2018年12月19日水曜日

四章 六十四話 約束と出立 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 室内に足を踏み入れると、愛しい人の香りが私を包んだ。でも、以前と変わらない青と白を基調とした室内には、見渡しても人影はない。

「アレックス殿下?」

 小さな声で待ってくれている人の名を呼ぶ。応える声は返ってこなくて、思わず首を傾げる。

 開いたバルコニードアから吹き込んだ冷たい風が、私の頬を撫でて真っ白なレースのカーテンが翻えった。
 誘われるように外に出て、あの場所を見上げる。

 バルコニーの屋根の上にアレックス王子がいた。
 柔らかい日差しを受けた金の髪に透けた紺碧の眼差しが、遠い街並みを見つめる。浮かぶ碧は悲し気で、唇は叫びを留めるように真っすぐに引き結ばれていた。

 国王陛下が手を打った瞬間に、居並ぶ臣下が一礼した光景が過る。
 夢を繋いだ未来は玉座に座るのはアレックス王子で、居並ぶ臣下に友の顔が並んだはずだった。自信を湛えてアレックス王子が手を叩けば、私達がその姿に一礼をする。
 もう叶わない光景に、体の中で何かが砕ける音がした。

「……」

 痛くて息が詰まりそうで、胸元のスカーフを握りしめる。
 殿下は私よりもずっと苦しい。だから、私が殿下より苦しい顔をする事は許されない。

 心を落ち着ける為に浅い呼吸を繰り返すと、アレックス王子が私に眼差しを移す。紺碧の瞳が一瞬縋るような色を浮かべてから柔らかい弧を描く。

「来ていたのか? 気づかなくて、すまなかった」

 金のまつ毛に彩られた優しい碧は、私の為に何でもない振りをする。

「いいえ。ここだと分かりましたから、大丈夫です」

「すぐに下りる。待っいてくれ」

 長い足を折って、アレックス王子が立ち上がる。
 臣下の資格を手に入れても、決して口を出す事を許されない事がある。

「私がアレックス殿下の隣に行きます」

 驚いたようにに空より青い瞳を瞬かせて、アレックス王子が首を傾げる。

「怖いのだろう? 高い所は苦手だと言っていた」

「私は貴方が望む場所なら、何処でも行きたいんです」

 笑みを含んだアレックス王子の言葉に頭を振って、足場になるオブジェに手をかける。

 バルコニーの屋根の上は、アレックス王子にとって大事な場所だ。心がその場所を求めているなら、私はそこに寄り添いたい。

「そうか。登っておいで、ノエル」

 一歩登って仰ぎ見れば、大きな手の平が太陽の光を一杯に受けて差し出されていた。明るい日差しのような髪が零れて、その奥で愛し気な眼差しが私を捕まえる。伸ばした指先が重ねるように触れると、すぐに包むように私の手をしっかり取る。

 強い力に引かれて、更に一歩登ると、体の半分が屋根に届いた。アレックス王子の引き締まった片腕が脇をすり抜けて、背中を支える熱が私に届く。

「君は相変わらず、壊れそうな程に軽くて華奢だ」

「これでも、鍛えてるんですよ?」

 抱き寄せるように引き上げられて、その胸に縋る様に飛び込む。許される事と許されない事。思って体を引き離そうとした瞬間、ふわりと足が宙に浮いて横抱きに抱えられていた。

「また、腰が抜けると困るからね」

 胸に抱えた私を見降ろして、アレックス王子が揶揄うように言う。

 さっき座っていた場所まで行くと、私を抱いたままゆっくりと腰を下ろす。長い脚に収まる様に降ろされると、腕に触れた手が私の胸の鼓動と同じ小刻みなリズムを叩いた。

「怖い?」

「今日はもう――」

 大丈夫と言いかけた言葉を遮る様に、アレックス王子の空いた手が手首を撫でるように探る。

「鼓動が早い。怖いと言ってごらん」

 嘘を見抜く眼差しが、嘘と本当を混ぜて偽りを命じる。

 トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ。
 
 耳の奥に響く私の鼓動は、駆け足のように早かった。
 腕を叩く手が止まって後ろ髪を抱き寄せられると、アレックス王子の首筋に私の頬が触れた。

 笑うような吐息が私の髪を僅かに揺らす。目を閉じればアレックス王子の想いが溢れる音が聞こえる。

 トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ。
 トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ。

 トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ。
 トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ。

 首筋に触れた頬から伝わる脈と、私の耳の奥に響く鼓動が重なる。
 急くような音が、何もかも忘れたくなる程に愛しい。

 高い場所が怖いという小さな嘘は、今も昔も私に大切な人に触れる時間をきっと許してくれる。

 差し出された太陽を掬う手、望む事を口にされた言葉、触れる体が熱くなる意味。示された望みに適う事を確認するように、寄せた首筋に顔を預ける。
 腕を抱いた大きな手が小さく跳ねた瞬間に、言葉が滑り落ちた。
 
「はい。怖いです。自分で登って、我儘を言って申し訳ありません。でも、少しだけこのままでいて下さい」

 あの日と同じ言葉を重ねると、アレックス殿下の手が私の後ろ髪をそっと梳いた。

 互いの熱で失ったものを埋めるように寄り添う。約束に触れる後ろめたい行為。なのに、触れた肌の熱は納まるどころかより熱を帯びて、全てを溶かしてしまいそうだった。

「知らないでいる事を、また繰り返しそうだった」

 小さく呟かれた言葉には、溢れるような自信はなかった。小川の畔で縋る様に涙を零した少年を思い出して、大きな背に手を回す。

 過ちを繰り返す事もあります。一生懸命やってらっしゃいます。元気を出してください。

 浮かぶ言葉を次々に飲み込んだのは、どの言葉もアレックス王子に似合わないと思ったからだ。

「臣下として隣にいられず、申し訳ありませんでした」

 漸く選んだ言葉にアレックス王子がゆっくりと体を離す。

「『君』は……」

傷ついた眼差しに吸い込まれて、息をするのも忘れた私の唇をアレックス王子の唇が攫う。

「ん……っ」

 一度、軽く触れて。もう一度、深く重なる唇に吐息が落ちる。

 誰かと誰かと誰かに対する裏切り。ちゃんと頭の片隅にあるのに、求められる事を拒む事は出来なかった。

 縋る様な甘く切ない口づけに、痛みを埋めるような口づけを返す。
 絹がふれるように唇が唇を攫って、落ちる吐息を求める吐息が埋めていく。
 穏やかで優しい長いキスは痺れるような甘さを胸に残すのに、いつものような堕ちていく焦燥はない。 
 互いの心に触れるように唇と吐息を合わせ、失ったものを熱が埋める。

 私の下唇を優しく噛んで、アレックス王子の熱がゆっくりと離れた。そっと唇を指で撫でてから、私の手を引き寄せて甲にも唇を落とす。

 初冬の風が責めるように頬を刺して、掻き上げた自分の髪を掴んだ手に力が籠った。その手にアレックス王子が熱くなった手を重ねる。

「帰郷の季節の時から状況は変わった。私は君をもう一度望みたい」

 その言葉の意味が、瞬時には理解出来ずに瞬く。
 「風の変化」とジルも言った。穏やかな笑顔を思い出して、胸がちくりと痛む。

「状況がわかりません。だって、ずっと駄目だと……」

 熱を含んだ眼差しに首を振ると、私の頬に再び唇が触れる。頬を滑る熱が首筋に触れて早い鼓動を確認すると、言葉を否定するように小さく食む。

 向けられる真っ直ぐな愛に、眩暈のするような幸せと、漠然とした不安が交互に心を搔き乱した。

「話すより先に触れて、すまない。だが、私の距離を『君』に思い出させたかった」

 固い指が唇を押し下げるようになぞって、意識が指先に捕らわれていく。
 繋ぐ言葉もなく見上げると、アレックス王子が肩を竦めて苦笑いを浮かべる。

 もう一度、唇を軽く重ねてアレックス王子が表情を変える。内ポケットから何かを取り出すと、開いた手の上には小さな青い宝石が乗っていた。その宝石が模しているのはオオカミによく似た生き物で、名前はヴォルハだ。

「何だか分かるかい?」

「はい。アレックス殿下のは初めて見ますが、カミュ様の秘宝をお預かりしたのはよく覚えています」

 クロードと共にアレックス王子に忠誠を捧げて、秘宝「王の慈悲」の存在を教えてもらったのは六年前だ。
 私の言葉にアレックス王子が頷くと、前髪が僅かにふれた。大事な話には近すぎる距離が落ち着かなくて、僅かに腰を捻れば拒むように引き寄せれる。

「秘宝の存在をしるのは王家でも一握り。伝わる伝承を知るのは王と伝承の管理者のみだった。私とカミュには、知らされていない事があった」

 確かに、たくさんの書物を読んだけれども、秘宝に関する記述を見たことはない。

「アレックス殿下がおっしゃった事は、秘宝に繋がっていくのですか?」

 私の問いかけにアレックス王子が、口元に手を当てて考え込む。

「そうだね。だが、他にもたくさん見落とした。帰郷の季節の前に、カミュと共にコーエンに入った。君の願いを叶え、民を守る為に出来る事はそれしかないと分かっていた。なのに、私は何も出来なかった」

 遠くで小鳥が啼いた。その声の持ち主を探すように振り向けば、眼下に広がる街並みが見える。
 街は以前よりも建物が増え、人影もずっと増えていた。この国の成長と営みを見つめ続けてきたアレックス王子が感じた責任はどれ程重かっただろう。

 絹のような髪に手を伸ばして撫でると、返すようにアレックス王子の手が私の眦を撫でる。

「君の瞳は、私を許すのだな」
 
「はい。殿下が頑張った事はちゃんとわかります」

 微笑んでいった私の言葉に、眦を撫でる手を止めてアレックス王子が瞳を曇らせる。

「いや。気負う事に負けて、目の前の事を見落とした私は未熟な……」

 言葉を止めてアレックス王子が首を振った。続けたかった言葉は、失った夢だ。

「カミュが王都に呼び戻されて、最初の移動が失敗した。カミュが再びコーエンに戻った時に、初めて聖女の横顔が誰を愛してるか気づいた。でも、私たちは役目を果たす為に目を逸し続けてしまった」

「カミュ様も聖女の想いに気づいていたのですか?」

 私の言葉にアレックス王子が頷く。
 一度目の移動はアレックス王子だったのに、二度目はカミュ様が同行した。それは、聖女の想いを利用する為にカミュ様が使われた事を意味する。

 王族の責任と自分に向けられた思い。精霊の子にずっと心を寄せてきたカミュ様には辛かった筈だ。

「二度目の移動が失敗した後、カミュが私の部屋を訪ねてきた。泣くのを見たのは子供の時以来だ。救える術式が使えない事も、自分を想う眼差しを無視し続ける事も、自分の所為で私が役目を果たせぬ事も全てが苦しいと言った」

 誰か一人の思いを叶える事も、幸せになる事も見えない。その晩、アレックス王子とカミュ様は何を話して、何を感じていたのだろうか。
 苦しい季節が、私の知らない所で愛しい人と友を襲っていた。
 
「国政管理室の副室長が聖女の元を訪れてから、聖女が……ディアナが私の為に命を懸けて祈ると言い出した。私を愛したわけではない。この国の民の未来と、カミュの未来の為に決断したのだろう」

 二度目の失敗のすぐ後に、ディエリによる武装兵の摘発が起きている。人と人の争いを想定した国政管理室は大崩落まで時間がないと結論を出した。
 より強硬になっていく状況を想って唇を噛む。

 副室長は通達で多くの心を操ったように、聖女が引けない状況を作り上げたのだろう。

「苦しむ事に見ぬ振りをすれば聖女の移動はできる。だが、条件を満たさぬ聖女に祈らせる事に意味はあるのか? 私達にはそれしか本当にないのか?」

 瞼を開くと、まっすぐと強い意志を宿した瞳が私を見つめる。吸込まれるよな青い眼差しの奥に、一人の民を零す事もしたくないと言った言葉と、王にはなれないと言った言葉を見つける。
 
「厳しい判断は必要です。でも、確実じゃない未来の選択を最善と呼びたくありません」

「ああ、今はレオナール達の判断も理解する。だが、その時は私もカミュもこれが最善だと思いたくなかった。護衛騎士の一人を王都に戻して、騎士団の作戦資料を求めさせた。そして、戦力の中に、秘宝、またはそれを推測させる記述が無い事に気づいた」

 秘宝は、戦を終わらすだけの力か、戦火に傷ついた人や土地を癒す力を生むと聞いている。それだけの力が含まれないというのはおかしい。
 私の表情に気づいたアレックス王子が小さく頷く。

「秘宝の存在は秘密だから記載されていないのか、使う気がないのかをすぐに確認した。返ってきた答えは使う予定はないというものだった」

「どうしてです? 力があるのに使わないなんておかしいです」

「伝承が原因だ。秘宝は二百年前のアルノルフ王の治世に作られた。百年以上の歳月をかけて、持ち主の魔力を少しずつ蓄えて大規模な魔力を生む」

「アルノルフ王の治世……大崩落と聖女シーナですね」

 アルノルフ王は文字の発展に努め、多くの決まりを整理して歴史に残した文官王だ。
 彼は大崩落で魔物の王に勝利している。だが、聖女として祈りを捧げた王妃シーナを失った。彼の王が秘宝を作らせたのなら、同じ悲しみを繰り返さない為だと思えた。

「そうだ。秘宝は元々は魔物の王と戦う為にアルノルフ王が歳月をかけて作らせたものだった。王と王位継承者三人で合計四つの秘宝が存在する。力は破壊と癒し。一つは全てを終わらせる力、一つは秘宝で穢れた土地と人の癒し」

「穢れ……ならば、秘宝は対なのですね? 二つの力と二つの癒しで二度使える」

 アレックス王子が首を振って否定する。間違えの答えを問うように首を傾げれば、視線を逸らして眼下に広がる街並みを見る。

「王家の過ちだ。七十年前に一組の秘宝が内乱の鎮圧で使われてしまった。シュレッサーが残した資料に王の魔法として、人に有らざる力と再生と書かれているそうだ。それだけのものを使うべきでない時に使った」

「でも、一組は残ったのですよね? それは使えるのではないのですか?」

 私の言葉にアレックス王子大きく頷いて微笑む。

「勿論だ。使わないより使った方がずっと良い。王家が使わない選択をしたのは、七十年前の王が伝承を書き換えたせいだ。偽りの伝承には秘宝は魔物に類する者には効かず、穢れを起こす魔力が魔物の力を助長すると書かれていた」

「酷いです! 情報は正しく伝えてこそ生きるのに……でも、どうして書き換えが分かったのですか?」

「さっきノエルも予測しただろう? アルノルフ王が用意したのなら魔物の王に関わると。私とカミュも同じ様に考えて、ユーグに調べるように頼んだんだ。本当にシュレッサーには何でもある。シュレッサー当主が管理してる機密資料に、王家にしかない筈の伝承の百年前の写しが見つかった」

 その言葉に思わず笑みが零れてしまう。
 以前にも王家にしか伝わらない術式をユーグが知っていて、カミュ様が呆れていた。シュレッサー当主の隠し部屋にある機密書類をいつか全部見てみたい。

「秘宝の存在を知る数少ない臣下の中で、レオナールは状況に疑いを持って、使い道を模索していたようだ。彼のの推測と私の決断に少し異なる部分はあったが、正しい伝承を元に新しい指針をすぐに整えてくれた。……優秀な文官の手腕を見せてもらったよ」

 父上はアレックス王子が王位を捨てると言った時に、秘宝の存在を知っていたから後に引いた。父上がもっていた推測の内容と本当の事に違いはあっても、国の方針を変えるだけの力が秘宝にはあると言う事なのだろう。

 思案にふける私の額に、アレックス王子が額を合わせる。僅かに見上げれば、唇が触れそうな程近くにあった。触れているのと変わらない、触れない距離は触れるよりもずっと胸を乱す。

「ノエル、聖女に頼らない道がこの国の第一の選択に決まった。王位は失う。だが、私は誰を愛しても構わない」

 ゼロに近い距離がゼロになる。
 触れる唇の感触が、求められる事を私に思い出させる。もう、何もかもを受け入れてもいい。
 そのはずなのに、心の何処かに棘のようなものが引っかかっていた。

 離した唇がもう一度重なるのを指で押さえる。押しとどめた私を見るアレックス王子の眼差しが脆い硝子細工のように私を映す。
 何かがまだある。そんな予感に背中が粟立つ。
 
「秘宝を使ったら王位につけない理由は何ですか?」

「……一度秘宝を使えば、二度と秘宝を持つことはできない。そして、秘宝を持たないものは王位にはつけない。王族だけが知るこの国の決まりだ」

「全てが終わったら、文官になった私が変えます。私が必ずアレックス殿下を王に――」

 アレックス王子が私の頭をそっと撫でる。踏み込まれることを怯えるような、硝子細工の瞳に体の芯がどんどん冷たくなる。

「君は本当に愛しい。でも、秘宝を持つ者が王になるのは、この国にとって悪い事ではない。……王になれない事、君を隣に置くと言った事、叶えられない約束の全てを謝ろう。すまない、ノエル」

「アレックス殿下が、私に謝る必要なんてないです。それよりも――」

 思わず言葉を飲み込んでいた。棘の正体に気づいて、冷たくなった体の中心が悲鳴を上げる。

 秘宝は四つ。四つのうち二つが使えない。本当なら二組あった力は一組しかない。
使ってしまった王が、魔物には使えないと書き換えた理由に辿り着く。

 多分、魔物の王と戦う為には終わらせる力は一つでは足りないのだ。二つ使って漸く対抗する事が出来る。

 父上とアレックス王子の推測の違いが何なのかは分からない。でも、父上は目の前の問題の解決に、容赦も躊躇もしない。アレックス王子も守る事と責任の為に、怯えて立ち止まる事はしない。

 気付けばアレックス王子のジャケットの胸元を縋る様に握りしめていた。

「アレックス王子とカミュ様の秘宝しか使えないのですか?」

「私とカミュが引き継いだ秘宝だけが力を満たしている。王と公になっていない二位継承者が引き継いだ秘宝は、まだ魔力が不足している。大丈夫だ。必ず守るから……」

 眦に浮かびそうになる涙を、意志の力で抑え込む。答えを聞くまで、答えを聞いても泣いてはいけない。

「その秘宝は対で使うのではありませんよね? お二人とも終わらせる力として使う。違いますか?」

 壊れる瞬間を隠すように目を閉じて、アレックス王子が深いため息を落とす。

「君は敏すぎる。気付かないで欲しい事もある」

 今日一番冷たい風が私の体を攫うように吹きつけた。答えは肯定だ。

 二つの力が必要なら、「力」と「癒し」ではなく、「力」と「力」として使用する。

「穢れた土地はどうなるのです?」

「魔力の放出で、魔力濃度が高くなる。しばらくは魔物が生まれやすい」

「それだけですか?」

 瞼を閉じたまま、アレックス王子は答えを返してくれなかった。

 魔力学で学んだことがある。魔力濃度が高いと魔力は暴走して、引き合う事と反発する事を繰り返す。それは、そこにいる人の魔力を何もせずとも激しく消耗させる。精霊の子と同じか、それ以上に厳しい条件に普通の人でも置かれると言う事だ。

 消耗した状態でそんな環境にいれば、命が危ない事は簡単に分かった。

「ワンデリアの地下渓谷ですね? 周囲への影響も少ないし、そこなら魔物の王と対峙できます」

 穢れた土地に使う為の癒しが使えない。ならば、使用できる場所は限られる。
 アレックス王子に更に問い掛けをを重ねる。

「王になれない、隣に置けない。その言葉の真意はなんですか?」

 震えた声で重ねた言葉が、ルナの予言のような言葉を甦らせる。
 
――最後の瞬間に魔物の王と戦ったのはアレックス、カミュ、ディエリ、クロード、ユーグ、ドニ。 

 騎士と並ぶ実力を持つディエリとクロードは、騎士専科で殿下と高度な連携の演習を繰り返している。今日の挨拶の席でも殿下に付けると言われていた。
 ユーグは絶対に知るべき事を求めて付き従うだろう。彼の知識は役に立つ。
 ドニは皆の盾になると言った。守りには実戦の実績もあるし、ラヴェルの汚名をそぐ機会だ。

 地下渓谷に向かう時、友には一緒に行動する可能性がある。

――この国に聖女がいない。だから、アレックスが率いた皆は負けてしまう。

「ルナの言葉を覚えています……か?」

 唇が僅かに震えて、縋る指先が白くなっていた。
 優しく私の背を宥めるように叩いて、アレックス王子が瞳を開く。
 秘宝を掲げて空に透かす。王族が悠久の時を引き継いで蓄えた力の欠片は、太陽の光に晒されて淡い光の粒が美しく揺らめいていた。

「彼女の言葉通り、聖女の祈りが私に降る事はない。でも、使える力でこの国を守る道を進むのが、私とカミュの責任だ」

 抗う事で変った道があった。でも、形を変えてもシナリオに添う事もあった。
 父上の代わりのジルベール。私の代わりのカリーナ。変化と維持を繰り返す世界は、どちらに動くか分からない。

「ならば、私も隣にいます」

 アレックス王子の肩に額を乗せて、連れて行ってと心の中で必死に願う。

 同じ舞台が揃うなら、シナリオを変える私を隣に置いて欲しい。この世界にいないノエル・アングラードには可能性があるはずだ。ルナの告げた未来にも、ノエルの存在はなかった。必ず、変えるきっかけになれる。

「君は華奢だ。細くて簡単に壊れてしまう。カミュ、クロード、ユーグ、ドニ、ディエリが側に居る事を心強いと思う。でも、君は違う」

「嫌です! お役に立てます! 私を隣にいさせてくれると言いました! 約束です!」

 私を拒む言葉に憤って顔を上げた瞬間に、涙が零れそうになって唇を噛み締める。泣いてしまったら、一層アレックス王子は私が隣に居ることを許してくれない。

 困惑するようにアレックス王子が瞳を揺らす。後ろ髪を梳いて、最初と同じ様に私の頬がアレックス王子の首筋に触れるように抱き寄せる。

「ノエル、聞こえるかい? 私の音が……」

 その言葉に頷きながら、強く早い心臓の鼓動に耳を澄ます。

「君が狙われれば、情けないが私は心が乱れるだろう」

「でも、私は強いです。闇魔法も剣も引けを取りません!」

「ノエル……私は君を戦いの場では隣に置かない」

「いや……です。隣に……。私なら、未来を……可能性が」

 命の音が早くなる。頬に、耳朶に、髪の先に優しく言い聞かせるような唇が触れる。愛を教えられて、自信を乗せた言葉が掠れていく。

 アレックス王子の言葉には変えられない決意があった。泣いても叫んでも私を共に連れて行ってはくれないだろう。
 
 ならば、勝手に付いて行けるか? 
 それは厳しいだろう。許可を受けずに付いて行けるような状況じゃない筈だ。
 どうにもならない状況が、胸を抉っていく。

「この国は聖女に頼らない道に舵を切った。王位継承者として、必ず私は君と民を守る約束は叶える」

 その言葉に顔を上げる。泣くのは堪えていたけれど、瞬きをすれば今にも涙が零れそうだった。

「君を泣かせたくないんだが、何度も泣かせてしまうな」

「隣に置くと言ってくれないからです」

 困ったような笑顔を浮かべて、私の眦に熱い唇が触れる。閉じた瞼から零れた涙を唇が掬って離れると、もう片方の頬を落ちた涙の跡を唇がなぞる。

「心配するな。君を隣に置けない言ったのは、王と臣下としてだけだ。王ではなくなった未来に、もう一度君と新しい約束をしたい」

 私を膝から降ろして、アレックス王子が私の両手を引いて立つように促す。両手から伝わる手の温かさが、愛しくて悲しい。
 向き合ったアレックス王子が愛し気に見降ろして微笑む。壊れそうだった硝子細工のような眼差しの奥に、向き合えば希望があった。

「待っていて欲しい。約束は力になる。終わりにするより、続きにした方が互いに励みになる事もある」

 それは昨日アレックス王子がギスランに告げた言葉だ。
 誰かが、愛しい誰かの帰りを待つ。愛しい誰かが、誰かの為に帰ろうとする。

 重ねた手を放すと私に向き直ったアレックス王子が、私の首筋に手を回す。
 細く冷たい感触が首に触れて、俯けばスカーフの上で「永遠の愛」を象徴する白い花が揺れていた。
 二人で出かけた日に、何か買いたいと言ったアレックス王子にアネモネ石を望んだのは私だ。
 
「終わりの後の、新しい未来に君と約束したい」

 金色の髪が流れるように揺れて、胸元に飾られた「永遠の愛」に口づける。
 顔を上げた眼差しの前に、引き込まれる様に頷く。

「王ではなく一人の男として、『君』を永遠に望むと約束する」

 風が愛しい人の甘い香りを私に運ぶ。そして、私の中の多くの決心を攫っていこうとする。

――「伝えるという事は、大事でございます」

 従者の礼をとって、ジルが私の背を今日も押してくれた。
 また、大切な人を傷つけてしまう。でも、私にとって愛しい人はたった一人だ。

「アレックス殿下、我が家にきた新しい家族は女の子でした」

 赤の混じった銀の髪に、紫の瞳の新しい家族は私と同じ女の子だった。アングラード家に直系の男の子がいない状況で、私がノエルをやめる事はできない。
 私の言葉に困惑する様子もなく、アレックス王子がただ一度大きく頷く。

「ならば、それも必ず何とかしてみせる」

 何とかする。その一言に思わず笑みが零れた。 
 どんな時でも、アレックス王子の瞳の奥には希望の光がある。王であっても、王でなくともアレックス王子の一言は、私の未来にいつも明かりを灯してくれるのだろう。

「……ロル。妹にはシャロルと名付けました。アレックス殿下とのお約束通り、キャロルの名はちゃんと残っています」

 妹なら名を譲るつもりだった。でも、アレックス王子はいつか名を返すと言って止めてくれた。

 アレックス王子が私の手を取ると、跪いて手の甲にキスを落とす。

「全てを終えたら、アレックスとして『キャロル』を必ず迎えに行く」

 隣にいるという希望はまだ捨てない。でも、ここでの約束はきっと未来に繋がる。

「お待ちしてます」

 アレックス王子がもう一度、指先に長いキスを落とす。

 約束には、未来を変える希望がある。想いにも、未来を変える力がある。
 見知らぬ未来に抗って、新しい未来をつくる。 

 顔を上げた紺碧の瞳が綻んで、立ち上がると同時にアレックス王子が私を抱き上げる。

 大好きな人の頭より、一段高い所から美しいこの国の町並みを見下ろす。そこには、たくさんの人がいて想いがあった。
 そして、見上げれば空はいつもより近く、繋がる先には更にたくさんの想いがある。

 抱えられたまま両手を伸ばしても、今なら怖くない。
 抱き上げられた景色には、たくさんの未来が見えた。

「アレックス殿下。 未来では必ず隣で貴方の名前を呼びます!」

 見下ろして、私の約束を口にする。
 全てを終えた後、『キャロル』として『アレックス』の隣で、変わる事ない愛を誓う。



 その日は土砂降りの雨だった。
 エントランスホールにまで届く激しい雨音に、思わず顔を顰める。

 居並ぶ我が家の使用人の姿勢が、一段と伸びて空気が緊張帯びた。階段の方を見上げれば、父上が母上の肩を抱いて笑顔で降りてくるところだった。

 黒一式の正装に白いシャツの襟もとを飾るスカーフは侯爵の青。胸元には王の名代を示す国章が飾られている。堂々たる姿の筈なのに、父上を包む黒の装いに胸が不安でいっぱいになる。

 父上がホールに降り立つと、使用人の筆頭である初老の執事が一礼する。

「ヴァーノン。私がいない間はいつも以上に手抜かりのないようにな」

「はい、旦那様。警備体制の見直しも行わせて頂きました。ご不在の不安をお埋めできるよう使用人一同一層の努力をし、ご帰還をお待ちしております」
 
 折り目正しい礼に、父上が満足げに頷いて母上の額に一度キスをする。
 それから、母上付きの侍女であり女中長を兼ねるアリアに向き直る。

「アリア。ソレーヌと小さな家族の事を頼んだぞ」

「はい。お任せくださいませ。皆さまが気落ちしないように心を配らせて頂きます」

 優雅な礼をアリアが返すと、父上が笑って母上の頬にキスをする。
 私に向き直ると、母上の反対の頬にキスを落とす

「父上、一つ行動する度に母上にキスをするのは、どうかと思いますが?」

 年齢よりも若く見える甘い顔で首を傾げてから、母上の耳にキスを落として何かを囁く。私を見て母上と微笑み合うのはなんだ大変感じが悪い。

「なんですか?」

 思わず頬を膨らませて睨むと、父上が顎を撫でて目を細める。

「大人の話だから、ノエルには秘密だよ。さぁ、今日から君には当主代行として、アングラード侯爵家の全てを任せる。私の不在の間は、頼んだよ」

「はい。任せて下さい。父上よりも見事に務めてみせます。だから、早く帰ってきてくださいね」

 私の言葉に頷いて、頭を一撫でする。それから、やっぱり母上の首筋にキスを落とす。
 突然、思い出したように真剣な表情になると父上が私を見つめる。

「もし、何かあれば国政管理室に行くといい。君の事をとても気にかけているから、力になってくれるだろう。用事が終わったら、真っすぐ帰るんだよ。当主代行は寄り道は禁止! 中央棟に寄ったりする暇はないからね!!」

 その言葉に思わず頬を引きつらせる。
 方針が変わって以来、父上は私とアレックス王子を無理矢理引き離す事はしなくなった。引き離す前と変わらず、見て見ぬ振りをするけれど認めないというスタンスだ。

 母上に向き直ると、細い腰を抱いて愛し気に見つめる。
 甘い雰囲気を察した執事が顔を伏せると、察しのいい使用人が次々と顔を伏せていく。

「ソレーヌ。私がいないと寂しいだろうけど、少しだけ我慢して待っていてね」

「お仕事しっかりしてきて下さいね。私は一生懸命頑張ったレオナールの話を聞くのを、楽しみに待っていますわ」

 女神様も色あせる程美しい笑顔を母上が浮かべると、父上が唇にキスをする。
 長い長いキスに空気を読めなかった使用人も、漸く真っ赤になって顔を伏せていく。ほぼ全員が顔を伏せた所で、母上を胸に抱きとめた父上が満足気な笑顔を浮かべる。

「では、行ってくるとしよう!」

 その言葉に、一瞬で優秀な使用人たちは空気を変えて一礼する。

「「「いってらっしゃいませ、旦那様」」」

 エントランスのドアをクレイが開けて、母上を抱きしめた父上が外に踏み出した。

 冬には珍しい雷を帯びた真黒な雲が、風に煽られて空を駆けていく。
 幸先が悪い。見送るなら晴天であったら良かったのにと思って頭を振る。

「ノエル、眉間に僅かに皺が寄っている。気を付けろ。駆け引きで顔に感情が出るのは致命的だ」

「ご安心を。外では問題なく取り繕っています」

 吹き込む雨が僅かに私の頬に掛かる。
 クレイが馬車のドアを開けて待っていた。父上の行動の露払いをするクレイには、この悪天候でも服に乱れも濡れた様子もない。
 
「クレイ! 父上を頼みます」

 その言葉に優雅な笑みを浮かべて、クレイが完璧な礼で応える。雷鳴が一段と激しい音を立ててた。

「ソレーヌ、私の愛しい女神様。愛しているよ」

「ええ。愛しているわ、レオナール」

 最後のキスは短いけれど甘く優しい。名残を惜しむような小さなキスと唇の感触を確かめるようなキスを父上が繰り返す。
 父上は本当に母上を愛している。だから、絶対に帰ってくる。

「ノエル、頼んだぞ」

「はい!」
 
 私の頬にも父上がキスを落として、小声で囁く。

「可愛い天使は無茶もしないようにね!」

 踵を返して、父上がマールブランシュ王国の国章を付けた馬車に向かう。

「暗雲に見送られての出発なんて、闇属性のアングラードには最高の日和だ。お土産と活躍のお話を持って帰る。私の事を毎日思い出して、寂しがって待っていて良いよ!」

 父上らしい陽気で甘い笑顔を浮かべて馬車に乗り込むと、クレイがドアを閉じる。

 雷鳴響く珍しい冬の嵐の中で、父上を含むヴァイツ調停団が王都を出発した。
 ヴァイツの首都までマールブランシュ王国首都からおおよそ二週間。無事にヴァイツ首都に着くことを、真黒な嵐の雲を見上げて願った。
 



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