2018年12月23日日曜日

前章 五話 その罪は覚えがありません! ★ 貴方なんて冗談じゃありません! 婚約破棄から始まる入れ替わり物語




 黒の装束と布で顔を覆う二人組が、私達に向けて剣を構える。
 舞踏会の夜に強盗なんて!
 助けを呼ぼうと、開きかけた口を閉じる。
 今の時間は、レナート王子のいる会場に警備が集中している。泣きそうで人気のない通路を選んだから、周囲に騎士の姿はない。

「まずいです。助けを呼んでも、誰にも届かないです」
「騎士を呼びたいなら魔法は? 僕としては貴重なこの状況を、もう少し見てたいんだけど」

 危険な状況を見ていたいとかやめてほしい。半ば呆れながら、私は自分の考えを口にする。

「魔力検知が出来る範囲に騎士がいなければ、刺激するだけになりませんか?」
「確かにね」
 
 黒ずくめの者達をじっと観察する。剣はこちらに向けているものの、すぐにこちらに飛びかかって来る気配はない。だからと言って、睨み合うままでいても仕方ない。

「ローランド男爵。とりあえず、前が駄目なら後ろに逃げませんか? 後方はなら舞踏会場の方角です。ある程度まで進む事ができれば、魔法に騎士が気づく可能性が上がります」
「謎の黒ずくめと追いかけっこ! 興奮するね!」

 危機感のいまいち薄いグレイの隣で、高いヒールの靴をドレスの中で脱ぐ。こんな事になるのなら、わざわざ履き直す必要なんてなかった。

 グレイが私の手に軽く触れて合図し、私達は一斉に振り返る。すぐに走り出すつもりだったけど、一歩も進むことが出来ずに固まる。
 別の黒ずくめの者が、背後にもう一人現れたからだ。

「挟み撃ちされちゃったよ」

 嬉々として呟くグレイに、非難の眼差しを向ける。
 そんな悠長な事を言っている場合ではない! これってかなり危険な状態だ。

「剣は持ってますか?」

 私の言葉にグレイが、腰に下げた繊細な細工の剣を軽く叩く。

「今日のは切れ味の悪い飾り物。売り込みで持ってきた品だから、抵抗ぐらいはできるけど切る事はできないね」
「腕前は?」
「自分一人なら時間は稼げるかな。君を守る自信はない」

 その言葉が聞ければ十分だ。

「一人なら頑張れるんですね。では、私が助けを呼んできます」

 切れ長の瞳を見開いたグレイから、新たに現れた黒ずくめの者に視線を移す。そして、令嬢らしい怯えた表情を私は作る。

「一体何なのですか? 私達は何もしないから、何処かへ行ってください!」

 予想はしてたけど、答えは帰って来なかった。私はその場にふらふらと、恐怖に耐えかねたという風情で座り込む。

「ディルーカ伯爵令嬢? 腰が抜けちゃったのかい?」

 頭上で慌てふためくグレイの声が聞こえるけど、返事はせずにふんわりとしたドレスに体を埋める。ドレスの中で脱いだヒールを足で押しやって、差し入れた手でそれぞれ両手に掴む。

 今でこそ立派な?令嬢だけど、私は田舎育ちの狩猟経験者だ。そこらの男の人よりも、身の軽さには自信がある。

 男の私に向ける気配に緩みを見つけて、おもむろに立ち上がるとスカートをたくし上げて駆けだす。
 まずは靴の片方を顔に向かって思い切り投げる。

「うぉっ、くそっ!!」

 顔に勢いよく飛んできた靴を手で振り払った男に向けて、間髪入れずにもう一つ投げつける。

「もう一つ差し上げますね!」

 続けて投げた靴は、苛立たし気に剣で一閃される。帰りに履く靴がなくなった! 小さく舌打ちしてながら十分近づいた距離を確認して、私は重心を下げて足から男の体の横に滑り込む。

 すれ違う瞬間、男が大きく目を見開くのが見えた。
 令嬢は優雅でお淑やかにだ。私がこんなことするとは考えてもみなかっただろう。

 完全に擦り抜けてから、身をよじって跳ね起きと、私は中庭の通路を会場に続く扉へ向かって駆けだす。グレイの事は置いてきてしまったけど、振り返って確認する余裕はない。自分の身なら守れるという言葉を信じよう。

 扉まであと数歩という所で、地面がぐにゃりと歪んだ。慌てて足を止めると、土が大きく盛り上がってアーチを塞ぐ。土属性の魔法だ。別の棟の扉へと顔を向けたけど、そちらも土の山に塞がれてしまう。

「ディルーカ伯爵令嬢、大丈夫?」

 後ろからグレイの声が聞こえて振り返ると、二人組の一人と剣を切り結ぶ姿が見えた。

「大丈夫です!」

 そうは叫んだけれど、大丈夫とは言い難い。さっき横をすり抜けた黒ずくめの者が、もの凄く殺気立った雰囲気で近づいてくる。

「貴方たちは何なんですか?!」

 返ってくる言葉はやはりない。何だかおかしい。違和感が私の胸に広がる。

「目的を言ってください!」

 もう一度、男に向かって問いかける。
 この黒ずくめの者は、さっき『くそっ!!』って一言漏らした。少ししてやられた程度で殺気立っているし、気が短く感情的なのだと思う。だから、上手く煽れば口を滑らすかもしれない。

 いつでも軽快に動けるように両手でドレスを思いっきりたくし上げると、黒ずくめの者が顔を背けた。
 意外な動作に驚いて、何の所為かと自分を見下ろす。
 白に青色リボンのふわふわ可愛いドレスの下に、色気も可愛さもない焦げ茶色の着古したズロースが見えた。付き侍女には、履くのをやめろって確かに止められた。でも、下着なんて見せる事ないし、これが温かくて履き心地が良いからと選んだのだ。それを今、本気で後悔する。 

「こんな事になるとは思わなかったんだもの! すけべ! 見ないでよ!!」

 色気も何もないが、一応はあられもない姿といえる私から目を背けた男に叫ぶ。

「すけべですって? 貴方が自分で見せているんでしょ!」

 私の言葉に黒ずくめの『男』が顔をこちらに向けて言い返す。思いの外、言葉遣いがきれいだった。強盗だとは思えない確信が広がる。

「だから、見ないでよ! それから、か弱い令嬢に乱暴が許されると思っているの?」
「見たくて見ているわけじゃない! そんな色気のないズロース!! あと、君の動きは全然か弱くない!」
「……すけべ! おたんこなす! 何が目的ですか?」
「……」

 男が黙り込む。

「何が目的ですか? 乱暴者! すけべ!」
「っ……」
「何が目的ですか? すけべ! おこりんぼう! すけべーーー!」
 
 顔を隠した黒い布から覗く茶色い瞳を、男が耐えかねたようにぎゅっとつむる。

「……大人しくしてろ! 危害を加えるつもりはない」

 危害を加えるつもりはない? ここまで対峙しておいて、その言葉はどういう意味か。
 
「じゃあ、何故? すけべ……」

 ちょっと言い過ぎな気がして、最後の悪口の音量は少し下げた。でも、ちょっと遅かったようだ。男がカッと目を見開いて、地面を滑るように私の足を薙ぎ払いに来る。

「きゃあ、っと、っと!」

 大きく跳ねて後ろへと飛び退いて避ける。男は体をそのまま回転させて、流れるような動きでお腹に向かって続けて蹴りを入れてくる。
 これも横に大きく避けた……つもりだった。たくし上げたドレスの端が、男の足先に引っかかって蹴りの勢いに掴まる。振り投げられるような形になって、私は生垣の方へと飛ばされる。

「きゃあああ!――ったい」

 運よく生垣の中に突っ込む形になって、怪我はせずにすんだけど全身は葉っぱだらけだ。

「リーリア、大丈夫かい?」

 目の前にグレイが現れて、私に手を差し伸べて引き起こす。

「うん、有難う。ローランド男爵」
「グレイ。グレイでいい」

 そう言って私を抱き寄せたグレイが中庭を後ずさる。

「グレイは大丈夫なの?」
「あぁ、なんとかね。でも、剣が弾き飛ばされて、丸腰になってしまったよ」

 確かに、グレイの手にはもう剣はない。左からはすけべな黒ずくめの者が、右手からはグレイが対峙した二人組が徐々に距離を詰めてくる。

「グレイ。大人しくしていれば、危害を加えるつもりはないって言われたんです」
「へぇー。それって強盗の常套句じゃない?」

 その問いかけに首を振る。それはもう絶対にない。

「強盗ならば目立たずに逃げ去りたい筈です。ここまで執拗に対峙するなんて絶対にない。何か他の目的が――」
「じゃあ、怨恨かな。結構心当たりはあるよ。僕は新鋭の芸術家で名が売れているから、男にも女にもそこそこに恨みを買っている。リーリアだって、さっきまではレナート王子の婚約者だった」

 私の言葉を途切って、グレイが怨恨の可能性を挙げる。
 確かにレナート王子の婚約者だった間は、色々な令嬢たちから嫉妬されていた。でも、今はもう違う。
 忘れていた痛みを思い出して、ぎゅっと唇を噛み締める。

「その一番大きな理由は、もう無くなりました。ですから、グレイの所為かもしれませんね」
「傷ものになったら、貰ってあげるね。君は面白いから!」
 
 こんな状態なのに冗談を言って笑うグレイにため息をついてから、もうそんなに距離のない黒ずくめの者達を睨みつける。

 グレイも丸腰で退路は塞がれている。できるのは、時間を稼いで見回りの騎士が来るのを待つ事ぐらいだ。
 
「魔法は使えますか?」

 グレイに尋ねると、周辺を確認してから答える

「『水』が使える。だけど、魔力量はそこまで多くないよ。三人まとめて倒せとかは無理だからね。リーリアは使えるのかな?」
「『火』です。使えると言えば使える。でも、使えないと言えば使えない。『魔法』はあまり得意じゃないです。なので威嚇程度しか出来ないと思ってください」

 『魔法』はどうしても苦手だった。力の加減やコントロールに、馴染むことが出来ない。

「僕が水の壁を作って、リーリアが彼らの足元を狙う」

 グレイが人差し指を前に出して小さく回す。くるりくるりと回る度に、噴水の水が吸い寄せられるように集まってきて、あっという間に私たちを守るように水の壁ができる。
 私も自分の魔力を指先に集中させる。ゆっくりと魔力を練る様に指を回して、近くの火を魔力と馴染ませて呼び寄せる。
 ランプの一つが音を立てて割れると、私の魔力と混ざった火が指先に集まる。握りこぶしぐらいになる度に、指を払って黒ずくめの男たちに向かって放つ。

 何度かは思う通りに上手くいった。黒ずくめの男たちも足を止めて、その場が膠着する気配を見せた。
 でも、突然複数のランプが割れて、光を失った周囲が急に暗くなる。次の瞬間、私の手元の火が突然人の頭を超える大きさになってしまう。

「リーリア! 強い! 火を集めるの勢いが強すぎる!! 離せ!」

 集めていた魔力を停止すると、大きな火の塊が一人の黒ずくめの男にまっすぐと向かっていく。
 威嚇だけのつもりだったのに、これでは怪我をさせてしまう!

「避けて!!」

 叫んだ私の視線の先で、黒ずくめの者が手首を一閃させて強い風が吹く。
 私の『魔法』が軌道を変えて、黒ずくめの者から逸れた。
 
「とんだじゃじゃ馬だな! 少し躾けてやろうか?」

 吐き捨てるように言う声は、さっき私と対峙した黒ずくめの者だ。彼とは何だか嫌な縁があるみたいだ。
 件の黒ずくめの『男』が私に向けて魔力を練り始めた次の瞬間、パンと弾ける音と共に一本の木に火が付いた。
 激しい音を立てて、一本の木が魔力を含んだ強い炎に飲み込まれていく。

「くそっ! 流石にこれは人が集まってしまう!!」

 よく喋る黒ずくめの『男』が大地を蹴ると、アーチを塞いでいた土の塊がバラバラになって崩れ落ちる。

「引くぞ!!」

 別の黒ずくめが初めて声をあげて叫ぶと、あっという間に彼らは身を翻して北棟の方へと駆けて行った。

 今日は一体どれだけ運が悪いのか。
 小さな不運から始まって、ジュリアに因縁をつけられて、異国の王族のクリスにとんでもない頼みごとをされて、レナート……と色々あって、最後の最後に黒ずくめの者達に襲われて……。

 その場に思わずへたり込むと、東棟の方から物々しい声が遠くに聞こえ始める。
 きっと木が燃える煙に気づいた騎士が動き出してくれたのだろう。

「グレイ。どうやら助かったみたいですね」
「そうだね。創作意欲が刺激されちゃったよ。悪いけど、後は君に任せて僕は失礼させてもらう! 君の棄てられ話をネタにするのは、別の機会! さよなら、リーリア」

 いうが早いか、グレイが駆けだす。その背に向かって叫ぶ。

「二度と来ないで下さい!」

 グレイの背が消えると、私は燃え盛る木に近づく。
 まだ誰も中庭に居ないのを確認して、扇に魔力を込めて文字を書く。古い古い遠い昔の文字を幾つか記し、それを最後に丸で囲む。それから、手の平にも同じものを少し変えて書くと、ゆっくりと魔力を流し込む。
 扇に書いた文字が魔力で淡く光る。こぽこぽと小さな音がして水が溢れ始めると、扇を燃える木に向かって投げこむ。

「火を消して」

 呟いて一段と魔力を強く流すと、扇から木を飲み込む程の水が溢れて、炎が瞬く間に全て消えた。

 『魔法』は苦手。でも、『魔術』なら私は得意だ。
 地図にもない忘れ去られた小国だったアルトゥリアには、何処の国とも繋がりがなくて『魔法』の知識が長く入ってこなかった。だから、代わりに古の『魔術』が発展して、今も私達に残っている。
 『魔法』みたいに自由に動かす事は出来ないけれど、『魔術』は何かを生み出す事が出来る。誰かと協力して使う事もできるし、これはこれでとても便利な力だ。
 だけど、セラフィンで『魔術』は禁忌とされているから、人前で使う事はきつく止められている。

「扇、ダメになっちゃった。 気に入ってたのに……」

 溜息を吐いて肩を竦めると、東の棟のアーチから騎士服に身を包んだ人たちが出てくるのが見えた。

 この木の事はどうやって説明しよう……。
 強盗みたいな人の話をして、ここで争った事も話さなくてはいけない。あぁ、また令嬢らしくない話が一つ増えてしまう。グレイに残ってもらえばよかったな。

 厳しい顔をした騎士が、真っ直ぐ向かってくるのを見ながら叱られる事を覚悟する。

「リーリア・ディルーカ伯爵令嬢ですね」
「はい」

 騎士長の徽章をつけた人が私の名を呼び、私は簡易の礼を取って返事をする。
 瞬間、騎士たちが私を取り囲んで剣を抜く。

 どういう事? 何故、私が騎士に剣を向けられているの?

「あの木が燃えた事は、きちんと説明します。色々――」
「リーリア・ディルーカ伯爵令嬢。貴方にソフィア様襲撃の嫌疑がかかっています」

 はぁあああ?!って、叫び声を必死で飲み込む。
 ソフィア様って、レナート王子の新しい婚約者の名前だ。ソフィア様が襲撃? それって誰かに襲われたって事?

「あの。さっきまで――!」
「動くな!!! 動いたら切るぞ!」

 黒ずくめの者達の事を話さなければと、踏み出した私の首筋に刃が当てられる。
 声には、脅しじゃない本気の響きがあって、冷たく鋭利な感触に足がすくむ。
 小さく深呼吸をして、心を落ち着けてもう一度ゆっくりと言うべき言葉を繋ぐ。

「私は、襲撃については何も知りません。先程まで、この中庭で不審な人たちに襲われていたんです。木が焦げているのも、庭が荒れているのもその所為です。グレイ・ローランド男爵も一緒でしたので、確認してください」

 騎士長が小さく首を振る。

「その言葉の真偽は、後ほど調べます。ですが、今は受け容れる事はできません。我々は貴方を捕らえる理由を持ってここに立っています。貴方が『魔女』の眷属『虚鬼』を使って、ソフィア様を襲うのを見たと申し出た使用人がいます」

 『虚鬼』それは年に数回、現れる恐ろしい者の呼び名だ。
 普通に生活していた人が、いきなり変貌して周囲の人を襲い始める。何故おこるのか、本当の事は誰も分からない。ただ『虚鬼』への変貌は『魔女』の所為だと言われていて、分からない事だから誰もがとても怖がっている。

「嘘……。そんな事はあり得ない」

 うろたえる私を真剣な眼差しで見つめて、騎士長が再び口を開く。

「ディルーカ伯爵令嬢、貴方の言葉をこの場で否定するつもりはありません。しかし、貴方にはレナート王子の件でソフィア様を襲う動機があります。裏付ける証言もある以上、反論なさってもここで私達の行動が変わる事はありません」

 視線を動かして周囲をみれば、取り囲む騎士の視線には敵意と嫌悪と恐怖があった。
 今日は本当に運が悪い。でも、これっきりにして欲しい。これ以上の悪い事なんて想像できない。
 二度三度深呼吸をして心を決める。

「わかりました。今は捕らえられる事に同意いたします。ですが、清廉な騎士の方々の前で、もう一度言わせてください。私はソフィア様の襲撃は知りません。舞踏会場を出た後は、この中庭におりました。その際に不審な人物を目撃し交戦しております。グレイ・ローランド男爵が全てを証言できる筈です」

 私の言葉に騎士長がはっきりと頷いてくれる。

「ご協力感謝します。意識を失う魔法を使いますが、よろしいですか?」

 その言葉に目を閉じると、騎士長が額に手を伸ばす気配がした。
 額に魔力で文字が書かれると、私は真っ暗な闇に包まれる様に意識を失った。




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前章 四話 婚約破棄が酷すぎる! ★ 貴方なんて冗談じゃありません! 婚約破棄から始まる入れ替わり物語



 
 雑然としていた舞踏会の会場から、話し声が消える。
 優雅で美しい音楽が響く中、私の婚約者である第一皇子レナート・セラフィンが大階段をゆっくりと降りてきた。

 変わらない日々が、続くなんて限らない。

 冬の月を思い出させる白金の髪が揺れて、レナート王子の紫の瞳が緩やかな弧を描く。その眼差しを受けて、見たことのない令嬢が穏やかに微笑み返す。
 
 誰? 一体どういう事なの?
 はっきり言って何が何だか分からない! 

 唖然とする私の目の前でレナート王子が、隣を歩く令嬢の細い腰を親し気に抱く。
 場内がはっきりとしたどよめきに包まれて、いくつもの視線が私の反応を計りながら口々に囁きを交わすす。

「レナート様の隣に立つのは、誰だ?」
「まるで恋人の様な振る舞いじゃないか!」
「愛らしい令嬢だが何処の家の娘だ?記憶にないぞ」
「婚約者のリーリア・ディルーカ……様は、どうした?」

 居ても立っても居られない気持ちで、人込みを縫うように大階段への近くへと向かう。
 婚約者とは言っても発表の済んでいない私が、王家だけが立ち入れる大階段を上る事は出来ない。ただその登り口にたって、踊り場で足を止めたレナート王子をまっすぐに見つめる。
 けれど、レナート王子が私と視線を合わせる事はなかった。

 レナート王子がよく鍛えた腕を上げて、楽団が音楽を止める。静まり返えった広間を見渡すと、いつもと変わらない優しい顔でゆっくりと口を開く。

「今日、一人の女性を紹介したい。東の領にいる聖女の噂は、もう皆も聞き及んでいるだろう。私の隣に立つのは、聖女ソフィア」

 意外な人物に皆が息を飲む音が響く。次の瞬間、大きな歓声に変わる。

 『聖女』ソフィア。その存在の噂は私も聞き及んでいる。
 事故で怪我をした人を、一瞬で回復させた。
 枯れた井戸に、美しい水を蘇らせた。
 朽ちた花を、再び美しく咲かせてみせた。
 彼女が半年の間に起こした奇跡の数々は、生まれる度に国中を瞬く間に駆け抜けて誰もが知っている。だけど、彼女の姿を知る者は殆どいなかった。
 彼女に会おうと多くの人が修道院に押しかけたけど、世間と交わらない修道女の決まりを重んじて人前に姿を現す事がなかったからだ。

 レナート王子に促されて、聖女ソフィアが一歩前に進み出る。ドレスの端を摘まんで一礼すると、豊かな金色の髪がそっと肩から滑り、あちこちで感嘆の溜息が落ちる。

「はじめまして、皆さま。ソフィアと申します」

 薄紅の唇から愛らしい声で挨拶する。止まない歓声にソフィアが困ったように笑って、零れそうな瞳でレナート王子を見上げる。
 そんな彼女を守る様に抱き寄せて、レナート王子が静まるようにと大きく手を払う。

「もう一つ、報告がある。私とソフィアの婚約が決まった。皆、祝福を!」

 一段と大きな歓声が上がり、多くの拍手が二人に向けられる。

「おめでとうございます!」
「次代の国王と聖女の婚約に祝福を!」
「レナート王子! 万歳!」
「聖女様! 万歳!」

 未来の国王と聖女に対する祝福の嵐の中で、私はドレスを握りしめる。

 これは一体何の冗談なのだろう?
 声の洪水の中にいるのに、全ての音が遠く。目の前の景色は、ガラス越しの別の世界のように見える。
 何もかもが現実感のない夢の中の出来事みたいだ。 

 呆然と何度も瞳を瞬く私と、レナート王子の紫色の瞳が今夜初めて重なる。
 レナート王子が笑顔を消して私の方へ向き直るとと、只ならぬ雰囲気に歓声と拍手が止み始める。

「リーリア……。いや、リーリア・ディルーカ伯爵令嬢」

 レナート王子が、大勢の人たちの前で私の名を呼ぶ。ファーストネームを余所余所しい爵号に言い換えた事に、好奇の視線が一段と増す。
 
 嫌な予感がする。この先を聞いてはいけない。そんな凄く嫌な予感が胸の中から湧き上がって、鼓動がどんどん早くなる。

「私達を祝福してくれないのかな?」

 何を私に祝福しろと言うのだろう?
 私を婚約者として扱った人が、隣に新しい婚約者を連れている事を?

 返事をしない私に向かって、苛立たし気にレナート王子が口を開く。 

「君とは、随分と色々な噂が流れてしまった。だが、正式に決まった事は何一つなかった。違うかな?」

 確かに、派閥同士のいがみ合いがあって私とレナート王子は婚約発表には至らなかった。
 でも、確かに婚約の申し出をされて受け容れたのだから、婚約の事実はあった筈だ。

「どういう事ですか? 噂とか、正式に決まった事はないとか」

 開場が水を打ったように静まり返る。レナート王子が面倒くさそうな顔になって吐き捨てる。

「物分かりが悪いな。私と君には、何の関係も成立していない。意味が分かるね?」

 ようするに婚約発表をしていない私との関係は、無かった事だという事なのか。
 言葉の意味は分かる。でも、何がなんだか分からない!
 だって、今日この瞬間まで私は自分はレナート王子の婚約者だと思ってたのだ。いきなり公衆の面前で新しい婚約者を紹介されて、なかった事って納得できるか!
 
「私との婚約は破棄されると言う事ですか? ならば、きちんとこんな形ではなくご説明頂きたかったです」

 レナート王子があからさまに眉根を寄せる。こんな冷たく嫌な表情をする人だっただろうか。
 目の前の現実が急に実感されて、胸が締め付けられて苦しくなる。

「いけないよ、リーリア・ディルーカ伯爵令嬢。君と私には、公式に名前のつく関係は何一つない。私と何かを約束した記憶があるなら、それは記憶違いだと思った方が良い」

 私とレナート王子が婚約しているという認識していた貴族たちが、事実を確認する囁きを交わし始める。

「リーリア様はレナート王子と婚約していなかったのか?」
「そうだろう。王子が明言しているんだから」
「それはない。あれはどう見ても婚約の体をとっていただろう」
「待て? 結局、どういう事だ? 婚約破棄とは違うのか?」
「どうでもいいだろ?」
「要はディルーカ伯爵令嬢は棄てられて、聖女様と婚約するって事だ」

 事実だけを確認しようとする男性達の隣で、若い令嬢や夫人達が眉を顰める。

「聖女様を選んで、リーリア様をお捨てになるの?」
「王子の申し出は、少し酷いように思えます」
「殿方の契約ではないのですから、睦まじくしていて書類がないからなど……」
「一方的だわ。これは流石にディルーカ伯爵令嬢がお可哀想……」

 書類はない。婚約発表もない。でも、私を同伴して特別な相手と仄めかした日々を、こうして知る人もいる。形がなくても、私はレナート王子の婚約者だった。

「なら、私の知る日々は何ですか? 私たちの関係を貴方は何と呼びますか?」
「何も。そもそも私と君は釣り合うような間柄ではないだろう?」

 レナート王子の問いかけに、小さな含み笑いがあちこちから漏れて、『田舎者』『旧国』『こざる』と揶揄する声が上がる。
 周囲を見渡すとたくさんの顔が見えた。
 私を心配する顔、怒った顔。それを上回る嘲る顔、楽し気な顔、満足げな顔。期待を込めた顔。
 大声で野次が飛ぶ。

「聖女様との婚約の前では、リーリアとの過去は穢れでしかない」
「旧国の娘が元婚約者など、記録でさえ忌々しい!」

「レナート様は、次期国王としてとして正しい判断をされた!」
「レナート様、聖女様! ご婚約おめでとうございます!」

 『教会派』の貴族が色めき立って、『旧国派』が非難の眼差しを向ける。
 私の処遇を巡っての口論が、次第にそれぞれの不満になって加速していく。

 もう止めてと叫びそうになった時、品行方正と評されるレナート王子が苛立たし気に床を蹴る。
 唇を噛んで俯いた私に、レナート王子の冷たい声が追い打ちをかける。

「リーリア。君との噂は、もはや私にとって悪評でしかない。だが、噂は噂で真実ではないから、忘れればいいだけだ。これは、私の温情だ。悪意ある噂がこれ以上流されないなら、私は君も噂の出所も咎めない」

 レナート王子の私を見る眼差しは、とても冷たい。
 茶番のようなやり取りを続けても、元に戻る事はないだろう。

 私はどうしたらいいのだろうか?
 泣けばいいのか? 怒ればいいのか? 笑えばいいのか? 取り乱せばいいのか?
 震える指先を、拳を作って抑える。この状況で私が感情を表にすれば、悪意を持つ人を楽しませるだけだ。
 矜持を奮わせて、胸を張って僅かに顎を上げる。
 全ての想いに蓋をして、ゆっくりとレナート王子に向かって私は一礼する。

「お心を煩わせる発言をした事を謝罪いたします。ご婚約……おめでとうございます」

 顔を上げて、精一杯の笑顔を浮かべる。
 これが私の最後の婚約者としての仕事だ。『聖女』との門出を祝福で送り出す。
 声は振るえてないだろうか。ちゃんと微笑みは作れているだろうか。

 視界が滲みそうになって、逃げるように踵を返す。
 一刻も早くこの場を後にして、今は一人になりたい。

 舞踏会の会場を出ると、真っすぐに馬車寄せを目指して走る。マナーなんてもうどうでもいい。

 私の事を好きだと言った言葉は何だったのか?
 側で支えて欲しいと願ったのは何だったのか?

 誰もいない中庭に面した通路で跪く。目の前が涙でぐちゃぐちゃだ。これじゃあ、一歩ももあるけない。
 ドレスの裾で顔をごしごし拭く。拭いても吹いても、涙が溢れてくる。

 私とレナート王子が出会ったのは六年前。十一歳の時だ。
 一緒に過ごした時間で、私は何もかもを知っているつもりだった。
 優しいのに、少し腹黒い。控えめなのに、根性がある。泣き虫のくせに、頑張り屋。
 ずっと私の事が好きだと思ってた。初恋だったとはにかんで教えてくれたから。私が誰を好きでも構わないと言って、私じゃなきゃ駄目だといったのに。

「レナート王子の大嘘つき!! 裏切者!! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
 
 叫ぶと同時に放り投げた靴が、通路の大理石の上で跳ねる音が響く。
 その音に、後ろからやって来る誰かの足音が重なった。

 誰?

 ぐしゃぐしゃの顔をもう一度拭いて、扇を開いて顔を隠してから振り向く。
 知らない男の人だ。目じりの下がった癖のある眼差しは、金の混じった紫の色が印象的で、一度見たら絶対に忘れる事はないだろう。

 本当に今日は何処までもついていない。こんな日のこんな状態を人に晒す事になるなんて。

 男が私を見つめて楽しそうに笑う。感じが悪い!

「すごいな! お城で靴を放り投げる令嬢なんて初めて見た!」
「ごめんあそばせ。でも、ほっといてください」

 さっさと行ってほしいのに、男は私の側に来るとじろじろと観察し始める。

「なにか?」
「いや……。盛大に棄てられた令嬢がどんな風なのか見ときたくて」
「お断りです! さっさと行ってください」

 思わず大きな声をだしてしまう。だけど、男は涼しい顔で楽しそうに私を見降ろし続ける。
 ものすごい失礼な男だ。ここで感傷的になっていては、良い見世物になってしまう。慌てて立ち上がる。そう言えば靴を放り投げてしまった所為で裸足だった。

「ねぇ、やっぱり靴は取りに行くわけ?」

 男が私に尋ねる。投げなきゃよかった。

「行きます。舞踏会の帰りに私の靴が転がってたら、物笑いの種ですから」
「あー。確かに、あれだね。物語で靴を投げるってあるけど、あれも後のことまで考えないと喜劇だよね。君も盛大に捨てられて嘆くとこまでは悲劇だけどさ、今の靴を取りにいくのはちょっと面白い!」

 男を無視して靴を拾う。男には腹が立つけど、可笑しなやり取りの所為で涙は一旦引いた。そのまま立ち去ろうとする私の腕を男が掴んで止める。

「ちょっと待って!」
「何ですか?」

 振り払って尋ねると、男が揉み手をして答える。

「今、どんな気分?」
「はぁあ? あなた一体何なんですか?」

 驚いた様に目を瞬いて、男がきちんと礼を取る。

「ご挨拶が遅れました。グレイ・ローランドです」
「ローランド? ローランド男爵?」
 
 男が私の言葉に頷く。
 グレイ・ローランド男爵は最近人気の芸術家だ。絵を書けば、ジュエリーのデザインもする。詩を書くこともあれば、物語を書くこともある。
 教会派が特に贔屓にしていて、今夜の舞踏会でも彼の新作の絵が飾られていた筈だ。

 私も彼の書いた物語を持っていて、かなり気に入っていた。書いたのがこの人だと思うと、一気に興ざめするけど……。

「ええ。ご存知頂けたなら幸いです! 貴方のこの状況がとっても気に入ったので、是非参考にさせてください!」

 満面の笑みで男が私に告げる。くるりと踵を返して、大股で歩き出す。
 はっきり言って冗談じゃない! この状況が気に入った? 
 私の人生で一、二を争う……いいえ、最高に最悪の一日を参考にしようなんてふざけるにも程がある。

「待って! 待って!」
 
 グレイが私の良く手を阻むように前に立つ。困ったような様子で若草色の髪を掻き上げてから、両手を合わせて懇願する。

「頼むよ! こんな珍しい状況は滅多にない! もう、来週には教会に戯曲の台本を納めなくてはいけないんだ。君が協力してくれなかったら、僕は荷物をまとめて故郷に帰らなくてはいけなくなるかもしれないよ。可哀想だと思わないかい? 同情したくなるよね? さぁ、だから色々話して――」

 よく回る口だなと呆れながら、男の側を無言で擦り抜ける。
 その瞬間、剣を携えた黒ずくめの男たちが飛び出してきた。




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前章 三話 女の諍いは怖いんです! ★ 貴方なんて冗談じゃありません! 婚約破棄から始まる入れ替わり物語





 床に倒れこんだ儚げな令嬢の姿に、周囲が騒めく。

 はちみつ色のドレスから覗く華奢な足首を押さえるのは、ジュリア・グレゴーリ公爵令嬢。この国に二つしかない公爵家の末娘で、私の事を昔から大っ嫌いと公言し目の敵にしている人物だ。

「いたぁ……い」

 すごく嫌な予感しかないけど、か細い声を上げたジュリアを無視する訳にはいかない。

「ジュリア様、何かあったのですか? 大丈夫ですか?」
 
 手を差し出すと、ジュリアが潤んだ眼差しで私を見上げる。
 稲穂色の垂れ目がちな大きな瞳、震える唇は柔らかな赤。癖のある縦ロールは耳を垂らした子ウサギを思わせる。幼くて愛らしい様子は私よりも二つ年上だとは思えない。
 小動物みたいな愛らしさに胸がきゅんとした瞬間、差し出した手がぴしゃりと払いのけられる。

「リーリア様、あんまりですわ! 知らんぷりなんて、酷いのですぅ……」

 座り込んだままジュリアが私を糾弾する。やっぱりそう来たかと、眉間に皺が寄りそうになるのを堪える。
 この構図だとジュリアを倒したのは私で、私は知らない振りをしている筋書きなのだろう。
 早速、興味深々の眼差しを向けていた人たちが、筋書きに乗せられて事実を勝手に補完し始める。

「ディルーカ伯爵令嬢とグレゴーリ公爵令嬢がぶつかったみたいだな」
「リーリア嬢が、ジュリア嬢にぶつかったってさ」
「違いますわ。グレゴーリ公爵令嬢はリーリア伯爵令嬢に倒されたようです!」

 早くも私が悪者に断定されていて、小さくため息をつくと耳元でラニエル子爵が囁く。

「こんな時に何だが。花瓶の件は、君個人への悪意の可能性はどうだろう?」

 私への悪意……。目の前のジュリアをじっと見つめる。
 ジュリア以外でも私個人に悪意を向ける人は少なくない。特にレナート王子との婚約に関しては、派閥を問わず多くの令嬢から嫉妬の視線を向けられている。

「ないとはいえません。よく考えてみます」

 それだけ答えて、私は一度くるりと髪を指で遊ばせて周囲を見る。
 さぁ、どうしたものだろう? 今、周囲にいる者は古くからのセラフィン貴族の『教会派』が多い。ジュリアは筋金入りの『教会派』だから、これは私の分が大分悪い。

 引くか、突っぱねるか。
 引けば早く幕引きは早いけど、後々まで尾ひれ背ひれのついた悪評を立つだろう。
 突っぱねれば、長々と泥仕合を繰り広げる事になる。悪評もやっぱり立つ。
 覚悟を決めて、私は口を開く。

「お言葉ですが、私は一歩も動いていませんでした。どうして、私からジュリア様に触れる事が出来るのでしょう?」
 
 まっすぐジュリアを見つめて、堂々と潔白を主張する。
 どちらも悪評が立つならば、泥仕合でもこっちの方がいい。結果はどうあれ、やっていないという主張は、必ず人の心に僅かに残る。

「リーリア様、それは本当ですの?」

 噛みつかれるかと構えていのに、予想に反してジュリアが不安そうな表情になる。周囲からもジュリアの様子に、勘違いという言葉が漏れ始める。

 ジュリアだからと、私は悪い想像をしていた。でも、勘違いだったのかもしれない。少し悪い事をしたと思いながら、ジュリアに向かって微笑みかける。

「はい。私はジュリア様にぶつかっていません」
「でも、……わたしくは、こうして倒れている。リーリア様は、絶対にそう断言できるのですか? 何か――」

 不安げにジュリアが周囲を見回すと、私の背後でラニエル子爵が「あぁ」と小さく呟く。

「口出しは野暮だと存じておりますが、お許しいただけますか? グレゴーリ公爵令嬢」

 ラニエル子爵が一歩進み出ると、ジュリアが嬉しそうな顔で頷く。

「勿論ですわぁ。何なりとおっしゃって下さいませ」

 ジュリアの同意を得ると、ラニエル子爵が任せておけというように私に片目をつぶる。

「リーリアは私の隣におりました。ずっと側で、人探しを手伝いってくれていたんです。真っ直ぐ前を見て、後ろに下がるなどしておりませんでした」

 小さな事件を終わらせる言葉に、周囲から落胆と安堵がない交ぜの吐息が落ちた瞬間、ジュリアが悲鳴のような声をあげる。

「まぁ! 隣でなのに断言ですの? そんな事って可笑しいですわ」

 ジュリアの言葉に不穏な空気が再び漂い始め、人々の視線が私からラニエル子爵へと移る。
 してやられた事を理解してラニエル子爵が黙り込むと、ジュリアが嫣然と言葉をつづける。

「わたしく、リーリア様の隣で遠くをご覧になるラニエル子爵を偶々見ておりましたのよ。まっすぐ前を向いて、どなたかお探しの様でしたわ。どうして、隣の方が絶対に下がらなかったと断言できまして? 不思議ですわぁ。隣に目なんてついておりませんのにねぇえ?」

 令嬢の揉め事に男性が口を出すのは嫌われる。それが、一方に味方する内容で主張が曖昧なら尚の事だ。周囲からはラニエル子爵に向けた非難と疑いの言葉がささやかれ始める。

「どういう事? ラニエル子爵は嘘を吐いたのか?」
「ディルーカ伯爵令嬢を庇ったのだろう?」 
「男が令嬢の揉め事に口を挟むのは、如何なものかね!」
「これは、いよいよリーリア様が怪しいのではないか?」

 大きくジュリアに傾きだした観衆に、両手を胸の前で組んだジュリアが縋るような眼差しを向ける。

「誰か……本当の事を見てらした方はおりませんか? 私がリーリア様に押されたと、証言して下さる方はいらっしゃいませんか?」

 ジュリアが口にする真実なんてない。だから、誰も進み出るものはいない。
 ドレスの裾をぎゅっと握りしめて、ジュリアがうるんだ眼差して周囲を再び見る。

「リーリア様には曖昧とはいえ味方がいらっしゃる。わたくしにはいないなんて、寂しくて心が潰れてしまいそうですわ」

 悲し気に息をはいて、私たちをジュリアが怯えたように見る。
 憎らしいけどジュリアは上手い。言葉、声音、視線、持てるもの全てを使った可憐なジュリアに、観衆が筋書へと引きずり込まれる。

「ジュリア様、可哀そう……」
「見た者がなくとも、私はグレゴーリ公爵令嬢を信じるぞ」
「誰か、ラニエル子爵達に反論してやれないのか」

 倒れこんだ孤立無援の可憐なジュリアと、真実を隠そうとするラニエル子爵と疑わしい私。そんな構図が観衆に出来上がる。

 やっぱり社交界なんて嫌いだ。流されやすくて、意地悪で、本当に面倒!
 舌打ちを堪えて、私は対抗する道を探す。先ずは、庇われいる状態を無くさないといけない。
 出来るだけ冷たい表情でラニエル子爵を見て、厳しい叱責の声を上げる。

「ラニエル子爵、口出しは無用です。これは私とジュリア様の問題なんです。お心遣いのつもりでしょうが、曖昧な言葉など迷惑です!」

 そっとラニエル子爵の袖を引いて、すぐさま小さな声で謝罪する。

「私の為に、ごめんなさい。後は任せて下さい」

 一見、酷いように見えるけど、この方法なら強い叱責という形で私とラニエル子爵が切り離せる。更に、少し決まり悪くても善意の介入として撤退させてあげる事が出来る。
 私の意図を理解して、ラニエル子爵が申し訳なさそうに呟く。

「すまないね。嵌められて事態を悪くしたのに、退場の切っ掛けまで作らせてしまった」
「大丈夫です」

 小さく頷くと、ラニエル子爵がジュリアに向かって非礼を詫びる一礼をする。

「……無粋な真似を致しました。申し訳ありません」

 下がろうとしたラニエル子爵に向かって、ジュリアが『旧国派』に対する嫌味を口にする。

「とても残念ですわ。政の中心にいる方が、仲間意識で物事をお測りになるなんて」

 これまでとは違うざわめきが周囲に起こる。
 古いセラフィン貴族には『旧国派』に強い敵意を向ける者は少なくない。
 私が生まれるより少し前までは、旧国は奪われるだけの存在だった。それが今や、活躍の場を広げて古いセラフィン貴族の立場を脅かしつつあるからだ。

 不満を抱えていた者が、ジュリアの言葉に火を付けられて反応し始める。

「やはり、旧国のの者達は仲間意識で物事を動かすのか」
「どうりで最近新しいものばかりが取り立てられていく訳だ」
「口利きで『旧国派』に地位が奪われるとは嘆かわしいな!」

 令嬢同士の諍いから『旧国派』への敵意に問題がすり替わると、罵る言葉はどんどんと加速して、悪意の対象も広がっていく。

「国王陛下は、旧国に甘いのでは? 重用し過ぎだ」
「旧国が政に関わるのに、納得がいかなかぬ!」
「前々から旧国の者が、私は嫌いだった。彼らを招き入れるのは誤りだ!」
「そうだ! この件を奏上して、処罰を望もう!」

 ラニエル子爵が下がるのを止めて、厳しい視線と言葉から私を庇う。その袖を私はもう一度引く。
 
「変わって下さい。この流れは、駄目です。令嬢同士の諍いに『派閥』を巻き込むのは間違ってる」
「だが……」

 私の眼差しに気圧されるように、ラニエル子爵が言葉を止める。
 正直、ものすごく腹が立っていた。
 ジュリアが私の事を嫌っているのは知っている。でも、私を叩く為にここまでするのは、絶対に間違っている。
 大きな争いに火をつけてどうする? 戻れない場所まで派閥の敵意が煽られれば、この国の存在自体が揺らぐ可能性だってある。
 この場の感情で、国の根幹を揺るがすなんて絶対に許されない。

「悪意なんて慣れてます。流れを変えるなら、ラニエル子息より私の方が適任です」

 強引にラニエル子爵の前に出て、私は好き勝手に悪意をばら撒く人達と向き合う。
 挑むように周囲を見渡すと、何人かが口を噤んで私に視線が集まりはじめる。

 まずは、この場を令嬢同士の諍いの場に引き戻す。私の喧嘩を『旧国派』『教会派』に発展なんてさせない。
 しっかりと背筋を伸ばして、出来るだけ厳しい声を出す。

「官吏の決定権は国王陛下にあります。国庫の管理は、私情を挟まず厳正でなくてはならない。ラニエル子爵は私において、確かにとてもお優しい。それは多くの方が、以前より知るところです。でも、公においては違う。職務に適う振る舞いが出来る人材。そう判断して、国王陛下が国庫を預ける一人に選んだ。そうではないのですか?」

 私に向けて、詭弁と囁く声がした。庇い合いと罵るような声もした。
 誰かは分からないけれど、声がした方を見据えて再び口を開く。

「私はセラフィン王国の民の一人として、国王陛下の聡明なご判断を信じております。ここは、私とジュリア様の令嬢同士の些細な諍いの場。政の議論の場ではありません。政の異議を問いたいならば、陛下の御前で堂々となさって下さい」

 息を飲む音が一つになって、思いのほか大きな音になった。ここで政の愚痴を吐き出す者に、国王陛下の前で異を唱えられる気概のあるものなんていない。
 言い足りない言葉に口を開けては閉じてを繰り返し、言葉を飲み込んだ幾人かが敵意の眼差しを私に向ける。涼しい顔を装って、じっと待つ。

 引き絞るような緊張した沈黙の後に、何人かが腹立たし気に床を蹴るのが見えた。まだ悪意は燻っているけれど、不満の言葉は封じる事に成功したみたいだ。
 でも、もっと空気を変えなくてはいけない。そう決意して、ジュリアに向かって私は軽い礼をする。

「……とはいえ、殿方にご助力頂いた事はお詫びするべきですね。ジュリア様をご不安にさせたと理解しております。ごめんなさい、ジュリア様」
 
 私の謝罪の言葉に勝ったと誰かが喜び出すより先に、宣戦布告の言葉を叩きつける。

「その上で、改めて申し上げます。私は貴方に対して、こちらからは何もしていません! ジュリア様は何か大きな勘違いをなさっているのではありませんか?!」

 ジュリアの稲穂色の瞳を真っすぐに見つめる。受けるジュリアも私を真っ直ぐ見る。

「リーリア様。では、どうして公爵令嬢のわたくしが、床に膝をつかなくてはならないのかしらぁ?」
 
 苛立たしげ問いかけたジュリアの言葉を、扇を開いて緩やかに煽いでみせながら一蹴する。
 
「私は知りません。ご自身が一番お分かりなのでは?」

 ずっとジュリアの手の内で完璧に踊らされてきたけど、もう好きにはさせない。

「あら。わたしくは、ずっと真相を申しておりますわ」
「私も真相を言っています。どうして、すれ違うのでしょう?」
「わたしは存じ上げませんわ」
「ご存知ないのですか? 私はどちらかが思い違いをしているか。嘘をついていると思っていますが?」

 ジュリアが息を飲むのが見えた。令嬢は優雅にお淑やかにが大事にされるから、ここまではっきり言われると思っていなかったのだろう。
 
「わたくしは、嘘などもうしません!」
「私も嘘など言いません!」
「嘘ですわ!」
「そちらが嘘でしょう?」

 惚れ惚れする様な泥仕合に、内心で苦笑いする。
 滅多に見る事のない一歩も引かない令嬢同士の言い合い。私の期待通りに、周囲の人たちも先ほどまでの事を忘れて飲まれている。
 泥仕合の筋書きも成功したし、そろそろ切り上げたい。でも……この先の着地点が私にも見えていない!
 こんな事に巻き込まれるなんて、やっぱり今日の私は運が悪い。

「わたくしは、引くつもりはありませんわよ」
「私もです。でも、何時まで続けるつもりですか?」

 私の問いかけに、苦々し気にジュリアが黙り込む。
 先程のジュリアの呼び掛けには、誰も進み出なかった。誰も見ていない自信があったから、ジュリアは立証できないラニエル子爵の発言を呼び込んだのだろう。
 私たちの争いを公平に止められる人が誰もいない事は、ジュリアが一番分かっている筈だ。

 短い沈黙の後に、ジュリアがすっと目を細めて口を開く。その瞬間、右手側の人垣から一人の人物が進み出てきた。

 目深にかぶった真っ白な羽が飾られた青の帽子。それは北の大陸の礼装の一つで、セラフィン王国で見る機会は少ない。

 何者なのだろう? ちらりとジュリアを見れば、同じ様に私を計る眼差しとぶつかる。どうやらジュリアにとっても、乱入者は知らない人物みたいだ。

 異国の人物が一度首を傾げてから、優雅な仕草で帽子を取る。
 その姿に周囲からうっとりとしたような溜め息がおちる。








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2018年12月22日土曜日

四章 七十六話 星の祝福と未来へ キャロル18歳 <幕切> ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 まだ、起き出さない街の中に、馬の蹄の音が響く。大通りを真っすぐかけて、最後の角を曲がると見慣れた瀟洒な建物が見えた。正門の前で待つ薄紅の髪を見つけて、微笑もうとして止める。
 ルナの顔に浮かぶ焦りに、嫌な予感が湧き上がる。

「ルナ!」

「ノエル様! お待ちしておりました」

 馬を止めると零れそうな瞳を見開いて、ルナが駆け寄ってくる。その手に手を伸ばして、馬の前に抱えるように引き上げる。

「ワンデリアの魔法が、予定よりも早く消失いたしました。私の力不足です。申し訳ございません」

 空を仰ぐと、陽の光を遮る真っ黒い雲は西の方から流れてきていた。空が魔物の王の悪意に染っているようで、背中に悪寒が走る。

「ルナの所為ではないです。急ぎましょう」
 
 ルナを前に抱え、馬の腹を蹴って再び走り出す。今は学園も閉鎖されていて、正門は閉じている。出入りするならば、大きく回り込んで裏門からだ。
 高い塀に沿うように駆けて角を二つ曲がると、小さな門と衛士達の姿が見えた。

「開門をお願いします! 大公子息カミュ・ラ・ファイエット様の命により、エトワールの泉に参ります」

 馬上からルナが預けていた書状を掲げる。衛士達が困ったような表情を浮かべて、私達を見上げた。

「聖女様がいらっしゃると連絡は受けておりますが……。アングラード侯爵ご子息、サラザン男爵令嬢の名前は聞いておりません。誰も通すなと言われております」

 ルナの魔法の瓦解によって、ワンデリアを中心とした計画も動き始めている。
 愛しい人、友は、もう最後の戦いに赴いたのか。大切な人は追いつくことが出来るだろうか。
 焦りを押し込め、代わりに責めるような表情を作って衛士たちを見る。

「その命は誰から受けたのですか? こちらは王位継承三位のカミュ様から直々です! 継承権一位のアレックス殿下の承認も、内々に受けています! 確認して頂いても結構。ただ、私達を待たせることは、緊急の意向に反すると理解なさって下さい!」

 カミュ様からの命も、アレックスの王子の承認も嘘だ。でも、私の名で問い合わせれば、話を合わせてくれる自信はある。
 衛士達に動揺が走る。迷いを見せて、どうするべきかを囁き合う。あと一押しの気配に、私は再び口を開く。

「貴方達に問い合わせる勇気があるならば、国政管理室長、情報戦略室長、ラ・ファイエット大公夫人に連絡を取っても構いません。カミュ様の書状を携えて、ノエルが信じろと言っている、と聞きなさい!」

 飛び出してきた大物の名前に、衛士達の顔色はすっかり悪くなっていた。流石に少しやり過ぎたかと、心の中で小さく舌を出す。

「分かりました。開門致します」

 開門と同時に馬ごと滑り込んで、まっすぐにエトワールの丘を目指して駆けだす。振り返ることなく、念の為の言葉を投げる。

「露払いを兼ねよと、命じられております。確認を終えるまで、聖女様にもお待ち頂いて下さい」

 慌てた衛士達の問い掛けを背中で流して、馬の速度を一段と上げる。本来は馬で駆ける事のない学園内を、滑るような速度で駆け抜ける。

「上手くいきますでしょうか?」

 小さく息を吐いて、ルナが私に問いかける。

「上手くいきます。私とルナが出会うのは、間に合いました!」

 ルナとワンデリアで誓約を結び終えた後、私が歌ったのは『君のエトワール』のメインソングだった。驚いた表情で、その歌をルナは同じ様に歌ってみせた。
 
「十七年……遠回りな再会でした」

 風に消えそうな声でルナが呟く。私とルナの始まりは、前世の記憶を思い出すよりもずっと前にあった。

「私は遠回りに感謝してます。出会えた今の家族も、友も、皆が大好きなんです。『悪役令嬢キャロル』から始まったから、私の今があるんです!」

 ルナが振り返って微笑むと、長い薄紅の髪が私の首筋を擽る。

「私もノエル様に出会えてよかった。これは『悪役令嬢キャロル』の物語になるのかしら?」

 冗談のような言葉に、小さく笑ってから答える。

「私達の物語です!」

 遠くに丘への入り口が見え始める。

 シーナを失ったルナが、小さなリュウドラの姿で最初にしたのは、未来を見る事だった。

 『ルナの知る未来』に、ルナと呼ばれる少女はいない。精霊の子だったルナと呼ばれる少女は、あの十歳を前にした夜に失われていた。コーエンの聖女と呼ばれるディアナも、王都に来る途中で魔力の喪失から命を落とす。

 精霊の子が失われた未来で、この国は人の諍いと魔物の王との苦しい戦いに追い込まれていく。
 『ルナの知る未来』も、最後の望みを秘宝に託す。使うのはやはりアレックス王子とカミュ様だった。渓谷に下りる騎士には、騎士不足を補うべく若く才のある学生も多数含まれる。クロード、ディエリ、ユーグ、ドニはその中にいた。

 戦いは秘宝を一つだけ使って終わる。全てを使うより先に、魔物の王の力の前で、全員が打ち倒された。
 マールブランシュ王国滅亡が決まった日で、世界に魔物が広がる始まりの日になった。

 木々が小道に影を落とす。エトワールの丘は低木も多いから、本来は馬を降りなくてはいけない。

「体を低くしてください。少し危ないけれど、中腹までこのまま進みます」
 
 ルナが馬の首に抱き着くように身を屈める。私も体を落として、手綱を短く持つ。そのまま林の中に、速度を落とさず馬を進める。

「未来を見るのにアレックス王子を選んだのは、王冠の印を持つからですか?」

 ルナが未来を見る時は、未来の誰かの感覚を頼る。選ばれたのはアレックス王子で、『ルナの知る未来』は全てアレックス王子の体験する未来だった。だから、アレックス王子が触れる事の出来ない情報は、知る事ができない。

「王家は力を託しているので繋がりが深く、鮮明に未来を見て感じ取れます。出来るだけ全てを知りたかったのですが、魔力にも限りがあって断続的になりました。ディエリ様のような、秘密の見落としも少なくなかったです」

 丘の道幅が一段と狭くなって、小さな枝が髪を掠める。そろそろ馬で行くのも限界かもしれない。手綱を引いて馬の速度をゆっくりと落とす。

 馬を降りると、魔力の回復薬を取り出して口に含む。馬の手綱を枝に繋いで、ルナに向かって手を差し出す。揃えた指先を私の手に乗せたルナが、小さく首を傾げる。

「やはり、お疲れではないですか?」

 ゆっくり降りながら、ルナが心配そうに眉を顰める。

「大丈夫です。魔力量には自信がありますし、回復薬もこまめに飲んでいますから」

 安心させたくて笑ったけれど、さっきの戦いでかなり魔力を使っていた。回復薬のお陰で、体に影響が出る状態からは脱したが、まだ魔力は半分を超えた程度だ。ユーグの回復薬を持って来なかった事を悔やむ。

 一段と細くなった小道を見ると、ずっと先から誘うように清廉な風が届いた。
 あと少しで、エトワールの泉に私達は辿り着く。ルナの手をそっと握る。

「私達は、もう一人じゃないです」

 ルナが私の手を握り返して、丘の小道を一緒に歩き出す。冬の枯葉を踏む音が、歩くたびに静かな林に小さな前進の音を響かせる。

「未来を見た後、魔力が底をついて眠りにつきました。三十年、何度も同じ夢を見たんです」

 神様の力は大きいけれど、人の様に回復が早くない。回復の為には眠りにつく必要がある。
 ルナの人格を含む力は、交わって人になっていた。でも、女神の力をワンデリアで使う術式の為に、別に残していた。血による支配では、その力を使ってしまい再び眠りにつく。今は、女神の力を全てを放って、欠片も残っていないらしい。

「どんな夢だったんですか?」

「私の知った未来に出てくる六人の青年と、シーナによく似た女の子の夢です。女の子は青年のいる学園に、シーナと同じ様に突然現れる。未来の知識を持って、出会いと経験の末に、世界を救う鍵になる人と愛しあう。周囲の人とも、たくさん絆を深めて、最高の祈りで世界が無事に続く。愛しい夢でした」
  
 眠りについた長い時間も、ルナは一人で悩み続けた。未来の子であるアレックス王子やカミュ様だけじゃなく、たくさんの人も救う。その為にどうしたらいいか。ルナにとっての理想は、すぐ側にあった。

「シーナは、ルナの理想ですね?」

「はい。シーナの祝福は素晴らしかった。エトワールの泉は聖女と王冠を持つ者の仕組みですが、祝福は強く繋がる人にも降り注ぎます。たくさんの人と繋がったシーナは、たくさんの人を祝福した。王様は魔物の王に圧勝で、完全な消滅まであと一歩でした。シーナが失われなければ、最高の結果だったんです」

 ルナが寂し気に笑う。たくさんの人と繋がったのなら、シーナが失われてたくさんの人が嘆き悲しんだ。世界の為に止めなかったルナは、嘆きの数だけ苦しんだ。

「ルナは、頑張ってます。今、シーナの約束の為に頑張ってる」

 頬を少しだけ上気させ、くしゃりルナが笑う。

 ルナの夢が、今の未来を救う土台になる。未来を変える為に、最高の条件の聖女を作る。それがルナの出した未来を救う道だった。

「一人で何かするのは孤独です。過ちにもなかなか気づけません。神様なのに、私はたくさん間違えました。でも、今度はきっと上手くいきます。一人じゃないから」

 そう言って、私と繋がる手をルナが少しだけ上げて見せる。しっかりと握られた手に私も微笑む。

「はい。ルナが蒔いた種は、きっと花を咲かせます」

 シーナのようだけど、シーナの作れなかったその先の未来も紡げる。そんな最高の聖女を作る為に、ルナは動き出す。

 ルナは歪みの奥、ひび割れの向うにある異世界に、女神さまの力で小さな種をたくさん蒔いた。
 その種は聖女を作る為の知識が詰まっている。『ルナの知る未来』。王冠を持つ特別な王子。最後に対峙する五人の青年。過去に素晴らしい祝福を成した聖女。そして、この世界に導く術式。

 種に触れた誰かは、夢物語として心鮮やかにルナの知識を思い描く。ある世界では童話になり、ある世界では大衆演劇になり、ある世界では歌になる。私のいた前世の世界では『君のエトワール』になった。

 だから『君のエトワール』は、アレックス殿下視点の『ルナの知る未来』と、シーナの思い出が織り交ぜられている。そこに見知らぬ作り手の意志が入って、作られる物語にそぐわない情報が排除された。
 現実に起こらなかったイベントと、起こったイベント、触れられなかった周辺の事件の理由がここにある。

「種はどうやってを撒いたんですか?」

「女神の力で、伝えたい想いを包むんです。魔力がたくさん必要で大変でした。ひび割れの向うの別の世界の大気に、雪や綿毛のように風に乗せてゆっくり落としながら願いました。アレックス王子を愛し、最後の場に立つ者と繋がれる。そんな人に届いて欲しいと」

 ルナが私を見つめて、悪戯する様に笑って見せる。落ち着かないような気持ちなって、首筋を一撫でして話を先へと進める。

「本物のルナは『ルナの知る未来』にいないから、『君のエトワール』のルナは聖女シーナがお手本だったんですね?」

「はい。種に残したルナには、聖女の理想をつめました。シーナならどうするか、シーナはどうしたか、そんな記憶から私が生んだんです」

 ルナが懐かしそうな顔をして頷く。
 明るく優しい聖女シーナ。礼儀正しく、芯はとっても強い。この国の女の子なら一度は憧れる。比べてみると確かに『君のエトワール』のヒロインの行動は、小さい頃に読んだ絵本のシーナとそっくりだ。

「私、聖女シーナもヒロインのルナも大好きでした」

「良かった。『君のエトワール』には現実に一番近く、求める条件に合うシナリオが一つありました。そのシナリオを攻略した方なら、最高だと思ってたんです。何度も様子を見に行くうちに、一つの問題に気づきました。アレックス殿下以外の方を、一番愛しくなってしまう事が多々ある!」

 その言葉に思わず吹き出してしまう。美都だった私は、一人どころか全員大好きだった。
 
「とても楽しいゲームでした。あんなに夢中になったのは初めてで、皆がとても大好きでした」

「だから、ノエル様が私の所にいらっしゃったんです」

 想いの種に添えられた聖女を世界に招く術式。それは、知らずに物語に組み込まれる。
 術式は物語に触れた者の中で、条件を満たす者を求める。この世界と、物語と、アレックス王子を愛した人。その命が消えそうにった時、記憶と共にルナの元に導く。

「この世界の命では、駄目だったのですか?」

「同じ世界の命は、交われません。それは、全ての世界共通の禁忌だと思います。だから、交われるのは、神様と呼ばれた異質な私たちと、異世界の拠り所のない命だけです。でも、この世界の為に異世界の命を奪う訳にはいきません。だから、終わる命を待ちました」

 不思議な気分だ。
 一つの終わりかけた命が、ルナの元に辿り着く。その命は『君のエトワール』に触れて、その物語を心から愛していた。

 消えかける意識の中で、生きることができたならと願った。
 今度は決して後悔を残さない、誰も泣かせないって誓った。
 美都であった私の命は、ルナの想いに導かれてこの世界に辿り着いた。

「消えかけた私の命は、ルナの元に来たんですね」

「はい。私がそうであるように、精霊の子の命は交わると魔力の流失がとまります。後から入る命の影響を受けるせいです。異世界の命と交われば、魔力が流失しない精霊の子になります。そして、物語で触れているから未来の知識を持つし、聖女の生き方にも触れる。最高の聖女だと思いませんか?」

 私は『ルナの知る未来』を最後まで知れなかった。
 最後を見損ねてしまった所為だ。六人全員同時攻略の先、リモコンが壊れて止まってしまったゲームの先。そこにあった特別な告白ボイスと2枚のスチルに、魔物の王と聖女の物語が詰まっていた。

「見たかったです。前世の後悔の一つです」

 顔を歪めた私の言葉に、ルナがくすりと笑う。

「現実で物語の先を。もっと素敵な物語を紡いでください」

 その言葉に空を仰ぐ。西から流れる真黒な雲が頭上を覆う。でも雲間には、時折光が薄く透ける場所があった。

 歪みの奥底で魔物の王から身を隠したルナは、物語を愛する異世界の人の命を待った。
 そして、私の命が現れる。失われない様に魔力で包んで、今度は『最初のルナ』が世界に現れる時を待った。

「ここまでに使った魔力が、予想以上に多かったんです。私はノエル様の命が『最初のルナ』に交わるのを、最後まで見届ける事ができませんでした」

 ルナは最後の力で、魔物の王に見つからない様に魔法をかけた。歪みから『最初のルナ』の元へと送り出す。そして、再び眠りについてしまう。

 攫うような風が一度強く吹いて、木々を揺らした。私はルナの目をしっかりと見つめる。

「私は『最初のルナ』には交れなかった。多分、魔物の王に捕まったんです」

 魔物の王は、助けてやった、生かしてやった、ルナの想いを歪めた、と言った。 

 歪みの中で魔物の王と私の命に、何があったのかは分からない。ただ、私の命には魔物の王の魔力が混ざり、本来行くべき場所とは違う場所に送られた。
 それが『悪役令嬢キャロル』だ。

 木々が途切れて、目の前に穏やかな美しい泉が姿を見せる。冬の空気の冷たさとはまた違う、身の引き締まるような冷たさが辺り一面に漂っていた。

「……ここまで来たんですね」

 大きく空気を吸い込むと体の隅々まで、清められるような気がした。何度か深い呼吸を繰り返す。
 私とルナが互いにワンデリアで全てを話して、漸く辿り着けた答えがある。私だけでも、ルナだけでも決して辿り着けなかっただろう。

「私の命から変わった事で、一番大きいのは父上の在り方なんです。私の命が呼ばれた理由や、出来る事を当てはめると一つの答えが出ます。私が精霊の子である可能性です」

 小さな息を吐いてルナが微笑む。その微笑みに笑い返して、泉に向かって踏み出す。

「キャロル様は時々しか学園現れず、現れれば刺々しい言動で周囲を攻撃しました。美しく能力は高いのに、孤独で人を寄せ付けない。色々な意味で目立つ女性。それが私の知る未来のキャロル様です」

 ルナが事実を知れなかったのは、仕方ない事だと思う。私だって中規模崩落戦がなければ、ディエリが精霊の子だと気づかなかった。

 精霊の子は希少と言われるが、隠す人が多くて実数は分からないと父上も言っていた。ディアナの様に魔力量が程々だと、実生活に支障をきたす。でも、上位魔力以上になれば、ディエリのように回復薬をつかって行動が可能になる。
 アングラード侯爵邸は闇属性の魔力が濃く、ゲート使えば闇属性に満ちたワンデリアの地もある。消費した魔力の回復は容易い。制限はあるけど、生活しながら隠す事は可能だった筈だ。

「父上の弟のリオネル叔父様は、精霊の子に命を奪われました。父上の従者は父上を、善でも悪でも名を残しそうで面白いと評します。癖のある人なんです。因縁のある精霊の子が自分の子として生まれたら、とても不安定な感情を抱いてしまうと思います」

「何となくわかります。人の諍いの中心にいたレオナール様は怖い人でした。冷徹という言葉がとても当て嵌まる方だった。嫌いとか好きとか、必要とか不要とか、徹底的に容赦なく貫く。一度そこまで嫌った存在を、愛するのはあの方には難しい」

 思い出に繋がるからと剣を捨てる程、父上の心には精霊の子の事件が傷として残った。捨てた剣と同じ様に、キャロルから目を逸らす事を父上はきっと選んだ。だけど、母上は私を大切にする。母上の為に父上は、キャロルと家族でいなきゃいけない。母上の為だから、一つの切っ掛けで壊れる。
 十歳になる前に、父上が誰よりも愛する母上がアングラード侯爵家を追われる。跡継ぎを産めなかった所為だ。

 キャロルが悪いわけじゃない。でもキャロルじゃなくて、男の子だったら失われなかった。
 精霊の子のせいじゃない。でも、精霊の子のキャロルのせいで『また』失われた。
 私の髪は母と同じ髪の色、私の目はリオネル叔父様と同じ。それを愛しいじゃなくて奪われたと、父上はどこかで感じてしまったのかもしれない。

 一度、自分の頬を両手で叩く。落ち込んでいたらだめだ。

「生まれる前か、生まれた瞬間には『悪役令嬢キャロル』と交わっていたと思います。周囲が私を精霊の子として認識していたら、父上の未来は変わらない。精霊の子が、精霊の子の特徴なく生まれる。これがアングラード侯爵家の転換点です」

 ルナが私の言葉にはっきりと頷く。

「交じる為の条件にも合います。普通の人が交じる為には、魔力を失わせる必要があります。失ったところに潜る様にするんです。でも、子供の魔力が減る事は殆どありません。魔力上限の成長期だから取り込むだけなんです。増減に関わらず交じる事が満たせるのは、交じりやすい精霊の子です」

 膝程の深さしかない美しい泉に手を差し入れる。冬の所為で水は冷たい。
 答えに辿り着いてから、ずっと気になっていた事がある。
 
「ルナ、生まれるべき『キャロル』は何処に言ったのでしょう?」
 
 『悪役令嬢キャロル』は悲しく見える。でも、彼女なりの幸せがあったかもしれない。私の所為で消えてしまったのなら、ここにいた筈の『悪役令嬢キャロル』の権利を奪った事になる。そんな風に考えると、胸が騒めいて苦しくなる。

 ルナが私の背中に、そっと手を当てる。背中越しに温かさが伝わって、そこから緊張が解けていく。

「ここにちゃんと、一緒におります。私の中にも『元のルナ』がいて、時に私の知らない事で胸を弾ませます。だから、ノエル様と交わって、一緒に今を生きているんです」

 私を見つめる父上の優しい瞳を思い出す。あの瞳を『悪役令嬢キャロル』にも知って欲しい。
 父上がいて、母上がいる。笑って、拗ねて、甘えて、当たり前の私の幸せを『悪役令嬢キャロル』が一緒に過ごしているならば嬉しい。

 小さく頷くいて、ジャケット、ベスト、靴、靴下を脱いでいく。少し寒いけど、全部が濡れるよりはきっといい。

「ノエル様……」

 呼ばれて、ルナの方を向き直る。ルナの手が私の手を取って、祈る様に口元に引き寄せる。零れそうな瞳が不安に揺れていた。

「愛する事を条件にしたのは、間違えではなかったと思います。強く大切な想いだから、人は躊躇う事が出来る。でも、ごめん……なさい。送り出さなくてはいけない事が苦しいです」

 ルナの綺麗な薄紅の髪をそっと撫でて、私は心から微笑む。

「愛し愛される事が条件の一つと聞いた時、自分に出来ない事が悔しくて、悲しかったです。他の誰かではなく、私ができる事が嬉しいんです。愛しい人の為に、友の為に頑張ります」

 踵を返すと、そっと泉に足を差し入れる。冷やりとした水の冷たさに、体が一瞬震えた。一歩、一歩、水の中を歩き進めて、中央まで辿り着く。
 胸元からネックレスを引き出すと、握りしめて膝を着く。

 私が小賢しいと言われるのは、『悪役令嬢キャロル』の心があるからか。それなら、この毎日を一緒に楽しいと、思ってくれてるだろうか。私が愛しいと思う人を、共に愛しいと感じてくれているだろうか。
 
 『悪役令嬢キャロル』一緒にいますか。

 体中を巡る魔力に水の中へと願う。答えを肯定する様に、泉に魔力がゆっくりと溶け出す。
 愛しい人を思って、大切な人を思う。家族を思って、友を思う。魔力が抜ける度に、泉の水が柔らかい温かさを帯びていく。
 
 ふと気づくと、水の中に小さな淡く優しい光が見えた。一つ、また一つと、それぞれ鮮やかな色を纏って増えていく。

「ちゃんと祝福が色づいております」

 泉の淵から、ルナが顔を輝かせて叫ぶ。安堵に胸を撫で下ろす。
 私の魔力には魔物の王の魔力が混じる。それが少し不安だったけど、問題なかったようだ。
 もっと、もっと、強く願う。するすると怖いぐらい簡単に、体の中から魔力が流れ出ていく。

 泉の中は色とりどりの光の粒に溢れて、水面を優しく鮮やかな輝きに変える。

「きれいです……」

 呟いた瞬間、視界が回るような感覚がした。慌てて流れ出る魔力の量を絞る。必死すぎて意識できていなかった魔力の枯渇が、急速に身に迫るのを感じる。

「怖いぐらい魔力が抜けます……。回復薬を取って下さい! 上着に――」

 頭がぐらりと揺れて、目の前が真っ白になった。顔を冷たいものが叩く。目を開けると光の粒がたくさん見えて、色鮮やかな星空に浮いているようだった。
 慌てて首を強く振って、倒れ込んだ泉の中から顔を上げる。

「ノエル様!」

 ルナが回復薬の入ったケースを握って、真っ直ぐ泉の中を駆けてくる。支えるように私の背に手を回すと、唇に回復薬を運ぶ。かみ砕くと、血が巡る感覚が僅かにした。でも、全然足りない。
 指先が白くなるまで、きつく手を握りしめる。

 私の夢は愛しい人の夢で、愛しい人の夢は私の夢。
 隣に立つと誓った。だから止めちゃダメ。
 祈りが届かなければ、アレックス王子は戦えない。秘宝が使われたら、もう夢はかなわない。

 何よりも、もう一度貴方に会いたい。

 再び魔力を流し始めると、小さい輝きが更に強い光を帯びる。色とりどりの星が、水の中で踊るように動き出す。
 
 絶え間なく回復薬を口に含んで、ただ必死に祈り続ける。
 こんなにたくさん、エトワールの泉の中に星があるのに。何故届かないのか。
 体の中の魔力の渦はもう消えて、雫の様な魔力が空回る。唇を噛んで俯く。涙の代わりに髪から鮮やかな水の雫が、頬を伝って幾つも落ちる。

 聖女シーナは愛しい人の為に、全てを投げ出した。
 王様は魔物の王に勝利した。友と、家族と、たくさんの人が救われた。
 悲しい、悲しい、ハッピーエンド。王様が寂しくて可哀想と泣いたのは何時の事だろう。

「ルナ……ごめんなさい。アレックス殿下にも……ごめんなさいって、伝えて下さい」

 私の魔力が足りないのなら。全部、泉にあげます。
 私の体の全てを祈りに変えて、あの人の所へ。

 強くそう願うと、体の中が熱くなった。頭の上から、足の先、爪の先まで、熱で一杯になる。全てが溶けると思った瞬間、ルナが私を抱きしめる。

「絶対ダメ! お願い! 私に、もう一度失わせないで!」

 弾かれるような気がして、すっと体中に籠る熱が消えた。だらりと落ちた腕で、色鮮やかな水を掬う。
 私には、傷つくなと言った人がいて、失わせないでと言った人がいる。再会を約束した友がいて、もう一度会いたい家族が人がいる。

 頬を涙が伝って、泉の水と混ざって落ちる。

「……ごめんなさい。こんな大事な時なのに、戦って魔力が足りないんです。いつもだったら、もっともっと頑張れるのに……」

 私の手を引いて、ルナが泉の淵に座らせる。綺麗な指が私の頬を掴んで、何度も何度も零れる涙を拭う。
 泉の中に浸かったまま、ルナが膝を着いて私の手を強く握りしめる。

「何もできない自分の無力さが嫌になる。何度も何度も、届かない場面を見て来たけれど、今が一番苦しい。どうしてだろう? 私が人であるからなのかな? お願いです、ノエル様。その身を失わせないで……」

 懇願する様に、私の手にルナが額を当てる。ルナの魔力が動くのが分かった。
 一生懸命に私の代わりに、泉に魔力を溶かそうとする。でも、エトワールの泉は、ルナの想いに応えない。

 私の魔力の供給が止まって、目の前で光の粒が一つ小さく弾けた。再び泉の中へと膝を着こうとした私を、ルナが押しとどめる。

「駄目。お願い……お願い……お願い……。かつては私の一部だった。お願い……だから思いに応えて」

 お願いと、どれぐらいルナが呟いただろう。目の前で、小さな光の粒が一つ生まれた。

「ルナ! 一つ、祝福が生まれ――」

 言葉にするよりも先に、泉の変化が顕になる。私の時よりゆっくりだけど、確かに新しい祝福が生まれて鮮やかな輝きを増し始めた。

「届いている? 届いています! ノエル様!」

「はい! ルナの祈りが届いてます!」

「私の中でほんの少しだけど、何かが動くんです。これ……」

 言いかけてルナが小さく口を開く。それから輝く様な笑顔を浮かべる。

「ルナ?」

「誓約です! 私の中には少しだけど、ノエル様の魔力がある! それが今、流れてるんです」

 ルナが魔力の出力を上げると、ゆっくりだけど一段と泉が輝く。

 手の甲で急いで、瞼をこすって涙を拭う。
 私の愛しい人は、こんな風には泣いて立ち止まらない。止まるなら進むし、無理をするならとことん無理をする。

 上着から回復薬を取り出して、更にかみ砕いて飲み込む。ルナが私を休ませてくれたお陰で、少しだけど魔力がまた戻ってきた。

「無理はしません。私も休みながら祈ります」

 祈る事と休む事を、繰り返す。気付くと泉は、小さな光りの粒で一杯になっていた。

「届いて……」

 呟きと同時に魔力を流すと、泉から魔力の粒が一つ飛び出した。追いかけるように、二つ、三つ、と光の粒が湧きたつ様に空へと昇る。

「今ある全部の魔力を!」

 ありったけの魔力を泉に叩きつけると、一斉に鮮やかな光が空に舞う。
 黒く厚い雲に覆われた空を、祝福の光が星の様に彩る。

「私の星。貴方の為の星。……願いと約束を愛しい人に!」

 祝福の星の流れが、川の様になって真っ直ぐに西の空を目指していく。

 彼方へと消える祝福の星が作る川を、ルナと並んで見送る。辿り着く先を見たいと願うと、頭の片隅に見知らぬ景色が映った。

 景色は草原を眼下に、はるか彼方に街を見る。超える山の向うに、川が走る。瞬きの間に、岩肌の大地が見えた。

「ワンデリアが見えます! ルナにも見えますか?」

「はい。私にも!」

 不思議と祝福の星の行き先が、脳裏にはっきりと見える。私の魔力だから、私の体の一部のように感じる事が出来るのかもしれない。

一度、瞼を強く瞑ると、目の前に渓谷が見えて奥へ奥へと星々が進む。

「アレックス殿下!」

 愛しい人が見えた。残酷そうに笑う魔物の王の前で、ぼろぼろになった体で片膝を着いていた。でも、その目から希望の光は失われていない。剣を支えに、尚も必死に立ち上がろうとしている。

 クロードが、アレックス王子の盾になろうと足を引きずる。ユーグが、砂を噛んでまだ見ぬ術式を書く。ディエリが、悔し気に舌打ちして再び立とうと腕を張る。カミュ様が目に流れ落ちる血を拭って、指に魔力を纏わせる。ドニが今ある結界が支えと理解して、途切れそうになる意識を振り払うように頭を振る。

 必死に立ち向かうアレックス王子と、友に向かって、届かない手を伸ばす。

 アレックス王子が何かに気付いた様に、空を見上げた。驚いた様に紺碧の眼差しを見開くと、その眼差しの中に愛しさが浮かぶ。私に伸ばすかの様に、その手が空へと伸ばされる。

 その手に触れたいと願う。
 王都とワンデリア。これは幻だから届かない。それがわかっていても、何故だか触れられる気がした。だから、手を伸ばす。

 確かに、熱い指先に触れた気がした。
 指先と指先が触れたと思うと、貴方が私に愛を呟いたように見えた。

 私も愛しています。貴方に私の星の祝福を。


 ワンデリアに、祝福の星が降り注いだ。
 色とりどりの光の粒が、雪の様に降る。その景色を見た者は、一様に美しかったと声を揃える。
 星が触れる度に、アレックス王子を始めとした者達の傷が癒えて、力が増す。相反するように、魔物の王は力を弱めた。
 星が降りだして、半刻。アレックス王子の手によって、魔物の王は打ち倒された。
 この勝利は、魔物の王の撤退ではなく、完全な勝利だった。
 この世界から魔物王の脅威は消えた。


 季節はもうすぐ二巡り。
 控室に柔らかい日差しが差し込む。特別な日の、特別な装いに、私は身を包む。

 しっとりと柔らかいドレスは伝統的な型だけど、裾や胸元には流行の銀糸のレースがふんだんに使われている。ベールは慣例通りの三枚。左右に流すロングベールは同じ銀糸のレースで細やかに縁どられる。ひときわ目立つ髪飾りは大輪のアネモネ石で、輝透石と白宝珠が散りばめられていた。

 私の長いベールを、お父様が軽く引っ張る。

「お父様! 引っ張ってはいけません」

 ベール越しに、盛装に身を包むお父様が膨れる。今日は隙があれば、私の至る所をお父様は引っ張る。

「ノ……キャロル、家に帰ろう!」

「だ・め・で・す! 何回目ですか?」

「三十六回目のお願いだ。シャロルも寂しがるよ? リオンも君を待っている! はいはいとか、たっちはもうすぐだ!」

 片言のお喋りが、流暢になり始めた天使の様な妹。今年になって生まれた可愛い弟。どちらも髪は母上の銀がベースで、瞳はアングラードの紫。二人が並ぶと、最高に可愛い。
 黙り込んだ事を、好機と捉えたお父様が畳みかける。

「私の天使が大好きなじいじも、バルバラおばあ様も王都に戻る。いいのかな? 我が家は賑やかだよ」

 離れのダイニングの光景を思い描く。窓際の穏やかな日差しの中にお母様がいて、向かいで赤ちゃんのリオンを抱くバルバラおばあ様がいる。メインテーブルにシャロルを抱くモーリスおじい様がいて、その隣でじいじが孫の様子に目を細めつつ、お父様を叱る。お父様は苦み潰した顔をしながらも、時折嬉しそうに笑う。
 
 そんな光景が、毎日続く未来が愛しい。思わず目が潤んでしまう。

「嫌い……。もう、泣きたくなります」

「泣きたくなるなら、帰ろう?」

 今日のお父様は一段としつこい。でも、それは私を心から愛して、手放したくないと思っているからだ。ゆっくりとドレスの裾を摘まんで、お父様に礼をとる。
 
「お父様。時々は、おうちに帰ります。でも、キャロルは愛しい方の所へ参ります」

 深い深いため息が落ちて、ベール越しにお父様が私の頬をそっと撫でる。

「大事な日の大事な場面の前に、可愛い天使を泣かせてはいけなかったね。いつでも、帰っておいで。帰ってきたら、戻らなくていいからね」

 最後の一言はいらないけれど、お父様の愛情は十分伝わった。
 扉を叩く音がして、騎士が一人入室する。

「アングラード公爵、ご息女キャロル様。会場の支度がもうすぐ整います」
 
 今年に入ってアングラードとヴァセランは、公爵に格上げされた。謀反でベッケルが伯爵まで下がった為、公爵は一時バスティアだけになった。新公爵が多方面から求められ、順当に繰り上がる。

「では、キャロル。ゆっくり行こうか?」

 お父様が僅かに肘を出して誘う。その腕にそっと手を掛ける。ゆっくり私とお父様は歩き出す。この先を進んでいけば、もうすぐ私はアングラードの娘でなくなる。

 控室を出ると、広い庭に面した外廊下に出た。庭の向うでは、昼のお披露目式の準備が進んでいた。広い室内会場と、外に設えられた庭園風の会場。ここに何百人も集まる。考えると、緊張で少しだけ指が強張る。

 庭師の一人がこちらを見て、人懐っこい笑顔でこっそり手を振る。その顔に覚えがあって思わず、くすりと笑う。見渡せば他にも知っている顔があった。
 ここにいない人は、一体どこにいるのだろう。
 きっと今日は、ここの何処かにいるはずだ。この国の影の騎士は、今日も当たり前の景色に潜り込んでいる。
 小さく手を上げて長いベールの下で、ひらひらと手を振り返す。

 空を仰ぐと、雲一つない真っ青な愛しい色が広がっていた。明るい太陽の日差しが降り注いで、私の歩く廊下を照らす。

 廊下の向うから、跳ねるように駆ける人影が近づく。愛らしい姿に思わず顔が綻ぶ。

「ノエ……、じゃなくて、キャロルー!」

 薄緑のカールした髪が、走るのに合わせて揺れる。立ち止まると、大きく体を折る。何度か深呼吸を繰り返して息を整えると、勢いよく上げた顔は白い頬が薄紅に染まっていた。

「ドニ。走ったらダメですよ?」

「うん。でも、急ぎだからね? 今日は聞きたい歌はある? 中々会えなかったから、聞き忘れてたでしょ?」

 小さく首を傾げると、ドニが満面の笑顔で問いかける。

 ドニはとっても忙しい。歌声に磨きがかかって、芸術で名高いイリタシスを中心に色々な国からの招聘が絶えない。一年の半分は、国外を飛び回っている。それでも半分をこの国で過ごすのは、大好きなルナがいるからだ。

「ドニの歌なら、何でも好きです。とびきりの恋の歌と、アレンジした古い宮廷音楽をお願いします」

「うん。ノエ……キャロルの為に、心を込めて歌ってあげる」

 天使の様な顔でドニが胸を張る。ドニには、いつまでたっても少年の愛らしさがある。その笑顔が周囲を温かくしてくれる。

「ルナはお披露目に来ます?」

「うん。夜のお城の方に来るよ。僕がエスコートする約束したんだ」

「会えるのを楽しみにしていると、伝えて下さいね」

 ドニが大きく頷いて、踵を返すと来た道を戻っていく。

「相変わらず、ラヴェル伯爵家は自由だね」

 跳ねる様な足取りを見送りながら、呆れる様にお父様が呟く。

 ルナはあれから学園に復帰した。休学扱いの期間が長く、卒業は私達より一年遅くなった。
 今はアーロン先生の補助講師をしながら、国史の講師を目指している。この国を誰よりも見てきたルナは、最強の講師になれる筈だ。

 爽やかな風が吹いて、私のベールを揺らす。木漏れ日も揺れるから、大地に落ちた影が蠢く。

 あの日。私とルナが見ていたワンデリアの景色は、アレックス王子に触れたと思った瞬間に見えなくなった。後で聞いた話だと、その直後から祝福が皆に降り注いだようだ。
 突然失われたワンデリアの景色に、呆然と私とルナは顔を見合わせた。そして、泉の中に一粒だけ残る祝福を見つけた。
 色とりどりの光だった祝福とは違う真黒な祝福。それが何であるか、私達には直ぐに分かった。

――彼の魔力です……

――魔物の王なら、私は残すべきじゃないと思います。

――……考えます。だから、私が預かってもいいですか?

 私達の祝福の量は、シーナの時よりも多かった。魔物の王の本体は、打ち倒されるとルナは予感していた。封印ではないから、魔物の王は二度と甦る事はない。ここに残った一粒の真黒な祝福が、魔物の王の存在の最後の欠片になる。

――握りしめたら消えてしまう程、小さな欠片なんです。災いになる事はありません。

――ルナは、残してどうするんですか?

――わかりません。考えます。憎まなきゃいけない程、孤独だった彼に何かを教えてあげたい。

 黒い祝福の一粒を、ルナは今も持っている。私は賛成も、反対もしていない。
 大嫌いだし、許せない。でも、許したいし、救いたいと言う人が目の前にいる。
 だから、今は保留。ルナと納得する答えを、いつか出せたらいいと思っている。

 明るい日向の道を、ゆっくりと歩く。街のお祭りの喧騒がここまで届く。見知らぬ国の音楽と、湧きたつ歓声に心惹かれる。

 外廊下の出入り口に来ると、パンという音と共にきらきらとした光の粒が私に降り注いだ。
 飛び出してきた得意顔に、頬を膨らませる。

「ユーグ!! びっくりさせないで下さい」

「なんで、怒られるのかな? 君を喜ばせようと思ったのに」

 目じりの少しだけ下がった眼差しをすっと細めて、薄い唇をあげると惹き付ける様な色気が漂う。
 その姿に思わず嘆息する。相変わらずユーグは無自覚に色気を振りまき過ぎる。

「きれいです。すごく綺麗だと思います。光魔法を応用した魔法弾ですね? 音がダメです! パンはいけません。心臓がびっくりして、どきどきします」

「ふーん。そんなに、どきどきするなら聞かせてよ?」

 紫色の髪を掻き上げて、胸元に耳を寄せようとしたユーグの耳をお父様が掴む。

「シュレッサーの子息は相変わらず、遠慮と常識が欠落してるなぁ?」

「そう? 驚きと喜びの中間にある心音について、考察してみたいだけなんだけど? それに何か問題ある?」

 あります。ユーグ、今の私はキャロルです。見えてますか。思わずむ心の中で独り言ちる。

 ユーグは相変わらずだ。金色の眼差しは、いつも好奇心を浮かべて、穿つように人を見る。たくさんの人の興味を引くのに、本人は探求以外は気分次第。
 知識も技術も、この国で一番。シュレッサー最高の探求者と呼ぶ人も多い。

「ああ。君に花火の贈り物。終わった後に、部屋のバルコニーにいて?」

「はい! 楽しみにしてますね」

 ユーグが珍しく恭しい一礼を取って見せる。

「僕の初恋の君で、最愛の友へ。おめでとう。祝福する。嫌になったら、いつでも探求の旅に行こう」

 頭をあげると満足そうに口の端を上げてから、薄い唇を舌でゆっくり湿らせる。
 心からの祝福に、ドレスの端を小さく摘まんで答える。頭を上げた時には、気ままなユーグは踵を返した後だった。

 お父様が小さく咳ばらいをすると、真剣な眼差しを向ける。

「で、探求狂いの初恋の君って何なのかな? シュレッサーだけは嫌だからね」

 お父様のお小言に適当な合図ちを打ちながら、ゆっくりと廊下を進んでいく。

 高い天井に高窓のステンドグラス。差し込む光が色とりどりの輝きを落とす。
 泉に一杯だった祝福と、どちらが美しいだろうか。

 エトワールの泉に最初に辿り着いた第三者は、アニエス様とブリジット様だった。
 連絡しないと思っていた学園の衛士は、勇気を振り絞って国政管理室にも、情報戦略室にも、アニエス様にも連絡したらしい。
 私の突然の行動に、バルト伯爵は怒鳴って、国政管理室の副室長さんは大笑いしていたという。城奪還の後処理で二人は動けない。代わりにアニエス様がブリジット様を誘って、揚々とエトワールの泉に乗り込んできた。

 既に私がキャロルであると知っているアニエス様は、祝福の光が私だと気づいていた。

――祝福を国中の人が見たわ。どうするか、腹をくくりなさい。

 あっという間に関係者に箝口令を引いて、私とルナは離宮に連れ去られた。本筋とは関係ない事に溢れた混沌とした尋問。アニエス様とブリジット様との時間は、思い出すと今もどっと疲れを覚える。

 その後、王家とお父様との間で色々な調整があった上で、キャロルはノエルの双子の妹として表舞台に登場する事が決まった。そして、聖女の肩書もついてしまった。
 
 今の私の姿はアングラード公爵息女で、聖女のキャロル・アングラードである。

 王族の控室が近い区域に入って、歩哨を見かける事が増えてきた。特別な装いの私に向かって、小さなため息が落ちる事がある。がっかりさせるような事を、何かしただろうか。

 令嬢をやめて長い私にとって、女の子として表に立つのはまだまだ荷が重い。一巡りの季節分は経験を積んだけど、失敗もたくさんあった。
 だから、溜め息の度になんだか少し落ち込みそうになる。

 頭一つ大きな立ち姿を見つけて、思わず安堵に駆け寄りたくなる。

「クロード! ……様?」

 キャロルである事を忘れて、周囲に人がいるのに親し気に名を呼んでしまう。
 お父様が誤魔化すように名前を呼び直して、クロードを手招く。

「クロード、こっちにおいで」

 同じ近衛服の仲間に何かを言って、クロードがこちらに向かってくる。周囲の目もあるので、出来るだけ優雅に令嬢の礼を取って迎える。

「すみません。うっかり名を呼びました」

 声を潜めて謝ると、水色の精悍な眼差しが優しい色を帯びる。

「気にするな。兄であるノエルの呼び方が移った、と言っておく」

 裏表のないクロードのこの笑顔を見ると、心底安心できる。何でも任せられるという気になる。
 だから、信頼できる友の顔をじっと見つめて聞いてみる

「私、なんか変ですか?」

「いや。ちっともおかしくないぞ」

 私の問いかけに、真剣な顔でクロードが答える。その回答にホッとするけど、溜め息の理由がより分からなくなる。

「時々、歩哨の方がため息をつくんです。絶対、何かありますよね? 何だと思います?」

「ああ。綺麗だからだろう」

 晴れやかな笑顔で答えられると、それ以上は何も言えない。否定も肯定も出来なくて天を仰ぐ。
 私の親友は真面目で素直な人だ。彼の言葉なら、嘘だなんて否定できない。

「ありがとうございます」

「ああ」

 また、晴れやかで頼もしい笑顔をクロードが返す。
 今のクロードは、近衛に在籍している。剣の腕は若手で一番で、公式の席への帯同が増え、評価も高い。来年には、特定の王族につく噂を聞いている。
 無駄のない引き締まった体が示す通り、相変わらず時間があれば鍛錬ばかりだ。一緒に鍛錬する時の模擬試合の戦績は、私の連敗が続いている。

 こっそりベールの下で拳を作って甲を向ける。唇を僅かに上げ合うと、ベール越しに甲と甲を軽く当てる。私達の甲には、まだ薄く友の誓いの跡がある。

「クロード、そろそろ恋人を」

「そのうちな」

 お日様みたいに笑って、仲間の近衛騎士たちを追う為に駆けだす。クロードが近衛でここにいるのなら、この場所は世界で一番安全になる。

 お父様が顎を撫でて、愉快そうにその背を見つめる。

「年々、エドガーに似てくるな」

 歩き出そうとすると、真っすぐに向かってくる二人組が目に入る。少し顎を上げて、見下す様な視線を投げかけるのはディエリ。気難しい顔で唇を引き結ぶのは、バルト伯爵だ。

「アングラード公爵! お久しぶりです。この度はおめでとうございます」

「それは嫌味かな?」

「滅相もありません。折角です。今日の警備計画を見ていきませんか?」

 引きずる様にお父様を、バルト伯爵が壁際に連れて行く。警備計画書を押し付けらて、お父様の顔が面倒そうなもの変わる。相対するバルト伯爵は、気難しい顔の目だけを楽し気に輝かせて、お父様の意見を待っている。お父様への憧れは継続中のようだ。

「ディエリ、最近どうですか?」

 バルト伯爵とお父様を眺めながら、問いかける。瞳だけを動かしてディエリが鋭利な眼差しを私に向ける。

「つまらん」

「好調って聞いてますよ。情報戦略室は、謀り事が好きなディエリに似合います」

 ディエリは色々な院から引き合いが多くあったが、国政管理室の全面的な後押しで情報戦略室に行った。バルト伯爵とは予想通り相性が良いらしく、騎士団は彼の未来の無茶振りに、戦々恐々としているらしい。
 騎士団だから、私とは年に数度しか駆け引きする機会がなくなってしまった。少し残念に思える。
 
「子狸の化けの皮は、何時はがすんだ? 似合わんぞ」

 思わず自分の純白のドレスを、上から下まで眺める。ドレスとか小物は完璧なので、やはり問題があるなら中身しかない。クロードは褒めてくれたけど、何処かおかしいのかと慌ててしまう。

「に、似合わないですか?」

 驚いた様に緑の目を見開くと、珍しくその瞳が甘い色で弧を描く。時折、こうゆう顔をするから、ディエリに嵌る令嬢が後を絶たない。

「つまらん反応だな。その服では、再戦できんぞ」

「ああ。大丈夫です。また、いつか負かしてあげます」

 ベールの下で挑発する様に唇を上げると、ディエリが面白そうに頬を上げる。

 バルト伯爵がディエリを呼んで、お父様が首を回しながら戻ってくるのが見えた。立ち去り際にいつもの舌打ちを残して、ディエリが背を向ける。

 お父様が、再び私に腕を差し出す。

「さあ、行こうか。それにしても、バスティアの小僧は、相変わらず生意気だねぇ。あの瞳に腹が立つ!」

 色鮮やかなガラスが作る光の模様を、踏みながら歩き続ける。、指定の大きな扉が見えてきた。あの扉の向うに私の新しい未来がある。

「キャロル」

 後ろから名前を呼ばれて振り向くと、小さく小首を傾げてカミュ様が黒髪を揺らす。少し伸びた髪型の所為で、以前よりもカミュ様はずっと大人っぽく美しい。

「ごきげんよう、アングラード公爵。今日の事は、おめでとうと申し上げてよろしいですか?」

 綺麗な顔に毒気を忍ばせてカミュ様が笑うと、お父様の頬が僅かに引き攣る。コーエンの聖女ディアナの扱い以来続く、カミュ様と国政管理室の因縁は未だに健在だ。
 王位継承三位として国政にも関わる事が増えて、カミュ様は療養所や孤児院などの救済に力を入れている。甘いけれど悪くない、と国政管理室は評価する。腹が立ちますが正しいと、カミュ様も国政管理室を評価する。
 コーエンの聖女であったディアナとは、数か月前に正式に婚約した。

「できれば、何も言わないで頂けたら幸いです」

 お父様の返答に楽しげな笑いを漏らして、カミュ様が流麗な動作で私に向き直る。

「畏まりました。では、レオナールには申しませんね。キャロルにだけ、申し上げます。ご結婚おめでとうございます。末永く幸せになってください」

 大輪の花が綻ぶように笑って、カミュ様が穏やかな眼差しを私に向ける。そっとドレスの端を摘まんで一礼で返すと、赤い唇に人差し指をあててカミュ様が笑う。

「アレックスは強いです。でも、その強さが彼に無茶をさせます。支えてやって下さい。そして、縋れるぐらい貴方らしい強さを、隣で持ち続けて下さい」

「はい。必ずお約束いたします」

 安堵したように大きく頷いて、別の扉から奥へとカミュ様が消えていく。
 
 開始を待つ胸が、早鐘を打つ。緊張ではなくて、これは畏れだ。
 ここはこの国で、王族だけが使用を許される神殿。この扉をの向うには祭壇がある。ここが使われるのは、王族が生まれた時、結婚する時、なくなる時の三度だけ。
 ヴェールの上から、お父様がそっと指先を撫でる。

「幸せになりなさい。欲張っていいんだ。その手に乗せられるだけ、幸せをつかむといい。苦しかったり、困ったら、逃げ帰って来なさい。その時は必ず、父と母がその手に手を添える」

「はい」

 祝福を示す大きな鐘の音が、神殿中に響き渡る。
 
「アングラード公爵、扉を開けます」

 お父様が頷く気配と共に、扉に向かって歩き出す。高い天井の所為で、足音がとてもよく響く。一歩一歩、進むたびに今との別れだと思うと、少しだけ寂しいとか怖いとか竦む気持ちが頭をもたげる。

 私の目の前で大きな扉がゆっくりと開く。荘厳な祭壇よりも、大勢の列席者よりも、見慣れた愛しい人の眼差しに今日も真っ先に目を奪われる。
 私と同じ白の特別な服に身を包んだアレックス王子が、紺碧の眼差しを眩し気に細めて私を見つめる。

 ラヴェルの楽団が奏でる美しい音色が、遠い場所から聞こえるかのように耳に響く。
 一歩一歩、ゆっくりと、何かを確かめる様な気持ちで歩く。

 愛し気な眼差しをアレックス王子が逸らさないから、私も目を逸らせない。吸込まれるように見つめ合うと、新しい運命に竦む気持ちが消えていた。早く早くと急ぐ気持ちに変わる。
 
 あと九歩、八歩、七歩……そう心で数えている距離は決して遠くないのに、時間の流れは緩やかで駆け出したいような思いに駆られる。

 重ねた紺碧の眼差しに、私の胸の内にある焦りによく似た色が浮かんだ。あと二歩。やや早いと思えるタイミングで、アレックス王子が私に手を差し出す。
 隣でお父様の小さな舌打ちが聞こえた。

「焦るのはどうかと存じます」

 抑えた一言に、驚いた様にアレックス王子が自分の手を見下ろす。

「失礼。耐えられないぐらい、愛しくて欲しいと思ったんだ」

 諦めたような吐息を落として、晴れやかな笑顔をお父様が浮かべる。

「うちの娘を泣かしたら、承知しませんから」

 美しい動作でお父様が一礼して、その礼にアレックス王子が流れるような礼を返す。
 私の手がお父様の手から、アレックス王子の腕へと導かれる。

「いってらっしゃい、キャロル」

「いってまいります、お父様」

 今この瞬間から、私の頼るべき腕が変わる。急に不安が込み上げて、指先に僅かに力が籠る。その指先を庇うようにアレックス王子が空いた手を乗せた。たったそれだけの事で、胸の不安が何かで満たされていく。

 私達はこんな風に生きていく。きっと愛で満たされる。そんな予感を持って仰ぎ見る。同じ事を思っていたかのように、アレックス王子が私に向かってしっかりと頷く。

 楽団の音色に合わせるように、ゆっくりとした足取りで祭壇へ進む。左右に並ぶのは王族と、この国の伯爵以上の当主とその妻だ。アレックス王子に見惚れたのか、嘆息の声が過ぎる場所から漏れる。

 緊張する私の為に添えられた手を、そっと見る。
 約束の答えを告げた時を思い出す。

 離宮の一室に戻るなり、アレックス王子は私の腰を抱き上げた。紺碧の眼差しで見上げて、愉快そうに抱き上げたまま一回転する。

――君が星になって降ってきた

 あの時幻だと思った事は、私とアレックス王子、互いにだけは見えていた。愛し愛される人を繋ぐ祝福。
 側に帰ってきて、こうして触れている。その実感に、瞬きの間も我慢できない程、今すぐに想いを伝えたいと思った。

 抱えられて一段高い所から、あの日の続きのようにそっと手を伸ばす。太陽の木漏れ日の様な髪に触れて、約束の答えを告げる。

――お約束です。アレックス殿下、答えを言わせてください。

 どれ程想い合っているのかは、ちゃんと互いに分かっていた。口にするのは、この距離で確かめ合いたいからだ。

――貴方を愛しています。ずっと、貴方の隣にいさせてください。

 抱えられた体が宙を浮いて、落下する感覚がした。落ちるより先に抱きしめられて、アレックス王子の胸の中に収まる。胸が早鐘を打つ音が聞こえる。
 この音は私の音か、アレックス王子の音か。分からない程、私達はぴたりと重なりあっていた。

 ラヴェルの楽団の演奏が、また別の音楽に変わる。愛を囁く様に歌うドニの声がとても美しい。

 剣を持つ人の少し節のある手から視線を上げて、ベールの下から秀麗な横顔を盗み見る。
 綺麗な鼻筋も、整った眉も、意志の強い真っ直ぐな眼差しも好き。形のいい唇は、触れると熱くて溶けそうになる。
 好きを数えて確認する度に、頬が赤くなる。今日からこの人の隣、新しい場所で生きる。

 私の名前は、キャロル・マールブランシュに変わる。
 友でもない、臣下でもない、恋人でもない、妻と言う名がくすぐったい。

 深い空の色の眼差しが、私を見て唇を綻ばせる。

「叶えてない約束が、まだまだある」

「はい。まだまだ、たくさんです」

 祭壇に着くと、神官様が光の女神の物語の一説を朗々と読み上げる。有名な一説を、厳粛な気持ちで目を閉じて聞く。
 綴られた本を、神官様が閉じる音が聞こえた。再び、そっと目を開ける。世界が一段と優しく、美しく色付くように思える。

「光の女神の言葉は以上です。互いに愛を誓い、生涯を共にできるなら、帳を上げなさい。そして、迎え合うと良いでしょう」

 これは、この国の結婚の決まりだ。帳とは、三枚のベールを指す。ベールは、人の境界、家の境界、心の境界、時の境界、色々な境目の意味を持つと言われている。三枚のヴェールを全て上げる事は迎えを意味し、ベールを上げて見つめる事は、互いを受け入れ一つになる事を意味する。

 互いに向き合って、ベール越しに見つめ合う。帳であるベールの向うで、アレックス王子が悪戯する色を浮かべた眼差しを見せる。

「最初の約束から、十年を過ぎた」

 その言葉に小さく笑う。いつか必ず迎えに行く。そう言った可愛い王子様を思い出す。
 節のある綺麗な手が、右手のベールを一枚開ける。ふわりと肩へベールがかかる。一枚の帳が取り払われた。

「あの時から、多分ずっとお待ちしていました」

 アレックス王子が嬉しそうに目を細める。長い金色の睫毛を瞬かせて、左手のベールをそっと反対の肩へと載せる。

「まだ、叶えてない約束がある。必ず、生涯をかけて叶えよう」

 言葉に小さく首を頷くと、最後の一枚のベールが柔らかく揺れる。

「貴方の隣に立ちます。ずっとお側に……」

 小さな吐息と共に、最後のベールにアレックス王子が触れる。少しだけ膝を屈めて俯くと、目の前が帳を払って明るくなっていくのが見えた。
 顔を上げて、私を迎えに来てくれた愛する人の顔を見つめる。
 その目に浮かぶ愛しさと、同じ愛しさが私の瞳にもきっも浮かんでいる。

「とても綺麗だ、キャロル」

 固い指先が頬を愛し気にそっと撫でる。いつからか、互いを迎え入れた二人が、最後に口づけを交わすのが慣習になっていた。
 そっと瞼を閉じて、何度知っても私を困らせる熱を待つ。

「生涯をかけて、誰よりも君に愛を」

 顎を優しく上にと指先がさらう。私の唇に愛しい人の熱い唇が重なった。

 少年の日の約束が、今日果たされる。私達のたくさんの約束が、また一つが叶う。


 昼の神殿での披露目の式は、蜂蜜色のドレスを着た。夕刻の城での舞踏会には、夜明け色のドレスで参加した。
 聖女と呼ばれてから、キャロルとして表に出る事が増えたけど、まだ慣れない。終わった瞬間には、いつも座り込みたい疲れを覚える。

 王族の住まいに入るや否や、つい溜め息をつく。攫う様に私を横抱きに抱えて、アレックス王子が笑う。

「君はもう少し、キャロルの時間になれないとね」

「なんでしょう? とっても疲れるんです。歩き方とか所作が違うから、一々緊張するんです」

 私の額に軽いキスを落としながら、アレックス王子が廊下を進む。とりあえず、他の王族の方達はまだ会場にいる。見られる心配がない事に安堵する。
 部屋のドアを開け放つと、まっすぐにバルコニーを目指す。ユーグが終わった後に、特別な花火をくれると言った。私達は、それを二人で楽しみにしていた。

「特別と言っていたな。城を破壊しないでくれると良いが」

 同じ様な心配を口にするから、思わず声を漏らして笑う。

「ユーグならやりかねません。アレックス殿下が――」

 言いかけた唇を唇が塞ぐ。愛し気な眼差しに焦れる様な熱を見つけて、胸が小さく音を立てる。

「アレックス、そう呼べ。気づくと君は、殿下という呼称にすぐ戻る」

 自分でも、よく分かっている。アレックスと呼びたいと思うけれど、アレックス殿下と呼び続けていたから直すのが難しい。嬉しいような恥ずかしい様なくすぐったさに負けて、いつもアレックスと呼べなくなってしまう。

「アレックス……殿下」

 もう一度、唇が唇を攫う。見つめる眼差しが、呼ぶまで続けるよと言うように熱っぽい弧を描く。
 触れて欲しいと思う数だけ、呼称をつけて呼んでみようか。そんな風に思ったら、自然とアレックス王子の唇に手を伸ばしていた。

「アレックス」

 ドンと大きな音が響いて、大輪の花が夜空に咲いた。本当は見なきゃいけないのに、長い長い口づけになる。吐息の数と花火の音を数える。五つ目の花火の音を聞いて、漸く互いの熱を手放す。空を見上げると、懐かしい花火が夜空を彩る。

「あの日の花火ですね、アレックス……」

 ユーグには珍しい大輪の簡素な花火。でも、この花火は大事な思い出に重なる。御前試合の後に、みんなで手を繋いで見上げたのと同じ型だ。
 花火が弾ける度に、思い出が巡る。巡る度に幸せだと思うと、胸が一杯になって涙が零れそうになる。

「何だあれは?」

 訝しむようにアレックスが呟いて、同じ方向に顔を向ける。
 城門の向うから、こちらに向かう馬車が見えた。速度はかなり早い。もう少し早い時間なら夜の舞踏会の遅刻者だと言える。だけど、今は舞踏会も終わっている。
 
 部屋をノックする音が響く。慌てて、抱えられた腕から降りて返事をする。
 誰か分かるから、私の頬は自然に緩む。反してアレックスは、微かに頬を引き攣らせる。

 ドアが開くと、私のよく知る従者服姿でジルが綺麗な一礼する。

「ノエル様に火急の報告を。フランチェルの貿易船が、海上で立ち往生しております。事業資材の到着が大幅に遅れる事について、協議されたいと大使がこちらに向かっています」

「資材の遅れだけですか?」

 私の問いかけに、ジルが即答する。

「フランチェルとしては協議で値を上げて、立ち往生の間の費用の補填をしたいようです」

 その言葉に私が頷くと、愉快そうな眼差しでジルが私を見つめる。

 ジルへの私の答えは、家族としての変わらない愛。
 ジルは今、黒近衛に戻っている。でも、戦前準備部隊にはいない。
 ノエル・アングラードの従者兼キャロル専属の黒の近衛という立場になる。
 だから、私とジルは今も、昔も、これからも、変わらずに一緒にいる。
 
「わかりました! 今、支度しますね。アレックス、今日は先にお休みになってください!私は、国政管理室のノエル・アングラードとして、少しだけ出て参ります!」

 マリーゼ特製の銀の縦ロールのつけ髪をベールごと外して、前よりは長いけどまだまだ短い髪を揺らす。

「一応、今日から本業は、私の妻で王太子妃なんだが?」

「分ってます。でも、私とアレックスの約束は、たくさん残ってます。変えると約束した政策もたくさんです。約束が全て叶ういつかまで、妻のキャロルは勿論、臣下のノエルとしても、貴方の隣に立ち続けます。だから――」

 眩し気に私を見て、アレックスが長い長い諦めの溜め息をつく。
 小さく舌を出してから笑って宣言する。

 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になりました。

「王太子妃は時々やめて、公爵子息になります」

 これが私の新しい日々。そして、続く長い未来の物語。

 < 幕切 >




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四章 七十五話 黒いリュウドラと大切な人 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります




 真っすぐに謁見室に向かって走ると、側に居た騎士が一人、また一人と謀反騎士を抑えるために離れていく。彼らが強いと分っていても、数の差が生む負担は大きい。
 度々、振り返る私の手をマクシム伯父様が掴む。

「信じなさい。彼らも近衛の名を持つ騎士だ」

 マクシム伯父様の言葉に返事をする様に、数人の黒の近衛が軽く手を上げた。

「まるで聞こえているみたいです」

 絶妙なタイミングに呟くと、マクシム伯父様が愉快そうに口の端を上げる。

「聞こえてるよ。音を拾うのは得意だからね。声を出さずに意志を伝える方法もあるよ」

「私も出来ますか?」

「それなりに訓練がいるし、うちだけの技術だからね。文官をやめて、黒の近衛になる? ノエルと一緒だったら、ジルも喜んで戻ってくる」

 片手で器用に剣を払いながら、揶揄うような口調でマクシム伯父様が尋ねる。思わず心が揺れそうになる。黒の近衛の仕事は、きっと文官と違う楽しさがある。それに一緒に働く人たちも良い人そうだ。

「楽しそうですが、生涯をかけた約束があるんです。今は、その約束を一番に思っていたいです」

「うん。約束は大事にしないとね」

「はい。でも、――」

 続けようとした言葉を、バルト伯爵の指示が止める。

「私が謁見室のドアを開く。術式を書いて援護しろ!」

 魔力を纏った指先で術式を書いて備えると、謁見室のドアに体を当てる大きな音が響く。その音にそれぞれの騎士が反応する。

「扉を死守するぞ!」

「扉を奪い返せ!」

 黒の近衛と謀反騎士。背後に異なる意志の雄たけびが聞こえて、交戦が激しくなる気配が膨らんだ。

 バルト伯爵が開いた扉の中に向けて、マクシム伯父様が魔法を放つ。すぐ目の前で魔法がぶつかって、強い風に体が持っていかれそうになった。堪えた足で床を蹴ると、扉の向うに滑り込む。

 背後でドアが音を立てて閉じる。激しい剣戟と、誰のものか分からない悲鳴が、扉の向こうに消える。

 誰もいない謁見室の中で、国王が立つべき場所にジルベール・ラヴェルは立っていた。その背後にジルの姿が見えた。

「ジルベール・ラヴェル! ベッケルは拘束した。諦めて、投降せよ!」

 私達を見るジルの顔に、いつもの優しい微笑みはない。それでも、姿を認めた私の胸は温かくなって、側へと駆けだしたくなる。
 思いを断ち切る様に、冷やりとしたジルベールの声がバルト伯爵の一喝に応える。

「何を諦めろと? 全てを失った私に、固執するものなど何一つない。何もないから、誰が何人失われても、自分が失われても構わない。何もかもを奪った世界を壊す。それが、私の全てへの復讐です」
 
「馬鹿が! 失ったのは、君が罪を犯したからだ。逆恨みもいい加減にしろ!」

 バルト伯爵が言葉と同時にジルベールに魔法を放つと、片手で術式を書いたジルが掻き消す。
 問うような視線を向けても、ジルの表情は変わらなかった。
 何を考えているか、何を思っているか、見えなくても信じる、そう自分に言い聞かせる。

 不快気な表情を浮かべてジルベールが口を開く。
 
「貴方は私の人生を欠片も知らない。何も知らぬくせに――」

「王国文書偽装による国財の横領。これが過去の罪で、一度は失うのに値する。そして、今が謀反罪。欠片だろうが、こうして糾弾するのに十分だろう?」

 挑発する言葉に、謁見室に沈黙が落ちる。僅かに前に歩み出ると、ジルベールが背筋が冷たくなるような眼差しで私達を見下ろす。

「……失うのに値する? 貧しい者、愛しい人を思う理想に、悪意はなかった。君たちは、あの頃の空気を知らない。前国王は戴冠したてで、国政は混乱していた。皺寄せを被るのは庶民で、黒街の様な手の届かない劣悪な場所がたくさんあった。学生は常に国政を憂いでいた」

 前国王の始まりは、近代史の授業で学んだ。争いの時代から安寧の時代への変わり目で、国政は混乱も大きかった。
 新時代は、不満と期待がせめぎ合う。嘆きを口にする者、理想を語る者、不満にいきり立つ者、未来を狙う者。若い学生も新しい時代への思いを、それぞれ抱いた筈だ。

「孤児院の援助や下町の水路の整備。伯爵の私から見れば端たる金で改善できる。何故やらない? 身分の壁も、決まりの壁も、曖昧で理不尽だ。声を上げても、明確な答えは返って来ない」

 その頃のジルベールと、同じ年齢の私には少しだけ分かる。下町を歩いていれば、同じ様に感じる事は幾つもあった。

 ルナの孤児院は清潔だけど、床は痛んで軋んだし、シーツには消えないシミがある。医師である神官様の棚の薬は、アングラードの医師の薬よりずっと効果が低い。
 僅かだと思っていた喜捨への感謝を思い出すと心が揺れる。

「目の前に助けたい現実があって、我が家が所蔵する絵一枚に満たない金額で救える。たった一枚の書類でそれは動かせて、作れる技術がある。君ならば、どうする?」

 私の心を見透かすように、ジルベールが真剣な眼差しで問いかける。

 ジルベールは、鏡に映した様に同じものを描く才がある。小さな政策は、統括する院の書状で実行ができてしまう。手続きの壁を飛び越えるのは、彼にとっては容易い。

「若い君なら、分かるだろう? ジルの主である君なら、想像できるだろう?」

 ジルによく似た眼差しが緩やかな弧を描く。そんな顔は見たくなかった。ジルと親子である事実を痛感してしまう。

 背後に立ったジルの冷たい表情に、過去を語った日のジルが重なる。
 今とは違う暗い色に瞳を染めて、奪っても庶民が相手なら許されると呟いた。手を握って、壊してしまえたら奪われずに済むと縋った。
 失ったものを埋めて、全てを返してあげたい。私はジルを襲った理不尽に憤った。

 でも、個人の想いと違う国の決断を、私はもう知っている。
 及ぶ力にも限りがあるから、より多くを救う事を考える。非情だと言われても、未来まで見て選択をする。儘ならないから、思いのままじゃなく最善を目指す。

 本当の正解は、どちらか分からない。ただ、ジルベールのやり方は間違っている。

「私にも理想があり、目の前の事を惜しいと思います。でも、私と貴方だけが思うわけじゃない。文官なら、一度は同じ様に悩んでる筈です。国政の中で戦う文官がいて、彼らが結果を出している。ならば、貫くだけは、正しいとは思いません」

 満足気に頷いてバルト伯爵が、私の頭に手を乗せる。荒々しく髪を撫でると、ジルベールに高潔な騎士の顔を向ける。

「自身の財布で試したら、罪を犯さず学べた筈だ。問題は大概、目の前の一つじゃない。二つ目をどうする? 次も次もと続く事を考えているか? 甘えた坊ちゃんのその場しのぎじゃない、本物のやり方で国はここまで辿り着いた! いいか? 国庫から掠め取れば、不正となり罪だ!」

 言い放ったバルト伯爵の眼差しには、一点の曇りも迷いもない。既に決定の一線に立つこの人は、ちゃんと現実の厳しさを知っている。
 苛立たし気にジルベールが爪を噛む。

「それでも、あの頃を間違っていたとは思わない。不正であっても、救った事に後悔はない。結果には弱い者の笑顔が確かにあった」

「それが、甘いと言うんだ。手の届く所しか見てない。使われた予算に、代償が必要と知っているか? 無計画な治水が、何を生むかを知っているか? そもそも、仲間すら君には見えていなかった。偽書類で得た金が、放蕩に使われた事実をどう言い訳する?」

 共に動いた仲間が犯した資金の着服。何時、誰によって、何に使われたかを、流れるようにバルト伯爵が上げていく。
 ジルベールが自嘲する笑みを浮かべて、ゆっくりと指先で術式を書く。

「仲間と呼びたくもない。彼らこそ本当の悪意だ。誰かの幸せを理由に、私を利用した。国財横領の罪で尋問されても、私は何一つ答えられなかったよ。拘束と取り調べは最も長く一年にも及び、投獄は免れたが全てを失ってしまった」

 ジルベールの魔力がゆらりと揺れる。嫌な感触が一瞬立ち上ると、怒りに燃える眼差しで魔法を放つ。対抗の為に放ったバルト伯爵の魔法が、弾けて飲まれる。

 打ち負けた事実に緊張が走る。同等の術式が負けるとしたら、魔力量に大きな差があると言う事だ。

 素早く横に飛び退いたバルト伯爵を援護するように、マクシム伯父様が魔法を放つ。相殺できたが、衝撃で目も開けていられない強い風が起きる。
 瞬きの後、マクシム伯父様を狙う別の魔法が見えた。

「駄目です! もう一つ――」

 言葉が届くより先に、風の塊がマクシム伯父様を正面から捉える。激しい音と共に壁に叩きつけられた体が、壁の一部と一緒に崩れ落ちていった。
 小さな瓦礫が体を叩いても、マクシム伯父様の指先は微動たりともしない。駆け寄ろうと足を踏み出す。

「ノエル! 後方に避けろ!!」

 慌てて大きく後ろに下がると、バルト伯爵の手が腕を強く引いた。勢いよく後ろに倒れ込んだ目の前で、床に魔法がぶつかって弾ける。

 こんなに一人で魔法を打ち続ける事は難しい。
 仰ぎ見ると、魔力を纏った片手をこちらに向けるジルの姿があった。

「ジル……! わかりません! 私と対峙するんですか?」

「ジルベール、これで一人片付きました。少しは信じる気になりましたか?」

 私の叫びを無視したジルが、ジルベールに問いかける。マクシム伯父様を倒したのは『一人目』と言ったジルで、それはジルベールの信頼を求めての事だった。
 肩に掛けた黒の近衛服が微かな風に揺れて、床についた手の甲を撫でる。その裾をぎゅっと握りしめる。

「ジル! ジルは私にとって大切な存在です。私は、忘れてません。信じてます。何があっても、貴方を許します!」

 人質交換の前にジルが言ってくれた言葉への返事を口にして、明るい緑の瞳をしっかりと見つめる。
 これから対峙するなら、これだけはジルに伝えておきたかった。迷う時には、きっと互いの支えになる。

 魔力が動いて、ジルベールが魔法を放つ。手前で弾けた威嚇の為の魔法が、私の前髪を揺らす。
 
「お姫様は狡いね。ジルが求める答えは違うのに、そうやって揺さぶる。お姫様が選ぶのは王子様と決まっている。例え選んだとしても、私と愛しい人の様に周囲が決して認めない」

「心から私は言っています! 戻ってきてください! ジルは今、疑われてるんです! 秘宝を染め変えれる、とベッケルが言ったから」

 秘宝という言葉にジルベールが反応を示した横で、ジルが琥珀色の髪を揺らして首を振る。

「私は戻りません。ここにおります」

 ジルに近づいたジルベールが、頬に触れて髪に触れる。琥珀の髪と緑の瞳、涼し気で綺麗な目元、並んだ二人はやはりよく似ていた。
 でも、微笑んでいるジルベールの瞳は冷たいままだ。その横顔を唇を噛みしてめて睨む。ジルなら大切な人に、そんな眼差しを向けない。

「全てを壊した後は、息子の君が好きにすると言い。全てを君にあげるよ。私には欲しい者がいない。だから、何一ついらない……」

 ゆっくりと立ち上がりながら、唇を更に噛み締める。
 全部をジルにあげると言うけど、何もかもを壊した後だ。息子とジルを呼んで、欲しいものはいないと言う。

 ジルベールにとってジルは何なのだろうか。狡さでなら、息子と呼ばないで欲しい。

「愛は残酷だ。景色を一変させる。失うと鮮やかな色彩は、暗い闇色になる。愛する人を失って、私の世界が一変した。ジルの世界は、拒み続けた君が変えた」

 キャロルとしての私を知らないバルト伯爵が、訝しむ視線を投げかける。

「何の事だ?」

「後で全てお答えします」

「後があればいいがな。ジルベールの魔力が上がってる。マクシムが倒れた今は、状況は厳しい」

 マクシム伯父様を名で呼ぶバルト伯爵には、僅かな焦りの色が見えた。撤退という選択肢が頭に浮かぶ。

「盾になって、ジルを抑えます。だから、もう少し時間を下さい」

「まだ、信じる気か? ……これが最後の機会だと思え」

 頷いてから、庇うように前に出ると、予想通りジルの指先から術式が消える。私の背後からジルベールに向かって、バルト伯爵が問いかける。

「秘宝はどうした?」

「ジルが染め変えています。どちらを染め変えているか、分かりますか?」

 ジルベールが綺麗な顎を撫でながら、残酷そうに微笑んで私とバルト伯爵を見る。
 攻撃の面で一対二になったのに、ジルベールにはまだ余裕が感じられた。バルト伯爵が背後で舌打ちする。ジルベールが答えの為の言葉を続ける。

「ジルが望んだのは、アレックス殿下の秘宝だよ」

 その言葉に、息を飲む。ジルベールの背後から、未熟なオリーブ色の瞳が私を見つめる。
 悲しい言葉の予感に、今すぐジルを止めたいと思った。ジルの唇から、私を傷つける言葉を零させるのが苦しい。想いが伝わる様に、ジルを真っ直ぐに見つめ返す。
 どんな言葉でも、私はジルを信じる。どんな言葉でも、本当の答えを私は探し出す。

「染め変えの為に、二つの秘宝を預かっております。殿下の秘宝を望んだ理由は、何か一つでも奪いたかったからでございます。殿下から私が奪えるものは、未来の証だけしかない。貴方は悲しんで、私をお怒りになりますか?」

 淡々とジルが理由を口にする。愉悦の色を口の端に浮かべてジルベールが、私とジルを比べるように見る。

「ジル、ごめなさい。お願いです。その秘宝を持って、こちらに戻ってきてください」

 懇願する様に語り掛けた言葉に、ジルは首を振ってはっきりと拒否を示した。

「ジルが染め変えを済ませた以上、ワンデリアの魔物の王の勝利は確実だ! 国王が入城すれば、ここで秘宝を使う。マールブランシュ王国は終わる!」

 ジルベールの笑い声が謁見室に響き渡る。
 ジルが戻れない、その理由をただひたすら考える。向き合うだけでは無理かもしれない。そう判断して、バルト伯爵に小さな声で囁く。
 
「……ジルベールを狙って下さい。書く速度が落ちますが、私は両手で術式が書けます。一つをジルベール、もう一つをジルに放ちます。多分、それで一つ答えが出ます」

 ジルは、私をまだ見つめている。だから、私も目を逸らさずに、ゆっくりと口を開く。

「もう側には来てくれないんですか? 私は貴方を狙いたくありません!」

「お側に行く事はありません。私はジルベールと共にいると決めました。貴方と対峙する事に躊躇いもありません。貴方が私を倒さないなら、私が貴方を倒す事になるかもしれませんよ」

 私とジルの間には制約があるし、ジルが私を倒す事は絶対にない。ジルが言葉にするなら、きっとこの判断に間違いはない。

 背後に回した指で下へとバルト伯爵に示してから、上級魔法の術式を書く。腰を落とした頭上で、ジルに向けて魔法が放たれる。
 背後で書いた術式を前に向けて、両手に最大出力で魔力を乗せる。一気に魔力が抜けた所為で、立ち上がろうとした膝が震えた。

 バルト伯爵の魔法が、ジルの魔法とぶつかって弾ける。追従する私の魔法がジルとジルベールの双方を襲う。私の魔法には対抗できないジルをジルベールが助ければ、自身に向かう魔法を防ぐ術式を書く時間はない。
 躊躇いもなくジルベールが、自分に向かう魔法を打ち消す。ジルに向かう魔法だけが残った。

 ジルを傷つける可能性に目を閉じてしまいそうになった瞬間、ジルベールの影が蠢く。
 影から身を起こした何かが、ジルベールの体を這って大きな口で魔法を飲み込む。

 人の大人程の黒く長い蛇のような体に、野獣のような口。真っ赤な単色の鋭い目。ルナが見せたものとは違う、禍々しい威圧感に思わず身を引く。
 ワンデリアで見たものより大きいが、物語よりは遥に小さい。黒いリュウドラが目の前にいた。

「魔物の王の欠片ですね?」

 問いかける声が震える。突然現れた黒いリュウドラの気配は、魔物の王を思い出させる。
 甦りそうになる恐怖に、歯の根が合わない程の震えがせり上がる。

 負けたくない。そう思うと、胸元にある小さな感触に縋る様に触れて『貴方』を思っていた。
 私の理想として『貴方』は、行く道をいつも照らしてくれる。これから『貴方』は本物の魔物の王と対峙する。必ず帰ってくると迷いなく言った、その強さと同じ強さが私も欲しい。
 奥歯をぐっと噛み締めて、ジルベールを真っ直ぐ睨む。

 ジルベールが黒いリュウドラに手を伸ばす。

「よく知っているね。これは魔物の王がくれた。私の魔力を補ってくれるそうだ」

 魔力が上昇しているのは、黒いリュウドラが魔力を補うせいなのだろう。
 そして、 黒いリュウドラが影に潜んでいたから、ジルは一歩も動けなかった。秘宝を二つ、ジルベールがジルに預けたのも、黒いリュウドラに監視させてたからだろう。
 納得がいく答えに小さく頷くと、ジルベールが愉快そうな眼差しで、ぞっとするような笑顔を見せる。
 
「君は悪意を知らない。ジルが自分の元に戻らないのは、脅された所為と考えている。動いたら殺す、と告げたのは確かだ。君を見て心が揺れた結果、秘宝を持ち逃げられては困るからね。私は人を信じる事はしない。誰かを信じると、碌な目に合わない。でも、――」

「私は大切な人を信じます!」

 ジルベールの暗い眼差しが、一段と闇を帯びた暗さを纏う。
 逸らしてはいけないし、負けてはいけない。拳を握りしめて、黒いリュウドラを従えるジルベールを見る。

「私は誰も信じない。釈放された後、愛しい人はこの国にいなかった。彼女の一座の興行を一度だけ偽装した。その所為で、国内の興行を禁じられてしまったんだ。世界中を探し回ったよ。フランチェルもイリタシスにも行った。旅でみる光景はどこも矛盾だらけで、私は闇を深めていった」

 愛しい人と呼ぶ時、ジルベールの顔は僅かに輝く。
 出会えていたら、彼の人生は変わっていただろうか。三人で暮らす事はあっただろうか。

「五年目に、一座を漸く見つけた。愛しい人はいなかったよ。私の子を産む為に、一座を降りたんだ。まだ愛してくれている希望に、私は信じる事を思い出した。更に八年探して一度だけ王都に戻る事にした。途中のミンゼアの港で、書類偽装に関わった男と再会してしまったんだよ……」

 黒いリュウドラが、陽炎の様に体を揺らす。ジルベールを唆すように、何度もその大きな口を開く。その度に、ジルベールの目は暗さが濃くなっていく気がした。

「何度も男は謝って、一緒にやり直そうと言った。ラヴェルは弟が継いで、戻る場所も必要もない。愛しい人が生んだ希望が、私に人をもう一度信じさせてしまった。失脚した男の事業を王都で精算して、地方都市に移って十年共に仕事をした。戻れるならね。信じるなと叫んで、私と男を出会いの時点で殺してやりたい」

 黒のリュウドラが咆哮を上げて、憎しみを深めた凄みのある笑顔をジルベールが浮かべる。

 一年の取り調べと合計十三年の旅の月日。魔物の王の言葉が頭にこだまする。

――全てを失って流転し、再び信じた者に騙され、愛する者を最後に殺した。

 ジルの過去とジルベールの時間が重なる瞬間を知って、絶望で目の前が真黒になりそうになる。

――十三歳のあの晩。

――強い風が吹いていました。

――祭りの魔法具の誤発動事故だと知らされた。

――広場に置かれた魔法具に、酔った貴族が火のお守りを投げ入れた。

――失脚した貴族が自暴自棄になって発動させた

 ジルの母を巻き込んだ王都の火災に、多分ジルベールは関わっている。
 事業の清算とは、都合の悪い何かを焼く事だったのではないか。家が込み入った下町には、木造の増築が随所に見られる。強い風が起きたら、火のお守りの小さな炎はあっという間に燃え広がる。

 ジルベールは、どこで気づいたのだろか。
 男と一緒に十年も共に仕事ができたと言うならば、その間は絶対に知らなかった筈だ。

 再び、裏切られる信頼。今度は以前より、最悪な形。
 胸の中に、暗い澱が溜まっていく。人の災厄の始まりであるジルベールよりも、彼を翻弄した名も知らない悪意に吐き気がする程の嫌悪を感じた。

「愛しい人を探しながら地方で始めた事業は、それなりの成果をあげた。でも、男はもっと金が欲しいと、書状の偽装を持ちかけてきた。過去を反省していない事にも、悪意で誰かを利用できる事にも、全てが最悪だという事にも、私は漸く気づいたんだ。記憶のない一年が過ぎて、私は地下渓谷で死にかけてた」

 踏み込まない短い言葉に、強く目を閉じる。
 男は決裂の腹いせに、ジルベールに火災の事を告げたのだろう。ジルベールの愛しい人がいた事も、その時に告げたのかも知れない。

 記憶のない一年という言葉の暗く壮絶な意味を考えながら、そっとジルを見る。
 ジルは気づいてしまっただろうか。気付かないで欲しいと思う。
 感情を浮かべない静かな表情で、ジルはジルベールをじっと見つめていた。

「私は二度と人を信じない。血が繋がるジルも信じる気はない。だが、ジルは私によく似ている。失う事への憎しみや怒りはそっくりだよ。黒いリュウドラを側におく事にジルは了承していた。ジルは君の元に返らない。君がどんなに信じても、現実は変わらない」

「嘘です! ジルは貴方が脅して……」

「ここに残るのはジルの意志だ」

 ジルベールが私に向かって魔法を放つ。対抗の術式を書くと、体が魔力の枯渇で僅かに揺れた。たたらを踏みそうになるのを、堪える為にしっかりと足に力を入れる。
 隙をついて、バルト伯爵がジルベールに魔法を放った。その魔法をジルの魔法が弾く。

「ジル……。ジルベールを助けるんですか?」

「側にいると申し上げました。私はこちらから動くつもりはありません。ジルベール、私も貴方を父と思えない。それでも、ここにいて良いのですね? 壊した世界を、下さいますね?」

 ジルの言葉に、ジルベールの哄笑が響く。耳を塞ぎたくなる哄笑には、聞き覚えがあった
 
「ああ。君にあげよう。君は愛しい人と私の子だ。それなりに特別だと思っているよ。だから……世界を壊わして始まりに戻そう!」

 ジルが初めて感情のある表情を見せた。消えそうなぐらい小さな悲しみが、微笑みに僅かに浮かぶ。胸がちりちりと焼ける様な痛みを覚える。

 バルト伯爵がジルベールに向かって叫ぶ。

「ふざけるな! 裏切りも別れも、誰の人生にも起こりうる。結局、どこまでも他人の所為にしているだけだ! 壊すというなら、我々騎士は必ず守る!」

 黒いリュウドラが口から真っ黒な靄を吐く。魔物の王が使う魔法と同じものだった。

「避けて下さい! ぶつかったら体の中が壊れます」

 魔法を放って、バルト伯爵が横に飛び退る。私もまた魔法を放ってから、反転する様に横に飛ぶ。
 二人分の魔法を飲み込んだ靄が、私達がいた場所に叩きつけられる。回避した体を起こすと、マクシム伯父様の近くに私は立っていた。互いに反対に避けた所為で、バルト伯爵との位置は大きく離れてしまう。

 ジルベールの雰囲気は、一変していた。憎悪の全てを詰め込んだ形相に悪寒が走る。

「お前たちに一体、何が分かる!! どんな罪でも、これ以上の罪は決してない。居場所も愛する人も消えた。何も残らない。私は私自身を呪う。そして、世界を呪う。たった一人で残されるなら、壊れてもいい!」

 叫びと共に黒いリュウドラが、靄をバルト伯爵に向けて更に吐き続ける。何とか躱し続けるバルト伯爵を見つめるジルベールの様子は、さっきまでとは違う。
 まるで魔物の王のように、自分の感情に任せて怒りを叩きつけていた。
  
「ジルベール!」

 私の声に反応して、黒いリュウドラが大きく揺れる。ジルベールが私に向けて魔法を放つと、影のようなリュウドラの姿がはっきりと薄くなった。
 ぐらりと体を揺らしたジルベールが、仄かに赤い色を帯びた緑色の目で私を睨む。
 
「何故だ? 聞いていない。足りない魔力を補うと言ってたのに……。いつも何かが、誰かが私の邪魔をする。どうして、私の気持ちには応えない? ああ、だから壊してしまいたいのか?」

 低い呻きの後で、ジルベールが痛みを堪えるように頭を押さえる。何かを彼が喚く度に、同調するような咆哮を黒いリュウドラが上げる。

「何が起きてるんだ?」

 誰に問うともなく、バルト伯爵が叫ぶ。

「魔物の王の欠片が、ジルベールの魔力を喰らって交わろうとしてるんです。魔力を失った場所に欠片が入ると、人になれると知人から聞きました。ジルベールの魔力が上がりだしたのも、その所為でしょう」

「交わると、どうなる?」

 精霊の子と交わったルナを思い出す。

「すみません! 先までは、よく分かりません! でも、ジルベール人格はきっと消えます。そして、魔物の王の欠片の力と意志がその身に残る筈です」

 同化の始まりですら、私とバルト伯爵二人の魔力が飲み込まれた。完全になった時には、太刀打ちは難しい。
 ジルベールの側に立っているジルを見る。明るい緑の瞳は、ずっと曇る事はなかった。

 信じたその瞳に小さく頷いて見せる。ジルがそこに立つ事を選んだ意味を信じる。これが最後の勝負だ。

「ジル! お願いだから、ジルベールの味方は止めて下さい!」

 涼し気な目元を緩めて、ジルの瞳が柔らかい弧を描く。

「それは無理です。もう、私は貴方の望みを叶える事はないでしょう」

 今日の私達を繋ぐ言葉は、何処かあべこべで嘘ばかり。
 精一杯の演技で言葉に絶望したかのように膝をつくと、マクシム伯父様の小指に触れる。意識を失っている人の小指が、私の小指を叩き返す。予想通りの結果に、胸を撫で下ろす。

「諦めろ、ノエル! もう、ジルはあちら側だ!」

 バルト伯爵の声に顔を上げる。気付いてくださいと言う思いを乗せて、まっすぐとバルト伯爵の目を見る。

「そうですね。ジルはあちら側です。諦めましょう。もう、私はジルを信じない」

 その言葉に驚いた様に、バルト伯爵が僅かに眉を上げる。
 黒いリュウドラの侵食に頭を抱えたジルベールが、天を仰いで哄笑を響かせる。

「ジル、失ったぞ! だから、お前に欲しかったものをやる。王になると良い。我と共に、バルトを倒して、国王を倒し、全てを壊せ。何もかもがなくなる程に壊れれば、世界はもう一度始まりからになる!」

 ジルベールの意識は、きっと殆ど消えている。口調は彼本来のものから、魔物の王の言葉に変わり始めていた。

「バルト伯爵! 同化の前に倒しましょう! これが、最期の勝負です。全力で私は魔物を狙います!」

 流石に情報戦略室長は感がいい。ジルではなくジルベールを私が狙う事に、意を唱えない。私とバルト伯爵が、それぞれ最高の術式を書く。

「勝てると思うな!」

 ジルベールの言葉と、消えかけた黒いリュウドラの咆哮が重なる。

 剣を抜いたバルト伯爵が、前へと駆けだしながら魔法を放つ。止める魔法をジルが放つのが、視界の端に映った。ジルベールに向かって、二つの術式を描きながら私も前へと駆けだす。
 最初の一つは絶対に負けてはいけない魔法。だから、真黒な固まりの闇に最大魔力を乗せる。

 リュウドラの体がジルベールの中に消えたら、どうなるか。私はルナから聞いて知ってる。ジルベールの力は強くなる。でも、体は一つ。魔物の王の欠片は、人になる。
 何故、魔物の王の欠片はそれを選ぶのか、小さな疑問が胸に落ちる。でも、考える余裕が今はない。
 振り払う様に頭を振ると、魔力が減った体が悲鳴を上げて、吹き出した冷汗が目に沁みた。

 黒いリュウドラとジルベール、どちらが放ったか分からない魔法を精一杯の私の魔法がぎりぎりで押しとどめる。掻き消えた私の闇の向うで、ジルベールの体に黒のリュウドラが完全に消えるのが見えた。

 ジルとバルト伯爵の魔法が再びぶつかり合う音を聞きながら。もう一つの魔法を闇の盾に変えて、更に前へと駆けだす。
 後方で吹き飛ぶ音が聞こえた。きっとバルト伯爵だろう。やっぱりバルト伯爵は、戦略を読むのが上手い。きっと、これで勝てる。

 ジルベールとの距離はもう半分を切った。二つ目の魔法は魔力が少ないから、私は絶対に勝てない。黒い大きな闇が、規模の違うジルベールの魔法に壊される気配を感じる。
 体を前傾させると、背中に魔力と靴の感触を感じた。唇の端を小さく上げて、蹴られる側より蹴る側をやってみたかったと笑う。

 私の背を踏み台にしたマクシム伯父様が、風の魔力に乗ってジルベールの魔法を飛び越える。蹴られた勢いに任せて私は大きく横に飛び退る。
 掠めた魔法が私の髪を僅かに散らして、横を過ぎた。受け身を取った私の視界に、魔法を超えたマクシム伯父様が更に前へと駆けるのが見える。

「マクシム伯父様! お願いです!」

「馬鹿め! 我の魔法の方が早い!」

 黒いリュウドラと同化したジルベールが、もう一度術式を描く。マクシム伯父様の剣が、届かない距離だと確信したジルベールがほくそ笑む。

 余裕が生む奢り、信じる事の違い。私達は必ず勝てる。
 ジルベールの背後で、別れの声を大切な人が告げる。

「さようなら、お別れです。貴方を家族と思わずに済んで良かった……」

 酷く悲し気なジルの声が告げた別れは、ジルベールに対してのものだった。ジルベールの背に至近距離で魔法が放たれる。視界の先でぐらりと揺れたジルベールの体を、辿り着いたマクシム伯父様の剣が切り上げる。

 終わった。そう思うのとほぼ同時に、城を包む空気が変わった。
 倒れたバルト伯爵の方に歩み寄ると、頭を振ってバルト伯爵が身を起こす。

「上々の結果だな。結界も解けたようだ」

「はい。国王陛下とヴァセラン侯爵なら、すぐに門を落として下さるでしょう。信じて、気づいて下さって、ありがとうございます」

 迷った末に、文官ではなく騎士としての礼をとって、バルト伯爵に感謝を伝える。
 ジルを信じないと言った時点で、バルト伯爵は私の言動に疑いを持ってくれた。それは、私がジルを信じる事を諦めないと思ってくれていた証だ。
 
「いつ、筋書きを書いた? 」

「信じていたのは最初からですが、意味や理由は手探りでした。最期の筋書きが見えだしたのは、ジルベールの交る気配があって、ジルが戻らないと宣言した辺りです。マクシム伯父様をジルが本気で倒す事はないから、二人が何かを狙ってると思ったら見えてきました」

「根拠のない信用は勘か?」

「生意気を言わせて頂きますね。勘ではなく、大切な人を信じるのは『想い』です。あと、……バルト伯爵の焦りは、ジルベールを欺くのに大変効果がありました!お好きですよね?」

 私の意趣返しの言葉に、バルト伯爵が晴れやかな笑顔を浮かべる。その笑顔に手を伸ばすと、手をしっかり握って、バルト伯爵が立ち上がる。

「敵を騙すには味方から……私の得手だ。情報戦略室に来い。もっと上手く育ててやろう」

 掴まれた手に、逃がさないというように強い力が籠る。バルト伯爵の部下は、やっぱり全力でご遠慮したい。

「国政管理室を希望しているので……お断りを――」

「なら、あの方と戦略を戦わせて、君を取り合うまでだ」

 困ったようにしか笑えない。父上とバルト伯爵に挟まれるのは、一波乱の未来しか浮かばなかった。
 立ち上がったバルト伯爵と一緒に、ジルとマクシム伯父様の元に駆け寄る。

 倒れ伏したジルベールから、人の血は流れていなかった。魔物と同じ様に傷口から靄が立ち上って、徐々に体全体に広がりを見せている。
 ジルベールは既に人じゃないのだろう。でも、彼は人だったから、繋がりは残る。

「ジル……」

 声を掛けると、いつも通りの穏やかな微笑みをジルが浮かべる。

「勝ちましたのに、悲しい顔をなさらないで下さい」

 父を知らないとジルは言った。でも、ジルベールを愛し続けた母親が、小さいジルの側にはいた。母の口から『父』と言う名で語られたジルベールの思い出がきっとある。

「……ジルは感情を隠すのが上手いです。でも、時々感情が零れます。対峙している時、一回だけ悲しそうに笑いました」

 無表情を貫いたジルが一度だけ感情を見せたのは、ジルベールが魔物の王と同じ哄笑を上げた時だった。欠片に体を奪われかけているのが、ジルにも分かった。そして、それをジルは悲しいと思った。
 何ができるだろうか。そう考える私の顔を見つめて、ジルが小さく息を吐く。 

「ノエル様は、いつも私の感情に触れてしまう。少しだけ別れの時間をお許しください」

 私に従者の礼を取ってから、ジルベールの側にジルが膝を着く。
 戸惑いがジルの横顔に浮かぶ。迷う様にジルの手がジルベールの指先に微かに触れる。
 泣きそうな瞳なのに安堵した表情で、もう戻らない人にジルが語り掛ける。

「一度だけ、家族として呼びます。『父さん』、母は蝶を見て愛し気に微笑んでいた。私の名は貴方から貰ったと胸を張ってたんです。貴方に私が残す想いはありません。でも、母から聞いた貴方は、きっと私に残り続ける。思い出の貴方は嫌いじゃなかったんです……」

 ジルベールの体が、一瞬で全て靄となって掻き消えた。
 元々のジルベールはラヴェル家の出身だから、ドニの様な朗らかさや優しさのある魅力的な人だったのかもしれない。ジルベールは最後に本来の自分を取り戻したから、一瞬で靄となって消えた。私はそう信じると、消えた靄に誓った。
 
 カイから預かった黒の近衛服をジルの肩にかけると、大切そうに制服を一撫でしてジルが袖を通す。マクシム伯父様が自分を仰ぎ見るジルに、家族の様な微笑みを向ける

「おかえり、ジル。黒の近衛として、ジルベール側へ行く判断をよく選んでくれた」

「信じて頂き、ありがとうございました。この戦いの間、黒の近衛に戻らせて頂きます」

 立ち上がって騎士の立礼をジルがとる。黒の近衛服は、ジルにとてもよく似合っている。でも、見慣れた従者服の方がやっぱり私は好きだった。

「マクシム。君はいつ気づいた?」

 バルト伯爵が問いかけると、マクシム伯父様が肩を竦める。

「前隊長の父からジルの事は聞いてましたし、部下もジルを信じておりました。なので、大丈夫という予感は始めからありました。確信したのは、倒れた振りをする前に我々だけが使う合図をジルが送った時ですね」

 幾つかの手順でマクシム伯父様が顔のパーツに触れていく。これは死んだふり、またはやられた振りを現わすサインらしい。
 全く気付かなかったのが、悔しくて僅かに唇を尖らせる。私と同様にバルト伯爵もやや不満そうな表情を浮かべる。

「狡いな。君には手段があったのか。私だけが蚊帳の外だった訳だな。まあ、いい。ジル、二つの秘宝は持っているな?」

「はい。ここにございます」

 バルト伯爵に向かってジルが手を開く。中には変わらない色をした二つの秘宝があった。

「染め変えはしていないようだな」

「はい。信用を得るための嘘でした」

 ジルが染めてない自信はあった。幸せを願っているとカイが教えてくれた。だから、ジルは私のアレックス王子の隣に立つという夢を、失わせることは絶対にしないと思えた。

 たくさんの愛を注いでいる、と言ったアレックス王子の言葉を思い出す。
 こうして一方的に信じる事も、私のジルに対する甘えなのだろうか。

 ジルの手から秘宝を受け取ると、バルト伯爵が私に差し出す。

「殿下たちは魔物の少ないベッケル領から渓谷へ降りる。シュレッサー伯爵の嫡男に運搬役として控えて貰っているが、アングラード領の方が近い。行けるか?」

「ジル、行けますか?」

 私の問いかけに、ジルがはっきりと頷くのを確認して秘宝を受け取る。

「私とマクシムは表の援護に行く。戦局が収まりったら声をかけるから、ここで回復しておけ」

 二人が謁見室から出ていく。ドアが開いた時、黒の近衛服の他に、白の近衛服が見えた。程なく謀反騎士の制圧は、終わるだろう。

 謁見室の壁に凭れるように座って、隣に並んだジルを窺うようにそっと見上げる。私の視線に気付くと、小さく笑ってジルが腕を広げる。その腕に迷わず飛び込む。
 肩口からは、いつもと同じお日様の香りがした。

「ジル、おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

 しっかりと抱き止める腕の感触を、小さい頃から知っている。一番側に居てくれた人だから、小さい頃は、抱っこと何度もねだった。抱えられたまま寝てしまった事も、何度あっただろう。泣く時のはここじゃないと、泣いてはいけない気がした。
 小さい頃と同じ様に膝に横抱き抱えて、ジルが明るい緑の瞳で私の顔を覗き込む。

「信じて頂き、ありがとうございました。私を呼ぶ言葉の一つ一つが、とても嬉しかったです」

 肩口に頭を乗せると、鼻先をこするように首を振る。どうしても、私はジルの腕の中では小さな女の子に返ってしまう。

「ジルベールの所に行ってしまった後は、たくさん泣きました。信じてとジルは言ってたのに、私は気づいてなかったんです。だから、ごめんなさい」

 慰めるように私の背中を、ジルの手が優しく叩く。揺り籠に揺られているような居心地に、体から力が抜けていく。

「ジルベールの所に行くか、迷っておりました。お役に立てる事は分かっていましたが、親子である事を知られたくないかったんです。事情をご存知のモーリス様も、望まないなら行かなくて良いと言って下さってた。だから、はっきりお話する事ができませんでした。ご心配をおかけし、申し訳ありません」

「ジルは悪くないです。私、ジルに貰ったものを全然返せていません」

 黒街の側でジルを見かけた後、何度も様子がおかしいって気づいていた。モーリスおじい様に相談したり、色々悩んでいたのはあの頃だったのだろう。
 ジルの特別な愛情に気付きかけていた私は、踏み込むのが怖くなって及び腰になってしまった。

 宥めるように背中を叩き続けながら、ジルが僅かに首を傾げる。私の髪にジルの頬の感触が触れる。
   
「私も貴方にたくさんの宝物を頂いております。……対峙に必要だったとはいえ、酷い言葉を貴方に申し上げました。私と同じ言葉で始めに意志を示して下さったから、何とか嘘を突き通せました。私は貴方に嫌われる事が、何よりも一番怖いんです」

 抱く腕に少しだけ力が籠る。肩口から僅かに頭をずらして体を沈めると、ジルの胸の鼓動が聞こえた。アレックス王子と同じ、早鐘を打つ音だった。何度も抱きしめられていたのに、こんなふうに意識したのは初めてになる。
 揺り籠の様な腕の中から、見上げたジルの涼し気な目元にそっと触れる。

「ジルは瞳に感情が出るんです。前を向いている時は、明るい緑です。今日はずっとこの色だから、ジルはジルだって信じれた。今も綺麗な緑です……」

 綺麗な明るいオリーブ色の瞳には、愛し気な熱があった。私はこの思いから、逃げてはいけない。自分の迷いに、ジルを置き去りにしてはいけない。

「ジル、大好きです。ありがとう。とっても大好き」

 私の背を叩いていたジルの手が止まる。冷たい指が私の眦をそっと撫でて、戸惑うように瞳を覗く。

 素敵な人だと思う。華やかさとは違う落ち着いた気品がジルにはある。私の掛け替えのない大切な人で、誰かが代わりになる事はない。
 でも、ジルの腕の中で、私の鼓動は胸を焦がすような早鐘を打つ事はない。とてもゆったりと安らいで、緩やかな落ち着いた音を立てる。
 
「アレックス王子が、ジルが誰よりも私に愛を注ぐ人だと教えてくれました。私もそう思います。誰よりも、私にジルは愛をくれます」

 薄い唇を僅かに上げて困ったようにジルが微かに笑う。

「比べた事はございませんが、誰より貴方を大切に思っております。殿下は何故そのような事をおっしゃったのですか?」

「アレックス王子は、ジルには敵わないかもと言いました。何もなくても、私の大切な人であるジルが羨ましいとも言いました」

 私の言葉に、感慨深げにジルが一瞬目を閉じた。開いた眼差しは、眩し気に遥か遠くを一度見つめる。

「光栄です。そして、殿下らしい言葉だと思います」

 私とジルとアレックス王子。同じぐらい大切でも、愛していると伝えて良いのは一人だけ。一度ゆっくり瞬いて、ジルを真っ直ぐ見つめる。

「一人の男の人として、ジルを見ろと言われたんです。どれだけ大事で、必要かをしっかりと考えて、戦いの後に答えを出せと言われました」

 ジルの細い指が私の前髪を優しく直す。触れる冷たい指先は心地よい。心地よい沈黙に身を任せるように、口を噤む。
 答えを出してしまったら、結果がきっと待っている。きっともう、同じではいられないかもしれない。

「私を一人の男としてみるなら、腕に飛び込んで良かったのですか? 貴方を傷つけた言葉に、私の本心は確かにございました」

 艶やかに笑って、ジルが揶揄うように私の頬に片手を伸ばす。その手に自分の手を重ねる。
 小さな私の手を引いた大きな手。この手に引かれて、歩いた時間は誰よりも長い。だから、ジルを本当に愛しいと思う。ずっと側に居たいと思う。底なしに失ったら辛い。

「嘘じゃないんです。でも、狡い事なのかもしれないです。私はジルに、ずっと側に居て欲しい。ジルがいないと、息が出来ないぐらい苦しいです。でも……」

 見上げた眼差しが重なって、私の瞳の中に何かを見つけたようにジルが目を細める。
 穏やかに息を吐くと、ジルの指の背が頬を優しくそっと撫でる。ジルは誰よりも私を知っている。だから、切なげに細められた瞳は、私の答えも知っている。

 ジルを失った時とアレックス王子を失った時。同じぐらい苦しかった。
 でも、ぼろぼろになるまで泣いて顔を上げた時、心にいたのはいつもアレックス王子だった。

 アレックス王子だけが、私にくれるものがある。それは絶望でも、私の心を空っぽにしない何か。何かはいつでも心を満たして、私に前を向かせる力をくれた。それを光や希望と以前、私は呼んだ。
 でも、今は愛と呼ぶのだと気付いてしまった。

「同じぐらいなのに、一つだけ違うんです。どうしてか分からないけど、前――」

 ジルの冷たい指先が、私の唇を叩いて言葉を止める。ジルが深い深いため息を、諦めたように微笑みながらつく。

「ずっとお側にいて、貴方の事は何でも存じ上げております。私はやはり殿下が羨ましい。何もかもを持っているからではなく、彼にしかないものがございます」

 切なげな眼差しが潤んだような艶を帯びて、傷つけてしまったと不安になる。
 どうしていいか分からなくなって、黒の近衛服の胸元を気づかないうちに握りしめていた。
 私の心が、離れて行かないでと、またジルに甘える。

「そんな顔をなさらないで下さい。大丈夫です。騎士として、愛する人の為に剣を持ちたいんです。だから、私への返事も戦いの後に下さい。貴方は笑顔が一番愛しいです。どうか、笑ってください」

 ゆっくりとジルが私の手を引いて立ち上がると、出会った時と同じ様に跪く。琥珀の髪を揺らして騎士の礼を取ると、未熟な果実の色の瞳で私を仰ぎ見る。 

「貴方の為に、戦います」

 指先に口づけるジルの手首には、始まりの花の腕輪ではなく、私の髪の腕輪が今も結ばれている。

「ご武運を心からお祈りします」
 
 ジルの為に精一杯の笑顔を浮かべると、宝物を見つけたようにジルが顔を綻ばせる。

 ジルを見ていると『ありがとう』と『大好き』で胸が一杯になる。『家族として』と言い続けた言葉は、偽りじゃない。身分なんて関係なく、ずっと前からジルは私の『一番大切な家族』だった。

 立ち上がると優しい眼差しに、珍しく挑むような強い色をジルが浮かべる。顎にそっと指を這わせると、にっこりと私の知らない笑顔をみせる。

「一度、一人の男として足掻く事をお許し下さい。愛しております。叶うなら私を選んで下さい」

 私の唇に一瞬だけ、ジルが唇を重ねる。アレックス王子とは違う冷たい唇の感触を、私の唇が初めて知る。
 驚いて見上げたジルはいつも通りの顔で、これが最初で最後と告げていた。
 
 ジルの瞳の熱も、冷たい唇の温度も、私はきっと忘れない。

 
 黒の近衛のマスクをジルが付け終えると謁見室の扉を開ける。
 黒の近衛と白の近衛が、乱戦を制して謀反騎士を捕縛しているところだった。
 
「おっ! ご帰還だね!」

 気楽な調子で、カイがジルに手をひらひらと振る。

「ただいま。制服をありがとうございます」

「これ逃したら、俺らは一生着れないからねー」

 にやりとカイが笑うと、廊下の向うからこちらに向かって駆ける足音が聞こえた。

「国王陛下が中央扉を通過されました!」

 その声を合図に黒の近衛が、近衛にそれぞれの役割を引き継いでいく。
 去ろうとする黒の近衛の背を見つめる、ここで彼らが戦った事、その功績は何処にも残らない。切なくて、惜しいという気持ちが過ぎる。

「誇れ! この功績が我ら近衛の名で讃えられても、成したのは黒の近衛だ。我ら近衛は決して誇らない。お前たちの功績だと忘れぬ。声を上げる事は出来なくても、胸で誇れ!」

 年嵩の近衛が叫んで剣を掲げると、黒の近衛が撤退の足を止めた。答えるように半身に剣を抜くと、一斉に鞘に納める返礼の音を響かせた。


 深夜も更けて夜明けが近づこうとする時刻。
 マールブランシュ王国の王都では、国王陛下が凱陣を果した。その圧倒的な勝利は公式発表よりも早く、様子見の貴族の口から広がって行く事になる。


 そして、ほぼ同時刻。ヴァイツ軍撤退の報がもたらされた。父上達は無事にヴァイツ本隊に壊滅的な打撃を与える事に成功したらしい。
 調停で用意したギスランの物理的な罠と、新たに撒いた内乱の罠。マールブランシュ王国にとっては、戦局に立つ事も、姿を明かす事もない、記録に残らない勝利。だけど、ヴァイツにとっては、見えない悪魔に仕掛けられた敗戦として、記録に残る事になった。


 静かな早朝の街を、ジルと私の馬が駆け抜ける。
 この季節には珍しい暗雲に空が覆われているせいで、太陽の姿はなく町は夜の様に暗い。 

「ジル。では、ワンデリアまで秘宝をお任せします」

 馬の速度を一段下げて、ジルに声をかける。黒の近衛の上着を脱いで腰に巻いたジルが、馬上で私を心配そうに振り返る。

「畏まりました。王都は安定の著しがございますが、ルナ様の警護は十分お気をつけ下さい」

「はい。十分、気を付けます。……アレックス殿下に秘宝の使用は少し待つように伝えて下さい。私は王になるところが見たいんです」

 向きを変えるために馬を止める。走り去る馬上で、何かを感じ取ったジルが慌てて振り返る。

「ジル、行ってください! 私は私にしか出来ない事をします。ジルも、皆も、自分の役割を果たしてください! 全ての後に、約束を果しましょう!」

 私の言葉に前を向き直ったジルが、まっすぐとアングラード侯爵邸に向かって速度を上げた。手綱を引いて馬の向きを変える。

 始まりのバルコニーから、星に一つ願った。
 皆が無事でありますように。

 そして、星にもう一つ願った。
 ジルが戻ってきますように。

 最後だけは、星に誓った。
 他の誰かが王になる未来は、私には描けない。
 貴方のいる未来に、王である貴方の隣に私は立つ。




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四章 七十四話 黒の近衛と結界解除 キャロル17歳 ★ 悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります


 王立図書館のバルコニーから見る王都は、暗い夜に包まれている。
 夜間の活動が禁じられた花街には明かりがなく、深夜の今は民家の明かりも大半が消えていた。夜の闇が濃いから、見上げた空の星はいつもより美しい。
 小さな星に、今日と明日の願いを込める。見上げる誰かが何かを願うなら、きっと多くの星に願いが籠っている。

「――ます」

 そっと手を握りしめて、城の方角に向き直る。地上の闇の中でも、幾つもの小さな点が城を囲むように蠢いていた。

 全て兵が持つ明かりで、一番多いのは正門の前。国王陛下が率いる主力部隊で、副官をヴァセラン侯爵が務める。
 半数以下だけど、次に明かりが多いのは裏門。近衛副団長が率いて、王妃であるブリジット様が帯同している。
 ここまで準備が進んだのなら、包囲はもうすぐ終わるだろう。

 私が参加を許された三つ目の部隊を見回す。
 ここにいるのは精鋭の近衛が十名とバルト伯爵。そして、黒に染めた近衛服に身を包むアニエス様だ。金の髪を纏めた横顔はカミュ様に似ているのに、凛々しい眼差しはアレックス王子にも似ている。
 私の視線に気づいて、アニエス様が手招く。近づくと、隣に立っていたバルト伯爵が顔をしかめる。

「作戦も役割も分かっているな? 今夜は女の様に泣く真似はするな」

 呼んだアニエス様より先に、バルト伯爵が皮肉を口にする。今後の為にも、失態はもう重ねられない。

「はい。あのような事は、二度とありません。役割も理解してます」

 城の結界は、ベッケルによって書き換えられてしまっている。反魔法と物理強化の結界以外も仕掛けられていて、正面からの攻城戦は容易くない。

 私達はアニエス様の案内で、王族の隠し通路を通り城に潜入する。そして、中央棟の地下で、結界を解除するのが任務だ。

 バルト伯爵の半信半疑の眼差しを、決意を込めて見つめ返す。

「私はジルの為に呼ばれましたから、泣いている暇はありません」

「……誓約がある君はジルに対しての盾だ。間違えるな、我らの為にだ」 

「私達の為に。そして、ジルの為に」

 重ねて返すと、バルト伯爵が苦虫を噛み潰した様な顔でぼやく。

「だから、あの方の子息は嫌だった」

 私がいれば、誓約のあるジルは攻撃できない。でも、ここにいる近衛は本物の強者で、ジルに負けない。許可の理由は、盾の他にも何かある筈だ。

「ご許可に感謝しています。盾になりますが、私にしか出来ない事もやります」

 礼を言ってから、バルト伯爵をじっと見つめる。アニエス様が小さく笑い声を上げる。

「切り札は、自分にしか出来ない事を信じているようよ。バルト伯爵は、この子をどう使うのかしら?」

「皆様の意見に、私は同行の一点のみ譲歩しただけです。主案として採用した訳ではありません」

 唇を引き結んだバルト伯爵から聞くのは諦めて、アニエス様に向き直る。
 笑みを浮かべた美しい人は、前国王様の娘で元王女様。この国の女性では、現王妃が現れるまで最上位に位置していた。

「お伺いしたい事があります。アニエス様は、――」
 
 一斉に城の周囲が明るくなって、言葉を止める。野営用の閃光魔法弾が照らす中、裏門から何かが飛び出した。
 遠すぎて見づらいが、はためくのは翼のように見える。結界を避けて上へと飛び、城の真上を大きく旋回してみせる。

「伝達魔法? 鳥だとしても、あんなに大きなものは初めて見ます」

 私の驚きにアニエス様が目を細める。

「ここからだと分かりにくいけれど、人と同じぐらい大きな黒いハルシアよ。王族でも、私とブリジットだけが使用を許されているわ。貴方にも、いつか必ず教えてあげたい」

 引き裂く様なハルシアの啼き声が、遠く離れたここまで届く。
 それを合図にアニエス様が手を打って、近衛たちに高貴で自信に満ちた笑顔を向ける。

「今宵の王の凱陣は、圧倒的な勝利でなくてはなりません。全ては、私達に掛かっていると心得なさい!」

 一部の貴族は、既に城を奪われた陛下への不満を口にしているらしい。今夜は奪い返すだけでなく、力を知らしめる必要がある。

「マールブランシュ王家の為に!」

 バルト伯爵の静かな声と共に、近衛騎士達が礼で応える。声を上げないその瞳には、初日に受けた仲間の雪辱に燃える意志があった。


 王立図書館の中に入って、暗い廊下を奥へと進んで行く。閉架図書の管理区域から、厳重に管理された書庫を越える。禁書が管理された地下室にカギを開けて入ると、古い本と埃の匂いが強くした。
 一番奥の書棚の前で、僅かな隙間にアニエス様が腕を差し入れる。

「王家の光よ。我が前に道を開け!」

 書棚が音を立てて横に動き出し、物の数秒で一つの扉が現れる。近衛が扉を開くと、地下道がまっすぐ城の方角に伸びていた。
 魔力を使わないランプの灯を頼りに足を踏み入れる。壁越しに水が流れる音がするから、この通路は城の用水路に並走して作られているのだろう。

「秘密の通路に、あまり驚いていないのね?」

 アニエス様が唇を尖らせて、私の腕をとる。城に慣れていなかった頃に思いを馳せると、自然と口元が綻ぶ。

「公になったばかりの頃に、アレックス殿下の命で探したんです。ヴァセラン侯爵子息とカミュ様も一緒でした。城中を一生懸命に探しましたが、出入り口は見つられませんでした」

「アレックスらしい命令ね。カミュも楽しそうにしていましたか?」

 緊張する私とクロードをアレックス王子が大丈夫と言いながら引っ張って、その後ろをカミュ様は溜息を付きながらも愉快そうな顔で付いて来てくれてた。

「はい。探索とか、カミュ様はお好きですよね。開かない扉に終わりかけると、何処からか鍵を見つけてきてくれるんです。だから、私とクロードは、一日中探す事になってしまいました」

 少し怒った顔で鍵を差し出すカミュ様の、これっきりは何回あっただろうか。私とクロードが驚いて褒める度に、少し怒った顔は一瞬得意げになっていた。

「鍵を持ち出すなんて悪い子よ。でも、カミュにもそんな一面があるのね。他には、どんな悪戯をしたのかしら?」

 嬉しそうな笑顔でねだられて、こんな時だけどカミュ様との思い出を語る。アニエス様が楽し気に笑うと、思い出の数だけ私の緊張は解けていった。
 悪戯話に笑いすぎた所為なのか、アニエス様が目じりを指先でそっと拭う。

「ノエル。私は素直な貴方がとても気に入ってるの。引っ張る様なアレックスの真っ直ぐさとは違う。貴方の寄り添う真っ直ぐさが愛しい。だから、蜂蜜色と夜明けの色ならどちらがお好き?」

「お褒め頂き光栄です。でも、その、それは何ですか?」

 真意の分からない問いかけに、思わずたじろぐ。助けを求めようにも、周囲に知り合いと呼べる人は誰もいない。

「答えなさい。これは、一刻を争う大事な事なの」

「では、どちらかと言えばですが、蜂蜜色にします……」
 
 悪戯を仕掛ける眼差しが眉を寄せる。もっと考えて答えるべきだったかと、思わず慌てる。

「あ、でも、どちらかと言えばなので、夜明け色でも構いません」

「そうね。蜂蜜は、ブリジットが選んだ方よ。私は夜明けの色を推しているわ。貴方の銀の髪には、夜明け色の方が映える。蜂蜜色はやめて、夜明け色にしましょうね」

 何をという問いかけを飲み込む。問い詰めたら、より混沌としてしまう予感がした。返事がない事を肯定的に解釈したのか、綻ぶようにアニエス様が微笑む。

「全ての後が楽しみよ……。さあ、今度は知りたい事の話を致しましょう。八歳のプレゼントは、モーリスがいなくなっても楽しめたかしら?」

 私が名乗ると、ほぼ全ての人が父の名を口にする。アニエス様とブリジット様は、最初にモーリスおじい様の名前を口にした。
 王家の女性と親しくなる機会は、国王陛下と親しくなるよりも少ない。父上だって陛下と話はしても、アニエス様と王妃様とは殆ど話さない。
 倉庫番と見下される戦前準備部隊長のモーリスおじい様は、今も親し気にアニエス様に名を呼ばれた。

「はい。護衛にジルがいましたし、……とても賑やかな一日で、遊ぶ事に夢中になっていました」

「ジルは、この縁が愛しくて騎士を辞めてしまった。優秀な子だったから、残念に思ったのを覚えているわ。この日は、腕白な闖入者もあったでしょう?」

 離宮の主であるアニエス様は、秘密の場所の提供者でもある。
 キャロルの事だけでなく、何でも知っていそうな口ぶりに思わず苦笑する。この方は、どこまで知っているのだろうか。

「あの日が、今の始まりになりました。アニエス様が申請を焼却して下さったから、私はノエルとしてアレックス殿下にお会いできたんです。申請が残っていたら、今はなかったでしょう」

 きょとんとした表情を浮かべて、アニエス様が笑いだす。大きな笑い声に近衛騎士が振り向くと、気にするなと慌てて手で払う。

「あの子は、嘘をついたのね! 帰ったら悋気を揶揄わないといけないわ。焼却したのは、カミュなの。唯一だったアレックスを取られるのが、嫌だったのでしょう」

 小さな嘘に思わず天を仰ぐ。秘宝を返しに行く道で、焼却されて記録がないと言ったのはカミュ様だった。大人しそうに見えて、カミュ様は怒ると激しい。特にあの頃は、アレックス王子への執着はとても強かった。

「あの頃のカミュ様なら納得です」
 
 カミュ様にとって、あの頃の私は暫定三位の友達だった。大事な友達の一人になれたのは、いつからだろうか。
 束の間、思い出に浸った私にアニエス様が目を細める。優しさに溢れた笑顔は女神様みたいに美しくて、思わず見惚れる。

「心を閉じてからのあの子には、アレックスしかいなかった。母として守る事は出来たけれど、外に向かわせる事は出来なかったの。でも、ある時から貴方達の名を口にする様になった。本当に嬉しかったわ。貴方達と出会えたから、誰かと繋がれる今のあの子がある」

 私に手を伸ばして、アニエス様が愛し気に頭をそっと撫でる。

「カミュの大切な友の一人に、私は心から感謝しています。私は貴方にお礼がしたい」

 私が息を吐くより先に、前を歩いていたバルト伯爵が肩を落とすのが見えた。

「バルト伯爵は、秘密を扱うのが上手よ。不必要な情報は、一切与えない。それが彼のやり方で、素晴らしい軍師だと信じているわ。でも、隠し事に気づきかけてる貴方には、秘密は不要だと思うの? ね、バルト伯爵」

「勝手になさって下さい。敵を欺く時は、身内から徹底的に欺くべきです。だが、今回は勘のいい小僧と綻びを広げるご婦人がいるので、ここで終いに致します」

 諦めたようなバルト伯爵の回答に、周囲の近衛からも小さく笑い声が漏れる。きっと私以外は全員、秘密が何かを把握しているのだろう。
 情報戦略室長の投げやりな許可を得て、アニエス様が私に問いかける。  

「この人数をどう思いますか?」

「少ないと思います」

 人質交換で見かけた謀反騎士の力量は高くなかった。正面からぶつかれば、こちらが負ける事は決してない。それでも、アニエス様が一緒なら数名は護衛について動けない。隠密行動とはいえ、敵の数に対して行動できる近衛が少なすぎる。

「少ないのは、少なくても足りるからよ。ここからは口外禁止のお話です。……ずっと昔、この国には季節が変わる度に新しい恋をしてしまう王がいた。妻である王妃は何を思ったかしら?」

「悲しくて、怒るか。呆れた……と思います」

「外れね。しなくてはいけない事があると考えたの。恋する女性としてではなく、王妃として考えて。では、次の問題よ。この王が生む問題点は何だと思いますか?」

 その問いかけに、じっと考えを巡らす。しなくてはいけない事ならば、王妃にしかできない事だろう。きっと王の私的な部分に近い筈だ。

「一つは、今代に悪評が立つ事でしょうか。それから……その、一夜を共にするのであれば、ご落胤の問題が次代に生まれると思います」

 浮気の定義に口ごもると、悪戯する様に頬をアニエス様がそっと撫でる。

「及第点ね。お手付きと吹聴する女性、落胤を宿した娘を次代の母と囲う貴族が現れた。王の恋は相手が多すぎて、嘘か真かもわからない。更に王が私的な事と言い張るから、臣下も強く諫言できずにいた。この件で強硬措置がとれるのは自分だけだと、王妃は自分に忠実な騎士を身分に関わらず集めた」

 王妃の集めた騎士達は、国王の浮気対処に動き出す。過去の浮気相手には清算を、今の浮気相手には管理を、未来の浮気相手には回避を。次々と打った手は、初めは上手くいっていた。でも、王が気づいて状況が変わる。

 身勝手な王は、王妃に浮気相手を知られる事を嫌い。徹底した管理にも不満を持った。対抗する様に、近衛や忠臣を使って浮気を王妃から隠し始める。

「この王様、最低ですね……」

 顔をしかめて不満を漏らすと、我が意を得たりと言うようにアニエス様が頷く。

「私もそう思うわ。王家の歴史書でも刹那的だと批判されてる」

 王の臣下による浮気隠しと、王妃の手下による浮気調査。喜劇の様な追いかけっこに聞こえるが、実際は国の最高峰による高度な諜報戦になった。
 実戦が人と組織を急成長させる。王妃の騎士たちは、秘密を暴く新たな技術を生み出して、戦いの技量も上げていく。

「技術は何処にいったのでしょう? 僅かしか騎士団には伝わってないように見えます。何故ですか?」

 音を拾う技術も、速度を高める技術も騎士団にある。でも、襲撃の偽装や別人に成りすます技術はない。

「王妃は考えました。夫みたいにダメな王が再び現れたら、同じ様に王妃が何とかしなければいけない! 技術の半分だけを騎士団に渡し、残りの技術と組織は秘密裏に女性王族に引き継ぎました」

 英断だったと思う。この国の女性は、当主だけじゃなく、騎士にも、文官にもなれない。王族と言えども、女性が力を持つ事は殆どない。

 浮気者の王は滅多にないれど、何かの事情で立ち行かない王は歴史の中で何度もあった。力を持たない歴代の王妃は、見つめるしか出来ない事に歯がゆさを感じていただろう。
 運命に流されて待つより、自分の手で状況を切り開きたいと思ってたはずだ。
 
「女性でも一番上にいれば、守りたいもの以上に守らなくてはいけないものがあります。王妃が残した彼らの存在は、女性王族の力となりました。平時なら知るのは、近衛団長だけです。国王に知らせるかも、時代の王妃の判断に任されています」

「今の主はブリジット様ですか?」

「ええ。でも、元主の私も時折お借りします。大事な日に、私に呼び出された者をご存知でしょう?」

 秘密の場所で、仕事の為に姿を消したモーリスおじい様。特別な日の舞踏会の為に用意された異国の馬車と御者。
 資材探しで遠くへばかり行く理由も、護衛騎士が知らない襲撃偽装ができる理由も、騎士らしさを纏わない理由も全てがここに繋がっていく。

「今代の国王は、存在を知っています。正規の諜報より早くて正確だから、ブリジットに頼んでよく動かしているようね。王に頼られる程に優秀でも、彼らは決して表に出ない。黒の近衛服に、生涯袖を通さない事もあります」

 通路の先に突き当たりが見えた。先導した近衛が道を開けると、アニエス様が壁に手を当てる。 

「『黒の近衛』と彼らを私達は呼びます。今宵もきっと役に立つでしょう。でも、誰と分かっても、口外は禁じます。彼らは女性王族の唯一の力です。私達も必ず次代に引き継がなくてはなりません!」

 全員が了承の一礼するのを見て、城に繋がる最後の扉をアニエス様が開く。目の前に上へと向かう階段が現れた。
 繋がる先がどこか、今ならはっきりと私は答えられる。
 階段に一歩足を踏み出す私の耳に、アニエス様が赤い唇を近づける。

「年境の直前にモーリスが連絡をしてきたの。『黒の近衛』を城に置いて欲しいと娘婿が頼んできたそうよ」
 
 調印式から姿を消していた父上の話に、背中で諦めたようなバルト伯爵の溜め息が聞こえた。

「アニエス様とは、秘密を共有したくありません。しかし、話しても良い潮時ではあります。君の父君はヴァイツにいる。調印時にヴァイツの装備が交戦を想定している事に気付いて、王都に帰る振りをしてヴァイツ国内に戻った」

 一緒に行方が分からなくなていたのは、事前の調停に同行していたギスランさんと第二騎士団の人たちだ。副室長さんが前に教えてくれた事を思い出す。調停で父上がヴァイツの王都に滞在している間、ギスランさんは国境沿いで進軍に備えた罠を張っていた。

 使わなかったその罠を、父上たちは今回使うつもりなのだろう。
 大丈夫と確信した私を、バルト伯爵が鋭い眼差しで見る。

「そうやって気づくから、君には情報を与えなかった。敵地にいる者達を守る為には、決して悟られぬように隠す事が重要だ。一応、心配させた事は謝ろう」

 ちっとも申し訳なさそうじゃない顔で、バルト伯爵が謝罪する。唇を噛んで不安だった日を数える。
 怒る事は出来ない。悔しいけれど、判断は正しい。非情だけど、上手い。
 
「良い判断をして頂き、有難うございました」

「納得するか……可愛げがない。年境の城の警備を、何度も直せとあの方は言っていた。理由を問えば、勘だと言う。兵の不足から私は保留にしていた。業を煮やして、モーリス殿に頼み『黒の近衛』を滑り込ませてきた。あの勘の鋭さは、一種の才能だよ。私はまだ当分、勝てない気がする。だから……」

 言葉を止めたバルト伯爵が、何か言いたげに私を見つめる。中々口を開かない様子に、アニエス様が吹き出す。

「貴方が憧れるレオナールは、その気にさせるのも上手いと聞いているわ。真似てみたらいかが?」

 アニエス様の言葉に、バルト伯爵が私を睨む。どう見ても、人を鼓舞するより威圧するような眼差しだ。でも、怯えない。瞳の奥には、少しだけ優しさが見える。

「不確定要素を引き寄せるのも、戦いでは重要だ。ジルの行動は、我々の命令ではない。彼の意志だ。その意図は彼自身にしか分からない」

「大丈夫です! ジルは、絶対に大丈夫なんです」

 初めて柔らかい笑みを、バルト伯爵が一瞬見せる。

「それは、勘か? あの方も含めて、色々な者が君の同行を勧めてきた。確信のない勘だと、皆が口を揃える。熟慮した上で、ジルを不確定要素とみなす。敵か味方か。上手く使えるか使えないか。君が引き寄せろ。分かるな?」

「分かります!」

 私を追いこしてバルト伯爵が階段を登りきる。ドアを開いた私たちが出たのは、雑多なものが並ぶ倉庫の中だった。
 黒い近衛服に仮面で顔を隠した男が、アニエス様の前に進み出て礼をする。

「ファビオから伝言を受け取り、お待ち申し上げておりました」

 仮面の下の糸の様な目にも、低い声にも聞き覚えがある。マクシム伯父様と呼びそうになって、慌てて口を押える。

「私達の『黒の近衛』は、無事ですか? 城内の様子は?」

「お心遣い、有難うございます。『黒の近衛』は全員無事です。既にご指示があった襲撃偽装の準備は終えております」

 アニエス様が頷くと、バルト伯爵が『黒の近衛』姿の伯父様と作戦の確認を始める。
 捕らわれたふりをしていた『黒の近衛』に伝言を運んだのは、カミュ様と誓約を結んだファビオだった。

 人質交換がなければ、今日の作戦を伝えるのは難しかった。誓約がなければ、ファビオには伝言を任せられなかった。カミュ様の優しい強さがなければ、国政管理室は決断を許さなかった。
 運命を分ける不確定要素がここにも一つあって、それは引き寄せられた。

 幸先の良い流れを感じながら耳を傾けていると、ドアがそっと開いて『黒の近衛』が一人飛び込んでくる。

「隊長、失策です。あっ! アニエス様! バルト伯爵! 主ちゃん! もう来たの?」

 マスクで顔が分かりにくいけど、軽い声と話し方には覚えがある。年境の行事の日に、ジルにじゃれてきたカイだ。アニエス様の前で、慌てながらもきちんと騎士の礼をカイがとる。

「何があった?」

 マクシム伯父様に尋ねられると、マスクの下でカイの眼差しが真剣なものに変わる。

「鍵の持ち出しは失敗です。ファビオが捕まりました。現在、ベッケルがファビオを軟禁中です。場所は、一階の控えの間に誘導しておきました」

 失敗の言葉にバルト伯爵が忌々し気に舌打ちをする。

「ファビオに頼んだのか? 君たちが動いた方が、良かったのではないか?」

「鍵はベッケルが肌身離さず持っており、息子のファビオを動かすのが一番穏便な方法でした。彼はカミュ様への忠誠心が強く、上手く地下室までお持ち頂けそうだったのですが。期待通りにはいきいませんね」
 
 失敗と言ったが、マクシム伯父様に焦りはない。カイも誘導したと言っていたから、きっと次がまだ残されている。
 
「次善策はどうなっている?」

「元の計画通りです。ベッケルだけならば、荒事ですが直接奪うのが早いでしょう」

「ジルベールの所在は?」

 矢継ぎ早の質問に、マクシム伯父様が淀みなく答えていく。

「三階の謁見の間におります。数日前からベッケルとジルベールの間に、不穏な気配があります。協力の為に直ぐに動き出す事は、ありえません」

 マクシム伯父様の発言を裏付ける為に、カイが手をあげる。

「はい! 報告します! 控室の会話を聞いて来ましたが、ベッケルは秘宝が取られるとか、立場が悪くなると零してました。息子の裏切りをジルベールには、まだ伝えていないようです」

「――という事で。当初の予定通りに、やられた事をやり返したいと思います」

 目を閉じる様に晴れやかに笑って、マクシム伯父様がバルト伯爵に次善策を伝える。適切な訂正をバルト伯爵が入れて、細かい所を確実に潰していく。
 瞬く間に計画が整うと、二人がアニエス様に一礼する。

「ここに残るよりも、ご同行頂く方が安全です。身をお任せ頂けますか?」

 表情を引き締めて、アニエス様が頷く。

「結構です。私は貴方達の判断を尊重いたします」

 アニエス様の許可を得たマクシム伯父様が、カイと一緒に動き出す。部屋を飛び出す寸前に、カイが足を止めて踵を返した。
 倉庫の荷物から、黒い近衛服の上着を一枚取り出して腰に巻きつける。
 誰の為の上着か気づいて、『黒の近衛』はジルが『うち』と呼んだ場所だと思いだす。
 信じているのも、取り返したいと思っているのも、私だけじゃない。
 
「お気をつけて! また、後ほどですね!」
 
 声を掛けるとマクシム伯父様が軽く手を上げて、カイが嬉しそうに拳を突き上げた。


 二人が出ていった倉庫の中で、物音に耳を澄まして始まりを待つ。耳の奥で鼓動が早くなっていくのが聞こえる。

 焦ったらいけない。心に言い聞かせると、傷つくなと言った眼差しを思い出す。
 愛しい人の為に、私に出来る事がある。だから、少しの傷は許して下さいと心の中で呟く。
 約束を守って欲しいから、貴方に会いたいと願うから、ここは絶対に乗り越える。

 襲撃を思わせる小さな爆発音が、遠くで連続して響いた。体中を血が巡っていく。

「ノエル! 魔法は使用せずに、魔力の動きを見ろ」

「はい!」

 感覚を研ぎ澄ましていくと、夜の闇に溶けた魔力が直ぐに反応を教える。

「二小隊、三十……四十五名が東の文官棟、三小隊が四十、五十名が西の騎士棟に向かって動きました。今……中庭を通過してます」

 バルト伯爵が顎を上げて、私の発言の確認を近衛に促す。少しだけ近づいた気がしたけれど、バルト伯爵からの信頼はまだ低い。

「間違いありません。謀反者には、連携も思慮もないようです。音に引かれる様に動いてます。あぁ、二小隊が更に動く気配が増えました。二十を数えて外に出るのが、頃合いかと思います」

 バルト伯爵のつま先が、小さく床を叩く。コツコツと響く音を、心の中で数えて待つ。  
 二十の音と共にドアを開いて、研究棟の中庭に一斉に駆け出す。半分の騎士がアニエス様を守るように取り囲み、残った騎士が研究棟の庭にいる僅かな謀反騎士に向かって剣を振う。
 叫ぶ暇も与えない、素早い身のこなしと剣速に思わず息を飲む。私が知る剣技とは、段違いの腕前だった。
 
 謀反騎士を一瞬で近衛が倒して、人影があっという間になくなる。難なく研究棟を駆け抜けていく。

 中央の中庭は、流石に同じようにはいかない。広い敷地には、謀反騎士の歩哨がまだ残っていた。敷地が広いから人数もやや多く、距離も遠い。全員を一瞬で倒す事は流石にできない。
 アニエス様を守らない近衛が一斉に駆けだす。魔法を書く謀反者を確認したバルト伯爵が声をあげる。

「魔法の使用を解禁する! 片付けながら中央扉に向かえ!」

 私も術式を書いて魔力を乗せる。文官棟に救援を求めた歩哨を一人倒して、腰から二本の剣を抜き放つ。切りかかってきた謀反騎士の一撃を受け止めて、空いた剣を横に払う。

「一撃で倒せ! 時間の無駄だ!」

「すみませんでした!!」

 バルト伯爵の怒声に叫び返して、二人目に剣を振う。
 情報戦略室にだけはいかない。絶対に騎士にはならない。バルト伯爵は怖いし、仕方ないと分かっていても実戦で人に剣を振うのは苦しい。
 
 剣戟と魔法の交錯する音が、幾つも周囲で響く。振るう剣はいつもよりもずっと重く、僅かな時間は長く感じる。それでも、手の平から大切なものを零さない為には、手を止める事は許されない。

 私が一人倒す間に、近衛は二人以上倒していた。近衛が別格に強いのもあるが、謀反者の技量が低い。増援を呼ばれる事もなく、中央棟の正面扉に滑り込む。

 中に入ると同時に、黒の近衛が大きな中央扉を閉じて鍵を掛けた。外から体当たりをする謀反騎士の怒号が聞こえて、魔法が放たれる。
 土魔法で補強した扉に、近衛が結界魔法を重ねがけると、外からの音は響かなくなった。

 中央棟の中心に繋がる全ての扉で、黒の近衛によって同じ事が行われている。
 私達の計画は、ジルベールとベッケルが城を奪った方法と同じだ。襲撃偽装で兵力を分散して、中央棟の中心に繋がる通路を閉鎖して締め出す。
 これは短期戦で、任務は結界の解除。鍵を奪えば、地下の結界室だけを私達は守ればいい。結界さえ解除できれば、国王陛下とヴァセラン侯爵の本隊が速やかに城門を落とし入城する。そうなれば、謀反騎士の一掃は容易い。

 中央階段から足音が聞こえ始めて、黒の近衛が段下で剣を抜く。
 私にできる事を探して魔力に意識を向ける。

「バルト伯爵、上階から降りてくる騎士の数は三十程です。あとは、謁見室前で待機する様子があります」

「よし。狭い場所の守りだ。近衛をあと一人残せば十分だろう。鍵を奪うまで、ノエルは魔力に注視しろ。上階が更に大きく動くなら人を増やす」

 厳しい人に、よしと言われると素直に嬉しい。
 階上の足止めが整うと、私達は一階を控室に向かって駆けだす。締め出しが功を奏して、廊下で謀反騎士に会う事はなかった。
 閉鎖に回っていた黒の近衛が次々と合流してくる。控室の前では、既に警備の騎士を倒し終えたマクシム伯父様とカイが待っていた。

「中の様子はどうだ?」

「異変には気付いているようですが、自ら動く事はしていません」

 その言葉に頷いて、扉の両脇に近衛が添うように身を寄せる。バルト伯爵がベッケルがいる扉をじっと見つめて、マクシム伯父様に問いかける。

「謀反騎士の練度が低い。これで勝てると思う程、ベッケルもジルベールも無能だったか?」

 謀反騎士の能力が低いのは、私も感じてた。改革反旗派と呼ばれる貴族とその私兵が多いが、魔法も使えないお金で雇われた庶民も含まれているように見える。
 これでは、結界で城に籠る事は出来ても、外に打って出る事は不可能だろう。

「打って出るつもりがないか、何か秘策があるのでしょうか?」

「……秘策か。判断材料が少なすぎるな。今は仕方あるまい。陛下にご入城戴く為にも、結界の解除を優先する。ドアを開けろ!」

 近衛が扉を押すと同時に身を隠す。部屋の中から、扉が開くのを見計らった魔法が放たれる。
 魔法が壁に当たって弾けると同時に、二撃目に備えた術式を纏いながら近衛が中に飛び込む。二撃目の魔法が相殺される音と共に、バルト伯爵に続いて私も中に飛び込む。

「ベッケル・ナタン! 王家に弓を引いた罪を贖って貰おう」

 室内には怒りに燃える目をしたベッケルと、その背後で椅子に縛られたファビオがいた。

「黙れ! 罪とは何だ? 長く続く公爵家が能力で淘汰されようとするのに、王家には特別な血で優遇される者がいる。不公平と感じ、正そうとする事は誤りなのか? 王家とは血か? 容姿か?」

 アニエス様の肩がピクリと動く。ベッケルが糾弾したのは、シーナに似た容姿で特別視されるカミュ様の事だ。
 前に出ようとしたアニエス様を、バルト伯爵が押しとどめる。顔を歪めたベッケルが尚も叫ぶ。

「我が家も、落胤の姫を遠き日にお預かりした。黒目黒髪の者なら、ベッケルの歴史にもいた。ファビオにも、僅かに黒い瞳の名残がある。なのに……王位継承者どころか、公爵家からの格落ちが取り正される! 何故だ? 息子にもその機会があって許されるはずだ!」

 怒りに任せたベッケルが魔法を放つと、近衛の二人が対抗する様に魔法を放つ。一つの魔法がベッケルの魔法を相殺して、その影から別の魔法がベッケルを襲う。
 届くと思った瞬間、ベッケルとファビオを囲む様に小さな結界が現れて弾く。

「地に結界を描いたか!」

 魔法で書く結界よりも、城の結界の様に地に書く結界の方が、発動に時間は掛かるが強い。強固な結界の中で、ベッケルが自分の主張を一気加勢にまくしたてる。

「アングラードやヴァセラン、シュレッサー、バルト、ボルロー。格下貴族に昇格の声が上がる度に、我が家には存在を疑う眼差しが向けられる。長年の功績は、灰塵の如く散るものなのか? 私の次で、息子の代で、ベッケルが凋落するなど認めぬ!」

 ベッケルの主張が、実力主義への不満と、ファビオが王になる正統性を行き来する。その中で見えるのは、公爵家の功績を忘れた国への怒りと、息子への強い思い。そして、凋落への恐怖だった。

 ベッケルが一際大きな魔法を放つと、近衛の一人を押しのけたアニエス様が対抗する魔法を書く。
 弾けた風圧を受けて金の髪が一筋落ちても、たじろぐことなくベッケルを睨む。

「私は、特別な血を深く調べたから知っています。ベッケル公爵家に嫁いだ姫には、特別な血はありません。貴方の主張する優位性が、ファビオにないんです」

「嘘をつくな! 自分だけが特別な子の母として、良い思いをする気か?」

「黙りなさい! 良い思いをする? 特別であると言う事は、特別である責を負います! あの子はずっと期待に潰されそうだった。特別に生んでしまった事を、母の私は心の中で何度も謝ってきた。今を笑って生きるあの子の強さを、私は誇ります。だから、楽をした言われるのは、許せません!」

 アニエス様が叩きつける様な魔法を、ベッケルに向って放つ。その魔法はベッケルの結界によって、弾けて消える。

 その背後で、拘束されたファビオが悲し気にベッケルの背を見つめていた。謀反者となった父親と忠誠を誓った主。ファビオの心は今、どちらを思っているのだろうか。

「父上、――」

 ファビオの呼びかけを無視して、ベッケルがアニエス様に答えを返す。

「特別な者の人生がどんなものかを、凡人の私は存じない。だが、特別な者側である貴方は、凡人の人生を知らない。容姿で地位を得られる事が、凡人から見ればどれ程の幸運か。貴方は心得ているか?」

 その答えに目を閉じる。相容れないと宣言するような回答だった。
 影にある努力も、苦悩も見ない人がいる。手にしている結果だけを、羨んで妬む人がいる。

「父上! 私はカミュ様をに忠誠を誓いました。本当に素晴らしい方なんです。上に立てる優しさがあります。特別に相応しい強さもある。私は臣下として、父上の発言を許しません!」

 椅子に拘束された体で、ファビオが首を深く折って叫ぶ。上げた顔を歪めると、懇願する様にベッケルの背に何度も頭を下げる。

「私が不甲斐ないから、父上を追い込んだ。中央が無理なら、良き領主であろうとしました。分っているんです。ベッケル公爵家の跡取りとしては、良き領主では駄目なんですよね?」

「お前が駄目なのではない! お前を認めないこの国が間違えている。その目があれば、お前の価値を――」

 ファビオに背を向けたままベッケルが叫ぶ。怒りに身を震わせてアニエス様がベッケルの言葉を遮る。

「もう一度、言います。ベッケル公爵家に特別な血はありません。記録が残されてます。宰相の貴方なら、望めば調べる事もできた。確認しなかったのは、答えが分かっていたからなのでしょう!」

 否定されたベッケルが、ファビオに背を向けたまま強く唇を噛む。僅かに血をにじませた唇を開いて、怒りを込めた雄叫びを上げる。

「そんなもの知らぬ! 父であるから、ファビオの本当の良さが分かる。記録を見る必要も、確認する必要もない。私は、この子が正当に評価される為に、ベッケル公爵家が公爵家であり続ける為に、私は……私は……国を……」

 ベッケルの体が激しく震えて、怒りと悲しみに表情を目まぐるしく変えていく。明らかに言葉と感情がおかしくなっていくベッケルに、アニエス様が引くことなく向き合う。

「信じるのは親として、間違えじゃない。私だって息子を信じてる。でも、真っ直ぐ向き合わなければ意味がない!」

 ぴしゃりと言い放たれた言葉に、ベッケルが震える指で新たな術式を書き始める。大規模な上級魔法の術式だと気づいて、近衛たちがアニエス様を庇うように前に出て対抗の為の術式を書く。

 引き絞るような緊張の中で、ファビオが拘束された体を必死で捩る。椅子が激しく揺れる音が、私たちの間の空気を揺らす。

「父上! お止め下さい! どうか、もう一度だけ私を見て下さい。公爵家の子息として不足でも、目を逸らさずに見て下さい。謀反者の息子になった私を見て下さる方もいるのに、父である貴方が私から目を逸らすのですか?」

 悲痛なファビオの叫びに、最期の一文字を書く前にベッケルが手を止めた。強張った表情でゆっくりと振り返る。

「ファ……ビオ……、私はお前を見てる。だから、お前をもっと認……」

 戸惑うように自分を見つめたベッケルに向かって、ファビオが幼い子供の様に大きく首を振る。

「父上は知っていますか? 領主の仕事には、私は自信があります。領民は良く慕ってくれていますし、今年の計画は最上の評価を頂きました。心から仕えたい方に出会え、忠誠を捧げる事を許して頂けました。私の人生は満ち足りています。父上が思っているよりも、私は自分にずっと満足しているんです」

「だが、ベッケル公爵家は……」

 震える声で答えを求めるベッケルに、自信に満ちた眼差しをファビオが向ける。
 強い人だと思った。自分を見つめて、今を幸せだと言い切れる。それは簡単なことじゃない。

「望まれる公爵子息になれなかった事は、心からお詫びします。時代の流れに埋もれる責を負う覚悟はできています。汚点は戒めにして次代に繋ぎ、ベッケルを凋落したまま終わらせる事はしません。だから……私とベッケル公爵家の未来を奪わないで下さい」

 私達に背を向けたままのベッケルが、その瞬間どんな表情をしたかは分からない。
 一斉に放たれた近衛の魔法が、不安定になったベッケルの結界を破って壊れる音が響いた。黒の近衛が一瞬でベッケルを床にねじ伏せる。

 最後は何の声も上げず、抵抗もなく、謀反者ベッケル・ナタンは拘束された。

 親ではない子の私には、その瞬間のベッケルの心中は分からない。術式の一文字を思いとどまらせたのは、後悔なのか、優しさなのか。嘆きなのか、愛なのか。
 分からないけれど、拘束される瞬間にファビオはベッケルに向かって微笑みかけた。だから、悲しい結末じゃなく、希望を残した選択だと信じたい。


 拘束されたベッケルは、目を閉じたまま壁にもたれて、何かが抜け落ちた様に脱力していた。
 バルト伯爵が結界室のカギを探ると、渇いた唇から微かな声が落ちる。

「……悪い夢を見ていた心地がする」

 不快そうに鼻をならして、バルト伯爵が冷たい眼差しでベッケルを見下ろす。

「何を今更、言っている」

「許しを請う訳ではない。事実を言葉にしているだけだ。ジルベールと出会ってからあった、煽るような焦燥が消えた。今の清々しさが何時まで持つかわからぬからこそ、状態を伝えておくべきだろう。魔物の王に魅入られた者は、確かに心の一部が狂う」

 目を開いたベッケルは、これまでよりも更に穏やかな表情をしていた。憑き物が落ちたと表現しても良い様子に、全員が困惑したように眉を顰める。

「結界の解除術式は、ファビオの血で書くと宜しい。血を引く子の魔力は良く馴染む。解除が簡単になるであろう。謁見室からジルベールは動いておるかね?」

「……ノエル、動きはどうだ?」

 命じられてから、魔力の感覚はずっと切らずにいた。大切な人の魔力は謁見室にずっとある。その近く感じる冷たい魔力がジルベールだろう。

「謁見室にあるジルベールの魔力は動いていません」

「ならば、注意なされよ。ジルベールは、未来を微塵も考えていない。ただ、壊れる事だけを望んでいる。ファビオでは果せませんでしたが、あの男の息子には秘宝が僅かに反応をしめした。数日前は怪我もあり染め直しに至らなかったが、回復した今なら可能かもしれませぬ」

 バルト伯爵が、ベッケルの胸倉を掴んで引き寄せる。

「まだ、戯言を弄するか? 彼の母親は、庶民であった筈だ?」

「秘宝が反応するのを、確かに見たのだ。染め変えができれば、城や王都の街中でも躊躇なくジルベールは秘宝を使わせるだろう」

 苛立たし気にベッケルを突き放すと、バルト伯爵が一人の黒の近衛に監視を命じる。結界室に向かいながら、アニエス様とマクシム伯父と私を残して、人払いする様に他の騎士に先を行かせる。

「マク……いや、黒の近衛団長。それに、ノエル。ジルの事で、知る事があるか?」

 私とマクシム伯父様が、互いに顔を見合わせる。可能性を知らせる事と、口を閉ざして変わらない事。ジルは、どちらを望むのだろうか。

「否定しないのは、心当たりがあるからなのか?」

 迷う私の代わりに、マクシム伯父様が口を開く。

「ジルの魔力は記録上は上位でしたが、実際はトップクラス以上ありました。庶民と思えぬ結果に、教師が記録を下げた可能性が高い。長い歴史の中に、落胤は確かに存在します。母親は旅の踊り子ですが、現実を直視すれば落胤の末の可能性はあるでしょう」

 マクシム伯父様の言葉に、場にそぐわないうっとりとした溜め息をアニエス様が漏らす。落とされそうな爆弾の気配にバルト伯爵が頬を引き攣らせる。

「今度は何ですか、アニエス様?」

「歴史の可能性に酔ってしまいそう。旅芸人は、遥昔に滅亡したファルシャーン王族の末裔という話しがあるわね。最後のファルシャーン王の妃は、マールブランシュ王国の落胤の姫だったわ」

 秘宝の染め変えはないという前提が崩れて、私達を取り囲む状況が一変する。
 可能性の爆弾に、バルト伯爵が髪を掻きむしって思考に沈む。
 
「染め変えが秘策なら、私であれば陛下の入城を待つ。王都の騎士に壊滅的な打撃を与え、国王を失わせる事ができるからだ。撤退しても、今度は打って出てくるだろう。街中で交戦すれば、庶民にも被害が出る。……賭けになるが、ジルベールとジルの拘束にこのまま向かう!」

「ジルは絶対に大丈夫です」

 またかと言うように、冷い眼差しをバルト伯爵が私に向ける。負けじとしっかり見つめ返す。

「絶対に、絶対にジルは大丈夫です。命に代えても保証できます。何かあっても、私がジルを取り戻します」

「君の命の補償などいらん!」

 怒鳴りつけられても譲れない。人質交換の前に、ジルは私の幸せを必ず守ると言ってくれた。忘れないで、信じて欲しいと願ってくれた。
 最悪の状況の今だからこそ、私は私が知っているジルを信じる。

 身を固くした私の腕を、柔らかい手がそっと掴む。私を引き寄せたアニエス様が、頬を掴んで瞳をじっと覗き込む。

「綺麗な瞳……。少しも迷っていないのね。本当に染め変えられてしまったら、使えるのはジルだけよ。分っているわね?」

 その言葉にしっかりと頷くと、アニエス様がバルト伯爵に振り返る。

「バルト伯爵、ジルは不確定要素なのでしょう? 秘宝が一つになれば、ワンデリアが厳しくなる。ならば、私もノエルを信じてみたい」

「……」

 頬を引き攣らせるバルト伯爵の前に、マクシム伯父様が私を庇う様に出る。

「陛下が入場する前に取り返します。黒の近衛が参ります。万が一、秘宝が使われた場合でも、我々が出来る限り引き受けます」

 大きくバルト伯爵が床を蹴る音が響いて、先を歩んでいた騎士たちが振り返る。

「黒の近衛は、秘宝奪還の為に私と共に謁見室に向かえ! 近衛はアニエス様を守って、結界の解除だ! 解除でき次第、上階の援護に来い。アニエス様は結界が解けたら、国王陛下に連絡をお願いします」

 感謝を込めて見つめると、踵を返した背でバルト伯爵が私に命じる。

「ノエル! 使わせる事は許さぬ。使わせる前に倒すか、引き寄せろ!」

「はい、お約束します!」

 近衛がファビオとアニエス様を連れて、結界のある地下に向かう。黒の近衛とバルト伯爵と私は、中央階段を上階へ真っ直ぐと進む。

 足止めする謀反騎士の力は強くないが、上階に進む程にその数は増えていく。両手に構えた剣を振って、次々と駆けおりてくる騎士と剣を合わせる。

 周囲で戦う黒近衛達は、柔軟な剣筋で狭い場所でも難なく剣を振るう。その剣筋は、ジルが戦場で見せたものと同じだった。
 
 切りかかった謀反騎士の剣を受け止めると、その背を黒の近衛であるカイが一閃する。

「主ちゃん! 疲れてない? あのさ、ありがとうね。君の側でのジルは、どんなだった?」

 庇うように私を黒の騎士達の内に押しやりながら、カイが少し照れたような顔で尋ねる。

「優しいです。面倒見が良くて、いつも笑ってて、何でもできて。側に居てくれたら、一番安心できる大切な人でした」

 階段を登り切って廊下に駆けだす。謁見室に向かう角を駆けてくる騎士に向かって、話しながら器用にカイが術式を書く。

「そっか。初めて会った時のジルは、何もかも信じないって顔してた。きついし、暗いし、自堕落的で……。あっ、本人には内緒ね」

 文句のような言葉なのに、仮面の下の眼差しはとても優しい。小さく私は微笑み返す。

 カイが出会った頃が、ジルにとっては一番苦しい時期だった。悲しい事や悔しい事に潰されて、憎しみに溺れそうになりながら生きてた。

「皆さんと一緒の『うち』であるここを、居心地がいい居場所だったとジルは言っていました」

「へぇー、居心地良かったんだ。ちゃんと食えとか、もっと笑えって、アイツを見てると言いたくなるんだ。だから、うるさいってジルはよく怒ってた。それでも、気付けば花街に逃げなくなって、『うち』はジルの居場所になった。でも、今は主ちゃんが居場所だよ。舞踏会の帰りの馬車で、ジルは君の幸せを嬉しそうに俺に話してくれた」

 舞踏会の馬車にいたのは、私とジルと見知らぬ異国の御者に扮したカイ。
 ジルが背を押してくれたから、キャロルとして私はアレックス王子と結ばれた。帰りの私は幸せが胸に一杯詰まっていたから、夢を見るような足取りでドレスの裾を摘まんで何度もジルに回って見せた。
 回る度に幸せだと言って私が笑うと、ジルは宝物を見つけたみたいに笑って頷いてくれていた。

 胸が『ありがとう』の言葉で溢れて壊れそうになる。アレックス王子が言った言葉の意味がわかる。世界で一番、ジルは私を大切にしてくれている。

「あの時は、お世話になりました。私はジルに返せない程の愛を貰ったままです。返せるでしょうか? 返し足りなくても、ジルは笑ってくれると思いますか?」 

「うん。ジルは返して欲しいわけじゃない。大切な人が幸せそうにそこにいてくれる事が、ジルには大事なんだと思う。どんな形であっても、君が幸せならジルは笑う。一番の居場所の主ちゃんは、胸を張って幸せを選んでごらん」

「はい! 必ず取り返してきます! ジルに『ありがとう』って、たくさん言いたいんです」

 カイが腰に巻いていた黒の近衛服のジャケットを、マントの様に私の肩にかける。
 謁見室の手前に、一際多い謀反騎士の姿が見えた。

「『うち』の思いは君に託すよ。俺達が道を開くから、主ちゃんはジルを迎えに行って!」

 剣を握り直したカイが、速度を上げて飛び出していく。黒の近衛が次々と続いて、中央から謁見室までの道を全員で切り開く。

 この国の影の騎士達は、同じ居場所にいた仲間を信じている。同じ思いを抱きながら、託された黒の近衛服を羽織り直して、私はジルがいる謁見室へと駆けていく。





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