「お父様、お母様。いってらっしゃいませ」
今朝、咲いたばかりの花の香りが柔らかく香る別邸の入口から、お父様とお母様を見送る。
お父様は政務の中心である国政管理室で副室長を務める。アングラード侯爵家は過去に幾たびも宰相を輩出しており、お父様ももいずれは宰相になると評判だとお父様付きの従者クレイが胸を張って教えてくれた。
お母様は日中は本邸に戻られる。公にされていない私が別邸住まいの為、夜や休日は家族でこちらで過ごすけど、本来の我が家の中心はあちらの本邸になる。侯爵婦人として若い貴婦人から人望のあるお母様に相談に訪れる方も多いと、お母様付きの侍女アリアが誇らしげにに教えてくれた。
お父様、お母様が不在の間は勉強やダンスの練習、刺繍、読書などをして一日を過ごす。
「マリーゼ。お父様の書庫からこないだの続きの本を何冊か運んでください」
見送りが済むと、私付きの侍女マリーゼに声をかける。マリーゼはアリアの娘で、小さいうちからアリアに付いて私のお世話を手伝っていた。16歳で使用人最年少だけど、ベテラン侍女に負けない働きぶりだ。
「かしこまりました、お嬢様。今日も読書をなさるのですね。素晴らしいことですが、無理はなさらないで下さい」
目を覚まして、一週間。8歳の記憶の中に23歳の記憶が流れ込み、私は大人と子供をいったりきたりしている。行動や感情はどうしても本来の8歳の子供の幼い欲求に引きずられてしまう。それを23歳の知識と分別がたしなめる。
甘えた後、自分をとても恥ずかしく思ったり。子供らしくない考えをして、嫌な気分になって落ち込んだり。幼いままにも、大人にもなれない。
それが周りの者に、どうように映るのか不安だった。8歳の幼い知識を今後のために補完することを兼ねて、今は一人でできる読書に多くの時間を費やす。
書庫に向かったマリーゼより先に自室に戻る。花のレリーフが刻まれた白塗りのテーブルに座り鏡を手にった。
「この傷、ゲームでもあったのかしら?」
転んだ時にできた傷が、額に薄く残っている。お母様は少し痕が残ってしまうと悲しそうに言った。私はそれを悲しいと思わない。
傷はゲームと今の間に違いが生まれる証明になるかもしれない。攻略対象のスチルは穴が開くほど前世で見てよく覚えているけど、悪役令嬢のスチルは流し見しかしていない。ファンブックにも悪役令嬢のページがあったのに、まったく思い出せない。
「前髪は右? 左? ううん、確か右ですから……。左の生え際の傷は、見えてるはず。ファンブックは……え?」
バンとファンブックのカラーページが頭の中に浮かぶ。慌てて傷に触れていた手を放すと、消えてしまう。もう一度、傷に触れてファンブックの悪役令嬢カラーページを思う。バンとページがはっきりに頭の中に表示される。
「? ? ?」
傷に触れる。見たいと思う。バンと頭の中に浮かぶ。離す。消える。触れる。バン。見える。離す。消える。
なにこれ、すごい! 他のページもできるの? 早速試してみる。
「お嬢様?」
マリーゼの呼びかけに、慌てて我に返る。
傷に触れ、読みたいページを思えば出るのが楽しくて、ファンブックのお気に入りのページをバン、バン、バン、ババン、とスライドのように脳内再生するのに夢中になっていた。頭の中が覗かれることはないのに、思わず赤面する。
「大丈夫ですか?」
本を抱えたマリーゼが、怪訝な表情でこちらを見ている。
「大丈夫です。ちょっと考え事をしていて」
「すごい顔してました……」
「え?」
「こう、真ん中に目を寄せて口がすぼまって……」
マリーゼが再現してくれたのは、かなりの変顔。令嬢として、これは人に見せられない! 使うのは誰もいない時に限定したい。
「大丈夫です! 変顔を考えていたのです! どうでしたか、マリーゼ?」
「よくできておりました。でも、おやめくださいませ。お嬢様があのような顔をするのは許せません」
怖い顔で二度としないように注意される。マリーゼは小さいころから可愛いものが大好きで、私の身支度も一生懸命飾ってくれることを思い出す。
「はい。できるだけマリーゼの前ではやりません」
「できるだけではなく、二度とやらないでくださいませ。変なかお、嫌です。お願いいたします」
そう言ってマリーゼは、お父様の書斎から運んで来た本を机の上に積み上げていく。
変ってやっぱり嫌だよね。胸がチクリと痛む。
「マリーゼ。私、変な子ですか?」
思わず口にしてしまう。
変なのは嫌。当たり前だ。変顔をしたり、突然幼いのに本を読み漁りだしたり、甘えるの恥ずかしがったり。心が大人になってしまった私。普通の子供だった時のキャロルとは、きっと違ってしまってる。
「突然どうされたのですか?」
マリーゼが怪訝な顔で首をかしげる。
こんな質問しなければ良かったと、後悔する。マリーゼは使用人で私が変でも答えにくいだろう。肯定の言葉も聞きたくない。
「なんでもないです。忘れてください」
質問を一方的打ち切ると、マリーゼの持ってきた本を開いて読み始める。写真のない世界の少し抽象的なイラスト、インクで書かれた文字を丁寧におう。別邸の書庫にある本は子供でも読めるものが多く、読むのに苦労はない。
マリーゼは読書する私の様子をしばらく側で見つめていたが、そっと退出する。足音が遠ざかるの確認して、私は本から顔を上げた。
「ふぅ。それでは、先ほどの検証を再開しましょう」
しばらく後、私は開いたままにしておいた百科事典の上ににひれ伏す。インクと少し埃っぽい古い本の匂いがする。
「……無駄な時間を過ごしてしまいました」
思い出されるのは前世の部屋掃除。いつも本棚整理で止まってしまう。今回も同じ、傷の検証と不思議な能力を試していたら、本が楽しすぎて止まらない。半分ぐらいは完全に趣味の時間になっていた。
でも、検証結果はちゃんとある。一度目を通してる本なら記憶があいまいな漫画も、タイトルしか覚えていない小説も見ることができた。辞典の類は開いたことがあるページは見れ、開いたことがないページはダメだ。私が一度でも目を通してるかどうかで表示の可否が決まるのだと思う。テレビや動画は残念なことに音声がなかった。
「この能力なんか使えるんでしょうか?」
正直あんまり使える気がしない。いらないかも……と思うけど、首を振る。さっきまでの至福の時間を思い出す。私の心オアシスになります!
他にも大発見。ゲームの私には傷がない! 私の素敵能力で悪役令嬢のページを拡大してくまなく確認した。白い陶器のように描かれた肌に傷一つなかった。書かれた設定にも使えな……不思議能力も書かれていない。
ゲームと現実がすべて同じではないことを確信する。
一週間の間、使用人に聞いたり、本で調べたりして得た情報はゲームの世界と完全に一致した。確認して同じと判る度に、何一つ変えられないのでは? という気持ちが胸をかすめる。でも、希望が見いだせた。この世界に綻びをみつけることができたから。
私にできること、「キミエト」はパラメータを重視するゲーム。現実には数字は見えないけど、自分のパラメータにかかわる勉強、運動、魅力を上げることは積極的にとりいれていく。とりあえず、ヒロインに追い越されないことを目標にしてみるつもりだ。
その為に環境作りが必要だ。環境づくりに必要なことはお父様に今晩お願いしてみよう。すぐには整わないと思うのでその間、書庫の本の制覇、マナーや歩き方などの振る舞いを完璧にする、体力をつけることを地道に頑張ることにする。
併せて、没落後の人生に保険はかけておきたい。西のワンデリア領、そこが魔物の出没する私が追いやられる予定の地。ここについてできる限りの情報を集める。
「!」
ドアがノックされ、マリーゼが茶器をそろえて室内に入ってきた。
「お嬢様、一息おつきになりませんか?」
甘い香りと上品なお茶の香りがする。丁度、葉の時間で朝食と昼食の間のお茶を挟むのに良い時間帯だった。
「はい」
マリーゼは素早く机の上を片付けるとお気に入りのお茶とベルの実を入れたケーキをセッティングしてくれた。ベルの実はブルーベリーに似た甘酸っぱいフルーツでしっとりしたスポンジに混ぜたものはお気に入りの一品。
「ベルの実のケーキ! 嬉しいです」
一口頬張ればしっとり控えめな甘さのスポンジの中で甘みと酸味が弾ける。
「お嬢様は昔はベルの実がお嫌いでした」
「え?」
「酸っぱいのがい嫌と、周りについたスポンジまでくり抜いてしまわれるので、食べるよりも残す方がが多いぐらいでしたの」
確かに覚えがある。こんなに美味しいのに、食べ物は粗末にしてはいけない。
私の口元についたスポンジをナプキンで楽しそうにマリーゼがとってくれる。今の私はこういう厚意が受け入れられずに恥ずかしく思ってしまう。
「いつの頃からか、お嬢様はくり抜くのをおやめになりましたね」
「大きくなって食べられるようになったのです」
「はい。子供は大きくなって変わっていきます。昨日までできなかったことができるようになって、昨日まで嫌いだったものが好きになって、好きだったことが恥ずかしくなって。
お嬢様は、ちっとも変ではありません。成長されて大人になってきたのだと思います」
私が、途中で切り上げてしまった質問にマリーゼが回答をくれる。それは、優しい心遣いに満ちた答え。
「マリーゼ、ありがとう。私、自分が変わってしまったんではないかと不安だったんです。大人になった……気がして。みんなに変になったと思われて嫌われてしまうのではないかと」
「大人びてまいりましたのは、外にふれて心が成長されたからだとマリーゼは喜んでおりました。お世話をさせていただくのを恥ずかしそうになさるのは、少し寂しかったのですが」
「私が大人びたことを言ったり、するのはおかしくない?」
「はい。ちっともおかしくありません。それに変わってないところもたくさんあります。ほら……」
マリーゼがお皿の端に残された青い小さな葉を指さした。ミトンの葉はさっぱりした風味で、甘いもの添えて使われる。甘いものとのハーモニーを楽しむのだけど、私はあまり好きではない。今日も端によけてしまっていた。
「お嬢様は相変わらずミトンの葉は食べられませんし、マリーゼにとって可愛い天使のようなお嬢様であることは、今もこの先も変わりません。
ですので、旦那様も奥様もマリーゼも、お嬢様には幼子のように接してしまいます。大人になるお嬢様には恥ずかしい事かもしれませんが、時々は許してそうさせて下さるとマリーゼは嬉しいです」
心が温かくなって、カチコチになっていた23歳の記憶に振り回されていた自分がすうっと解けていく。私である限り、私の周りの者はちゃんと受け入れてくれる。私は私。ありのままで、ここにいて大丈夫だった。
私は端によけていたミトンの葉を口にいれる。
「マリーゼ、頭を撫でてください。ミトンの葉を食べました!」
嫌いだったミトンの葉が今日はさっぱりと口直しにとてもおいしく感じた。
マリーゼは「失礼いたします」と一礼してから優しく頭を撫でてくれる。
解けても、やっぱり照れくさい。けれど、恥ずかしいとはもう思わずにいられた。
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