジルを手伝いに借りれるかい?」

 私の意向を求めるジルに頷き返す。
 綺麗な一礼でマローとジルが控室を退室していく。気付けば室内にはアレックス王子と私の二人だけになった。

 ルナの言葉、赤い魔物の事、不思議な出来事と未来はユーグが調査中だ。研究室か図書館に入り浸っていて、講義にすら最近はこないことがある。
 ルナ消失については、ジルを見るたびに手伝わなきゃよかったと拗ねる。
 そんなユーグは文官専科か、騎士専科にするか不明だ。研究専科を立ち上げてとカミュ様に執拗にせまってる。
 
 ルナは、貴族の生活に耐えられずに出奔の扱いになっている。今は何処で何をしているのだろうか?

 冬の少しだけ曇った窓ガラスの外で、裸の枝が寒そうに風に揺れる。
 寒さは、寂しさにつながる気がするのに、今年の冬は皆不在だ。

 ガラス窓に人影が映ったと思ったら、私の進行方向を妨げるように窓枠に手が伸びる。腕が僅かにアレックス王子の胸に触れる。

「何かあるのかい?」

 頭に落ちた声に書類を取り落としそうになって、慌てて掴みなおす。慌てた所為で端が折れてしまった。
 こんなところを勝手気ままで意地悪だって思っていたのは、いつだっただろう。その時にはアレックス王子にもう恋をしていたのが、今ならわかる。

「何も。冬で枝が寒そうだと考えてました」

 窓の方に向き直って、横歩きで逃げ出そうとするのを反対に伸びた手が遮る。キス以来、近い距離に入ることをお互い避けていた。寂しい半分、安堵半分。寄れば触れる事を願いたくなる。

「相変わらず、細いな。これで納まってしまうんだから……いい加減、食べてしまうよ?」

「……遠慮します。もう代わりは辞めませんか? 私は男ですし、面差しも変わっていると思いますよ」

 ワンデリアに別れを告げた、ノエルとして文官専科に進む道を描いた。ヒロイン不在でも、この国の決まりはまだ撤廃されていない。理由は探せばいくらでもある。
 でも、一番の理由は大切な仲間と居場所の殆んどがノエルのものだからだ。平行線の恋はアレックス王子の為にならない。
 頭に僅かな重みがかかる。首筋にかかる吐息が私をくすぐる。

「私が一番に想う人を、今すぐここに連れてきてくれるならいい」

 人を今ここに抱え込んで、何て無茶を言うのだろうと思う。殿下はいつも狡い。
 キャロルではなくノエルで良かったら今ここにおります、心の中で小さくつぶやく。

「私は貴方の隣に臣として立ちたいです。誰かの代わりで立ちたいとは思っていません。無理を言うのはズルいです」

 髪を揺らす吐息はため息だ。首筋に走る甘い感触に、胸が早鐘をうつ。
 これほど好きになっても、恋に終わりは本当に来るのだろうか。きっと、たくさん泣くのかもしれない。
 背中に感じた体温が少しだけ遠ざかる。

「こっちを向いてくれないかい」

「お返事を貰えたら向きます」

「頑固だな。命令するよ。こっちを向いてくれ」

 諦めて向き直る。ずっと私より高い背を見上げて後悔する。
 まっすぐ落とされた視線は真剣で、唇を引き結んだ顔は悲しげだった。

「……愛せと言った。愛されろと。私の気持ちは何処へ行けと言うんだ?」

 ルナの言葉だ。突拍子もない言葉を私たちは信じてた。ルナの存在には根拠を感じる特異性がある。
 だから、殿下に見合う精霊の女の子を水面下でカミュ様は探してる。

「恋は相手がいなければできません。私も、アレックス殿下も、貴方が思う女性も、皆いつかまた新しい恋をします」

 少し前に、呼び出されてキャロルの事をカミュ様に尋ねられた。
 精霊の子は聖女の条件です。あの子はどうしてますか? 他の誰かなら彼女とアレックスの恋が叶うところが見たいとカミュ様は言った。
 その言葉に、ノエルを選んだ私は用意していた嘘を重ねた。
 精霊の子というのは間違いでした。異国の娘で別の病だったようです。今は元気で近々婚礼の予定があります。

「私に君は他の誰かを思えというんだね」

 傷ついた顔をしていると思った。11歳の小川で涙を流した少年時代と同じ顔だ。
 いつかの時の涙を思い出すと、その頬に自然と手が伸びた。ずっと大人になった顔。なのにまっすぐな思いを抱えるところだけは変わらない人。

「君やっぱりバカだ。そして、私もバカだよ……代わりなんてね。君を呼ばなかったのは……」

 切なそうに、何かを求めるような眼差しはズルい。見つめ返した時点で私の負けだった。
 逸らすことも出来なくなって、気持ちが溢れてしまう。
 窓枠から離れた手が私の顎を僅かに上げさせた。優しく頬をなぞる指の感触に閉じてはいけないはずの瞳を閉じる。

「マローが戻りました。ドアを開けます」

 部屋の外からの声に身を放して、書類を取り落とす。慌てて書類を拾おうとした指先が震えた。
 流されかけた唇は触れなかった。安堵しながら、触れたかったと惑う。

 あの日、カミュ様に再び重ねた嘘は私の一生に一度の我儘だ。
 優しいカミュ様は精霊の子でなくて良かった。でも、少し残念ですと言ってくれた。
 その言葉に頷いてから伝えた。 
 アレックス殿下に会うため、近々彼女はこの国を訪れます。それが最後です。

 ノエルとキャロル。選べる人生はたった一つだ。
 
 嘘を重ねて、大好きな貴方を傷つけるかもしれない。
 でも、たった一度。私に恋をした少女の思い出を下さい。




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